説教「ひとえにイエスキリストの御名による」  

2020年1月12日 主日礼拝
聖書箇所:使徒行伝4:1~12
説教:深谷美歌子牧師

 台湾の選挙戦が終わりました。まさに戦争のような激しさですね。この選挙戦の結果如何で、今後の国のありようが変わっていきます。両陣営も必死であったことです。
 この歳になって世界の仕組みが少し見えています。もしも、わたしたちの日本において、自分の支持した政党が、政権を取れなくても、わたしたちは、自分の今あるところから、出て行かねばならないということはほとんどありません。そして、国の方向が、自分の願わない方向に進んでも、いくら主権在民といっても、わたしたちの個人の小さな力では、世界を変えることはむずかしいのが現実です。
 ところで、国の方針に従わなかったら、どうなるのでしょうか。現代の日本では、「言論の自由」が保証されていますので、少しぐらい過激な発言をしたからと言って、逮捕されるとか、殺害されることはほとんどありません。
 でも、現代でも、国によっては、体制に反対する者は、捕らえられるとか、殺されるところもあります。
 今日の聖書箇所は、約二千年前のエルサレムでの出来事です。話をしただけで、捕らえられ、迫害された人の記事です。何が起こったのでしょうか。

【聖書箇所の概説】
1-3節 ペテロ達がイエスキリストの復活を語り、為政者達に捕えられる。
  4節 ペテロの言葉を聞いて、五千人者人々がキリストを信じた。
5-12節 誰の権威で、ペテロは足の萎えた人を癒やしたのか?それは、「ひと えにイエスキリストの名による」。
 3章のはじめに、エルサレムの「美しの門」の前で、物乞いをしていた足のなえた男性の癒しがありました。ペテロとヨハネの「ナザレ人イエスの名によって歩け!」という言葉によって、彼は、歩き始めました。彼は、歩ける奇跡を体験して、うれしくて、歩き回ったり、踊ったりしながら、境内に入って行きました。前回はそこに神の国が誕生していたことを見ました。
 ペテロとヨハネの回りに集まってきた人々に向かって、ペテロは、「主イエスの十字架と復活」を大胆に語りました。
 今日のところは、この話を聞いた神殿の権威者達が二人を捕らえ、ペテロとヨハネが、議会に呼び出されて、取調べを受けたところです。

【メッセージのポイント】
1) 主イエスに起こった死者の復活を宣べ伝える。
 1 彼らが人々にこのように語っているあいだに、祭司たち、宮守がしら、
サドカイ人たちが近寄ってきて、2 彼らが人々に教を説き、イエス自身に起った死人の復活を宣伝しているのに気をいら立て、3 彼らに手をかけて捕え、はや日が暮れていたので、翌朝まで留置しておいた。  (1-3節)
 ここには初代教会のすばらしい信仰の記録があります。ペンテコステに聖霊の降臨、内住を経験した弟子たちは、祈りとみことばの学び、神の家族の交わりを続け、イエス様の十字架と復活を宣べ伝えました。すると、主イエスの名による奇跡の業が起こりました。そのたびにペテロやヨハネたちの説教があり、証しがあって、主の教会(神の国)に加えられる人たちが次々と起こされました。ペテロとヨハネが話したのは「主イエスの十字架と復活による救いのこと」、「この主イエスこそが旧約の預言者たちが記していた救い主であること」「今、悔い改めて洗礼の恵みに預かり、永遠の命を受けよ!」というものでした。
 ところが今日の箇所では、この説教を聞いた、祭司達、宮守がしら、サドカイ人達が「イエス自身に起こった死人の復活を宣伝しているのに気をいら立て、彼らに手をかけて捕らえ、留置所にいれた」と記しています。
 ここには、明らかに「イエス自身に起こった死人の復活」が逮捕の理由であったと記されています。
 サドカイ人というのは、当時の社会の政治的権力者達で、祭司、貴族階級であったようです。ローマの支配におもねって、旧約聖書以外の口伝を廃し、合理的に解釈する進歩主義者であったそうです。彼らは、「復活とか、天使とか、霊とかは一切存在しない」(使徒23:8)と説きながら、民衆を導いていました。ですから、このとき、弟子達が「イエス自身に起こった死人の復活」を語っているのに気をいらだてたのです。しかも、ユダヤの指導者である彼らが、つい五十日ほど前に、十字架につけて殺した、あのイエスが復活したと言うものですから、我慢がならなかったのです。
 現代の教会も、この世に伝えるメッセージは、同じ事です。「主イエス様は私達の罪を負って死に、死を打ち破って復活し、昇天し、地上に聖霊を送られた」というメッセージです。
 教会の伝道は、教えではありません、世界に起こった歴史的な事実を伝えるものです。
 藤井圭子先生は仏教に真理があると思って、追求しました。出家得度し、その教理を教えられ、それを得るために、専心修行しました。しかし、得られるはずの解脱が得られませんでした。失望した藤井先生は、還俗して小児科医となりました。その後も、真実な方ですから、自分の心の底にある、いやな自分を時々発見するのでした。あるとき、自分の家の隣に教会ができて、特別集会がありました。伊藤栄一という説教者が、「イエス様がわれらの罪を贖って死んで下さり、死を打ち破って復活し、聖霊を送ってくださった、あなたもこれを受け入れて、新しい命を頂きませんか?」藤井圭子先生は、感じるところがあり、集会の終わりに、伊藤先生にお願いして祈っていただき、この聖書のメッセージを受け入れて帰りました。次の日、彼女は、自分が変わったことに気がつきました!「あの嫌いな夫のところに訪問に行くのに、車のハンドルを握ってもいつも感じる「あの夫のところにゆくは、いやだな~」という感情が湧かなかったのです。「あ!わたしは変えられた!」これは、藤井圭子先生になされた神様の業でした。教会は、2000年の間、主意エスを信じて、心の変えられた人々の経験した人々の証言によって、つづられ、伝えられてきました。


2) 聞いて信じたものが五千人にもなった
しかし、彼らの話を聞いた多くの人たちは信じた。そして、その男の数が五千人ほどになった。              4節
 4節には「彼らの話を聞いた多くの人たちは信じた。そして、その男の数が五千人ほどになった」と記されています。ペンテコステ当日に洗礼を受けたものが三千人でした。女性も混ぜたらあっという間に1万人の教会が出来上がったことになります。
 ペトロとヨハネが説教をして、「祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々がやってきて、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた」と記されています。宣教をはじめて、最初の迫害が起こりました。
 冒頭でお話ししましたように、当時の為政者による、言論の封じ込みです。彼らは、それが事実であるか否かであるよりも、自分たちの統治を邪魔する者を逮捕したのでした。このところを「もしイエス様が本当によみがえらなかったのだとしたら、イエス様の死体を提示すればよかったのだ」と書いている方がいました。なるほどと思います。弟子達が盗み去ったと番兵達に言わせて、今日でもそれがユダヤ人の間に広まっていると、マタイ28:11-15には書いてあります。復活の事実が、嘘であったなら、とことんイエス様の遺体を捜せばよかったのです。
けれども、それは証明できませんでした。それでも、イエス様の復活を証言する弟子達を捕らえたのでした。
 しかし、このような妨害にも関わらず、信じた者が五千人も起こされたのでした。普通でしたら、一人の人間が、体制にもの申しても影響を与えることなどほとんどありません。足の萎えた人が癒やされた事実と、聖霊に満たされて、ペテロが語った証言の言葉を聞いて、信じた者が次々、起こされたのでした。


3) 聖霊に満たされて
8 その時、ペテロが聖霊に満たされて言った。   8節
 翌朝、ペトロとヨハネとは議会に連れ出されて、居並ぶユダヤ教の権威、議員、長老、大祭司の中で尋問されました。これは当時の最高権威のサンヒドリンの議会でした。日本で言えば国会です。「お前たちは何の権威によって、誰の名によってああいうことをしたのか?」との尋問です。
 今回ここを学んでいて、教えられたことは、このときの尋問内容が、前日の逮捕時の理由と異なっているということです。サドカイ人達は、合理主義で、「復活とか、天使とか、霊とかは一切存在しない」(使徒23:8)という信仰を持っておりました。が、このサンヒドリンの議会には、律法学者、パリサイ人も加わっていました。彼らは、復活を信じる人々でした。それで、復活を説いていたという理由では、一致できないということになり、尋問の内容が、足の萎えた男の癒やしを、誰の権威によってしたのかと、変わっていました。彼らがいかに日和見で、確固たる真理に基づく行動でなかったかを表しています。それにしても確かに大勢の群衆が集まり、治安を乱したとはいえるかも知れません。
しかしこの設問を逆手にとるようにして、二人は聖霊に満たされて言ったとあります。 以前、イエス様が議会に引き出されたときには、何を語るかと心配するな。聖霊が教えると語られたとおり、無学なただの人であるこの二人は大胆に適切に語りました。
 今も、全て求める者に来てくださる、聖霊は、イエス様が世の終わりまで共にいると約束されたことを実現してくださっています。わたしたちも、この方にいつも依り頼みましょう。


4)ひとえにイエスキリストの名によって!
あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。   10節
 

「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」12節
 当時の最高権威であるサンヒドリンの議員の前で、イエス様を十字架につける決議をした議会の中で、「あなた方が殺した、あのイエスが今も生きて、このことをされたのです。」これが弟子たちの答えでした。
 12節の言葉は最高の権威は、イエスキリストと宣言しています。そのイエスキリストの名の権威のもとに語ったのだと語りました。
 罪のない神の子、イエスキリストの十字架による罪の身代わり、死を打ち砕かれた主イエスの復活!全ての権能を頂いて、共にいて、語るべき言葉を教え、主の愛を満たしてくださる、イエスキリストの霊、聖霊の臨在!
 わたしたちもこの権威のもとに立てられていることを深く覚えましょう。この世では、能力や容姿、立場で、価値が計られます。
 相模原で19人も殺害した人が、意志を表せないものは生きている価値がないというようなことで、殺害したと聞きました。全ての人は神の前に罪人です。しかし、そのことを認め、イエス様の十字架が、我がためであったと認め、悔い改めてイエス様を信じるものは、神の子とされます。最高権威の許に置かれるのです。
 ペテロもヨハネも、当時の世界でも「無学なただの人」(13節)でした。
謙遜に、でも堂々と歩みましょう。天下にイエスキリストの外に救いはない!と光を高く掲げながら。      ハレルヤ!


【祈り】 父なる神様。今日は新年第二聖日です。年頭にあたり、わたしたちが、何よりも確かな権威の中に生きる者とされていることを、御言葉によってお示しくださってありがとうございました。人間の罪をイエス様が十字架で贖われたこと、信じた私たちが聖霊に依り頼み、神の命に生かされていることを、経験させてください。今日のペテロのように「この名のほかに救いなし!」と混沌としたこの世界に、大胆にイエス様を証しする者としてください。主の御名によって祈ります。アーメン。 

 

説教「脱出の道を備えたもう神」  

2020年1月5日 初主日礼拝
聖書箇所:1コリント10:13
説教:深谷春男牧師

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 このお正月、皆さんいかがお過ごしだったでしょうか?わたしは、元旦礼拝で恵まれ、新年聖会で深く取り扱われ、毎朝6時から早天で、毎朝、喜びに満ちた出発をさせて頂きました。また、子供たち、孫たちが、お正月で家に集まり、9人の家族に囲まれて、楽しい時間を過ごしました。新しい体験もいくつかし、「すみっこぐらし」のアニメとか、ドラマ仕掛けのダイエット体操とか、刺激的な体験もありました。京都からはるばるやってきた四歳と七歳の孫も、食事の時には、大きな声で祈ってくれて、感激でしたね。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われる」(使徒16:31)の御言葉を、今更ながら、思い起こすひとときでした。ハレルヤ 

 さて、今朝は有名な第1コリント10:13、一節からのメッセージです。

 前任地で牧会をしていた時に、刑務所から出てきたという方が来られました。この方は、刑務所で教誨師の話を聞いてきましたと言って、こう話されました。


 「わたしは実は恥ずかしいことをして、刑務所に入っていた者ですが、刑務所で聖書の話をしてくださる牧師先生が毎月来られまして、このようなお話をされました。実に立派な方でわたしは毎回、楽しみにしておりました。


 第1回目の話は「神さまは愛なるお方です」というお話でした。
その初めのところで、放蕩息子のお話をされました。お父さんから受け継いだ財産を使い果たした息子がぼろぼろになって帰って来る。お父様は息子がいつ帰ってくるか、いつ帰ってくるかと待ちわびておられる。そして帰ってきたらとがめることなく迎え喜んでくださる。これが天の神様の姿と教えられました。涙が出るほど感動して、その話を聞きました。
 第2回目の話は「キリスト様の十字架」のお話でした。
何一つ罪のないイエス様が、わたし達の身代わりになって、全ての罪を負ってくださった。人間は刑務所に入った人だけが罪人ではなくて、全ての人が罪人。心の中で犯した罪を厳密に見てゆけば、神様の前ではすべての人は罪人。環境が悪かったり、偶然、罪の出来事に会わなかっただけのことで、義人はいない、一人もいないと聖書は教えていると話されました。人間の救いはイエス様の十字架を信じるとき始まるのだ。心にイエス様をお迎えして、救いを頂きなさい、と語られました。救いはキリストの十字架にある。感心しました。
 第3回目の話は「天国」のお話でした。
イエス様を信じて、罪の赦しを得たら、こころは軽くなり、こころの平安が与えられる。そして、永遠の命をいただけるということです。人間はいつも死ぬ事がこわいのですが、イエス様の信じるなら天国にイエス様がお迎えしてくださる。死の恐怖から解放されるということでした。・・・」
わたしはこの人の話を聞いていて、すごい。とても真実な、牧師先生が、教誨師になって、キリスト教の基本を教えられたんだ。また、この方は刑務所で深く反省して、お話を良く聞いておられたんだと感心しました。
  それから彼は、4回目の話をされました。
「はて、第1、神の愛、第2、キリストの十字架、第3は天国、そしたら、第4なんだろう?」と興味を持っていたら彼はこう言いました。
 第4回目の話は、[脱出の道]です。
わたし達が、神様の愛を知り、罪の赦しを受け、天国を確信して楽しい、充実した人生が始まる。刑務所を出ても、このことを忘れないで、神様に祈りながら歩んでくださいね。そうすれば、必ず道は開けます。そして、1コリント10:13のすばらしい言葉を忘れないで歩みましょう。暗唱できるといいですね。皆さんも刑務所から出て行ってから、いろんな試練があるでしょう。でも、神様は、真実な方ですから、「あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはない」と教え、更に、「試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さる」のです。ああ、これは厳しいな、試練だな、と感じるような時にも、しっかりとその場所に留まり、のがれの道を神様が備えられているのを信じて、立派な社会人となってくださいね、と言われました。」

 わたしは思わず、なーるほど!と思いました。
 神の愛、十字架の贖い、天国の確信、そして、「脱出の道」を備えたもう神への信仰。ああ、現実の厳しさを乗り越えるには、神様の助け、「脱出の道を備えてくださる」という信仰が大事なんだと、わたしに悟らされました。
 さて今日は前置きが少し長くなりましたが、わたしたちがこの世で試練を受けた時に、いつでも立ち返る有名な聖句を共に頂きましょう。

【今日の聖書箇所の概略】
 今日ご一緒に読みましたコリント信徒への第一の手紙は、伝道者パウロのコリント教会宛の手紙です。コリントという町は紀元一世紀、繁栄を極めたギリシャの港町でした。豊かな繁栄は、人間の自由や尊厳、人間として充実した文化生活へと人々を導きます。けれども、歴史の中で常に見る事ですが、それらの文化の発展と共に、快楽や欲望の追求が、人間の倫理的な生活を圧迫し、風紀の乱れを生んでゆきます。コリントの町もそのようでありました。当時は「コリントする」という言葉が作られ、「放蕩三昧をする」という意味で使用されるほど、コリントの環境は乱れておりました。
 しかし、コリントの教会は非常に活発で、伝道意欲が旺盛で、教会は大きく成長していったようであります。でも様々な問題が起きて、コリント教会の主だった人々が、パウロ先生に質問の手紙を書きました。それに対する答えが、現在、コリント信徒への手紙として、第一、第二の手紙としてわたしどもは読むことが出来るのであります。ですから、そこには具体的な質問事項、教会の中の分裂問題、結婚問題、礼拝の持ち方、聖餐式の持ち方、霊的な賜物のこと、一部の教会員の中にあった復活信仰の否定のことなど、細やかな配慮のもとに記されています。そういう中でも、今日の聖書箇所はすばらしい、深く霊的な内容を教えています。
 特に、わたしどもが試練にあったときに、どのようにその試練を乗り越えるかが、記されています。

【メッセージのポイント】
1)13 あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。                     Ⅰコリント10:13
 ⇒ 耐えられないような試練はない!
 わたしたちの生涯には多くの試練がありますね。ある方の証しを聞いたら、試練の時に、「あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはない」という御言葉が心に浮かんだというのです。そのような意味でこの聖句は大きな慰めに満ちたものです。神様はすべてを知っておられて耐えられないような試練は与えられないというのです。
この手紙の書かれたコリントの教会は、多くの「試練」を経験しました。分裂や争い、不平やつぶやき、傲慢や異端、偶像礼拝や性的な不品行・・・。伝道者であり、牧会者であるパウロは、ここで神の民として歩むわたしどもへの戒めを語ります。「試練」はいつの時代でもやってきます。しかし信仰によって勝利できない「試練」や「誘惑」(ギリシャ語でpeirasmos。この語は試練と誘惑のどちらにも訳せる)はないのだ、と言うのです。パウロはここで、イスラエルの民がエジプトを脱出してから荒野で経験した試練を語ります。

①は偶像礼拝。

②は性的不品行。

③は神の臨在への不信仰。

④はつぶやきです。
 しかし皆さん、自分のあった試練を思い起こしてください。外から見るのと自分の中で体験するのはかなり違いますね。わたしも、2010年の5月から約半年間、声が出なくて説教者としては本当につらい経験をしました。のどの治療にも病院に6ヶ月かかりました。2ヶ月に一回ぐらいはのどに内視鏡を入れて、のどの内側のポリープなどを見ます。あの検査がいやでしたね。鼻の穴に麻酔をスプレーでかけ、そこからカメラを入れてのどの部分を見るのですが、のどのところが通りがよくない。強く押し込むと、ゲッとのどの筋肉が、そのカメラを押し出すのですね。お医者さんが「はーい、ごめんなさいね、はーい、すぐ終わりますよ・・」など言うのですが、4,5枚の写真を取るので何回も、「ゲッ、ゲッ・・」となるのです。体に医療器具を入れるのはいやですね。
 愛する兄弟姉妹!試練に直面した時に、いつでもこの聖句に立ち返りまし
ょう。神様は「耐えられないような試錬に会わせることはないお方」と。昨年、白血病の宣言を受けた水泳の池江璃花子さんが語ったので有名な言葉です。

2) あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。                     Ⅰコリント10:13
⇒ 神は真実なお方!
  続いて彼は、たいへん重要な言葉を語ります。
 「神は真実である」。
 この一語はわたしどもの生涯を支える力のあるような言葉です。この世界を創造し、導いておられるまことの神は「真実なお方」であるとの告白です。これは長い間信仰の生涯を歩まれた方々の心からの告白でしょう。時には信仰のゆえに試練に遭ったり、損をするように見えたりすることもあるかもしれない。そのような時は主を見上げ、「神は真実!」と祈りつつ、歩みましょう。

3)13 あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。                     Ⅰコリント10:13
⇒ 脱出の道を備え給う神!
 この真実なるお方はわたしどもにどのような試練がやってきても、かならず「のがれの道」を備え給うとパウロは語ります。「のがれの道」とはekbasis という語でこれは「細い道、狭い山道から出る道」を意味しています。「敵に包囲された軍隊が突然、安全への逃げ道を発見するといった含蓄を持つ言葉」(バークレイ)だそうです。新改訳では「脱出の道」と訳しています。今日はわたしは説教題に、新改訳を用いさせていただきました。
 わたしどもの生涯では新しい学校に入ったり、新しい会社や慣れない環境に
置かれることもしばしばかもしれません。しかし、厳しい試練やサタンの甘い誘惑に出会った時に、恐れ惑うなかれ。まず、主を見上げて、「主よあなたを愛します。力を与え給え!」と祈りつつ歩みましょう。主は必ず「脱出の道」を備えてくださるのです!究極の脱出の道は、神の御言葉と祈りですね。ある教会の非常口に「人生の非常口は聖霊の充満」とありました。ハレルヤ

【祈り】 全能の父なる神様。今日は、「脱出の道を備えたもう神」という題のもとに御言葉を頂きました。「耐えられない試練にあわせ給うことのない」あなたが、「真実を持って」「脱出の道を備えて下さる」との信仰告白と感謝をなしつつ、新しく迎えたこの一年を歩み行かせてください。わたしたちの救い主、主のイエスの御名によって祈ります。アーメン

 

説教「兄弟愛と尊敬をもって」  

2020年1月1日 元旦礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙12:9,10
説教:深谷春男牧師

 2020年、明けましておめでとうございます。昨年一年間、主にある交わりを感謝します。新しい一年、よろしくお願いいたします。
 昨年のクリスマスの祝会でクイズを降矢兄と担当させて頂いて、大変恵まれました。聖書クイズ、いいですね~。元旦のおめでたい場での礼拝ですが、クイズからの説教を始めるのをお赦し下さい。この内容は、実は今日の説教の結論と関係があるのですが、・・・。
 ある方の結婚式の祝宴でのこと。お祝いの電報を、有名な先生から頂いたので、司会者が言いました。「有名な○○先生から電報を賜りました。聖書箇所が記されています。4:18、19です。え~、せっかくですから、これは朗読します。」一瞬、新郎新婦、祝宴のお客様が静まりました。そこで司会者は大声で読みました。
 「女は答えて言った。『わたしには夫はありません。』イエスは女に言われ た。『夫はないと言われたのは、もっともだ。あなたには5人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉の通りである。』女はイエスに言った。『主よ、わたしはあなたを預言者と見ます』」。
司会者は、「あれ?おかしいな?・・。ヨハネⅠ 4:18,19だよね・・・。」さあ、この司会者は、一体、何を間違えてしまったのでしょう。 
皆さん、おわかりになられたでしょうか?答えは、来週。

【今日の聖書箇所の位置と概略】
 ロマ書12章は、クリスチャンの具体的な倫理、地上における信仰の実践を論じた箇所です。それも大事なことは、倫理道徳を論じるにあたり、まず、使徒パウロが語っていることは、人間の倫理と道徳は、神の愛への応答、神の御救いの恩寵、十字架の愛に応答すると言う大きな枠組みがあるということです。ですから、ここには以下のような特質を見ることができます。
 1-2節は、「神への献身と自己変革」という主題。ここでも、キリストの救いを受けた者、主にあって新しく変えられた生涯という主題が語られます。それは魂の霊的な変革をもたらすのです。
 3-8節は、第二は「共同体倫理」が語られます。「教会生活の基礎的な内容」についての教えについてです。キリストの救いを受けた者の共同体、すなわち、教会における謙遜と奉仕が第二の主題となっています。
 9-21節は、ここから、一般的な「愛の倫理」が語られることになります。愛の内包と愛の外延についてすばらしい勧めが語られます。

  今日はキリスト教信仰生活の基本となる愛についてです。短い箇所ですが実に味わい深い言葉ですので、9,10節だけに焦点を絞ります。
1) 愛には偽りがあってはなりません。      偽りのない愛
2) 悪を憎み、善には親しみ結び         悪を憎み、善に親しみ
3) 兄弟愛と尊敬をもってキリストの共同体を作る。 兄弟愛と尊敬をもって
と言う主題で考えてみましょう。

【メッセージのポイント】
1)9 愛には偽りがあってはならない。
⇒ 愛には偽りがあってはならない。
 一体これはどういうことでしょうか?「愛には偽りがあってはならない」とまず勧められています。愛の真実性をいつも保つようにと言うのです。これは丁寧に自分の生活と照らし合わせてゆくと、なかなか大変です。
 クリスチャンの生涯は、信仰、希望、愛の生涯であるとパウロはしばしば言います。1コリント13章や1テサロニケ1章を参照。そして、「最も大いなるものは愛です」と語ります。クリスチャンの生活の一番の基本は愛ということになります。
 わたしは、この「愛には偽りがあってはならない」という聖句を読むと、まず思い出すのは藤井武という人です。彼は「真実」ということを大切にしました。神様を真実に愛し、人々を真実に愛するとは一体どういうことか?それを追求したのか彼の生涯であるといってもいいでしょう。彼は内村門下に入り、伝道者としての歩みをいたします。

 藤井武は1888年(明治21年)、金沢に生まれました。東京帝大の学生時代に、聖書を学ぶ講座を開いていた内村鑑三の門下に入門しました。それによって、人間個人の救いも、同胞としての日本の救いも、キリストの真理を発見する以外にはないと確信しました。そして大学卒業と同時に、専心伝道しようとしましたが、内村から、「何をやるにしても、もっと人生を知らなければダメだ」とたしなめられ、十年くらいは社会実践を積むことを勧められました。そして文官試験を受け、その後、官界で働くことになりました。
 大学を卒業すると同時に、かねてから婚約中の喬子夫人と結婚されました。そしてこの結婚関係が、藤井武に空前とも思える宇宙観、人間観に目を開かせることになりました。それはキリストを媒介とすることによって生まれた男性と女性の一体関係が、共に信頼し、共に理解し合う中に、全宇宙の仕組みと全歴史運動の深層を開花させたという、彼が書き残した『羔の婚姻』と題する一大長篇詩に、見事に昇華されて記録されています。
 官界に身を投じて約五年、ようやく時が満ちまして、専心伝道に献身しました。武二十八才、喬子夫人二十二才の時でした。そして彼が三十五の時、突如夫人は病に倒れ、天に召されることになりました。その時の情況と、それに対する信仰的理解を綴ったのが、『夕べに我が妻死ねり』の短文です。それは1922年10月1日のことでした。それ以来、彼は毎年十月一日を「私の日」と呼び、彼を記憶する者は「十月一日」において彼を記憶してくれるようにと告げました。そしてそのときから、宇宙の誕生と人間の運命とを歌い上げた長篇詩『羔の婚姻』は、8年間の長きに渡って、毎月彼の個人伝道誌『旧約と新約』を通じて、彼が死ぬまで書き続けられました。

 愛には偽りがあってはならない。この聖句は藤井武の愛唱の聖句です。

2)悪は憎み退け、善には親しみ結び、
  ⇒ 悪は憎み退け、善には親しみ結ぶ、 (9節b)
 パウロは愛の生涯は、「悪は憎み退け、善には親しみ結ぶ」と言う生涯だと語ります。1コリント13章でも「愛は不義を喜ばないで、真実を喜ぶ」(6節)と語っています。愛と善はいつでも結びつき、罪と悪はいつでも結びつくのでしょう。示される悪があったらそれを憎み、退け、そして善に親しみましょう。
 滝元明と言う有名な伝道者が赤羽教会にはじめて来られた1980年の頃に、先生の4日間の赤羽クルセードが大変祝され、恵みに満たされるので、このように聞いたことがありました。
「滝元先生。先生の集会は本当に恵まれますね。いろんな集会でも、豊かな祝福がありますが、先生の集会は魂の底から喜びが湧いてきますね。何か秘訣があるのですか?」
先生はしばらく考えられて、こう答えられました。
「深谷先生。それはきっとへブル書1章9節の御言葉だと信じています。」「はあ、そうですか?」
そしてその箇所をお読みになられました。
「9 あなたは義を愛し、不法を憎まれた。
それゆえに、神、あなたの神は、喜びのあぶらを、
あなたの友に注ぐよりも多く、あなたに注がれた。」
「深谷先生。わたしは、義を愛し、罪を憎みます。
ですから、わたしの集会は、喜びに溢れるのだと思います。」
なあるほどと思いました。
先生の集会は、罪は地獄へ落ちる!と大胆に語られます。

明確に罪を捨てて主に立ち返る者に主は祝福の油を注いでくださいます。
3)10 兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。
⇒ 兄弟愛と尊敬をもって。               (10節)
今日、聖書交読で読まれた詩篇は、「都もうでの歌」の最後から二番目の歌です。「人生巡礼の歌」とも呼ばれるこの15の珠玉の詩篇は、わたしたちのクリスチャン生涯を語っています。以前、学びましたようにこの15の詩篇の中でクライマックスに位置するのは、詩篇132篇、礼拝の歌です。そして、詩篇の133篇は、人生の最も「良きもの(トーブ)」は「兄弟愛」だと語るのです。「兄弟愛」は神様からの人生最大のプレゼントと絶唱されています。しかし、改めて聖書を読んでみますと、創世記の初めから、人間は、兄弟を愛し得ないものとして描かれています。 最初の兄弟アベルとカインは兄弟殺し。双子のエサウとヤコブは祝福をめぐって争い、ヨセフと兄弟たちは、生意気なヨセフに殺意を持ち、エジプトに奴隷として売り飛ばします。聖書は、人間の妬みや憎しみを描きながら、この「神の最善」が消えていることを指摘しています。  
 真の兄弟愛は人間の業ではありません。それは神に、源を持たねばなりません。この詩篇133篇では、兄弟愛は、天から「滴り落ちるもの」だと、3回も繰り返されています。兄弟愛は、主イエスの十字架の贖いの業に始まるのです。主イエスの贖いの愛を知る時に、人を愛することがどういうことかがわかるのです。ヨハネは「神は愛である」と語ります。そしてこの愛のあるところには命があると強調しています。また、愛さないものは死のうちに留まっており、兄弟を憎むものは人殺しなのだとまで言います。
 美歌子先生は最近、聖書の中心メッセージが「神の国」であることがわかった!と言うことを何回か、言いました。いや、10回以上、言いましたか。早天祈祷会から、祈祷会、礼拝、ぶどうのみ実礼拝、いろんなところで語りました。あるときには、「個人の魂の救いよりも大切なこと」と語ることがあったので、「それは行き過ぎ・・。聖書のメッセージは、主イエスの十字架の贖いによる魂の救いが第一だと思います。」と話したことがあるほどです。でも、本当に教会が「神の国」=「神の支配」=「天国」になることを、「兄弟愛と尊敬による」と教えています。昔開かれた青年宣教大会の時に、田中信生先生が、よく語られました。「人間関係は大切ですよ。特に語る言葉は、花束をあげる思いで、語りましょう。」新しい年、主にある兄弟愛で、天国のような交わりを証しましょう。
 
【 祈 り 】

 天の御父。新しい2020年を感謝します。この新しい1年のはじめの礼拝で、わたしどもは、ロマ書12章9~10節を与えられました。主イエスの贖いを受けて、救いの道に入ったわたしどもですから、主から与えられた驚くべき愛を大切に生きることができますように。「偽りのない愛」「悪を憎み、善に親しみ」「兄弟愛と尊敬をもって」、新宿西教会を、キリストの共同として、しっかりと築いて、この世に主イエスの救いを証しできますように、導いてください。主よ、、日本中に、世界中に、リバイバルの恵みを与えて下さい!主イエスの御名によって祈ります。アーメン

 

説教「心を込めて愛し合い」  

2019年12月29日 主日礼拝
聖書箇所:1ペテロ4:7~9
説教:深谷美歌子牧師

「人類が滅びようとしているのに、金儲けの話か、温暖化対策に本気に取り組まなければあなたたちを許さない。」と、スウエーデン人のグレタ・トゥーンベル(16歳)さんが、国連の世界環境会議で演説しました。
 NHKでも、首都直下型大地震が起こったという、シュミレーション番組を組みました。「もしこの地震が起こったら、首都は再建できるのですか?」の質問に専門家は「できません」」と返答していました。 
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説教「父の懐にいる独り子なる神」  

2019年12月22日 主日礼拝
聖書箇所:ヨハネ福音書1:16~18
説教:深谷春男牧師

 クリスマスおめでとうございます。このクリスマスの良き日に、心を開いて、主イエス様を受け入れて新しい生涯へと導かれてまいりましょう。
 昨日は12月21日でした。池袋朝祷会で奨励の奉仕をしました。説教準備の途中で気がつきました。「あ、明日は12月21日だ!僕の洗礼記念の日だ!それも洗礼を受けたのは1969年のクリスマス。今年は2019年。ということは、明日は50年目の洗礼記念日だ!」。池袋朝祷会で、「今日はわたしの洗礼50年記念の日です」と言ったら、皆さんが祝福してくださいました。クリスマスは、クリスチャンにとって最高の恵みの時なのですね。

【テキストの解説】
 すでに3回にわたってヨハネ伝の「ロゴス(言)賛歌」と呼ばれる箇所を学んできました。今日はその最終回であり、「ロゴス賛歌」の結論です。
賛歌1( 1ー 5節)、創造者であるロゴス(言)を讃えるもの
賛歌2(10ー14節)、人となったロゴス(言)を讃えるもの
賛歌3(16ー18節)、恵みと真理の与え主であるロゴス(言)を讃える。
16節:キリストにある神の充満の中からめぐみに代えてさらに恵みを頂く。
17節:律法はモーセを通して、めぐみとまことはキリストを通して来た。
18節:キリストは「独り子なる神」、この方だけが神を示された。

【基本的メッセージ】
1)16 わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。 (16節)
 ⇒ キリストのうちにある豊かさ。「めぐみの上に、さらにめぐみを」

 ヨハネはキリストの中にこそ「満ち満ちているもの(プレーローマ)」がみちていると語ります。それはパウロが「無尽蔵の富」(エぺソ3:8)の内容と同じです。「恵みの上に、さらに恵み」が増し加えられる歩みであると言います。この言葉は、「恵みに代えて恵みを」とも「恵みの上に更に恵みを」とも訳されます。
 登山の体験から、この「恵みに恵みを加えられ」を考えてみましょう。

 神学生の終わりの時に、石川県の金沢教会で、夏期伝道の経験を持ちました。40日間の夏期伝道でしたが、その期間中に、近くの白山に上りました。白山は標高2702mの高い山で、実にさわやかな経験でした。青年会の10人ぐらいで登りました。出発は山のふもとでした。次第に家がまばらになり、杉の木などが茂ってきれいな水の流れる小川の脇を通って、男女こもごも冗談を言いながら、笑いが林の中にこだましたりしていました。更に登ってゆくと峠があり、そこから町々が見渡せます。家がマッチ箱のようでした。山の中腹を過ぎるころにはもう高い木は見当たりません。まわりも緑の山々に囲まれています。草花や茂みの間を、登ってゆきました。26歳のころでしたので体力はあったと思いますが、なかなか息も激しくなりました。更に登ってゆくと高山植物が生えており、地元の青年が、植物の名前や高山蝶の特徴などを教えてくれました。途中で、讃美歌を歌ったりしたのを覚えています。
 山の頂上が近くなったころには、高山植物もまばらになり、岩肌が多くなりました。やがて霧がかかって見通しが悪くなりました。そのうちに、1m先も見えなくなって、足元を見ながら、リーダーの阿部先生が「おーい、みんな、いるか~」などと声をかけています。20分ぐらいその霧の中を進むと、目の前がさーっと開けてきました。少しして後ろを見ると、後ろは雲海が広がっており、雲海のはるかかなたに高い山の頂上が顔を出しております。日も暮れて夕方に近くなっており、石のごつごつした頂上近くの光景は何か、神々しいような、日常生活から離れた神聖さのような空気がありました。翌朝、暗いうちに、朝日を見に山の頂上に出かけました。少しずつ明るくなってゆく東の空は雲海がどこまでも広がっています。しばらくするとその雲海の端が金色に輝き、太陽が昇り始めました。創世記1章1節を思い起こす、すばらしい光景でした。「恵みに恵みが加えられ」、「恵みに代えて恵みが与えられる状況」に似ていました。 

 信仰の生涯も、その出発の時期もあります。信仰の最初の頃は律法によって救われると勘違いしたり、自分の愚かさを知らされつつも、神様のおられることを悟り始め、先輩のやさしさに感動し、新しい人生の喜びを讃美することから始まります。しかし、信仰生涯の中腹は、新生の恵みを越えて、自分の愚かさや人間の限界性につまずいたり、失望したりしながら、高山植物との出会いのような不思議な体験をしつつ成長してゆきます。そして、信仰の高嶺は、不信仰の疑惑の雲を突っ切り、清朗の頂き、恩寵の充満、天国の確信、濃厚なる臨在、御言葉の確証、再臨への希望、永遠の命の先取り・・あらゆる困難を越え、栄光の主にまみゆる信仰の完成へと進むのです。

2)17 律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。(17節)。
 ⇒ 恵みとまことはキリストを通してきた
 人間の本当に必要な神の「めぐみとまこと」はキリストの中にある、と聖書は語ります。人間の「罪の赦し(恵み)」と、わたしたちを「生かす真理(まこと)」はキリストの中にあるのです。
 「めぐみとまこと」がイエスキリストを通してきた。人間が求めている者の最終的なもの、究極的なものは「罪の赦しと永遠の命」です。ロマ書風に言えば、主の十字架の恵みによる救いと聖霊なる神の愛の満たしです。
 モーセを通して律法はシナイ山で与えられ、神の民としてシナイ契約が結ばれました。旧約聖書で一番大きな事件はこのシナイ山での、神の民の出発であり、律法の授与でした。律法は神の真実な法則であり、命なのです。神を愛し、人を愛して生きる人生の基礎を教えているからです。でも、罪ある人間は、それを守ることができなかったのです。しかし、ここではそれ以上の「恵み」と「真理」がイエスキリストを通して来たとヨハネは語ります。それはイエスキリストを通して神の愛と救いが来たことを告げるのです。

3)18 神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。(18節)。
 ⇒ 主イエスは、ひとり子なる神!
 ヨハネはかなり思い切って語ります。この1~18節の序文のところで、イエスキリストは、神のふところにおられるひとり子なる「神」であると宣言します。キリストは「神」であると告白しています。この表現は「神の子」でなく「子なる神」です。これはキリストの「神性」の強調です。
 またヨハネ20章の終りにおいてトマスの信仰告白を通して「わが主よ、わが神よ」という告白をしています。当時はユダヤ的な色彩の強い信仰の中でキリストを「神」と告白することは、多くの困難がありました。しかし、ここに信仰告白の原点があります。キリストは神なのです。

 小松川教会牧師の原登先生の救いと献身の証し。「百万人の福音」から。
 わたしが16歳の時に、川崎の三等郵便局に勤めていた。そこで一緒に働
いていた小泉さんという同僚がいた。彼の兄さんは仕事師をしていたが、ある日、仕事の最中に、上から丸太が落ちてきて、死んだ。
 わたしは友人の兄のお葬式に、参列することになった。目の前についさっきまで元気で働いていた人が、突然死ぬという厳粛な事実にぶつかり、大きなショックを受けた。わたしは生まれつき、からだが弱く、病気ばかりしていた。そのため常々、死に対する恐れを心の中にいだいていた。小学校から旧制中学校へと進んで、実社会に出ても、わたしの健康はあまりにすぐれず、いつ死ぬかしれないと考えていた。そうした矢先に、友人の兄の死に直面したのである。 わたしはいても立ってもいられなくなった。人間はいつか地上から姿を消す。死は必ず訪れるのだ。しかし、その後どうなるのか、それがわたしの悩みであった。
 昭和12年12月12日は、非常に暗い晩であった。暗い気持ちになっていたわたしは、友人に誘われて、蒲田の賜恩教会に行った。民家を改造した古い教会であったが、40人ばかりの人が集まっていた。生まれて初めて教会の門をくぐったわたしは、まず、明るい雰囲気に驚いた。わたしは、なぜであったか知らないが、「ここに生きる道がある!」と直感した。
  講壇の上で話をなさったのは砂山先生であった。先生は説教の後で、講壇の上の十字架を指さし、「この十字架を信じなさい!」と叫んだ。信仰の決心をすすめられた時、わたしは瞬間的に手を上げ、前へ出た。それは、わたしの人生の歴史にとって、回れ右をする、重大な一瞬であった。それからわたしの、まったく新しい人生が始まるのである。
 わたしは救われると、こんなすばらしい福音を人々に伝える伝道者になりたいと考えるようになった。この願望を語ると、まず、牧師が反対した。数え年17だから若すぎるという。また、同僚も極力引き留めようとした。
 わたしの勤めていた郵便局の局長が、いつの間にかわたしの父宛に、わたしがヤソの伝道者になりたいと言っていると手紙で連絡してしまった。怒ったのは父親である。わたしはさっそく、実家に呼び戻され、父にどなりつけられた。それでもわたしの決心が変わらぬので、父はわたしのシャツをびりびりになるまでせっかんし、小川の水を汲んで来てかぶせようとした。母は母で、泣いてわたしの翻意を勧めた。その夜、わたしは離れ屋で寝たが、このままであったら永久に伝道者になれぬと思い、両親あてに長い置手紙を記して家を飛び出した。ひとまず私は、教会に下宿させてもらうことにした。
 (文章はまだ続きますが、原登先生の救いと献身の生々しい証しです。)

クリスマスの日は、神の大きな愛がわたしたちの心に激突した日です!

【祈り】 天の御父!クリスマス礼拝を感謝します。主イエスこそ、暗黒を照らす「まことの光」。そしてまた、命であり、恵みである、受肉のロゴスであることを学び、更に「この独り子なる神」を心に受け入れ、成長することを学びました。新しく迎える2020年、輝く勝利の日々へと導いてください。救い主、主イエスの御名によって祈ります。アーメン

説教「神の子となる」

2019年12月15日 主日礼拝
聖書箇所:ヨハネ福音書1:10~15
説教:深谷美歌子牧師

 待ちわびるとはどんなときでしょうか?
 この正月に長男が一家で来てくれるそうです。愛する者の到来は、今どこかな?などと、話したりして、もう下まで来た!と解れば、喜びで迎えに出ますね。アドベントはイエス様の降誕を待つ時として、ろうそくを一本一本増やしていきます。実はもうイエス様はこの世界にお生まれくださって、今も聖霊様として共に居てくださるのですが、そのことを可視的にも実感し、喜ぶ時としてろうそくを灯すのでしょう。クリスマスは、救い主のお生まれの事実をお伝えし、主が歴史に介入してくださったことを指し示す時です。
 最初のクリスマスを迎えた人々はどんなだったでしょう?

【今日の聖書箇所の概説】  
11節 民を導いて来た神が自分の民の所に来たのに受け入れなかった。
12-14節 しかしこの方を信じた者には神の子となる力を与えた。
15節    ヨハネの証言。この人こそメシヤです。  

【メッセージのポイント】
1) 自分の民のところに来たのに、受け入れなかった。

 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。(11節)
 実はメシヤ(救い主)の誕生は、ユダヤの人々は待ち焦がれていたのでした。ヨハネによる福音書には、クリスマスの日のできごとは具体的には記されていません。が、マタイによる福音書には、東方の博士がヘロデ王のところに「ユダヤ人の王としてお生まれになった方を拝みに来ました。」と尋ねて来たとき、ヘロデ王は、祭司長、律法学を集めて、どこに生まれるのかと尋ねました。「それはユダヤのベツレヘムです」と祭司長らは、直ぐに答えられました。
 このことは、ユダヤ人は、アブラハムに現れ、モーセに現れ、ダビデを立てられ、バビロン捕囚から解放された神を信じて、今はローマの支配下で苦しんでいるが、やがてダビデに勝る王が起こされ、解放し、周りの国々を平定すると待ち望んでいたからです。それがユダヤのベツレヘム、からと預言されていました。確かにイエス様はユダヤのベツレヘムでお生れになりました。待ち焦がれていたはずのメシヤでしたが、「自分の民はこれを受け入れなかった。」と書かれています。神を知っていながらメシヤを受け入れませんでした。
 なんと愚かな民と思いますが、気が付きました。今日でも多くの人々が、イエス様がこの世界に生まれたこと、その生涯の事実を知らされながらも、それを受け入れようとしていません。

2)神の子となるには?
しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。 (12~13節)
普通の人間は男女の営のみによって生まれます。しかし「神の子」はイエス様を受け入れ、その名を信じることによって生まれるとあります。
 榊原康夫師の言葉をそのまま書かせていただきます。

 私達が本当に神の子になるのは、12節の表現を使えば「彼を受け入れ、その名を信ずる」ということにおいて、そういう力を与えられるわけです。ここで信じたと訳されている言葉も、ヨハネ福音書にいわば特色的な表現でございます。ちょっと日本語でその意味を明らかにしにくいのですが、直訳しますとイエスキリスト「の中へ信じてはいる」というような表現、英語なら「ビリーブ・イントゥー」です。その中へ入り込んでいくように信じる。・・・・・「すべての人を照らす真の光」全世界を支配している神のロゴスという大きな方の中へ自分を投入してしまう。これが信じたということなのです。

 そうして「神の子」になります。しかも「実子」という言葉です。
 聖書学校の「新約聖書Ⅰ」の授業で、ヨハネによる福音書を読みました。ヨハネ14:12、13口語訳よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。13 わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。という言葉が心に留まりました。最初「え?まさかーイエス様より大きな業をする?ありえないでしょ」と思いました。しかし、「神の子」にされたものには「私の名によって願いなさい何でも叶えられる」と何度も語られています。この命は全能の神につながった素晴らしい命です。

3) 証言、恵みと真に満ちていた
そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。           (14節)
 信じることを今見ましたが、信じる根拠はこの命を経験した人々の証言です。
14節は、「言葉は肉体となり私たちのうちに宿った」とあります。新約聖書中最も重要な言葉と言われます。最初のクリスマスのことです。
 この一節は、人となって見える世界に来られたイエス様と共に歩んだヨハネ(実際に書いたのはヨハネ弟子たちでしょう。)の証言です。「宿った」という言葉は、天幕を張ったという表現で、モーセの幕屋に主の臨在が現れた時、ソロモンが神殿を奉献したとき、主の臨在の栄光があふれた時と同じ表現だそうです。
 イエス様の存在が、神様の栄光を現していたとの証言です。ヨハネは、ペテロとヤコブの3人だけを連れて、イエス様が高い山に登られ、そこへ、モーセとエリヤが現れ、エルサレムで遂げようとしていることについて語り合った時に居合わせました。この時、イエス様の姿が変わり衣がこれ以上白くならないだろうという程に輝いたのでした。この記事は、共観福音書全部に書かれています。主の栄光の姿を目撃した証言でした。
 「恵み」というのは、受けるに値しない分不相応なものを受けたことを指しています。人間がどんなに努力しても得ることのできない命を、イエス様を信じて預からせていただいたと証言しています。
 「真」(真理)とは、変わらない神の命のありようを、存在をもって現されたかた。という意味です。本当の命のありようを知ることが出来なかった私たちに、来て、見せてくださったとの証言です。
 神の子になるとは、私たちもこの命に生きる者になることです。
「ただ聖霊があなたがたに降る時、あなた方は力を受ける」復活のイエス様はこのことを約束して天に帰られました。イエス様のような愛に生きる教会、赦しあう教会、従う力は、我らのうちにおられる聖霊様により頼むことです。

4) バプテスマのヨハネの証言 
ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。(15節)
 先週の深谷牧師のメッセージでも、バプテスマのヨハネは、イエス様を指し示す指だったと語られました。私達が信じる者となるために、弟子たちの生ける証言によりました。
 そして信じて、神の子とされ、この命を経験した私達は、証人の列に加えられます。バプテスマのヨハネも、人間はどんなに潔癖に生きても人間の罪を贖い、赦す権威はない。といわれるそのことをしてくださるメシヤを証言するものでした。
 先日、NHKで、首都直下型大地震が起こったという想定で、番組が組まれました。首都は再生できないいうセリフで終わりました。
 世界も、100年に一度と言われる災害が、毎年というより、一年のうちであちこちで起きていることを認め、人類が生き残るためにどうするかが真剣に討議されています。
 不安な世界に、生きる道があるこというとを知らせるのは、神の子とされ、聖霊さまに依り頼み、今も生ける主に信頼して生きるクリスチャンです。イエス様より大きい業は一人ひとりのクリスチャンがその人生を主と共に受け止め、祈り求めることによって起されるでしょう。
 今年牧師の按手を受けた澤田石先生は、仕事をしていた時、仕事と教会生活は分けて考えるのが合理的だと50歳位までがんばったそうです。しかし信仰に立って歩み始めた時、神様の業は全てに及ぶことを経験したそうです。神の子になるとは神様のご意志を生きる決断です。御言葉と祈りにより頼み、聖霊様の導きと助けをいただき、暗黒のこの世界に光をつまり証をもって生きましょう。ハレルヤ!

【祈り】

 父なる御神。深いご計画によって、私たちの人生を備えてくだ、感謝さってありがとうございます。イエス様を信じる者とされ、主が最善に導かれることを経験し生きる者とされたことを感謝します。今、置かれたところで、喜び、祈り、感謝して、聖霊様が内側からあふれ出でて愛を注がせてください。神の国の教会で礼拝生涯を通して神様の業を拝する歩みとさせてください。主の生ける証言者として光を高く掲げる者とならせてください。主の御名によって祈ります。アーメン

 

 

 

説教「すべての人を照らすまことの光」

2019年12月8日 主日礼拝
聖書箇所:ヨハネ福音書1:6~9
説教:深谷牧師

 クリスマス・アドベントはすばらしいですね。12月6日には既に東京聖書学校の学生クリスマスがあり、大変恵まれ、いよいよ、クリスマスの喜びの日が到来していると実感しました。神の子キリストの誕生!みんなが喜び祝うクリスマス。ここに、永遠の希望が、永遠の喜びがありますね。

【聖書箇所の概略】
 先週は「道、命、光なる主イエス」の姿を学びました。今日は、バプテスマのヨハネから、主イエスを迎える備えを学びます。
今日の箇所を詳細に分けるとこうなります。
6―8節  バプテスマのヨハネについて。彼は光ではなく光の証言者。
9―12節 主イエスについて。彼は光そのもの。
① 真の光、 ②世に来られた方、 ③先在の方、 ④ この世を造られた方 ⑤世に認められなかった方、 ⑥世に拒絶された方、⑦信じた人に神の子となる資格を与えた方。

【メッセージのポイント】
1)6 ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。7 この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。   (6-7節)
⇒ バプテスマのヨハネについての記事!   
 6―8節はヨハネについて記されています。ここで言われているのはバプテスマのヨハネです。でも、なぜ突然ヨハネが出てくるのでしょう。ヨハネによる福音書はエペソの町で書かれたとされますが、当時のエペソはバプテスマのヨハネの弟子達がいたことが知られています(使徒19:3)。バプテスマのヨハネは主イエスより半年ほど年上でした。彼の力強い預言とその栄光は「女の産んだ者のうち、バプテスマのヨハネより大いなる者はない」とまで言われました。多くの人々はヨハネに期待をかけ、彼こそ、預言された救い主ではないかと考えたほどでした。

 しかし聖書は言います。彼は光ではありませんでした。どんなに偉大な働きをしたとしても、光りそのものでない限り、その働きには時代的な限界があります。そのことをはっきりさせるために、わざわざ彼は光ではなく光を証しするために遣わされた者と挿入されたのだと考えられます。彼は光ではありません。しかし、彼の証言があって、光なる主が明瞭に立証されたということは大事なことです。現代にまで主イエスとその福音が伝えられたのは、その時代その時代で証言する者があったからです。ヨハネ福音書は主イエスが光であることとその光を証しする者が語られているのです。わたしどもも主の証し人として歩みたいものです。

2)8 彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。                      (8節)        ⇒ 証しの人生、「使徒的人生を生きる!」      
 このことはとても大事なことであろうと思います。わたしどもは光ではありません。光について証しをするのだと言います。バプテスマのヨハネは偉大な人格者でしたが、光そのものではありません。彼は光について証しするというたいへん偉大な任務を持って、地上生涯を歩まれました。それは証し人の人生です。キリストの使徒たちも証し人として歩みました。それは救い主である主イエスの光を証しする任務を負うた人生、「使徒的人生」です。
 新宿西教会でとても有名な先生が創立記念か何かの説教をされたことがありましたね。わたしは昔、月報か何かで読みました。その先生は、クリスチャンは「バプテスマのヨハネの指」なのだと語られました。バプテスマのヨハネの指は「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」を指し示しております。バプテスマのヨハネの指が美しいか美しくないかではなくて、その指の存在価値は、主イエスを指し示しているかどうかにかかっていると語られておられ、とても印象深い説教でした。
 現在、東京聖書学校で校長をしておられる、久多良木和夫先生の救いと献身の証しを聞いたことがありました。先生は1956年、大分県の野津原町にて生を受けられました。家は代々農家。お祖父ちゃんは村長もしておられました。お父は数学の教師でした。中学3年の時、衝撃的な事件に遭いました。右目の眼底出血。即、入院。運動は禁止。高校一年の時網膜剥。右目は完全失明。高校の時には理数系の大学を目指して猛勉強。一年浪人して宮崎医科大学に入学されました。はじめは真理を求めてセブンスデーの教会に通い、その後、宮崎清水町教会で求道生活。なかなか十字架の救いが分からなかった。大学2年生のKGKの春期学校にて、片岡伸光主事に出会ったそうです。彼と一時間、歩きつつ話し、悩む久多良木青年のためにヨハネ1:18の御言葉を下さった。その後、奇跡を見れば信じてもいい、と言う傲慢な自分の姿や、思春期の特有の自分の醜さをも示され、「自分は罪人だ」とわかった。二日目の夜に招きに応じて主イエスの十字架を受け入れた。そして大学3年生のペンテコステの日に洗礼を受けられました。その後、主の恩寵のもと、献身に導かれた。卒業の2か月前に両親にそのこと話しました。医科大を卒業し、医師となることを楽しみにしていた両親を、失意の中に落としてしまいました。医師の国家試験は合格しましたが、彼は東京聖書学校の門を叩きまた。卒業後、小見川教会、都農教会、現在の北九州復興教会を牧会。その間、彼が牧師になることを反対していたお父様も、お母様も洗礼を受けられました。奥様のお母様も、お父様も信仰を持って洗礼を受けられました。「親不孝をしたが、永遠の命を紹介したので両親への恩も返せたかなと思う。
」と語られました。6年間、医学部で学び、卒業間近かになって、最も大切なこと、永遠の命を伝える直接献身へと導かれ牧師になられた!改めてすごいと思いました。

3)9 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。10 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。11 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。            (9節―11節)
⇒ すべての人を照らすまことの光を拒絶してはいけない!
 先週も語りましたが、主イエスは「言(ロゴス)」であり、「命」であり、「光」なるお方です。この光なるお方が、世を造られた方でした。しかし、この世は主イエスを拒みました。「世はロゴスを認めなかった」「民は(言を)受け入れなかった」と繰り返されています。人々は本来、王として迎えるべき主イエスを、王とは認めませんでした。そして主を拒んだのです。それは、主イエスを拒み、侮辱し、殺してしまった、あの十字架の出来事を指し示しています。創造のはじめの時には、「良かった」「良かった」「はなはだ良かった」とたたえられたこの世界が、人間の罪によって、混乱が、闇が、死が入り込んでしまったのです。

 9節で、主イエスの本性が描かれています。「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。」と。しかし、まことの光がこころを照らすのが面白くなくて、人々は暗闇を愛し、光を憎んで、主イエスを拒んだのです。神様は何と悲しかったことでしょう。しかし、皆さん、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えた」とあります。

 先週の日曜日の午後に、当教会で、チャールズ・ディケンズの「クリスマス・キャロル」の演劇を見ました。この公演は、今年の2月3日、突然天に召された西田正兄が主催していたキリスト教伝道劇団新宿新生館のアガペー・インの兄弟姉妹の公演で、長い時間をかけて準備し、熱のこもったすばらし演劇でした。わたしは委員会で遅くなったので午後5時半からの公演を観劇しました。
ロンドンの町の、霧の濃いクリスマス・イブの晩の出来事を印象深く、表現していました。クリスマスの劇としては多分、一番有名な作品ではないでしょうか?お金持ちで、けちで、人を人とも思わない嫌われ者のスクルージが主人公で、彼が事務所で見る夢の出来事が物語の内容でした。
 わたしは特に、スクルージの天使に導かれて見た幻が、「スクルージの、過去、現在、未来の姿」であっことが印象的でした。
 過去は、とてもみじめな少年時代。クリスマス・イブの家庭の楽しい最高の時なのに、家は貧しく、両親がけんかしていて、家に帰れず一人ぼっちでうずくまっている少年の自分。やさしい妹が慰めてくれた。それから青年の時。クリスマスイブの夜、皆で楽しいダンス。ああ、そこに結婚相手になったかわいい女性。彼女が元気で、笑っている。彼はその世界に吸い込まれていった。ああ、素晴らしい青春の思い出・・・。
 現在は。お金の亡者になり、金ぴかの衣装は着けているけれども、皆に嫌われて、自分自身も生きるのが嫌になっている寂しい、孤独な老人。
 そして最後は未来。ここは天使ではなく、昔、仕事の同僚だったマーレイが死後の世界から、彼を連れてゆく。行き着いたところは墓場。寒い、人気のないくらい墓場。そこに市の職員が二人で、孤独な老人の死骸を埋葬して帰ってゆく。見るとそれは自分の死骸、自分の墓だった。スクルージは寒さとみじめさと恐れで、そこでさめざめと泣く。
 目が覚めると、それは夢だった。彼は、自分の罪深い生活を悔い改めて、神に立ち帰り、クリスマスの恵みの与ることとなったのでした。

 彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのです!

【祈祷】 主よ、わたしどもは破れの多く、罪深い者です。しかし、主イエスを信じ、受け入れた時に、神の子としてくださり、内側に光を持つものとしてくださいます。聖霊の助けによって、燃えて輝く、主の証し人、現代のヨハネのように、人々に証しする者として下さい。御名によって、アーメン

 

 

 

説教「言・命・光」

2019年12月1日 主日礼拝
聖書箇所:ヨハネ福音書1:1~5
説教:深谷牧師

 今年も、アドベントの時季を迎えました。教会暦で行くと、このアドベントから一年が始まります。アドベントは、もともと adventus というラテン語(ad-へ + venire-来る +tus 過去分詞語尾=「-へ来ること」から「到着」の意味)です。キリストの到来、出現を待つ時期という意味です。これからクリスマスまでの時、わたしどもは主イエスに会う備えの時といたします。王の王、主の主なる恵みのお方が来られる。教会暦にはひとつの教えがあります。人生が真実に始まるのは、主イエスを心に迎えるための「備え」から始まるのです。また、このアドベントという言葉から adventure(冒険)という言葉が出たと言われます。神様が御子イエスをこの世に送って冒険をしてくださった。そして、主イエスを心に迎えるクリスチャン生涯は、素晴らしい可能性に満ちた愛と信仰の冒険であることを語っているのです。
 さあ、今日から素晴らしい冒険の旅に出かけましょう。

【この聖書箇所の概略】
 さて、ヨハネ福音書は「はじめに言があった」と有名な書き出しで始まります。「ことば」とはギリシャ語でlogos。宇宙の法則、道理の意味で、天地宇宙を貫く「真理」としてのキリストを指し示します。ここは「ロゴス賛歌」と呼ばれる箇所です。
  賛歌1( 1ー 5節) 創造者であるロゴスを讃える
  賛歌2(10ー14節) 人となったロゴスを讃える
  賛歌3(16ー18節) 啓示と恵みの与え主であるロゴスを讃える
 更にヨハネ福音書は「しるしの書」(主イエスの7つの奇跡1:19ー12章)と「栄光の書」 (特に主イエスの十字架と復活 13ー20章)とで構成されています。

【メッセージのポイント】
1)1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2 この言は初めに神と共にあった。3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。(1~3節)
⇒ キリストは神の言(ロゴス)
 マタイの福音書は旧約で預言されたメシヤ(油注がれた方=救い主)としてのキリスト、マルコ福音書は僕として仕えるキリスト、ルカ福音書は全人類の救い主としてのキリスト、ヨハネ福音書は全宇宙的な広がりの中で神の子としてのキリストが描かれています。ヨハネはここでキリストの姿を「肉体を取った神」という姿でわたしたちに伝えています。ヨハネはイエスキリストを受肉前と受肉後に分けて説明しています。受肉前の主イエスは神の「言」(=ロゴス)であり、「独り子なる神」と語っています。
 この箇所は天地創造の記事(創世記1:1ー2)とよく似ています。その箇所と照らしあわせて福音書記者は書き始めています。その第一は天地創造の初めにロゴスなるお方がおられたという内容です。
ロゴスは「論理」「道理」「知恵」「真理」「理性」等様々な言葉に訳されます。ロゴスとは一言で言えば「混沌」の反対で、神の秩序、神の論理を意味します。この世は空虚な混沌ではありません。この世は美しい秩序あふれる神の恵みの最高傑作なのです。世界は神の理性の壮大な創造物であり、醜悪なる空虚な世界とは違うのです。その原点はキリストの愛と恵みの秩序ある世界。ここに深い神への信仰告白とこの世に生かされて行くことの意味を見ることができるのです。キリストはこの混沌のカオスから救う神の真理なのです。
 皆様も同じではないかと思うのですが、主イエスに出会うまでのわたしどもの生涯を考えると、わたしどもは混沌の嵐の中に歩んでいました。わたしも自分の青春時代を思い起こすと、実に、神の救いを受ける前の、混沌の世界を思い出します。どのようにして自分の人生を生きてゆくのか?当時、若者をひきつけた共産主義思想にひかれたり、仏教にひかれたり、自分の欲望に振り回されたり、高ぶったり、醜さに絶望したり、激流に翻弄される枯れ葉のような、混沌そのものでした。主イエスに出会わなかったら、自分の醜さと様々な重荷で人生そのものを棄権していたかもしれないと思います。実に主イエスはわたしにとって混沌の怪物から救ってくださった真理の君なのです。神のロゴス、これは「神の真理」という意味です。主をたたえよ。

2)4 この言に命があった。
⇒ キリストは永遠の命!        (4節a)
 さらにヨハネはこのロゴス(=キリスト)のうちに「命」があった、と語っています。「生命」は「死」の反対語です。命の世界、すなわち、摂取や排泄を繰り返し、成長し完成をめざし、喜びや感動、切れば暖かい血潮が流れてくるような存在として、生命は存在します。そして最後は高度な知的、霊的能力をもって、創造者なるお方を認識し、霊的な交流を持ちつつ、本来の創造者の意志すなわち創造の完成をめざして共に働く存在として命が創造されたのです。命の最高形態は愛です。この生命の根源は神のロゴスなるキリストの内にあると聖書は語っています。
人間には限界がありますね。
10年位前、新聞を見て驚きました。「ドラえもん」の声優さん、大山のぶよさんが引退すると言う話でした。高齢になられたためであると言うのです。そうしたら、ツネオやのび太役の声優さんもかなりの年代。「サザエさん」のことも載っていました。びっくりしたのは、6歳ぐらいのタラちゃんの声は63歳の貴家さん、2歳位のイクラちゃんが桂さん64歳、さらに「ルパン3世」の不二子さんの声は68歳というのです。長い番組の場合、声優さんが高齢になってしまうのですね。取っておいた切り抜きも紛失してしまいました。
また、最近はラインなどを使えば、あっという間に写真や動画が送れます。本当に便利になりました。その反面、SNS等を通じて、事件が絶えません。自殺志願の女性を呼び出して、連続で殺人したとか、小学生の女の子を監禁したとか、集団で自殺をしたとか・・・。そのようなニュースが日本でも、世界中でも起きています。生きるのがとても苦しくなっているのです。
死の力、生きる希望が失われているのです。わたしどものうちに頂いているキリストはまさに永遠の生命なのです。我らは主にあがなわれ、死を超えた永遠の生命の中に歩んでいるのですから。クリスマスの主がまさに命であることを語り告げてゆきましょう。ハレルヤ。

3)そしてこの命は人の光であった。5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
⇒ キリストはまことの光(4b、5節)
 最後にヨハネはこの先在のロゴス(=キリスト)こそ人間の暗黒を照らし出すまことの光であると語っています。光は闇の反対の言葉です。人間は暗闇を恐れます。現在の日本で本当の暗闇を経験することは難しいものです。
あるところで事故に巻き込まれ、地下で閉じ込められたという事があったそうです。その時に、閉じ込められた人々は真っ暗闇の中で恐れを感じました。その時、誰かが携帯をつけました。淡い、青白いその光であっても、その光で多くの人は慰めを感じたと言います。真っ暗闇は、本能的な恐怖や不安を感じさせるものです。聖書は神から遠く離れた人間は、本質的にこの暗闇を心の奥底に持っていると告げます。それは霊的な暗さです。しかし、クリスマスのメッセージはすばらしい。どんなに人間の罪や死や絶望的な暗黒の深淵にあろうとも、神は光であり、命であり、愛であり、世界の暗黒を打ち破る力なのだと語っています。クリスマスはまさにこの光の到来なのです。
かつて、ある友人から送られた週報にこのような一文が載っていました。

ある牧師が「もしキリストが生まれなかったら」と言う珍しいクリスマス・カードを出版しました。彼は夢の中で、周りを見回したけれども、煙突の下に靴下もなく、鐘も、ひいらぎの枝も、飾られたツリーも、クリスマスに関するものは何もありません。彼は外に出て町を歩きましたが教会は一つもありません。家に帰って書斎を見たけれどもキリストに関する書籍は一冊もありません。 数日後、彼は葬儀を行うためにひつぎの傍らに立ったけれども、そこには聖書も讃美歌もなく、慰めのメッセージも、栄光ある復活も、開かれた天もありませんでした。ただあるものは「塵は塵に、灰は灰に」という言葉と、永遠の決別だけでした。牧師はついに「キリストの慰めの言葉」を聞くことができず、夢の中で、悲しみのあまり、涙を流して激しく泣いていました。そして、目を覚ますと次の声がありました。「忠信なる者よ。歓喜と勝利をもて来たれ。ためらわずに来たれ、ベツレヘムに来たれ。来たりて、神が人となられた救い主を拝せよ。主は祝福をあふれしめんとて来たりたもう。呪いはとこしえに離れて見出し得ず」と。やがて彼の唇から讃美と歓喜がほとばしり出た。

今日はアドベント聖日です。主イエスをこころに迎える備えの第一日目です。まず、深い悔い改めを持って御前に立ちましょう。
主イエスこそ「まことのロゴス」です。混沌と無秩序ゆえに傷を負い不毛の人生を歩んだところから、整えられた、充実した人生を歩み始めましょう。
また主イエスこそ「まことの命」です。絶望的な罪と死の支配の中から、キリストの永遠の命の中に歩み始めましょう。
また、主イエスこそ「まことの光」なるお方です。暗闇の中で手さぐりし、絶望と悲しみの中に歩んだ生涯から、平安と喜びの源なる主イエス様をこころにお迎えいたしましょう。わたしどもの性質が「混沌」「死」「暗黒」に陥りやすい性質を持つがゆえに、否、「混沌」「死」「暗黒」そのものであるがゆえに、今日、心の内にキリストの救いを迎えましょう!ここから恵みに輝く、冒険に満ちた、アドベンチュアな、充実した日々が始まるのです。ハレルヤ

【祈り】 天のお父様!今日はアドベントの恵みの出発を感謝します。今日は一年の初めです。今日から新しい一年間をはじめます。主イエスよ、愛する兄弟、姉妹と共に祈ります。わたしどものこころに来て住んでください。神の言なるキリストよ。わたしのうちに来て、混沌や混乱の世界から、引き上げてください。神の命なるキリストよ、わたしのうちに来たり、魂の内側から滾々と湧く永遠の命を与えてください。神の光なる主イエスよ、今来たりて、わたしどもの暗黒を照らし出し、恵みの光と平安で満たしてください。わたしどもの救い主、クリスマスの主である、イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン

 

説教「慰めの時が来ました」

2019年11月24日 主日礼拝
聖書箇所:使徒行伝3:17~26
説教:深谷美歌子牧師

 去る22日に、「みさよはうす富久」という新宿に最近できた、特別養護老人ホームに講演会があり、行ってきました。新宿は日本の他の地域に比べると高齢者の割合は少ないですが、独り暮らしの方が割合的には多いそうです。認知症になっても、周囲の理解と、手助けがあれば暮らしやすいということで、手助けの寸劇を職員の皆さんがしてくれました。参加者の中からも、と言われ、元来、消極的な者で、黙っていたのですが、後ろの方に「あなたどうですか」と言われて、神様の声かと思い、やってみました。好評をいただけました。人は思いやりがあって、生かされるのを思いました。
 本日の聖書箇所は、ペテロの説教の第二弾ですが、誰にも必ずいただける慰めを受け取る道があると語っています。

【聖書箇所の概説】
使徒行伝3章以下の内容を見てみましょう。
1-10節 美しい門の前での、足のなえた人の癒し
11-16節 ペテロの説教あなた方はメシヤを殺した。われらは復活の証人。
17-21節 ぺテロの説教あなた方はメシヤと知らなかった、悔い改めよ。
22-26節 モーセや預言者はこの時のことを予告していた。祝福を受けよ。

 前回までの内容は、「美しの門」の前で、物乞いをしていた、足のなえた男性の足の癒しと、そのときに集まった群集へのペテロの説教の箇所でした。ペテロとヨハネの「ナザレ人イエスの名によって歩け!」という言葉によって、歩き始めた足のなえた男性はいやされて、歩き回ったり、踊ったりしながら、境内にいって行き、その時に集まってきた人々に向かってペテロが、説教を始めたのでした。
 前回のペテロの説教(11-16節)の要約を記します。
① あなたがたは、命への導き手である方を十字架にかけて殺した。
② しかし、神はこの方を死者の中から復活させられた。
③ わたしたちは、このことの証人です。
④ この男性の癒しは、イエスの名による全人格のいやし、神の国の到来でした。
 
【メッセージのポイント】
1)兄弟たちよと呼びかける
17さて兄弟たちよ、あなたがたは知らずにあのような事をしたのであり、あなたがの指導者たちとても同様であったことは、わたしにわかっている。(17節)


 ペテロは「兄弟達よ」と呼びかけています。あの出来事(イエス様を十字架にかけた)は、指導者たちも無知によってしたことであり、あなた方も無知であったがゆえにしたことと分かっていますと語りかけます。
 先週の聖研祈祷会ではマタイ5:43-48までを学びました。「敵を愛しなさい」というものでした。しかし、敵を本当に愛したら、語るべきことは語るのが愛で、それは、憎しみからではないと学びました。
 ここでのペテロの説教も、聖霊に満たされたペテロがそのように変えられているのを見ます。ペテロ自身もイエス様を裏切り、赦されたものでした。十字架につけたユダヤ人たちと変わらないと自覚があったことでしょう。「兄弟たち」と呼びかけます。しかも神さまは、人間のこれらの落ち度も用いられて、すべての預言者の口を通して予告しておられた、メシアの苦しみを、このようにして実現なさったと語りました。
 一昨日、バックストン聖会に行ってきました。藤本満先生がペルシャじゅうたんの話しをしておられました。店に飾ってあったじゅうたんの値段を見てびっくり、100万円だったそうです。なぜそんなに高いのかというと、同じデザインのじゅうたんを作ろうとしていても、赤ちゃんの世話をしたり、家事を途中でしたりして、必ず間違うのだそうです。でもその間違いをちゃんと模様に織り込んで、りっぱな、しかも世界に一つだけのじゅうたんに仕上がるのだそうです。
ペテロはユダヤ人への糾弾を語りましたが、その間違いをも超えて、ユダヤ人の救い、人類の救いを神様は完成されたと語ったのでした。
それも預言者によって預言された通りの苦難の僕としてでした。神様はユダヤ人の無知の故の罪をも不思議に用いて、「メシヤの苦難」といわれる救いの道を、十字架において成就されたのでした。
 そして、ペテロは、事実として起こった、復活と、赦しと、昇天と、聖霊降臨を証言しながら、あなたがたも悔い改めるなら、赦されると語り掛けたのでした。


2)罪の赦しのため、悔い改めて立ち返りなさい。
 19そして、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ち帰りなさい。                       (19節)


 ユダヤ人に、やさしく語り掛けながらも、悔い改めて立ち返りなさいと語ります。
 「悔い改める」とは、ギリシャ語で「メタノイア」といいますが、これは「方向転換」という言葉です。イエス様が待ち望んだメシヤであったのに、認めず殺したことを、弟子たちの証言、足のなえた男の完全な癒しの姿を見てイエス様をメシヤと信じ、悔い改めなさいとすすめます。
 このことは自分中心に歩き、滅びへと向かっていたわたしたちにも語られています。イエス様の十字架は、全ての人の罪の贖いのためでありました。
 最初、弟子たちでさえ、救いはユダヤ人のためであったと思っていました。本日の個所にも「神がまずあなた方のためにその僕を立ててお遣わしになった」26節と語っています。しかし、異邦人のコルネリオに招かれ、行く前に大風呂敷のようなものが夢心地のペテロの前に降りてきて、「これを屠って食べなさい」との声があり、また、福音を語った時、異邦人にも聖霊が下ったのを見て、神様の思いは全人類の救いであったと確信しました。エルサレム教会でペテロはその事を証言しました。
 こういうわけで、今もすべての人が、悔い改めるように語り掛けられています。「悔い改めなさい」とは威張っているように感じますね。でもこれは上から目線ではありません。同じ失敗をしたペテロもイエス様に立ち帰り、ゆるされた喜びを受け取りました。 同じ恵みを受取って欲しくて語っているのです。
 わたしも「悔い改めなさい」なんて、偉そうで、言えないとか思っていました。が、愛は不義を喜ばないで、真理を喜ぶ。正しいことを語ることが祝福の命に生きることになると分かりました。
 悔い改めるとは、イエス様の十字架で流された血潮が自分の罪の身代わりであったことを受け入れ、それを信じることです。いつも心の深いところでは人を裁き、人を恐れ、神を恐れ、神などないと神と敵対し、神と関係が破れていたことを認め、神と和解をすることです。罪赦され、神と和解し、神の子供となり、神の恵みに与かり、今、神様に祈り、確かに聞いてくださる方を知り、永遠の命の中を委ねながら歩むようになることです。
悔い改めてイエス様をお迎えしてください。

3)慰めの時が来ました。来ます?
20それは、主のみ前から慰めの時がきて、あなた方のためにあらかじめ定めてあったキリストなるイエスを、神がつかわしてくださるためである。21 このイエスは、神が聖なる予言者たちの口をとおして昔から預言しておられた万物更新の時まで、天にとどめておかれねばならなかった。    (20節)


 ここでペテロは最後に「万物更新のとき」について語ります。
イエス様は、神の国がいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねた時、「神の国は見よここにある」「あそこにある」などとも言えない。「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」ルカ17:20,21と語られました。ですから、慰めの時は、イエス様の命を頂いたものには、すでに到来しています。互いに愛し合い、赦しあう中に神の国の慰めの命を味わうでしょう。
でも先週のマタイの学びでも「敵を愛しなさい」とイエス様が語られていて、この世界には敵が存在することを認めておられます。
万物更新は、この世の終末、創造主である神様が最終的に支配される、イエス様の再臨のとき、全部が神の国になる出来事です。今慰めを頂きつつ、目を覚まし、終末の時の近いのを感じるこの時、恵みの日の間に、リバイバルを祈ってまいりましょう。神様が待っていてくださる祈りだと信じています。

被災地献金のお礼の手紙に入ってきた文を紹介します。
 「あなたの最良のものを与えなさい」
   人は不合理、非論理的、利己的です。
   気にすることなく、人を愛しなさい。
  あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと思われるでしょう。
   気にすることなく、善を行いなさい。
  目的を達成しようとする時、邪魔立てする人に出会うでしょう。
   気にすることなくやり遂げなさい。
  善い行いをしてもおそらく次の日には忘れられるでしょう。
   気にすることなく、し続けなさい。
  あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。
  気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい。
  あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう。
  気にすることなく、作り続けなさい。
  あなたの最良のものを、世に与えなさい、蹴り返されるかもしれません。
  でも気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。

  主よ、こんな罪人の私をとことん愛してくださり、心から感謝します。
                      マザーテレサ


 この詩?には神の前に清く生きようとする人の思いが伝わります。人の醜さも思います。でもそれを他人ごとにしない、それは自分のうちにもあるものと認めて、イエス様の愛の中に逃げ込んで慰めを受けている姿も見えます。この命に生きられますように。


【祈り】 父なる神様。ペテロは自分こそ、裏切り、弱く怖れを持つものであったことを、知っていました。イエス様に出会い、赦されて、聖霊様に満たされて、愛に生きるものとされました。慰めを味わっていました。
私達も罪赦され、祈りが聞いていただける幸いなものとされたことをありがとうございます。「恐れるな!思い煩うな」と語ってくださる、あなたに包まれながら、今を歩ませてください。そして、これからなされる恵みの業、あなたのリバイバルと再臨と万物更新の到来を期待するものとならせてください。      
主イエスの聖名によって祈ります。アーメン。 

 

説教「神ご自身の訪問」

2019年11月17日 主日礼拝
聖書箇所:創世記18:1~8
説教:深谷春男牧師

 しばらく前のことになりますが、月一回の北支区の祈祷会で、若い牧師が説教しました。クリスマスも近づいている頃だったと思いますが、この説教がとても難しかった。神学校出たばかりで、神学者の名前や神学用語が多くて、理解するのが困難でした。この先生は、クリスマスのことを説明しようとしたのは分かったのですが、ルカ福音書の1章とか2章のクリスマスの話ではなく、創世記18章の今日の個所を読んで、話をされたのです。
 クリスマスは、永遠の神の御訪問で、創造者なる神御自身が、被造物の世界を訪問するという意味。キリスト教は、神ご自身が、人間の世界を訪問されたというメッセージで、神御自身である主イエスが、人間の現実、神から離れたみじめな世界そのものを体験され、罪と死の呪いを打ち砕くために十字架にかかり、復活された。アブラハムに三人の人が現れたこの創世記18章は、驚くべき内容を語る、というような内容でした。最初はよくわからなかったのですが、年を経るにしたがって、この聖書箇所は、とても印象深いものとなりました。

【今日の聖書箇所の概説】
 創世記18章は神ご自身のアブラハムへの訪問という出来事から話し始めます。そして、その御訪問は、アブラハムへの豊かな祝福となって実を結ぶことになります。そして、後半は背徳の町ソドム、ゴモラへの厳しい裁きという形で現れてきます。ソドムとゴモラの地を裁かれる神様の前に、甥のロトがソドムにおりますので、その甥のために、執り成して祈るアブラハムの生涯が描かれます。

【メッセージのポイント】
1)1 主はマムレのテレビンの木のかたわらでアブラハムに現れられた。それは昼の暑いころで、彼は天幕の入口にすわっていたが、2 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼はこれを見て、天幕の入口から走って行って彼らを迎え、地に身をかがめて、(1-2節)
⇒  神のご自身の御訪問
 まず、この箇所で一番の出来事は、主がアブラハムに現れたという言葉です。主御自身の顕現がここでは語られます。ユダヤの伝統ではこの箇所は「ヴァイエラ(そして顕現された)」と呼ばれていて、大切にされている箇所です。神ご自身が、アブラハムの住んでいた「マムレの樫の木」のところに現れたのです。先週、学んだように、「われは全能の神なり。汝、わが前に歩みて、完全(まった)かれ」と語られた神様が、アブラハムに現れたという記事です。
その時は暑い真昼でした。アブラハムは家の入り口に座っていました。祈っていたのか、神ご自身のことを黙想していたのでしょうか。ふと、目を上げると、三人の人が彼に向かって立っていたのです。ある方は三位一体の神の出現だと言いますし、ある方は三人の天使の出現であると考えます。最初と最後の方を読みますと、神御自身の御訪問であったことがわかります。

2)、3 言った、「わが主よ、もしわたしがあなたの前に恵みを得ているなら、どうぞしもべを通り過ごさないでください。4 水をすこし取ってこさせますから、あなたがたは足を洗って、この木の下でお休みください。5 わたしは一口のパンを取ってきます。・気をつけて、それからお出かけください。せっかくしもべの所においでになったのですから」。彼らは言った、「お言葉どおりにしてください」。6 そこでアブラハムは急いで天幕に入り、サラの所に行って言った、「急いで細かい麦粉三セヤをとり、こねてパンを造りなさい」。7 アブラハムは牛の群れに走って行き、柔らかな良い子牛を取って若者に渡したので、急いで調理した。8 そしてアブラハムは凝乳と牛乳および子牛の調理したものを取って、彼らの前に供え、木の下で彼らのかたわらに立って給仕し、彼らは食事した。                     (3‐8節)
⇒ もてなし!               
 松田明三郎先生によるとアブラハムはここで、もてなしのテストに合格した。
①ていねいな挨拶
②足を洗うために水を提供する。
③心を込めた食事と給仕の姿
④出発のときの見送り
 3セアとは1セアが13リットルなので、やく39リットルの上等の小麦粉で作ったパンと、上質の牛肉によるビフテキでもてなしたことになります。わたしどもも、アブラハムのように愛情の深い、細やかな思いで、人格的な出会いをしたいものです。人と・の出会いも、そして何よりも神様との出会いの中で、真実な主イエス様との交わりを待ち続けたいものです。

3)、12 それでサラは心の中で笑って言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」。
13 主はアブラハムに言われた、「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って笑ったのか。14 主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」。15 サラは恐れたので、これを打ち消して言った、「わたしは笑いません」。主は言わはれた「いや、あなたは笑いました」。(13-15節)
 ⇒ 神は救いのために全能の力で臨まれる!
 89歳のサラの体はもう、赤ちゃんの生める体でもないので、実際に「赤ちゃんの話」が来たときにサラは思わず噴き出してしまいました。それは恥ずかしさなど通り越して、考えることのできない話だったのでしょう。100歳のおじいちゃんと90歳のおばあちゃんの間に赤ちゃんが産まれる?15章などでも、アブラハムは神様に「あなたはわたしに子供お与えになりません」と恨めしく言ったことがあります。今、ここに、神様はアブラハムの真実に心を止めて、驚くべきことをお話になりました。 9節で主はアブラハムに語られます。「あなたの妻サラはどこにおられますか?」 初めての訪問なのに主は、アブラハムの妻、サラを知っておられました。全能の主は全てを知っておられるのです。私自身よりも、わたしについても、妻についても、子どもたちについても、心の深いところまで、すべて知っておられるのです。
 アブラハムは、3節で「わが主よ、もしわたしがあなたの恵みを得ているなら、僕を通り過ごさないでください」と願ったように、神様はアブラハムの、仕える姿を見て、「恵み」を注いでくださいました。それも「驚くべき恵み」、実にアメイジング・グレイスでありました!
主は言われました。「来年の春、わたしは必ずあなたのところに帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには、男の子が生まれているでしょう。」それを聞いて、サラはくすっと笑ってしまいました。
 神様は笑ったサラに「どうしてあなたは笑うのです?」と言いました。「主に不可能なことがあろうか」と言われました。これは「ハイッパレ
メ・アドナイ」という言葉で直訳では「そのできごとは、主よりも超えているか?」との意味です。神を超えたような困難はこの世にないと言う聖書的な表現です。これはやがて、処女がメシヤを身ごもることにつながり、ルカ福音書1:37のガブリエルのマリアへの受胎告知への宣言「神には何でもできないことはありません」に至ります。

 この個所は大変重要な聖書箇所ですが、わたしどもの生涯に及ぼす「神御自身の御訪問」を教えています。以下、この個所の重要な主題は、わたしどもの生涯に大きな祝福をもたらすことを箇条書きにしてみます。
① 神御自身の訪問。これにより、空虚な人生に天上の命と輝きが宿る。
② 霊の目を挙げて、3人の人を見よ。エペソ1:3~14など。
③ 走って行って、この賓客を歓迎し、もてなす。走り回るアブラハム。
④ 「神の恵み」が、とどまるように、願う。
⑤ そこで足を洗う水と一口のパンの用意する。お食事を勧める。
⑥ 最上の麦粉3セヤ(約40リットル)のパンと最上のステーキ。
⑦ 彼らの前に備え、自ら給仕するアブラハム。
⑧ 「驚くばかりの恵み」の宣言。息子の誕生予告。
⑨ ハイッパレ メアドナイ「それは主を超えているか?」神の全能!
⑩ 人生における、救いの完成の笑い(イツハク=イサク)の成就

【祈り】 全能の神様。わたしたちは今日、成長感謝礼拝の恵みの時を持っています。御前にある、幼い兄弟姉妹を守り祝福してください。病や災いから守り、豊かな人生を歩むことができますように導いてください。今日、学んだアブラハムのように、神様の御訪問を悟り、その生涯にあなたご自身を迎え入れることができますように。そして、アブラハムのように、あなたを心からもてなし、仕える者としてください。そしてやってきた「想定外の恵み」、神の全能の祝福、あなたの賜物である喜びの微笑み、幼な子の顔に輝く笑顔のような救いと平安を、神のイサクの誕生を、わたしどもにも与えてください。やがて、12月にはクリスマスの時を迎えます。神御自身のイサクがすでに与えられました。御前にある若い兄弟姉妹が何よりも主との交わりの道を歩めるようにしてください。また、御前にあるすべての兄弟姉妹に、この一週間も、恵みあふれた臨在の一週間としてください。わたしたちの救い主、この世界に来たり罪と死の呪いを打ち砕き、永遠のいのちと喜びの世界をお与えくださった主イエスの御名によって祈ります。アーメン