2024年3月17日(日)新宿西教会主日礼拝説教「イエスキリストの福音を信じるだけで救われる」ローマ人への手紙3:21~26西川穂神学生

《新宿西礼拝説教》イエス・キリストの福音を信じるだけで救われる」 2024,3,17

ローマ3:21―26                     西川 穂

 本日の聖書箇所は、ローマ人への手紙3章21~26節までを中心としています。この聖書箇所から、二つのポイントでメッセージをいたします。第一に、「イエス・キリストの福音の恵み」と第二に、「イエス・キリストの復活の恵み」という二つです。本日は、イエス様を信じて守られてきた感謝とイエス様を信じるだけで、本当に罪が赦されて救われて、感謝の生活を送り、天国に行ける素晴らしい世界があるという内容を、私の救いと両親の救いとの証を交えてメッセージをいたします。神様は、本当に真実なお方です。

【聖書箇所の概略】

23節 全ての人は罪人である。

24節 神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。

25節 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物

とされた。それは神の義を示すためであった。

1)第一に、イエス・キリストの福音の恵みです。            

ローマ人への手紙3章24節には、「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」とございます。

イエス様が十字架で私の身代りに命をかけて死んで、三日目に復活してくださった、と信じる時、神様は救ってくださるのです。神様の愛をわかりやすく教えている聖書箇所が、ローマ人への手紙5章8節にございます。「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」。ここで、愛の神様が明らかにされております。私たちは、神様に敵対する罪人なのに、神様の憐れみで、キリストが十字架につけられることによって、神様と和解させていただいたのです。

神様は、ただ信じる者を救ってくださるのです。たとえ、どんな問題をもっていても、何か持っていなくても、信じる者を救うのです。この聖書には、どんな状況でも、どんなに小さくても、単純に信じる者を救う力がございます。

イエス様が十字架で私たちの身代りに命をかけてくださって死んで、三日目に復活してくださった、と信じる時、神様は、私たちの罪を赦してくださいます。

神様は、イエス様を十字架につけ、イエス様を通し、御自分が神様であることをあらわされ、イエス様を通して私たちをご覧になっております。ただ恵みにより、イエス・キリストにある贖いにより、イエス・キリストの福音を信じて救われた、私と両親の証をしたいと思います。

私の父は、植民地時代の台北市生まれで、早稲田大学で国際経済学を教えていました。ゼミ生には、台湾人の留学生が何人かいました。私の父は、スパルタ教育のように厳しかったので、私は、思いやり、いたわり、愛を分かち合う家庭になりたい、と切に思っていました。

1999年、父は、喉頭がんで死を覚悟する生活を病院で送っておりました。その頃、私は、父の教え子の台湾人の女性によって教会に導かれました。その後、2000年1月に私は、洗礼を受ける恵みにあずかりました。私の洗礼式には、その台湾人の女性と宣教師、そして、喉頭がんから癒された父が出席してくれました。父は手を挙げて神様を賛美していたので、私は、心から主イエス様への感謝と喜びで一杯でした。世界最高の幸せの日でした。私は救われて、その後、一歩ずつ、神学校入学へと導かれていきましたが、父と母が救われていませんでした。ですが、福音の種はまかれて、周囲の方がたに祈られてきましたので、2015年、家族が救われるという祈りの課題に愛と真実な神様が応えてくださいました。

2015年の夏ですが、私と父との間で、私も悪かったのですが、行き違いがあって、父が、私の大切なものを処分したということがありましたので、私は、悲しい思いをしました。

その時、父がイエス様を信じるように、神様に執り成しの祈りをしました。不思議な事ですが、神様が祈りに応えて下さり、翌日、父と行ったレストランで和解の時が与えられたのです。私は、尊敬と信頼を言葉で言い表しました。今まで育ててもらったことや父の配慮に対して、真心を持って父に感謝を言い表したのです。

その直後、イエス様は、私に、父へ伝道する機会を与えて下さいました。コリント人への第一の手紙15章3、4節の、「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと」、という御言葉を私の後について、父も信仰告白して祈り、イエス様を信じました。私が、父に、「イエス様を信じる?」と尋ねると、「もちろん、信じるよ」、と父が笑顔で 答えました。その時に、父なる神様から伝道の書3章11節の、「神様のなされることは皆その時にかなって美しい。」という御言葉が私の心の奥深くに届きました。

父が言った、「もちろん、イエス様を信じるよ。」という言葉を神様が聞いた証拠でもありました。最高の時でした。ただ父は、イエス様の恵みによって救われたのです。イエス様が、私の罪のために十字架に架かって死んで下さり、三日目に死を打ち破り甦ってくださった、それにより、私たち一人ひとりに永遠の命を与えてくださった」と父はただ信じたのでした。イエス様を信じて祝福されたことにより、父と母に対する関係も祝福されていったのです。その後に、母もイエス様を信じて救われました。

2)第二に、イエス・キリストの復活の恵みです。

イエス様が命を与えたので(ローマ3:25)、私達はその復活の命に生きる喜びを味わうようになります(ローマ5:2)。ローマ人への手紙3章25節には、「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。」とございます。

ここに、私たちの信仰と感謝のみなもとである、イエス・キリストが描かれています。

イエス様は、父なる神様からも見捨てられ、無限大の恐怖を味わい、「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。」(詩篇22:1)と、私たちの為にお祈りされました。これから、よくなるから嘆いて、ハレルヤといって解決するのも神様の大きな祝福ですが、神様に嘆いて祈ることができるということ自体、神様への深い信仰のあらわれであり、大きな恵みであるといえます。嘆き、涙、呻き、痛み、どうしてですか、という神様に向かって祈る、そのような嘆きの祈りが、深い所ですべてイエス様の十字架につながっているというのは、なんと幸いなことでしょう。私たちは、暗闇に沈むような時でも、イエス様は、私たちの苦しみ、嘆き、重荷を全て背負って、イエス様のみ跡のあとへとついていくようにせてくださるのです。

そして、幸いなことは、私たちの大きな希望は、私たちの死後、天国に住むことがゆるされているという約束です。父がイエス様を信じた、2015年の大晦日、久しぶりに家族で夕食を共にして、その時、父が 笑顔で手を差し伸べて、「ありがとう」と言ってくれました。本当にあたたかい喜びが胸をよぎりました。

2016年に、クリスマスの特別集会を持った時ですが、ある説教者が伝道メッセージをされた最後に、招きをして下さいました。「神様に自分を捧げる人はいませんか」、と説教者は促して、私の父は招きに答え、そっと手を挙げて、再びイエス様に従う決心をしました。うしろから見ていましたが、私はとても感動しました。

2018年10月2日、父は、スペインで学会のような所に仕事で行ったのですが、そのスペインで父が急死したという連絡が私にありました。

その後、私は、スペインに渡り、スペインの遺体安置場で父の遺体を見て、私は、父が 平安そのものの顔しているのを見ました。イエス・キリストの福音によって救われて、本当に、父は、天のお父様の所にいったのであると実感しました。

今まで見たこのない、父のやすらかな顔は、父の救われた大きな証であり、今でも、私にとっては、大きな慰めとして受け止めております。

スペインの遺体安置場で、父の遺体を見ていた私は、父なる神様に次の様に祈りました。「イエス様、私にとって、父は、本当に、最高の父であったことを天国にいる、父に伝えてほしい」。と涙ながらに祈り、私にとって、最高の父を与えてくださった、愛なる神様に感謝を捧げました。父なる神様に祈った後、次のような希望の御言葉が何度も聴こえて私を支えました。それは、「あなたはきょう、わたしと共にパラダイスにいます」 。言い換えるならば、「私の父は、きょう、イエス様と共にパラダイスにいます」。

父は、今や天国で、イエス様にしっかりと 受け止められているのが体験できて、涙が溢れて、愛の神様に感謝で一杯でした。

父が死ぬ前の僅か3年間でしたが、イエス様の十字架と復活によって父が救われ、母もイエス様を信じて、お互いが思いやりを持ち、そして、教会で礼拝を捧げる中で、父、母、私との間で感謝の実を結ぶという、真実なイエス様が共に生きている体験をしました。

先週、母と出会いました。金沢アシュラムのメンバーたちと、母のいる部屋で一緒に祈り合い、讃美歌『わが身の望みは』を賛美して、心を合わせてイエス様に母を委ねて、将来、イエス様が母をしっかりと受け止めてくださることを信じてお祈りいたしました。

信仰によって義とされるというのは、どんな状況であっても希望をもって生きていけるようになるということです。死の陰の谷を行くときも、最後は必ずイエス様に受け止めていただける、との約束だからです。私たちも、いつかこの体が死ぬ時を迎えます。しかし、その死は、もはや死んでそれで終わりではないのです。イエス様は死から復活への道を備えております。それがイエス・キリストを信じる道です。

イエス・キリストを信じると、生きるにも死ぬにも、わたしたちは、真実な救い主、イエス・キリストのものであるのです。愛する家族、友人が天国に呼ばれた時には、生きている時間だけではなく、死ぬにもイエス・キリストのものだ、本当にそうだ、と実感することができるのです。生きることと死ぬこと、その境界線をも超えてくださる、主イエス・キリストの大きな慰めの中に、今、私たちはこうして生きているのです。イエス様、そのイエス様を信じるだけで、本当に罪が赦されて、父なる神様に感謝をする生活を送り、天国に行ける、その唯一の希望である、イエス様を一人でも多くの人に、共にこれから宣べ伝えていきましょう。

【祈り】 父なる神様、生きるにも死ぬにも、私達は真実な救い主イエス・キリストのものである、本当にそうだと神様に感謝できる幸いを心より感謝を申し上げます。イエス様の十字架と復活の救い、希望を一人でも多くの人に宣べ伝えることができる様に導いて下さい。主イエス様の尊い御名によって祈ります。アーメン

2024年3月3日(日)新宿西教会主日礼拝説教「信仰生涯の恵みの秘訣」ーあなたの若さは鷲のように新たになるー詩篇103:1~5-深谷春男牧師

《新宿西主日礼拝説教》 「信仰生涯の恵みの秘訣」 2024・03・03

詩篇103篇1~5 ― あなたの若さは鷲のように新たになる ― 深谷牧師  

先週の2月27日~29日は、「第58回、北海道ケズィック・コンベンション」という集会に招かれて御用をしてきました。ケズィック・コンベンションは、150年近く続く、イギリスの恵み豊かな聖会で、多くのすばらしい先生方がメッセージをしてこられました。前回、説教で引用させて頂いた、FBマイヤー先生とかBFバックストン先生も御用をされた聖会です。

今回は、英国ケズィックの前の責任者、ジョナサン・ラム先生と共に、日本人講師として説教を頼まれ、畏れを持って御用をした参りました。皆様に祈って頂いて、勇気を頂き、詩篇から23編、32編、108編と語らせて頂きました。

2月の北海道は大変な寒さで、風も強く、飛行機が2時間半も遅れたりしましたが、さまざな困難を超え、主にある大きな祝福を頂いて帰って参りました。4年間のコロナの世界的なパンデミックを越えて、新しいキリスト教の霊的宣教のうねりをとの熱き祈りを感じる恵みの集会となりました。ある先生が最後の別れの時に顔を輝かせて言われました。「深谷先生。ありがとうございました.わたしは今回の聖会で、塩屋聖会と同じ霊的流れを体験しました。信仰は、主の臨在と御言葉に満たされて歩むことですね。それはまた、十字架の贖いと聖霊の満たしを受けて、喜びつつ歩むことですね。感謝します!」

【詩篇103の概略と内容区分】 

さて、この詩篇103篇は旧約の中において新約の福音のような輝きをもっています。神を賛美し、喜びつつ生きる生涯のすばらしさをこの詩は教えます。

「この詩は聖書信仰の木に咲いた最も清らかな花のひとつである。その根を聖書の最も深い源泉に下ろしつつ、この歌は、高貴な澄みわたった響きをもって神の恵みを歌い上げ、後の何世紀にもわたって文学をも人生をも豊かにしてきた」(A・ヴァイザー)と紹介されているとおりです。

この詩編の構造は壮大で、以下のようにまとめることができます。 

     1ー 5節 個人への神の祝福                                     6ー10節 民族への神の祝福

11ー18節 人類への神の祝福

19ー22節 全被造物への神の祝福

 今日は時間の関係で、「個人への神の祝福」の項目だけを取り上げてみたいと思います。神の御業は、その人の人格、魂への油注ぎに始まるからです。

【メッセージのポイント】

1)「赦すお方 すべての あなたの罪を」(3節a直訳)。 

  ⇒ 罪の赦し!

 3節から5節に分詞形で5項目にわたって神ご自身への告白が歌われています。これは神ご自身の本質の表明でもあります。分詞形を日本語で厳密に訳せば「・・されるお方」という表現となっています。それが5回繰り返され、ヘブル語を話す人たちには非常に印象的に響きます。

その第1の内容は「赦すお方、あなたのすべての罪を」です。

これは神の本質をズバリッ!と告白しています。「罪の赦し」を、神をたたえる第一の理由とすることは実に聖書的です。これは新約の十字架の福音へと通じている旧約聖書から続く一筋の赤い糸です。

2)「癒すお方 すべての あなたの病を」(3節b直訳)。

   ⇒ 病の癒し!

 詩人の主をたたえる理由の第2は「病の癒し」です。

罪の赦しを受けた魂は霊的にも肉体的にも癒しの業が始まります。魂は様々な問題で傷つき、病んでいます。現代世界のような複雑高度な社会に住むわたしどもは日々、多くのストレスの中に生きています。主の愛と赦しと恵みに触れる時に、人は癒しと解放を経験するのです。

「我は主にして汝を癒すものなり!」(出エジプト15:26)

3)「贖うお方 墓穴から あなたの命を」(4節a)。

  ⇒ 永遠の命!

 主をたたえる理由として第3は「永遠の命」、われらの命を、死をも越えた世界に導くお方のゆえに!と語っています。これは、「墓穴から、あなたの命を あがなうお方である」と告白されています。人間の問題は、つきつめれば「罪と死」であると聖書は教えています。創世記第3章のアダムとイブの記事で「罪の本源」を、4章の人と人との間の断絶で「罪の現実」を、5章の人間の系図で「死の到来」を語ります。わたしどもはすでに十字架と復活において、わたしどもを「罪と死の呪い」から「贖い給うたお方」を知っています。その「贖うお方」は、御自ら墓にくだり、死を以って死を滅ぼされた復活の主イエスご自身なのです。

4)「あなたに冠するお方 慈しみ と憐れみを」(4節b)。

  ⇒ 神の最愛(ヘセド)の冠!はしれども疲れず、あゆめども倦ざる

 第4は「神の最愛を冠とする生涯」を歌います。わたしどもの生涯はいつでも「神の慈愛」を冠のように頂いているのだと言います。「慈しみ(ヘセド)」は真実な夫婦間の契約愛を意味しています。「憐れみ(レヘム)」という言葉は、胎児への母のやさしさと献身を意味しています。主イエスのやさしい愛と真実!わたしどもの人生はまさに1コリント13章のように、神の愛に支えられ、人生の冠としてこのヘセドを頂いているのです。

この詩には特に、「慈愛(ヘセド)」4回使用されています(4、8、11、17節)。その4回が、個人、民族、人類、全被造物のそれぞれの箇所に使用されています。神の愛、神の慈しみが、この世界には充満しているのですね!

5)「満足させるお方 良い物で あなたの麗しさを」(5節a)。

  ⇒ 神の最善(トーブ)の満足!

 神をほめたたえる第5の理由は、「良いもの」で満足させてくださるお方であるからと告白されています。神様の本質は聖であると共に「善(トーブ)」です。「主は善にして善を行われる」(詩篇119:68口語訳)。神が創造された世界は「良かった」のです。6日目は「はなはだ良かった」(創1:31)のです。「神様は最善以外の何ものもなさらない」。主は善き物を与えられるのです。「聖霊の満たし」はその最たるものです。この「善(トーブ)」は、詩篇23:6では「恵み」と訳されています。魂の内側が神の最善で満ち足りますように!魂が神の恵みが滴り落ちるような、潤いを得ますように!ハレルヤ。

6)新しくなる 鷲のように あなたの若さは(5節b).

  ⇒ 鷲のような若さと命!

 今まで見てきましたように、この聖書の箇所は、動詞の分詞形を用いて神様の御性質を告白してきました。すなわち主は

「罪を赦し給うお方」、

「病を癒し給うお方」、

「永遠の命へと贖い給うお方」、

「最愛という冠を与え給うお方」、

「最善の満足を与え給うお方」であると歌うのです。

これらの神の恩寵充ち満てる生涯は、わたしどもの人生を「新しく」してゆきます。信仰者はその人生の最盛期の時のような「若さ」という生命力が、その腹から湧いてきて、内側に充満し、天空を駆け巡る「鷲の如く」飛翔する力を得るのだと言うのです。イザヤ書40:31には、

「また鷲のごとく翼をはりてのぼらん。べし」 (文語)とあります。

皆さんが、賛美しながら、輝く姿は、鷲のような姿ですね。

堂々として天空を舞う鷲の姿。激しい逆風をもその翼にはらんで、高く舞い上がるためのエネルギーとして利用し、太陽をにらんで天がけるその姿は非常

に力強く雄大で、見る者に感動を与えます。行く手を遮るような大きな山。国と国を隔てる果てしない海原。その上をあらゆる障害や困難を越えて、空高く舞い上がり、それを乗り越えて行く鷲の姿。これはクリスチャンの姿です。

7)わたしの魂よ、主をたたえよ。

わたしの内なるものはこぞって聖なる御名をたたたえよ(1節)。

 ⇒ 魂の底より、全存在をそそぐ神への賛美!

 最後に、冒頭に帰りましょう。1節で、詩人は自分の魂に語りかけます。「わが魂よ。主をたたえよ」と。わたしどもも今日、自分の魂に語り掛けましょう。また「内なるものはこぞって、聖なる聖名をたたえよ」とあります。わが内なるすべてとは「五臓六腑(心臓、肝臓、胃腸等の内蔵)」を示す言葉です。わたしどもは全身全霊で創造主なる神をほめたたえるのです。現代流にいえば、細胞の一個一個、血液の一滴一滴、DNAのあらゆる組織に至るまで、主をほめたたえ、その恵みを忘れるな、と詩人は歌っています。

主イエスの御救いを受けたクリスチャン生涯は、主をたたえつつ歩む人生です。今日は7つもポイントを挙げましたが、しかしこれは実に聖書の指し示す救いの恵みの要約のような趣があります。

①罪の赦し、②病の癒し、③永遠の命、④最愛の冠、⑤最善の充足、⑥これらの恩寵を受け鷲のような新たな命の充満、そして⑦主の創造と救いを心からほめたたえる勝利の生涯!ひまわりが命の源なる太陽に向かって、美しい花を開くように、わたしたちも救いの源、いのちの源なる神様の口と心を開いて賛美すべきです。ハレルヤ   

【祈り】 万物の創造主なる御神。この朝、詩篇103篇のように、あなたは、

「罪を赦し給うお方」、「病を癒し給うお方」、「永遠の命へと贖い給うお方」、「最愛という冠与え給うお方」、「最善の満足を与え給うお方」です。

どうぞわたしどもの霊の目を開いて、あなた御自身の驚くべき恵みを悟るものとしてください。そして、心いっぱいあなたをたたえるものとしてください。鷲のような若さと命に満たして一週間の旅路を歩む者としてくださいますように。栄光の主、われらの救い主、主イエスの御名によって祈ります。アーメン

2024年2月25日(日)新宿西教会主日礼拝説教「クリスチャンと呼ばれよう」使徒行伝11:19~26 深谷美歌子牧師

前回までの使徒行伝の個所は、コルネリオというローマの百人隊長とその家族、家来たちも集まっていたところに、ペテロが遣わされて、イエス様の福音の言葉を語ったところでした。その時、聖霊がくだり、異邦人も神様の救いの対象だったことを、同行した人々も目撃しました。

それで、エルサレムのユダヤ人クリスチャンたちにもそのことを証言し、エルサレム教会は「それでは神は異邦人にも命に至る悔い改めをお与え担ったのだ」と認められたところを学びました。

 本日開いた個所は、同じ11章の18節のすぐ次の節ですが、全く舞台が変わります。コルネリオが救われたところは、カイザリアでした。19節からはアンテオケでの福音の進展が記されているところです。

この書が知らせたいことは、どのように福音が世界に伝えられていったか、ということでしょう。本日はそれを見てまいりましょう。

 【聖書箇所の概説】

19-21節 福音の広まりが、アンテオケでどのように伝えられたか。

22-24節 アンテオケにエルサレム教会からバルナバが遣わされたこと。

25-26節 バルナバが、サウロと共に教会の集まりで教え、弟子がクリスチャンと呼ばれるようになった。

【メッセージのポイント】

1)ギリシャ人にも主イエスを信じる者が起こされた

19さて、ステパノのことで起った迫害のために散らされた人々は、ピニケ、クプロ、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者には、だれにも御言を語っていなかった。 20ところが、その中に数人のクプロ人とクレネ人がいて、アンテオケに行ってからギリシヤ人にも呼びかけ、主イエスを宣べ伝えていた。21そして、主のみ手が彼らと共にあったため、信じて主に帰依するものの数が多かった 19-21節

 ペテロが、カイザリヤに遣わされて福音を語り、ローマ人コルネリオが救われました。異邦人にも神様は救いをお与えになることが御心である、とエルサレムで受け入れられたころ、ずっと北のアンテオケでもギリシャ人がイエス様を受け入れるということが起こっていました。

 そこでの伝わり方は、ステパノの殉教後の、迫害を逃れて散っていった人々によってでした。これは難民が福音を伝えたできごとでした。今も世界中に飢餓難民や、戦争難民、天災難民があります。日本でも1月1日に熊本地震があり、今も避難生活が続けられています。彼らは援助を受ける立場です。ところが彼らはそのような状況の中でも、そこで生かされ、それどころかその命を伝え、それを受け取る人々が起こされたのでした。

アンテオケは当時の世界で、ローマ、アレキサンドリアに次ぐ、50万とも80万とも人口が伝えられる大都市で、繁栄と共に歓楽と堕落が満ちた町でした。丁度新宿歌舞伎町のようですね。

散らされた人々は、最初はユダヤ人以外にはイエス様の福音を語りませんでしたが、クプロ人とクレネ人がいて、イエス様のことを伝えたとあります。クプロは、アンテオケから地図ではそう遠くない島ですが、クレネは、エジブトの左端の方です。これらの出身ですが、エルサレムに滞在していた時に福音に与ったのかもしれません。この人々が、散らされてアンテオケまで逃れてきました。イエス様の十字架を無理に負わされた人は、クレネ人シモンとありますから、彼がクリスチャンになってここに行ったのではないかとする人もいます。この人々は、自分も生粋のユダヤ人でなかったからか、ギリシャ人にも福音を伝えました。すると、主に帰依する人々が多く起こされました。 

帰依というのは、本来のところに帰ることですね。人間は神様のところに帰ると生かされます。難民であっても彼らは命に満ちていて、それを伝え、ギリシャ人もその命を受け取りました。伝えた彼らは普通の信徒でした。

2)教会はバルナバをアンテオケに遣わした。

22このうわさがエルサレムにある教会に伝わってきたので、教会はバルナバをアンテオケにつかわした。 23彼は、そこに着いて、神のめぐみを見てよろこび、主に対する信仰を揺るがない心で持ちつづけるようにと、みんなの者を励ました。24彼は聖霊と信仰とに満ちた立派な人であったからである。こうして主に加わる人々が、大ぜいになった。22~24節

異邦人をも愛して救おうとしている神様のみ旨を知って、エルサレム教会はそのことを受け入れたときでした。そこに、アンテオケでも救われる人々が起こされていることが伝わってきました。その時、導きをするためにバルナバが派遣されました。彼は聖霊と信仰とに満ちた立派な人でした。導くために必要なのは、ステパノもそうでしたが、聖霊に満たされた人でした。今は求めるすべての人に聖霊様は来てくださいます。私達も聖霊様を心の中心に「おいで下さい」と祈ると満ちてくださいます。毎日この祈りをいたしましょう。内村鑑三が聖霊に満たされたとき「これだけでほかに何にもいらない」と言う恵みに生かされますように。

そのバルナバは、主に対する信仰を揺るがない心で持ちつづけるようにと、みんなの者を励ましました。エルサレム教会が始まったとき、2:42そして一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、信徒の交わりをなしました。ここでもイエス様の命をいただいた人々がバルナバから、信仰の導きを受け、受けた人々が信仰に生きて、ますます主に帰する人々が起こされました。

ここでお伝えしたいことは、私達はまず神様を礼拝でみ言葉に生かされ、毎日み言葉をいただき、聖霊様に満たされ、祈ることです。それだけで、神様の恵みによって、命を受け取る方が起こされます。

3)弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった。

25そこでバルナバはサウロを捜しにタルソへ出かけて行き、 26彼を見つけたうえ、アンテオケに連れて帰った。ふたりは、まる一年、ともどもに教会で集まりをし、大ぜいの人々を教えた。このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった。25~26節

教会が立ち上がり、大勢になったとき、バルナバ一人では導ききれないことを感じたのでしょう。共に働く人をと求めたとき、サウロが示されたのでしょう。サウロはエルサレム教会に受け入れられ、さかんに伝道していた時、使徒9:30で、サウロを殺そうとする人々が起こり、カイザリヤから、生まれ故郷のタルソに送り出されていました。そこでタルソに向かったのでした。昔のことですから、住所が何丁目何番地とか正確に決まっていませんでした。海を渡って、見ず知らずの地に一人の人間を探しに行くことは容易ではなかったと推測できます。海から上がったら、徒歩でいくしかありませんでした。きっと祈りつつ捜したことでしょう。そしてバルナバは見つけました。 

バルナバに引き出されて、サウロは立ち上がりアンテオケに来ました。それから丸一年、教会で集まりをし、大勢の人を教えました。異邦人教会の誕生でした。これ以来、教会の中心はアンテオケに移っていきます。

この人々は「クリスチャンと呼ばれるようになった」とあります。これは、今まではユダヤ教の一派と思われていたかもしれませんが、イエスキリストに結び付けられて、何事をするにも主イエスの名によってなす彼らを見ていた人々が「クリスチャン」とあだ名をつけたのでした。 

自分はヘロデを支持するという人々を「ヘロデ党」と呼ぶように、キリストに結びつく人々を「キリスト党」と呼ぶような名だそうです。

献身というのは、牧師になる人の事のように思っている方がありますが、どんな立場でも、イエス様に結びついてイエス様の導きに従って生きる人は、イエス様への献身者です。「あの人には、イエスキリストがつている」「いつも喜んでいる」「感謝している」「祈っている」これはイエスさまから頂いた命です、と証。したら「クリスチャンーキリストオタク?」と呼ばれるかもしれませんね。

石巻の趙先生は何事をはじめるときも「感謝、感謝、昼でも感謝、夜でも感謝、感謝、感謝、全てに感謝―」と讃美して始めます。

東北大震災の時はいち早く駆け付け、津波で亡くなった方のお店で、救援物資を届けながら、「お茶飲んでいきなさいよー」と声をかけて、寂しい人を慰め、友となって、救いをいただく方が起こされました。「お茶っこハウス教会」ができました。作年キャラバンに行かせていただきましたが、10周年で、コンビニを買い取った教会ができていました。 

普通だとなかなかよそ者には心を開かないと聞いている東北ですが、お年寄りが多く導かれ、短い間に何人もお葬式をしたそうです。天国の命とともに、肉体の墓地も、5つの教会が協力して、教会の共同墓地を造り、安心して洗礼を受けられるようにしました。

祈り 父なる神様、イエス様のお与え下さった新しい命を感謝します。この命は、聖霊様に満たされてこそ流れ出ます。すばらしいイエス様を喜んで証しさせてください。日本のアンテオケのような新宿に、イエス様を受け入れる人々が大勢起こされますように。聖名によってアーメン

2024年2月18日(日)新宿西教会主日礼拝説教「夢を見る人ヨセフー摂理と臨在ー」創世記37:1~11 深谷春男牧師

 

《新宿西礼拝説教》「夢を見る人ヨセフ」2024.2.18

 創世記37:1-11    ― 神の摂理と臨在による勝利 ― 牧師 深谷春男  

今日は久しぶりにヘブル人への手紙11章の信仰者列伝に帰ります。ヨセフ物語です。ヘブル書では短く、11:22で、ヨセフの臨終のことだけが語られ、自分の遺骨についての指示だけが記されております。

【今日のテキストの概略】   

創世記37章から50章までは「ヨセフ物語」は、イスラエル12部族の先祖の物語の中の一部です。でも、ヨセフ物語は37章から50章まで続く完結した小説のような内容を持っています。

ヨセフの物語を読むと、非常にはっきりした内容で、読む人に大きな慰めと信仰のすばらしさ、特に、試練の中にある人に夢と希望を与えますね。人間の目の前の試練、悲しみ、失望や、悪意や、誤解で苦しんでいる人は、ヨセフ物語の主題である、神の歴史支配=「摂理」と呼びますね、この神の摂理の深さに感動します。また、ヨセフが奴隷に売られた絶望的な劣悪な現実にかかわらず、神が共にいて下さるとの信仰、これは「臨在の信仰」ですね。この神共にいますという、「インマヌエルの信仰」「臨在の信仰」の希望と勝利のメッセージをわたしたちの生涯にも与えてくださいます。

旧約聖書新約聖書を通して一貫して語られるのは、この「摂理と臨在の信

仰」ではないかと導かれるのではないか、と思ってしまいます。

ヨセフのお父さんのヤコブには4人奥さんがいました。まとめると次のようになります。(29章~30章に、この辺のいきさつが記されます)

レアの元に生まれたのはルベン、シメオン、レビ、ユダの4人  計4人

ラケルの仕え女ビルハから生まれたのは ダンとナフタリの2人 計6人

続いてレアの仕え女 ジルパから生まれたガドとアシェルの2人 計8人

さらにレアから生まれたのが、イッサカルとゼブルンの2人   計10人

そしてレアが産んだに女の子がディナだった。                (女性1人)

ついにそして、ラケルの所から、ヨセフが生まれた。      計11人

 更に1人、ベニヤミンが、うまれました。          計12人

【メッセージのポイント】

  • 2 ヤコブの子孫は次のとおりである。ヨセフは十七歳の時、兄弟たちと共に羊の群れを飼っていた。彼はまだ子供で、父の妻たちビルハとジル

パとの子らと共にいたが、ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。(2節)

⇒ 17歳のヨセフ。その霊的な成長。

ヨセフ物語は、この37章から始まりますが、2節で17歳のヨセフの話から始まります。この説教の準備のために、久しぶりにマイヤー先生のヨセフ物語「奴隷から宰相へ」を読んで、深い感銘を受けました。1847年、ロンドン生まれのすばらしい説教者の聖書人物伝は、独特な語りで、ヤコブの息子、ヤコブの最愛の妻ラケルに生まれた、この12人の兄弟の中でも、容姿においても、知能指数においても、品性においても、抜群に秀でていた、ヨセフの生涯を語り始めています。17歳から彼の生涯は始まりますが、FBマイヤー先生は、第一章で「少年期の人格形成に影響を与えた背景」という題で興味深い霊的な洞察を描いています。今日はその事から入って見て行きましょう。

「ヨセフの第一の経験は、この物語が始める17年前に、ヤコブのお気に入りの妻ラケルに一人の赤ん坊が生まれた。当時ヤコブはアブラハムがそだったハランの町に、おじラバンの羊を飼っていた。ラケルから生まれた子供は、初めから並々ならぬ将来性をにおわせて、彼はほかの子供とは際だった対称を見せていた。テント住まいのジプシーの血筋とは違い、現代の人気アイドルのような存在で彼は育った。

第二は、幼児の頃に彼は、お母さんのラクダに乗せられ、大変なスピードで、ユーフラテス川岸から、パレスチナのギレアデの緑の大平原に移住を余儀なくされた。恐ろしい顔のエサウおじさんが400人のならず者連れておそってくるというので、テント内はパニック状況!皆、青ざめて、恐怖におののいた。翌日の朝早くお父さんが腰の骨を痛めて足を引きずりながら帰ってきたが、その顔は、王侯貴族のような輝きを放ったいるのを体験して驚いた。

第三は、さらに数ヶ月後には、怒り狂ったシケムの偶像崇拝者の人々が、武器を持って自分たちを殺そうと襲ってきて、「お父さんのはしごの夢を見たベテル」まで逃げて、家族一同が、涙ながらの信仰の悔い改めをした霊的な体験などを通して、彼は幼いながら、「この神様はとこしえにわたしの神、この御方がわたしを導くお方」という信仰を持ったに違いない。と語っています。

更に四番目には、愛する3人の方の死に出会って、人生の厳粛な深い悲しみを味わう。一人は年老いた乳母デボラの死。それから自分を愛し、いつもやさしく導いてくれたお母さんのラケルの死。これは彼の生涯に大きな影響を与えたであろう。そして、おじいちゃんのイサクの死。これらの死という厳粛な人間の現実を通して、彼の魂は、霊的な世界に目が開かれて行ったと、マイヤー先生は語ります。

信仰の厚い友人を失い、一つの器から他の器へと移し替えられ、家庭にあっても孤独を経験している。わたしはそのような人にあえて問うてみたい。あなたは神との契約に入ったであろうか。あなたは神を自分の神として認めたであろうか?と。あなたの手を「ヤコブの力強い神」の御手の中に差し入れたであろうか?若い兄弟姉妹。「キリストを選びなさい」。彼を選ぶことによって、命と祝福と、天国を選びなさい。また、一旦彼を選んだのなら、彼にくっついて離れることなく、あなたの存在の細き根を、神との交わりという隠れた泉の中に深く降ろしなさい。

2)4 兄弟たちは父がどの兄弟よりも彼を愛するのを見て、彼を憎み、穏やかに彼に語ることができなかった。5 ある時、ヨセフは夢を見て、それを兄弟たちに話したので、彼らはますます彼を憎んだ。(4,5節)

⇒ 裾の長い晴れ着     偏愛・高ぶり・憎悪・殺意

この言葉は、ヨセフ物語を説くところの鍵の一つです。「裾の長い晴れ着」とは「長着(ケトネト)」と「縞模様(ハパシーム)」という言葉が合わさった言葉で、特別な晴れ着であったそうです。70人訳聖書では「多くの色のついた着物」と訳されています。それは王女タマルなどが着ていた貴族のような人の着る着物(サムエル下13:18)でした。

ヨセフは、お父さんに頼まれて、お兄さんたちの羊を飼っているところに弁当を持って行きました。ヤコブ一族が当時住んでいたヘブロンから、お兄さんたちの働いていたシケムまでは80キロもあったそうです。ヨセフはお父さんの使いとして食料を運んでゆきました。遠くからでも、彼の着ていた晴れやかな縞模様の入った長着は目立って、それが遠くから分かったようです。

お兄さんたちは筒そでの粗末なものを着て、埃にまみれて働いておりましたが、当時17歳のヨセフは、お父さんの偏愛をいいことに、2節に「まだ若く」とありますが、本当に今流行のちゃらちゃらした衣装を着、ある解説ですと化粧のようなものをつけて、どうしようもないドラ息子風の男の子だったようです。頭の良い子供ではあったのですが、お兄さんたちの悪口を言いふらして、お兄さんたちは、彼を4節には「穏やかに話すことができなかった」という状態でした。穏やかにとは、シャロームの状態では話せなかったというのです。 

ヨセフが一人でやって来るのを見て、お兄さんたちは18節には「まだ、近づいてこないうちに、ヨセフを殺してしまおうとたくらんだ」と記されます。あの放蕩息子を見て、遠く離れたところから駆け寄った天のお父様とは対称的な、憎しみで固まった兄弟間のどす黒い現実が表現されています。

殺すのは行き過ぎということで、穴に投げ入れようということでお兄さんたちの話はまとまります。兄たちのその時の行動は、まずヨセフから、「裾の長い晴れ着」を、はぎ取ったと記されます。憎しみの対象は、父親の偏愛でした。その象徴は「裾の長い晴れ着」だったのです。ヨセフを裸にして、穴に投げ入れました。そして、ヨセフの持ってきた弁当を皆で、食べていたのです。

 ところが、その間にミディアン人の商人たちが通りかかって、ヨセフをら引

き上げ、銀二十枚でイシュマエル人に売ったので、彼らはヨセフをエジプトに

連れて行ってしまいました。ふつう奴隷は銀貨30枚でしたが、ヨセフはまだ

少年だったので、銀貨20枚だったのです。

最後の手段「兄弟たちはヨセフの着物を拾い上げ、雄山羊を殺してその血に

着物を浸しました。彼らはそれから、帰って行き、あの「裾の長い晴れ着」を父のもとへ送り届け、『これを見つけましたが、あなたの息子の着物かどうか、お調べになってください』と言わせた。」と報告されています。

偏愛、高ぶり、憎悪、殺意・・・・。ヤコブの家庭には暗い、重い悲劇が隠されることになりました。

3)33 父は、それを調べて言った。「あの子の着物だ。野獣に食われたのだ。

ああ、ヨセフはかみ裂かれてしまったのだ。」34 ヤコブは自分の衣を引き裂

き、粗布を腰にまとい、幾日もその子のために嘆き悲しんだ。35 息子や娘た

ちが皆やって来て、慰めようとしたが、ヤコブは慰められることを拒んだ。

「ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう。」父は

こう言って、ヨセフのために泣いた。(33-35節) 

⇒ 泣き崩れる父ヤコブの「愛」。それは「摂理と臨在!」

ここには息子のヨセフのために泣くヤコブの姿が出てきます。33節と35節に、「父」は、「父」はと二回繰り返されています。「お父さんヤコブ」の姿が強調されています。また、33節には「あの子の着物だ。野獣に食われたのだ。ああ、ヨセフはかみ裂かれてしまったのだ」と「あの子の着物」が強調されます。34節では「ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、

幾日もその子のために嘆き悲しんだ」と「その子」のために苦しむ父の姿が記されます。35節では「息子や娘たちが皆やって来て、慰めようとしたが、ヤコブは慰められることを拒んだ。『ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう。』父はこう言って、ヨセフのために泣いた。」と記されています。子供のために嘆き悲しむ、天のお父様の姿。神様の愛、それがヨセフの生涯では「摂理と臨在」として描かれます.ハレルヤ

【祈祷】 天の御父。今日は愛する兄弟姉妹と共にヨセフ物語を読みました。人生には人間の罪や弱さのために失敗や悲しみが多くあります。しかし、神と共なる人生、あなたの摂理のみ手と臨在の恵みに導かれる生涯は、それらに対して、勝利することができると学びました。あせらず、失望せず、忍耐と、感謝と、希望に満ちて、全能の父であるあなたに信仰のまなざしを高く上げることのできるように導いてください。ヨセフの苦しみや誘惑の時に、人を憎んだり、仕返しをしたりするのでなく、赦しとアガペーの愛をもって、生きる「臨在と摂理の信仰」へとわたしたちを導いてください。御名によって。アーメン

2024年2月11日(日)新宿西教会主日礼拝説教「神の言葉はとこしえに立つ」イザヤ40:1~8 深谷春男牧師

 

【聖書箇所概説】 

 イザヤ書40章から55章はイザヤ書第二部と呼ばれる預言です。この箇所で神は預言者を通してバビロン捕囚から帰還するイスラエルの民を励まし、新しい時代を切り開いてゆきます。主は語られます。バビロンに囚われ、絶望の中にいるイスラエルの民に。「もう神の裁きの時は終わった、今は『慰めの時』となった。神ご自身が来られる、新しい時代が来る!」この預言の言葉が語られます。今日のところはその預言の序曲に当たる場面です。

1-2節 天上での会議 天的な存在の一人が他に呼びかけている。

      「わが民を慰めよ」との神の言葉を聞いている。

3-5節 天上での会議 1-2節と同じ。神の栄光の現れるために荒野に道を備えよと  

       命じている。

6-8節 天的存在(天使)から預言者へ 「呼びかけよ」と命じられ「何と呼びかけてよ 

       いのやら」と戸惑う預言者の姿。

      「人間の世界のはかなさと神の言葉の永遠性!」を語れ。

【メッセージのポイント】

1)、1 あなたがたの神は言われる、

「慰めよ、わが民を慰めよ、

2 ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、

その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、

そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を

主の手から受けた」。(1、2節)

    ⇒ 慰めの時が来た!        

 この有名なイザヤ書の第二部は序曲は「慰めよ(ナホムー)、慰めよ(ナホムー)、わが民をとあなたがたの神は言われる」という言葉から始まります。天上での会話からこの慰めの福音書は語られ始められます。この「慰め」と言う言葉はイザヤ書では10回使用され、福音の本質を示しています。

 「福音―それは聞くことに始まる(ロマ10:17)。すでに生起した神の出来事に耳を傾けることであって、これから何かを引き起こすために力をふりしぼって行動することではない。それはくりかえし語っている神のみ声に耳をすますことから始まる」(左近淑)。

 この時代の状況は「エルサレムのこころに語りかける」ことによく表現されます。「こころに語りかける」とは旧約で8回使用されています。創世記34:3、士師19:3、ホセア2:14では、女性に愛を告白するときの姿として描かれています。ある訳では「心にしみいるまで」と訳され、誠意の限りをつくして語ることを意味しています。実に50年以上の長きにわたって、バビロンに捕囚となった民は、自分の罪に対して深い絶望と、神の沈黙に対して疲れを覚えて、霊的にすさんだ「荒れ野」のような状態であったことが想像されます。繰り返し繰り返し、心にしみるまで、預言者はイスラエルの心に語ります。

イスラエルの民は「苦役の時はいまや満ち」「二倍の刑罰」(口語訳)を受けたと宣言されています。不信仰のゆえにバビロンに捕囚となったイスラエルの民の罪の赦しと神の慰めの時が宣言されています。

2)、3 呼ばわる者の声がする、

「荒野に主の道を備え、

さばくに、われわれの神のために、

大路をまっすぐにせよ。

      4 もろもろの谷は高くせられ、

もろもろの山と丘とは低くせられ、

高低のある地は平らになり、

険しい所は平地となる。(3、4節)

⇒  荒れ野に道を備えよ!   

バビロンからエルサレムへの帰還の道のりは、厳しい砂漠の荒れ野を通らねばなりません。ここは天上での会議であろうと言われますが、この厳しい荒野に道を設け、起伏のある地は平らにされ、谷が埋められ、山と丘は削られて平地とせられて、イスラエルの民の帰還の備えとされると語られました。第二イザヤは、この時に、かつてモーセに導かれてなした出エジプトの偉業を心に描いていたようです。荒野と砂漠に一筋の道が作られます。これは人間の手では不可能でありました。神ご自身が奇跡的な働きで備えてくださるというのです。神の民はその備えられた道を歩むことになります。

 現在、わたしどもは主イエスのなしてくださった救いの道を知っております。バプテスマのヨハネに語られた「道を備えよとの荒れ野の声」は主イエスの御救いの道を語る序曲でもありました。

3)、6 声が聞える、「呼ばわれ」。

わたしは言った、「なんと呼ばわりましょうか」。

「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。

7 主の息がその上に吹けば、

草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。

8 草は枯れ、花はしぼむ。

しかし、われわれの神の言葉は

とこしえに変ることはない」。(6-8節)

    ⇒ とこしえに立つ神の言葉!  

6節からは預言者自身が登場してきます。天上の会議での天使の声が預言者に働きかけてきます。「呼ばわれ!」。神の民にこの救いの新しい時代の夜明けを告げよ、と語りかけられた預言者は、自問自答しています。「何と呼びかけたらいいのやら・・」。これは預言者エレミヤの召命の時と同じようです。また、モーセの召命の時のようです。「何と呼びかけたら、民は聞くのでしょう?わたしのような者が・・・?」

バビロンで人間のみじめな現実を見つめ続けた第二イザヤにとって、肉なるものである人間は草のよう、またすぐにしおれる花のように見えたのでしょう。左近淑は7節までを預言者の告白と理解しています。「草は枯れ、花はしぼむ」という表現は、詩編の「民族の嘆きの歌」に出てくる表象だと説明しています。預言者は語るべき言葉を見つけることができません。人間の存在は、草のよう。皆、枯れ果ててしまう。その栄光や美しさは花のようにしおれてしまう。一体、確かなものは何なのか?力あるエジプトのファラオもバビロンのネブカデネザルも皆、神の裁きの前では枯れた草のようではないか。かつての大国アッスリアもバビロンも、それらの権勢も栄華も皆、しおれる花のようではないか?自分たちも例外ではない。本当に確かな物は何なのか?

しかし、そのとき天からの預言の声が響きます。        

草は枯れ、花はしぼむが

わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ(新共同訳)」(8節)。

ここで預言者に与えられたのは「神の言葉!」への信仰でした。「わたしたちの神の言葉こそ、とこしえに立つ!」。

永遠にわれらを支える「神の言葉」!

揺れ動く時代に生きた預言者達の信仰の確信でした。イザヤ第二部の最後、55章11節も「わが口から出るの言葉も、むなしくはわたしに帰らない」と言う信仰告白で締めくくられています。

2012年10月教団総会の最後の日、聖餐礼拝で井ノ川勝師が説教をされた。

「今回の教団総会のはじめ、教会員の葬儀をしておりました。40年間幼稚園の教諭をしてこられたT姉妹でした。わたしどもの教会の幼稚園は1913年、大正3年の創立です。ライカー宣教師は、伊勢神宮の前に教会を造りました。そして、まず自分の墓を作りました。そこに骨をうずめる告白の表れでした。彼女は幼稚園と教会のために生涯をささげたのです。然し、太平洋戦争が始まりました。彼女は敵国人ということで、ついにアメリカに強制送還されてしまいました。写真一枚持ってゆくことも許されませんでした。ライカー宣教師にとってそれはどんなに辛く、悲しいことだったことでしょう。戦後、老齢のために、彼女はついに日本に帰ることができなかったのです。

 40年間の日本伝道の時でした。戦後、ライカー宣教師から手紙がきました。「あの厳しい戦争をくくり抜けて、伊勢神宮の前にある私どもの教会が建ち続けているのは何という恵みでしょう。」そして彼女の手紙にはこの言葉が記されておりました。「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は変わることがない」。これはペテロの語った言葉です。ローマ帝国の迫害の中にある人々に彼は語りました。今回T姉妹の遺骨を見ながら、私たちも草のように消えてゆく。そのことを実感いたしました。そうです。みな草のように消えてゆくのです。残るものは何なのでしょうか?「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉はとこしえに残る」のです。当時はローマ帝国の迫害の中です。また、これは第二イザヤの預言の言葉です。バビロン捕囚のできごと。国家も神殿も、すべて、主の熱風によって消えてゆきました。倒れず、しおれず、とこしえに立ち続けてゆくものは何なのでしょうか。T姉は、太平洋戦争中、洗礼をうけました。伊勢神宮の前にある小さな群の教会です。男性は戦争へと狩り出され、老人と女性だけが残されました。戦争中です。お伊勢さんのお膝元です、人々の冷たい目が光っています。毎回、特高が礼拝に来て、見張っています。その中で、小さな群は礼拝を守り続けました。福音は聞くだけでなく味わうものです。聖餐において、福音は味わうものです。ローマの地下のカタコンべの棺の上にパンとぶどう酒をおいて彼らは礼拝を捧げました。主はおいしい。主の恵み深さ、おいしさを味わうのです。そこで聖書は実は私たちの洗礼のことを語るのです。洗礼において、私はあのとき死んだ。神の変わることのない御言葉によって生まれ変わった。骨と化した姉妹を見ながら、厳しい戦いをされたライカー宣教師たちのことを考えておりました。敗戦後、ライカー宣教師から手紙がきました。「年老いた私が、再び、なつかしい伊勢に帰ることはないでしょう。わたしたちの地上の生涯は草のように花のように消えてゆくのです。しかし、わたしたちの住む国は日本でも米国でもどちらであろうと、わたしどもは共に礼拝を守り、主の体と血にあずかる時、わたしどもはひとつです。また天国で共に聖餐にあずかりましょう。」

【祈祷】 全能の父なる御神。今日はイザヤ書40章より「神の言葉」のメッセージを受けました。今は「慰めの時」です。人間ははかなく、皆、野の草のような存在です。しかし、神の言葉だけがとこしえに立つのです。われらの霊の目を開き、御言葉に立つ者としてください。御名によって。アーメン!