説教「わたしは全能の神」

2019年11月10日 主日礼拝
聖書箇所:創世記17:1~8
説教:深谷春男牧師

 われは全能の神なり。汝 わが前を歩みて全き者であれ。
                      創世記17:1(文語文)

 知人の佐藤繁牧師は、若い時に神様に祈っている時に、深い霊的経験をされました。深い祈りの中に導かれた時に、天から、神様の大きな声が聞こえたというのです。「我は全能の神なり。汝わが前に歩みて全ったかれ」でした。それが今日の聖句の文語訳です。

【テキストの概説】 創世記11章の後半から始まったアブラハムの物語は、「信仰の父アブラハム」の名前の通り、聖書の指し示す信仰とは何かを教えています。特に、17章において、アブラハム99歳の時の、運命的な神との出会いが語られます。アブラハムはここで、全能の神に出会い、名前を変えるように導かれます。アブラムから、アブラハムに変化します。そして契約の印として割礼を受けることが語られます。この17章は実にクリスチャン生涯の象徴的な内容を持っています。

【メッセージのポイント】
1) 1 アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、
「わたしは全能の神である。
あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」(1節)
⇒ 明確な神との出会いを体験せよ!
神はアブラハムの生涯に現われて大きな人生の転機を与えられました。アブラハムは人生が大きく変わったときに、自分の名前を変えました。それまではアブラムであったがアブラハムとなりました。その転機は神との出会いによることは言うまでもありません。神はアブラムにご自身を現しました。「われは全能の神」という宣言をもってご自身を現されたのでした。この「全能の神」というのは「エル・シャダイ」というヘブル語でその名前の由来については多くの説があります。「全能の神」というのが一般的な解釈です。人間の弱さ、不完全さに対して、完全なる力の神を意味するので「全能の神」というのが最もふさわしいと言われます。
 その全能のお方がアブラハムに語られました。その時アブラハムは99才でした。アブラハムの生涯は神の約束が信じられなくなって86才から13年間は霊的に落ち込んだときと想像されます。16章の終わりと17章のはじめには13年間のブランクがあります。しかしこの13年間の空白をうめるような神の言葉がここに記されます。「汝わが前に歩み」とのメッセージです。これは直訳は「神の顔の前に歩き回る」となります。わたしどもの歩みは神のみ前における歩みです。「臨在こそ救いなり」(詩編42:4)とはバックストンの愛唱聖句ですが、信仰の父アブラハムの生涯こそ、まさに神の御顔、神の臨在の御前に歩んだ人なのです。  
 ここには「全き者であれ(=タミーム)」との神の語りかけが見られます。これはノアの場合(6:9)も同じで、「契約における人間側の義務をあらわす言葉」と言われます。それは神の御前における完全なる信頼と服従の生涯です。神との契約関係の中に生きるのです。主の勝利の中を感謝しながら歩む人生です。ジョン・ウエッスレーが「クリスチャンの完全」ということを語りましたが、主の十字架によって贖われた者が、まったき献身の歩みを、救いの完成を見通していることがわかります。信仰者には神の御前に真実に生きる喜びの生涯があります。十字架にあがなわれた生涯は聖霊の満たしをもって完成に至るのです。
この聖句はわたしにとっても忘れられない聖句です。神学校時代、クリスマス礼拝で、悩みと失意の中にあるときに与えられた記念の聖句でした。北海道の藤井という先生が、説教に当たりました。自分の罪に悩み苦しんでいたときで、涙の中で御言葉を受けたのを思い起こします。
 「我は全能の神なり。汝、わが前に歩みて全たかれ!」これは今、あなたに語られる神ご自身の顕現の聖句です。

2)2 わたしはあなたと契約を結び、大いにあなたの子孫を増すであろう」。
 ⇒ 神との契約を結べ!               (2節)
 アブラハムは自分に現われた神と契約を結びます。聖書の言う信仰とは神との契約のことです。神ご自身が、わたしどもを祝福するために契約を結ぶのです。神はわたしの神となり、わたしは神の民となるのです。
聖書は、旧約聖書を新約聖書に分かれますが、この「約」というのが「契約」のことです。旧約は「古い契約」、新約は「新しい契約」のことです。旧約はモーセを通して奴隷の地エジプトから救われ神の民としての契約を結んだイスラエル民族のこと、新約はイエスキリストを通して、特にその十字架と復活の恵みを通して罪と死の呪いの世界から、永遠の命の世界へと贖い取られ、神の民、教会の一員として歩む契約を結ぶことを意味しています。聖書の信仰は、神との恵みの契約を意味しています。新約の契約の印は「洗礼」です。そして、「非常に、非常に、増してゆくのです!」
 
3)3 アブラムは、ひれ伏した。神はまた彼に言われた、(3節)   
⇒ アブラハムの敬虔に学べ!       
 「ひれ伏した」は直訳、「顔の上に落ちた」です。
これは彼が神を恐れ、深い祈りの姿勢を持って生きたことを証しする一句です。神様を恐れ、深いへりくだりを持って主の御前に出る姿。自分の顔の上に落ちるように、ひれ伏す信仰者の姿がここにあります。  

4)4 「わたしはあなたと契約を結ぶ。
あなたは多くの国民の父となるであろう。
5 あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、
あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。
わたしはあなたを多くの国民の父とするからである。 (4-5節)
 ⇒ 名前をアブラムからアブラハムに変えよ!
 名前を変えることは、その人の本質の変化を伝えています。アブラム(多くの人の父)からアブラハム(すべての国民の父)に彼の名前は変化しました。このようにしてすべての信仰者の父となったのです。旧約聖書ではアブラハム以外でも、よく転機的な体験によって名前が変化しました。サライがサラとなり、ヤコブがイスラエルとなります。新約でも、シモンがペトロになり、サウロがパウロとなっています。名前が変わるほどに深い霊的な体験をお互いに持ちたいものです。
 
5)6 わたしはあなたに多くの子孫を得させ、国々の民をあなたから起そう。また、王たちもあなたから出るであろう。7 わたしはあなた及び後の代々の子孫と契約を立てて、永遠の契約とし、あなたと後の子孫との神となるであろう。8 わたしはあなたと後の子孫とにあなたの宿っているこの地、すなわちカナンの全地を永久の所有として与える。そしてわたしは彼らの神となるであろう」。(6-8節)
⇒ ますます祝福される生涯に歩め!
 ここには、2節と6節に「ますます繁栄させる」(新共同訳)との約束があります。この「ますます」という言葉は印象的です。これは「メオード、メオード」という繰り返しで、「非常に、非常に!」という強調形で、神様の恵みの世界を教えております。
 この「非常に(=メオード)」という言葉が、二つ重ねて使用されている箇所がいくつかあったことを思い出して、調べてみました。
まず、創世記7・19。ここには「水の勢いは非常に非常に強くなった」と表現されます。人間の罪が洪水となり、その力強い様が非常に驚くべきであったと記されています。
 次に、創世記30・43。「非常に非常に破れ出た人」という不思議な
言葉が出てきます。これは祝福された人ヤコブを紹介するのに用いられた言葉です。彼は「破れ出た人(ペレツ)」です。いわば、天国の堰が破れて、彼の地上生涯に神様の祝福の大水が流れ出るような人格でした。それで彼は非常に富む人となりました。
 最後にエゼキエル37・10。「非常に非常に多くの軍隊となった」という言葉。これは枯れた骨が復活するという幻の谷の記述です。彼らは絶望的な状況、いたく枯れた骨でしたが、神の言葉と神の霊によって復活し、非常に大きな神の軍隊となって行進したというのです。
 「非常に非常に」強い罪の支配の中に死んでいたわたしどもは、「非常に非常に」大きな神ご自身の破れの業、受肉、十字架、復活によって救われ、「非常に非常に」豊かな御言葉と御霊によって復活し神の使命に生きるというのです。何たる幸いの生涯よ。ハレルヤ!

 今日われらは、アブラハムのように、赤子のような素直さと信仰をもって主のみ前に立ちましょう。「神との出会い」、「契約」、「敬虔」、「霊的変化」、「非常に非常なる祝福」!の生涯へと招かれているのです!
「われは全能の神なり。汝 わが前を歩みて全たかれよ」。ハレルヤ!

【祈り】 
天の父よ。この朝わたしどもはアブラハムの信仰を学びました。信仰の父なるアブラハムのように、赤子のような素直さと信仰をもって主のみ前に立ちたいと思います。「あなたとの決定的な出会い」、「神の民として歩む契約」、「ひれ伏す思いで御前に出る敬虔」、「聖霊の助けによる霊的変化」、そして「非常に非常なる祝福」の生涯へとわたしどもを導いてください。「われは全能の神なり。汝 わが前を歩みて全たかれよ」。この言葉と共に一週間の歩みをいたします。主イエスの御名によって祈ります。アーメン!

 

説教「わたしを見ておられる神ーベエル・ラハイ・ロイの神ー」

2019年11月3日 主日礼拝
聖書箇所:創世記16:7~16
説教:深谷春男牧師

創世記16:7-16  ― ベエル・ラハイ・ロイの神 ― 深谷 牧師

うちの子供が小さいころに読んであげた絵本はなかなか印象深いものがあります。その中に、アフリカの奥深いジャングルにある不思議な井戸の物語がありました。滾々と湧き出る森の中の泉。その泉の下に集まる動物達。青い煌々とした光が照らすアフリカのジャングルの奥に、静かに湧き出し続ける泉の話はこどもたちのこころの奥深くにしまわれて、これから生きてゆく様々な問題課題に直面したときに、渇きを癒し、力を与えてくれるイメージを与えてくれるのではないでしょうか?きれいな絵本のイラストと共に、波紋の広がる森の中の泉、月の光に照らされて、滾々と地下の深いところから湧き出す、透明な清水のイメージは、わたしどもの心の奥深くから湧き出る、聖霊の恵みのイメージに良く似ていると思います。
今日は「宗教改革記念日」です。宗教改革記念の基本的な信仰は、「聖書のみ」「信仰のみ」「恩寵のみ」です。今日は、「聖書信仰」を共に学びます。

【テキストの解説】
アブラハムとサラとの間には子供が与えられませんでした。それを嘆いたサラは、ついに窮余の策として、当時の慣習に従って、自分の仕え女だったエジプト女のハガルを通して子供を得ようと考えました。主人のアブラハムのところにハガルを与えました。やがて、ハガルは妊娠しました。すると、女性の母性本能が働いたのか、ハガルは子供の産めないサラを見下げるようになりました。サラはこのことで大きな痛手を受け、夫に訴えました。心に傷を受けたサラは自分の仕え女ハガルにつらく当たりました。ハガルはそのいじめに耐えられなくなりついにサラのもとから逃げてゆきます。エジプトの国境近くのシュルの荒野にまで逃げてゆきました。荒野の泉のほとりで彼女は主の使いに出会います。み使いはハガルに「どこに行くのか?」と問いかけ、「女主人のもとに帰りなさい」と諭します。その時に子供が生まれること、子供の名前は「イシュマエル」としなさいと伝えます。彼女はそこの井戸の名前を「ベエル・ラハイ・ロイ」と名づけたと記されます。イシュマエルが生まれたときはアブラハムはすでに86歳でした。

【メッセージのポイント】
1) 11 主の使はまた彼女に言った、
「あなたは、みごもっています。
あなたは男の子を産むでしょう。
名をイシマエルと名づけなさい。
主があなたの苦しみを聞かれたのです。    (11節)
⇒ イシュマエルの神     神は聞きたまう!
クラウス・ベスターマンはこの物語は、「イシュマエルの名前、神は聞きたもうという主題に向かっている」と語っています。このエジプト女ハガルの物語は、神がわたしどもの悲しみ、苦しみを聞いていてくださるのだということを語っています。社会の誰も気に留めないような奴隷女のハガルを心に留められるというのです。今日の聖書の言葉は、心傷ついた者への慰めの言葉です。「主があなたの悩みをお聞きになられたから」と。イシュマエルという言葉は、「神は聞かれる」という意味であるといわれます。「エル」は神を意味し、「シャーマー」は聞くという意味です。神はわたしどもの祈りを聞いてくださる。悩みを聞いてくださるのです。出エジプト記では「追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫びの声を聞いた」(3:7)とあります。神はいつも我らの祈りを聞かれるがゆえに、祈れないような苦しみの中にあっても、主はわたしどもの声にならない祈りの声を聞いてくださるのです。

2)13 そこで、ハガルは自分に語られた主の名を呼んで、
「あなたはエル・ロイです」と言った。
彼女が「ここでも、わたしを見ていられるかたのうしろを拝めたのか」と言ったことによる。(13節)
⇒ エル・ロイの神   神は見たもう!
13節では「神は見たもうお方(You-Are-the-God-Who-Sees-me)」であると語ります。すなわち、ハガルは神様の臨在と愛に触れて、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と叫んだというのです。「エル」は神を意味し、「ロイ」は「ラーアー」(見る)に「わたしを」という接尾詞がついて、「わたしを見る神」の意味であるといいます。神は実に「見たもうお方」なのです。主はハガルの悲しみをじっと見ておられたお方なのです。奴隷女としての生活も、アブラハムの子供をはらんだことも、その喜びも、その戸惑いも、有頂天になることも、サラとのいさかいも、涙ながらに逃げてきたことも、神はすべて見ておられた!というのです。我らの神は「エル・ロイの神」(新共同訳では「わたしを顧みられる神」という解釈がついています)なのです。
あなたの生涯の中で、つぶやかれたことはないでしょうか?
「誰もわたしに関心を持ってくれない・・・」、
「誰も僕を見ていてくれない・・・・」
あるいは、「ぼくはもう、見捨てられた!」
「わたしの運命は、これで終わりだ!」と言うような体験はないでしょうか?
先日、ホーリネス教団で作った、中高生の向きのデボーションガイドが届きました。そこにこのような話が載っていました。
「神様の愛はあなたの考えているよりも大きいのです!」という内容の解説です。もしも、あなたが金魚でご主人の愛を信じていたのに、ご主人が部屋を出て行ってしまったというのです。このご主人は愛している金魚のえさを買いに出かけたのです。ところが金魚はその、愛の行為が理解できなかったために、自分の目の前から消えてしまった主人は、自分を見捨てたと思ったというのです。御主人は金魚を見捨てたのではありません。部屋を出て金魚のえさを買いに、愛の労苦に出かけられたのです。でも、金魚は、部屋に主人の姿がないだけで、自分は見捨てられたと考えてしまったと言うのです。神様は、金魚のことを思って走って帰ってくるご主人のように、わたしどもを驚くべき愛をもって見守ってくださるお方なのです。身代わりに十字架にかかってくださるほどわたしどもを愛してくださるお方なのです。

神様の愛は深いのです。大きいのです。時には、わたしたちの足りない頭脳では、神様はわたしを見守って、愛していることが理解できないこともあるのです。でも、今日の聖書箇所は語ります。
主は、聞きたもう方であると。
主は、見ておられるお方であると。ハレルヤ!

3)14 それでその井戸は「ベエル・ラハイ・ロイ」と呼ばれた。
これはカデシとベレデの間にある。(14節)
⇒ ベエル・ラハイ・ロイの神  神は生きたもう!
三番目にこの箇所で「主は生きたもう神」であると語ります。ハガルはそこの井戸に命名し「ベエル・ラハイ・ロイ」と名づけました。「こういうわけでそこは・・・と呼ばれた」というような原因譚と呼ばれるような箇所が聖書には何箇所かあります。ここもその類の一つでしょうが、大変印象深いものです。「ベエル」は井戸であり、「ラハイ」は「生けるお方」、そしてロイ「わたしを見ているお方」と叫んだといわれます。「生けるお方の(井戸)、わたしを見給うお方の井戸」が、ベエル・ラハイ・ロイの意味です。主はわたしどもを心から愛し、祈りを聞き、見守り続けてくださる方ですが、ここでは「主は生きたもう!」ということが最後に強調されています。神様は生けるお方です。御人格をもたれ、人間と霊的な交流を喜ばれるお方なのです。
預言者エリヤもその預言活動のはじめに「わたしがその御前に仕える主は
生きておられる!」という宣言から始まります(列王記上17:1)。主イエスも「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」(ルカ20:38)と語られました。    神は生きておられ、御業をなされるお方なのです。わたしどもの信仰はこの生きたもうお方を信じる信仰なのです。

2012年2月19日(日)、新春特別礼拝で村上義治先生をお迎えし、礼拝で、午後の懇談会で恵まれ、豊かな祝福をいただいた日の夕方、夕拝に出席するために牧師館の3階から2階に降りてくる途中、慣れない靴でヒールが引っかかり踊り場に転落して動けなくなりました。「誰か・・・」と呼ぶ声がしたので、急いで階段を登ってゆくと、美歌子牧師が2階と3階の間の踊り場でばったり倒れておりました。救急車に来てもらい、「三郷健和病院」に運ばれました。CTやMRIの検査をした結果医師から告げられた判断は「頚髄中心性損傷」。頚髄が損傷している関係で、色々な影響が出る可能性があり、かなり深刻である。退院後も後遺症で家事に影響が出る可能性がある。一ヶ月の入院を考えて欲しいとのことでした。動転したわたしは主に祈り、多くの方々にも祈っていただきました。二日ぐらいは腕の動かせなかったのですが、奇跡的に癒され、無事退院し、今は後遺症もほとんどありません。今も新宿の街を自転車で走り回っています。少し、心配ではありますが・・・・。

エジプトの奴隷女ハガルをさえ、心にかけてくださる主。わたしどもが人生の荒野で行き悩み、途方にくれるその時に、荒野のオアシスの如くにそばにいて助け支えてくだるさる主は愛のお方なのです。我らの祈りを「聞き給う神」は、同時に「見たもう神」であり、「生ける神」なのであります。湧いて流れる命の水の泉でもあり給うお方。今日も霊の目を天に向けて、現実の困難から逃げる事なく、恐れることなく、一足々々、主をたたえつつ、勝利の歩みをなしつづけたいと思います。ハレルヤ

【祈祷】 天の御父!宗教改革記念礼拝のひと時を感謝します。今日は、アブラハムの物語のある意味での中心、神の慈愛のまなざしが、女奴隷ハガルにも注がれていることを見ました。あなたは、わたしどもの祈りを「聞き給う神」であり、また「見給う神」であり、「生き給う神」であることを学びました。この活ける神への信仰を持って、この一週間も、あなたと共に、あなたの愛の中に歩む生涯でありますように!主イエスキリストの御名によって。アーメン


	

説教「一万タラントの借金」

2019年10月27日 主日礼拝
聖書箇所:マタイ8:20~35
説教:深谷春男牧師

今日は永眠者記念礼拝です。この日、新宿西教会ではすでに天に召された先輩方を覚え、写真を会堂にかざって、その記念とし、礼拝の時を持ちます。わたしは昨年の4月に赴任となったものですから、あまり、多くの方を存じ上げません。しかし、生前の方々を知っておりましょうとも知らなかったとしても、聖書の信仰に立って歩まれた方なら、罪の赦しと永遠の命への信仰を持ち、天国を見上げながら、召されていったのだと思います。ここに飾られた写真の方々、そして、今朝、ここにはそれぞれの愛する家族や友人の方々も沢山集まっておられます。わたしどもはやがて主の御前に立つのです。先輩たちと共に、死を超えた永遠の世界を見つめてゆきましょう!
特に、今年になって1月5日、天に召された田原勝太郎兄、笑顔のままで天に旅立って行かれました。また、2月3日に、ご自宅で急に召された西田正兄。
伝道劇に献身の思いで取り組んだ西田兄の最後の演劇は「続・氷点」でした。その主題は、「罪の赦し」とういう主題でした。

【今日の聖書箇所の概説】
今日の聖書箇所は、しばらく前に、毎朝6:00~7:00に行っている、早天祈祷会で読んだ聖書箇所でした。4人で読んだのですが、とても深い感銘を頂きまして、ああ、今度の永眠者記念礼拝は、この聖書の箇所を話そう!と強く導きを得た聖書箇所でありました。
マタイによる福音書は、新約聖書の初めにあり、大変有名な個所ですね。明治時代に最初に翻訳された時は、カタカナの表記が一般的ではなかったので、「馬太伝」と表記されていました。昔、初めて教会に来て、聖書を読んだある方は、「馬、太る伝」とは何だろう?そして、中身を開いて読むと、「イエス・キリストは油屋の孫で、足袋屋の息子・・・の系図」と読んでびっくりしたと言うのです。この18章というところは「教会について教えている箇所」と説明されています。1万タラントの借金をした人の話が出ています。これは昔の遠くパレスチナの金額で、読んでいてもよくわからないのですが、解説を読みますと、このように書いてあります。現在の日本の一日の給料を大体一万円と考えますと、約6000億円に相当する金額だと言うのです。その借金を赦していただいた人が、100万円借りた人に出会って、彼の首を絞めて、借金を返せと言って牢獄にいれたという話でした。

【メッセージのポイント】
1)21 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。22 イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。(21,22節)
⇒ 七を七十倍するまでの赦し!
この話はまず、「そのとき」という言葉から始まります。主イエス様の弟子のペテロが、イエス様に質問しました。「そのとき」というのは、親しい友が罪を犯した時には、二人だけの所で戒めなさい。もしも、どうしても悔い改めないなら、教会に話して彼を異邦人のように扱いなさい、という厳しい教えの後でした。ペテロが主のみもとに来て言いました。「主よ。兄弟がわたしに対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」この質問は当時のラビたちの考えとしては、「三度までは赦してやりなさい」というのが多かったそうです。七度までというのは、「三度まで赦し、さらに三度まで赦し、更にもう一度まで赦す」という破格の赦しの言葉の意味を含んでいたのであろうと思われ、ペテロは、誇らしげに語ったのであろうと言われます。しかし、主イエスは答えられました。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでにしなさい。」
御存じのように、聖書の7という数字は完全数です。7×70=490=無限にという意味になります。7[徹底的に]×7[徹底的に]×10[徹底的に]=永遠に、無限に赦すのです、と主イエスは語られました。
たしかに、簡単に赦してはならない問題もあります。法的な正義に訴え出て、裁判を求めねばならないこともあります。人を間に立てて、ことの真実をはっきりさせなければならないこともあります。しかし、主イエスの大原則は「最終的な審判を神様にゆだねて、怒りや憎しみの奴隷になってはいけない。ストレスに自分がさらされて地獄を味わってはならない。審判を神様に任せて、さわやかな人生を生きよ」という意味でした。
わたしたちを傷つける相手、わたしたちを中傷する相手、わたしたちを憎む相手に対して7回を70倍するまで赦し続けることができますでしょうか?それを実行できる人はいません。わたしたち罪深い者たちにはできません。わたしたち人間は、だれもが、そういう弱さや破れを持っています。どうしたら、わたしたちは審判を神様にゆだねて、赦せるのでしょうか? どうしたら、敵のため祈り、敵を愛することができるのか? これがここの主題です。

2)23 それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。24 決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。25 しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。26 そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。27 僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。(23~27節)
⇒ 1万タラントの借金の赦し。
主イエスは、天国のたとえを語り始めました。王はそのしもべたちと清算をするようなものです。決算が始まると、まず一万タラントの負債の者が、王のところに連れて来られました。彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じました。それで、この僕は、主人の前にひれ伏して、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。27 僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。『どう猶予ください。そうすれば全部お支払いいたします。』と言った。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやりました。何という気前の良い王様なのでしょう。
さて、これはたとえです。神様はこの王様のようです。福音とは、その内容を説明されるとビックリ仰天。「1万タラント」は、現代日本の感覚で言うと、「6000億円」になるそうです。彼は返済することができなかったので、その主人は、自分も妻子も持ち物全部も売って、返済するように命じました。「なんと!罪の負債額は1万タラント(無限)!」これは、あり得ない金額です。1万タラントは、6000億円です。これは1日1万円で計算すると、17万年分の給料です。古代の国々の国家予算相当です。天文学的な数字です。こんな借金ができる人はいません。こんなお金を貸す人もいません。
イエス様は何を伝えたいのでしょうか? それは、「わたしたちの罪の負債額は6000億円!1万タラント。永遠に返済不可能。「自分も妻子も持ち物全部を売っても返済不能」。わたしたちは神様の前に、どれくらい罪深いのか? 神様の清い目から見れば、それは 6000億円相当であるというのです。
「義人はいない。一人もいない。悟りのある者はいない。一人もいない。すべての者は迷い出てことごとく無益な者になった。善を行う者はいない。一人もいない」(ローマ3章10~12節)「すべての者、罪を犯したために、神の栄光を受けられなくなっている」(ローマ3章23節)。わたしたち人間は鈍くて、自分の罪がどれほど深いかわからないのです。異常に緊張した医者の表情を見て、自分の病気が簡単ではないことをようやく知り、主イエス様の十字架の前に立ち、ようやく、自分の犯してきた罪の重さを知ることになるのです。

3)28 その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。29 そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。30 しかし承知せ
ずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。31 その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。32 そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。33 わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。34 そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。35 あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。
⇒ 百デナリの借金の赦し
ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリ(約100万円)の借りのある者に出会ったというのです。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れてしまいました。彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話しました。そこで、主人は彼を呼びつけて言いました。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。わたしがおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡しました。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」
わたしたちが、神様の前に、自分の罪の深さや恐ろしさを知る場所は、ただ一点、主イエス様の十字架です。清く、傷のない神様の独り子があの十字架の上で、あなたの罪を、わたしの罪を身代わりに背負われたその瞬間に、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」と絶叫された。そして、神様の正義の審判を受けて、心臓を破裂させて死なれた。このできごとを見る時だけ、わたしたちは自分の本当の罪の深さを知るのです。1万タラントの負債の大きさを知るのです。

【祈り】 恵みの主よ。今日は永眠者記念礼拝を感謝します。信仰の先輩たちのお写真を前に、あなたを礼拝する時を持ちました。わたしどもの罪は1万タラントの借金のようなものです。あなたの御前に立つ時、自分の罪と破れの大きさに戸惑うばかりです。十字架によってわれらの罪を贖い、その赦しの恵みのゆえにわたしどもを整えて、憐み深い者へと整え、他者を赦すものとしてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン








説教「神の顔を見る」

2019年10月13日 主日礼拝
聖書箇所:創世記32:22~32
説教:深谷春男牧師

 

神様はヤコブの生涯に二度、決定的な出会いをなさいました。それは、生涯忘れることの出来ない体験として残りました。一回目は「べテルの体験」です。そして二度目は「ぺニエルの体験」です。一度目の体験は、前回見ましたように、神との出会いの体験であり、それは「石の枕と逆さはしごの物語」というべき、絶望のただ中で神に出会い、新生の体験、天の門が開け、霊の目が開かれ、十字架の贖いをさとる体験でありました。そして、二度目の出会いは「ぺニエルでの体験」です。それは「聖化の体験」であり、今回の説教題「もものつがいと神の顔」に代表される、自我の砕きであり、神ご自身の御顔を見るような体験です。「太陽が彼の上に昇った!」という体験です。 

【旧約聖書の解説】

創世記32章は、イスラエル民族にとって忘れる事の出来ない章です。なぜなら、先祖ヤコブがイスラエルという名前をつけられた、いわばイスラエル民族の原点のような箇所だからです。前回学んだ創世記28章が「新生の体験」とするなら、32章は「聖化の体験」と見ることができるでしょう。ここには、神と出会い、神と相撲をとり、砕かれ、大きな転機を経験したヤコブの姿が語られています。今日は、「神と相撲を取った男の物語」、「神の顔を見るほどの深い霊的体験」を共に学びたいと思います。 

【メッセ-ジのポイント】

1)23 すなわち彼らを導いて川を渡らせ、また彼の持ち物を渡らせた。24 ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。 (23、24節)

独りあとに残ったヤコブ!

ヤコブは自分の故郷を離れて遠くラバン叔父さんの家で働いて、20年を過ごしました。そこで二人の姉妹(レアとラケル)を奥さんに頂き、11人の子供を与えられ、叔父さんとの取り引きのなかで彼は仕事に成功し、億万長者となって生まれ故郷のベエルシバへ帰ってきたのでした。その途上でヤコブは立往生してしまいました。なぜなら、お兄さんのエサウが、ならず者400人も引きつれてヤコブを襲ってくるというのです。ヤコブは多くの家畜と、一緒にいた約50名ぐらいの家族とその一行を連れてヤボク川にさしかかりました。ヤコブは皆をわたらせた後、ひとり川のこちら側に残りました。20年前の相続権と祝福をめぐるあの憎しみが、今も消える事なく、400人の暴力団の襲撃となって、自分を襲ってくるのです。それも、自分のみか、愛する家族たちをも害するかもしれない危険にさらされました。前にも行けない、後にも引けない。彼は立ち往生し、ひとり、裸になり神の前に立たざるを得ないところまで追い詰められてしまったのです。

20年前も、お兄さんに殺されそうになって、ヤコブはハランの町まで逃げて行き、途中、ベテルで野宿をして「逆さはしごの夢」を見ました。あの時も、四方八方ふさがりで、天を仰ぎ、神ご自身の本質、人間の罪を共に負ってくださる神、「地獄の一丁目まで出張する神」の啓示をいただいたのでした。この「ぺニエルの体験」でも、彼は人生の転機を迎えるのですが、それは、「ヤコブは独り後に残った。そのとき」に起きた出来事でした。神の前に一人立つとき、絶対者の前に裸になって自分の罪と自分の恥に直面するとき、神の深い恵みの業ははじまるのです。

2)24 ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が夜明けまで彼と組打ちした。(24節)

   ⇒ 神と相撲を取るヤコブ!

  悶々とした思いの中で彼は、川へりを歩いていました。兄や父をだました過去の罪の数々、また、これから起ころうとしている憎悪と争いへの不安。彼は休む事も出来なかったのであろうと想像できます。途方にくれてとぼとぼ川辺を歩んでいました。ところがその時、彼の目の前にひとりの人があらわれ、彼に相撲をいどんできたのです。彼はその人と一晩中、闘い続けることになりました。これは実に不思議な物語です。ある学者は「この人」は、ヤボク川の川の精、カッパのような化け物であると言います。実際、この川の名ヤボクは「格闘」を表す語で、この川の渡しには格闘をいどむ、川の精の伝説があったというのです。日本でも大井川のような川には、渡る途中で足を滑らして溺れ死ぬ人があり、それが河童に足を引っ張られたからだ、というような川の化け物の話があるものです。この時、ヤコブと格闘したのは一体誰だったのでしょうか?河童のような化け物でしょうか?ヤコブは渡るに渡れないヤボク川で、まさに、深い流れに足が立たず、自分の暗い、深い、罪の流れに押し流され、化け物のような過去の罪の現実と格闘したのではないかと思うのです。彼は「自分の過去の罪という化け物」と格闘していたのです。

3)25 ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。(25節)

砕かれた人ヤコブ!

  ヤコブは、実にすばらしい人でした。彼はずるいところもありましたが、どんな困難でも乗り越える不屈の精神力を持っていました。叔父さんのラバンと知恵比べをして、14年間もただ働きをさせられましたが、最終的にはこのおじさんに勝ちました。彼は20年でこつこつと働いて、ゼロから山のような財産を作り出す実業家だったのです。彼は自分に自信を持っていました。彼は化け物のような過去の罪、今迫っている危険、将来への不安と格闘しつつ、実は、なんと、「天使(!)」と相撲を取っていたのでした。これはふしぎな「祈り」の姿だと思います。彼は徹夜で祈っておりました。彼は男三人でしか持ち上げることのできないほどの大きな石の蓋を一人で持ち上げるような力持ちでもありました。非常に強い筋肉と頑健な身体を持っていました。しかし、天使が彼の「もものつがい」に触れると、彼の腰の筋は外されてしまったのです。彼の体は腰の骨を痛めて歩くことさえできなくなってしまったのでした。これはよく自我の砕きにたとえられます。彼はここで自分の自信を完全に砕かれ、ただ神にのみより頼む信仰の人となったのです。神の用いたもう人は「砕けた魂、悔いた心をもつ人」だからです。

この「自我の砕き」のことを、「聖化」と呼びます。人間のうちに深く潜む自己中心性。主の御前に出て、この自我の砕きを経験することを「潔め」と呼ぶのです。新生の後に起こる、深い霊的体験、第二の転機です。

4)26 その人は言った、「夜が明けるからわたしを去らせてください」。ヤコブは答えた、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。27 その人は彼に言った、「あなたの名はなんと言いますか」。彼は答えた、「ヤコブです」。28 その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。(26~28節)

本当の勝利を得たヤコブ!

ヤコブは、もものつがいをはずされても、この御使いと格闘し、その強い腕力で、がっちりと御使いをつかんで離しません。26節でこの人が「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言いましたが、ヤコブは答えました。「いいえ、祝福して下さるまでは去らせません。」自分の力を越えたお方に「祝福してください。祝福してくださらねば放しません」と食い下がりました。ついに、み使いはヤコブの熱意に負けて、祝福しました。聖書は、ヤコブの本当の祝福と勝利はここから始まったことを告げています。彼は「ヤコブ(人をおしのける者)」から「イスラエル(神の支配、神の皇太子)」へと名前を変えるように言われました。彼の肉体は傷を受けました。しかし、魂は新しい業が始まり、主と共に歩む「砕かれた魂の人生」が始まったのでした。

5)29 ヤコブは尋ねて言った、「どうかわたしにあなたの名を知らせてください」。するとその人は、「なぜあなたはわたしの名をきくのですか」と言ったが、その所で彼を祝福した。30 そこでヤコブはその所の名をペニエルと名づけて言った、「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」。31 こうして彼がペニエルを過ぎる時、日は彼の上にのぼったが、彼はそのもものゆえに歩くのが不自由になっていた。(30、31節)

⇒ 神の顔を見たヤコブ!

名前をイスラエルと変える経験をしたヤコブは「どうか、あなたのお名前を教えてください」とその人に尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福しました。名前を明かしませんでした。 実はこの物語の主題は、「顔」にあります。この話は「ぺニエル」(ヘブライ語では「ペン(顔)+エル(神)」)という地名と深い結びつくのです。ここには「顔」という語が実に10回も用いられています(18,21,21,21,

21,22,31,31,31,32節)。ユダヤ人が読むとここは「顔」「顔」「顔」…・という箇所になるのです。神の顔を見た者は死ぬとさえ言われました。それは聖い神ご自身に、罪あるわたしどもが触れたら、神の怒りの前に滅んでしまうという意味です。しかし、ここで「彼の上に太陽が昇った」と記されます。義の太陽なるお方が彼の心に昇ったのです。彼は義の太陽なるお方を宿しつつ人生を歩むことになるのです。神の温顔の栄光の仰ぎつつ、歌いつつ歩む者と変えられたのでした。

【祈り】

主よ、今日は「ぺニエルの体験」を学ばせてくださいました。感謝します。ヤコブは「行き詰まり」に直面し、「神と相撲をとり」、「自我の砕き」を経験し、「神の祝福」を獲得し、「神の顔を見る」霊的な取り扱いの恩寵体験をしました。自我のツッパリをあなたに明け渡して、本当の勝利を得ました。義の太陽が心に照り、神の民の歴史が始まりました。わたしどもの生涯にも、ヤコブの体験のような深い臨在の体験をしつつ、揺るがない勝利の日々を歩み行かせてください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン

説教「上を向いて歩こう」

2019年9月29日 ファミリーサンデー礼拝
聖書箇所:創世記28:16~22
説教:深谷春男牧師

「上を向いて歩こう!」。今回の説教題は、ファミリーサンディということで、いつもと違った感じで付けさせていただきました。坂本九ちゃんのこの歌は1962年の大ヒット曲でしたね。ネットで調べてみたら、出てくるわ、出てくるは・・・・。いやになるほど、いろんな情報が書き込まれておりました。この曲がつくられたのは1961年7月。坂本九ちゃんのデビューの時に、ぶっつけ本番で、2時間前に手渡されて、歌った歌だとか。作詞が永六輔さん、作曲が中村八大さん、歌ったのが坂本九さん。「6」「8」「9」と数字が続いていますね。1961年はわたしは11歳。小学校5年生か6年生の頃ですね。「うへをむ~ひて、あ~るこほ~ほ~。」なんて言う歌いまわしでしたね。何かで、夜遅く、ひとりで夜道を歩く時、「涙がこぼれないように・・思い出す、春の日。一人ぼっちの夜~」。懐かしい小学生のころから、中学生の頃など思い起こしておりました。この歌は、とても豊かな内容を持っていますね。 

【テキストの解説】

今日、お読みしました聖書の箇所、創世記28章は、イスラエル民族の先祖となったヤコブという人が、真の神様に出会うと言う場面です。わたしはこのあたりの「ヤコブ物語」が大好きな個所で、18歳の時に初めて聖書を読み始めた時から、「天のはしごの夢」とか、「天使との相撲」とかが心に残っております。

ヤコブの生涯は、まさに民族の象徴でありましたね。彼は人を『おしのける者』(ヤコブにはこの意味がある)と言う名前でした。彼は人間の知恵の限りを尽くして、お兄さんのエサウから財産の相続権を奪いました。レンズ豆一杯で現在で言えば、数億、数10億の巨額な財産の相続権を手に入れました。「レンズ豆」はお汁粉のようなもの、あるいはコーヒー豆のような飲み物だったと想像されます。だます方もだます方だが、だまされる方もだまされる方です。へブライ書では「エサウのように不品行な俗悪な者になるな」(12:16)と言われています。そして年老いた父をだまして『祝福』を奪い、最後には兄の激怒を買い、殺されそうになってハランの町にまで逃げるはめになりました。この28章は聖書の傑作で、多くの聖書の中心主題が描かれるので、いくつかポイントを絞って考えてみたいと思います。 

【メッセージのポイント】

1)10 さてヤコブはベエルシバを立って、ハランへ向かったが、11 一つの所に着いた時、日が暮れたので、そこに一夜を過ごし、その所の石を取ってまくらとし、そこに伏して寝た。(10,11節)

⇒石の枕    人生の苦難

こには「石の枕」というメッセージがあります。ある地点に着いた時、もう旅の空もとっぷりとくれ、彼は野宿することとなりました。硬い、冷たい石を枕にして寝ました。「石の枕」とは絶望の一つの表現ですね。

改めて考えてみますと、イスラエル民族の歴史は苦難の歴史です。彼らはしばしば石を枕にするような苦難を受けました。エジプトでの奴隷生活、アッスリアの支配、バビロンへの捕囚、ペルシャ、ギリシャの支配下での苦しい生活、そしてロ-マの支配。彼らは先祖ヤコブの石を枕にする姿と、自分の苦しみに満ちた生涯を重ねあわせて見ていました。

皆さんは石を枕にしたことがありますでしょうか?私は自分の生涯を考えると、実に多くの石の枕の時があったことかと思います。小学生の3,4年の頃にいじめに会いました。中学生のころや高校生のころ自分の惨めさ、罪深さに失望していました。高校を卒業してからは、浪人に継ぐ浪人でした。4浪までやりました。石の枕のような青春でした。

「上を向いて歩こう」の曲が、朝鮮戦争で孤児となった少女を題材に描いた映画のバックミュージックに用いられたという内容が記されていました。それを読んだ時に、ああ、いつの時代にも、悲しくて、淋しくて、「涙がこぼれないように」上を向いて歩いていた人々がいた、と思いました。

2) 時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。(12節 )

さかさはしごの夢

彼の見た夢は「はしご=スラム=階段」の夢でした。天から地へとはしごが伸びており、神の使いが上りおりしていました。普通のはしごは地から天に向けてかけられるものです。しかし『神のはしご』は天から地へと向かうのです。ある旧約学者の説によるとこれは「さかさはしご」であると言います。絶望の石を枕とするわれらの現実に、主は天から『さかさはしご』をかけられた。天の高みから、われらの地の低さまで降られる神の姿がここには描かれます。それは『地獄の一丁目までも出張する神』(北森嘉蔵)の姿なのです。

これは新約聖書の主イエスキリストの十字架を指し示すできごとです。ヨハネ1章の終わりで、主イエスのもとにやってきたナタナエルに主イエスは、「人の子の上に、み使いが上り下りするのを見るであろう」と言われました。主イエスこそ天と地をつなぐ神からのはしごだったのです。神様の豊かな祝福は、主イエスの十字架の贖いとなり、復活となって、わたしどもの生涯を新たに変える神のはしごとなったのでした。

3)15 わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。

⇒ わたしはあなたと共にいる!     神の臨在

この「ヤコブ物語」の中心にあるのはこの15節の「わたしはあなたと共にいる」と言うメッセージだと思います。「わたしはあなたと共にいてあなたを守る。わたしは決してあなたを捨てない!」と、神様はヤコブに語られました。この「神の臨在」と言う主題は聖書のあらゆるところに出てきます。アブラハムの物語、イサクの物語、ヤコブの物語、ヨセフの物語、モーセの物語すべてに出てきます。イザヤの預言にも「インマヌエル物語」が出てきて、新約の主イエス様の記事にも出てきます。主イエスの名前がインマヌエルでもあります。

今年の9月5日に、東京神学大学の学長、大住雄一先生が召されました。主にある交わりの中で、一番強烈だったのは、旧約学の大住先生が、詩篇23篇の主題が、「主の臨在である」との教えでした。この詩篇の中心が、「げにあなたがわたしと共におられる(キー アッター イマディ)」という言葉を中心に、構成されているというメッセージでした。わたしたちの人生は、過去も、未来も、現在も、主の深い臨在と愛に支えられていると言う信仰です。

4)16 ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。17 そして彼は恐れて言った、「これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」。

⇒ ここは天の門だ。神の家だ!

ヤコブは叫びました「ここはなんと言う驚くべきところだろう。ここは神の家だ。天の門だ!」と。ヤコブはイスラエル民族の先祖となった人です。「ここは天国の入り口だ!」(リビングバイブル訳)と叫んだのです。ヤコブは「天国の入り口」を発見したのです。

わたしは礼拝堂のことを考えると、このヤコブの出来事、創世記28章の物語をいつも思い起こします。ヤコブはこの時に40歳になっていました。おじいちゃんのアブラハム、お父さんのイサクと続いた信仰の家系です。彼は小さいときから、礼拝に出席していたのに違いないのです。でも、彼はようやく、40歳にして、神様の世界に目覚め、そして叫んだのです。「ここは天国の門だ、天国の入り口だ!」と。

わたしは2005年の赤羽教会の献堂式の時にこの所から、説教しました。礼拝堂とはまさに「ここは何という恐るべきところだろう。ここは神の家、天国の入り口だ!」というヤコブの驚きの体験を、追体験する所です。驚きの体験、臨在の体験、深い恩寵の体験をする所ですと語りました。上をむいて歩くとは、礼拝で、天のお父様の御顔を見上げつつ歩むことではないでしょうか。

5)18 ヤコブは朝はやく起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、その頂に油を注いで、19 その所の名をベテルと名づけた。その町の名は初めはルズといった。20 ヤコブは誓いを立てて言った、「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、21 安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。22 またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」。     (18~22節)

 ⇒ 十分の一献金の誓約

20節でヤコブは、眠りからさめて、枕の石を取ってその頂きに油を注ぎ、そこで神様に誓いを立てて、神様と契約を結びました。

「神様、わたしは今、無一文です。兄に殺されそうになって何一つ持たずに逃げているところです。これから行く母の兄、ラバンおじさんのもとに行きます。わたしの過去は真っ暗!罪だらけです。わたしの将来も五里霧中、霧に閉ざされて何も見えません。しかし、あなたが共におられ、わたしの行くこの波乱に満ちた人生で、わたしを守ってくださり、食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主よ、わたしはあなたをわたしの神といたしましょう。またわたしが柱に立てたこの石を神の家、べテルとして礼拝所を建てましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」。

森山諭先生は、これは自己中心の契約だ!と書いています。でも、わたしは大変、賢い、聖書的な内容を含んでいると思います。「天上の神様がわたしを守ってくださるなら、地上の生活も関心を持ってくださることでしょう。わたしは自分の具体的な生活を、あなたへの信仰で満たします。わたしの歩みの祝福となってください!」これが、石を枕にした、ぎりぎりのヤコブの祈りだったのでしょう。上を見上げる生涯は、地上でも豊かな実を結ぶのです。

【祈り】 主よ、今日は「上を向いて歩こう!」ということを学びました。わたしたちは、この世で生きておりますので、様々な問題で一杯になり、下を向いてしまいます。自分自身の醜さや、自分の弱さや人間の限界。石を枕にするところまで落ちてしまうこともあります。でも、そのような時に、天を見上げて歩むことが出来ますように。あなたの御顔を見ることが出来ますように!特にあなたがわたしたちを愛し導いておられる「救いのはしご」、「主イエスの十字架の恵み」を知ることが出来ますように。また、あなたの臨在を知り、礼拝であなたを拝し、あなたの言葉を聞くことが出来ますように。あなたの顔を見、臨在に触れ、あなたの贖いの恵み、あなたの歴史計画を知り、豊かな実を結ぶ人生としてください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

説教「信仰の一致を求めて」

2019年9月22日 修養会主日礼拝
聖書箇所:ピリピ2:1~5
説教:深谷春男牧師

今日はわたしどもの教会では「一日教会修養会」の時を持ちます。昔は、都会の喧騒から離れ、静かな大自然の中で、神様の懐に抱かれるような体験として、一泊して、御言葉を聞き、また主にある神の家族の親しさを深める時としました。今年は、教会の中ですが、すばらしい修養会の一日としましょう。

【今日の聖書箇所の概説と内容区分】

さて、今日示されている箇所は、ピリピ書2章です。2章全体は以下のようにまとめることができます。

1~ 5節 パウロの信仰と情愛のこもった一致の勧め

6~ 8節 キリストの「謙卑の姿」

9~11節 キリストの「高くされる姿」

12~14節 主に従順になり、救いの達成に務めよ。

15~18節 不平不満から解放され、星のように輝くクリスチャン。

19~24節 テモテ、確かなキリストの証し人。

25~26節 エパフロディト、兄弟、協力者、戦友。

27~30節 エパフロディト、キリストの業のため命を懸ける。

これらのどの箇所をとっても、深い信仰の味わいのある言葉で、わたしたちの信仰生涯を、深く考える導きとなります。 

【メッセージのポイント】

1)1 そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、     (1節)

⇒ キリストによる勧め、アガペーの愛、御霊の交わり、憐みの心!  使徒パウロは、このピリピ信徒への手紙を通して、ピリピの教会の兄弟姉妹に心からの愛情と感謝の思いを込めて、優しく語りかけてきました。そして、前回学んだ1章27節からは、「キリストの福音にふさわしく生きよう」という勧めを語り、そのためには「27bあなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、28 どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはない」と、ひとつ心で歩むことの大切さを語っておられました。そして今日の箇所では、更に一歩進んで、ピリピの教会に語るべきことを示されたようです。ひとつ心で歩むことにピリピ教会に課題があることを示されたのでしょう。

もとより、彼はピリピの教会員を心から愛し、信頼していましたので、彼らを叱りつけているのではありません。彼らは、福音から大きくずれてしまったガラテヤの教会とは違い、純情な信者たちで、パウロの教えに従っていた愛すべき人々です。そのような意味で厳しく勧める必要はなかったようです。ただ彼らの間に、相互間の良き理解、信仰と愛、協力があるようにとパウロは訴えています。

新約学者の松本卓夫先生はここをこのように説明しています。

「これはなんという真実のこもった、しかも、深みがあり、霊味豊かな、いかにも、愛情あふれる牧者らしいことばであることか。これは、パウロの書き記した数々の手紙の中で特に私共の心に深くしみる愛のことばです。」

パウロはこの1節で、4つの項目を語っています。それも、非常に、慎重な、そしてことの重要性を強調した表現です。

愛情と信頼に満ちた言葉で、ここではその4つの言葉を中心に考えてみたいと思います。

まず、「そこで、あなたがたに、・・・いくらかでも、あるなら」と語られますが、これは「あるかどうかわからない」という言葉ではありません。「そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみ」が、あなた方の中にあるはずです。わたしはそれに基づいて、あなた方に訴えまた、お願いします、と言っているのです。 

「キリストによる勧め(エン クリストー パラクレーシス)」とは、「キリストの中に」という言葉と「慰め・励ます」というパラクレーシスという言葉で成り立っています。その意味は、キリストを信じ救われ、キリストのそば近くへと呼び寄せられて、親しく教えを受けているという意味の言葉です。パラクレーシスは、そば近くに呼び給うという意味です。

「愛の励まし(パラムシオン アガペー)」とは、神の愛が与える慰めという意味です。パラクレーシスもパラムシオンも、同じような用語で、「そば近くに呼び寄せ、真近かで語る」という言葉で、神様が毎日の生活の中で祈りを通し、生活を通してなされる「親しい愛の語りかけ」を意味しています。

「御霊による交わり(コイノニア プニューマトス)」とは、聖霊によるまじわり、豊かな愛の共同体を意味します。キリストを信じ受け入れた者は、皆、深い霊的な体験をしているはずですから、その霊的な体験によって深められて信仰に基づく交わりに訴えてお願いします、という意味です。

「慈しみや憐れみの心(スプランクナ ・ オイクチルモイ)」。スプランクナとは、内臓(心臓、肺臓、肝臓 等)を意味する語で、人間の深い情緒を表わす語です。この語は1:8でも用いられ、口語訳では「熱愛」と訳されていました。ここでは神の熱愛、1:8ではパウロの熱愛の意味で使用されています。

さあ、これらの4つの言葉、濃縮してあるのでその内容の真意を把握するには少し、解説が必要なようです。丁寧に表現すると、次のようになります。

「そこで、わたしはあなたがたにお願いします。それは、あなた方がすでに、すばらしい主の救いと、聖霊の導きによる霊的な祝福とを知っている者だからです。あなた方のキリストを信じた時の救いの喜びと毎日の生活の中で体験するキリストの臨在による慰め、また神様のアガペーの愛を通して示された恩寵の豊かさと神のそば近く呼び寄せられた驚くべき恵み体験、ぺンテコステ以来経験した聖霊様によるところの愛と慰めの共同体としての教会の交わり、また、わたしたちが経験した聖霊なる神の内住からくる霊的な成長の数々、このような愚かな者のために涙を流し、血を流されたというあの内臓が痛むまでの熱愛と深い憐み・・。そのような体験をされたあなた方は、神様の愛もキリスト様の愛も聖霊様の愛も知っておられるので、わたしはお願いします。その、神様から受けた御恩寵を、教会の交わりに生かしてください。あなたの友にその愛で接してください。毎日、出会うあなたの隣人にその愛を注いでください。あなたを冷たい目で見るあの人に、また、ひょんなことでいがみ合ってしまって心が通わなくなっているあの人に、今、主の和解と愛を注いでください。その相手の方も、キリストの救いを知っている方なのですから・・・2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」

という意味になります。

使徒パウロは、ピリピの教会員の間に、意見や行動の分裂の現れているのを伝え聞き、心から憂えて、この手紙を書いたようです。ピリピの教会は分裂には至りませんでしたが、パウロは丁寧に、そのよう不幸に陥らないように切実な、お願いの手紙を書いたのでした。

2)2 どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。3 何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。4 おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。(2~4節) 

⇒ 相手を自分より優れた者と考えよ! パウロの勧めは、1節で見たように、大変深い、そして、救いの体験、また、日常のイエス様との深い臨在体験。霊的な恵みの経験を背景にしてのことばであることを学びました。「教会の一致」はこのような霊的な体験を背景としています。そして、それは、主イエスの「愛と謙遜」にあるとパウロは語ります。「何事も利己心や虚栄からするのでなく、へり下って」とあります。自分の姿を偏見を取り除いて、主の目から見ると、わたしどもは自分の罪と愚かさに唖然としてしまいます。更に「へりくだる」とは「他者を自分より優れた者と考えること」だとパウロは語ります。

以前、「首都圏キリスト教大会」という大会が青山学院の講堂を通して何度か開催されました、ある年の講師は、滝元明先生でした。先生の説教は「幸福になる道」という印象的な講演でした。誰でも幸福になる道があります。それは「謙遜になる事」です。自分が青年の時に大人を馬鹿にしていた時に、皆から嫌われていたこと。キリストに出会って、真の謙遜を学んだことが語られました。多くの方々が主イエスを心に迎えられました。

 

3)5 キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。      (5節)

⇒ 汝らキリストイエスの心を心とせよ!

さらにパウロは言います。「教会の一致は、イエス様の生涯そのものである」と。そして教会の霊的な一致は、イエスキリストへの信仰からわき起こって来るのであると言う。6節以降は初代教会の信仰告白「キリスト賛歌」と言われる部分です。初代教会の信仰告白は「謙遜」のメッセージでした。そして、十字架にまで下る「謙遜」は、教会に最強の「一致」という賜物をもたらしたと語ります。文語訳聖書は「汝らキリストイエスの心を心とせよ」と訳しています。これが一番、直訳に近いものです。

【祈り】 恵みの主よ。この一週間の旅路も、疾風怒濤の、荒波がわたしたちの生活の中にも入ってくるようなただ中にあっても、あなたが支えてくださいました。また、何よりも、わたしたちにキリストにある愛と祈りの一致の大切さを教えていただきました。キリストからくる愛は一致をもたらすもの、愛の絆です。しかし、粗暴な言葉や憎しみの思いは共同体を破壊してしまいます。どうぞ、わたしたちを点検し、御霊の一致、愛の一致を与えて下さい。そして、主よ、あなたが望まれる、愛と慰めの共同体である、教会を建てあげるために、喜んで、自分の生涯を捧げる者とならせてください。わたしたちの救い主であると共に、教会の頭なるお方、主イエスの御名によって祈ります。アーメン

説教「喜びに満ちて」

2019年9月15日 敬老主日礼拝
聖書箇所:1ヨハネの手紙1:1~4
説教:深谷美歌子牧師

今日は敬老礼拝です。75歳以上の神の家族の皆様をお祝いいたします。人生100年時代と言われますが、喜びに満ちた毎日でありますように。説教題も「喜びに満ちて」です。が、これは年齢に関係なく、すべての兄弟姉妹がそうあってほしいことです。そして4節に「喜びが満ち溢れるためです」とこの手紙の目的がそのことですと書かれています。皆でいただく日とされますように。

ヨハネの手紙は公同書簡と呼ばれ、特定の宛先は挙げられていませんが、「わたしの子たちよ」とか「愛する者たち」等、親しみを込めた呼びかけがなされています。この言葉から、これまで信仰の導きをして、親しく知っている兄姉を思い浮かべながら書いたことが伺われます。

そして、全ての人々がこの喜びの交わりに入れられますようにと願って書かれ、それは現代に生きる私たちにも語りかけられている内容です。

【聖書の概説】

1・2節-伝えるのは「いのちの言」イエスキリスト。それはヨハネが聞いたもの、よく見て、手で触れたものであると証言する。

3節-伝える目的は、父なる神とイエスキリストとの交わりに入れられるため。

4節―この交わりの結果、わたしたち(読者と自分達)の喜びが満ち溢れるようになるため。

【メッセージのポイント】

1)いのちの言が現れた

このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである――(2節)

「永遠のいのちが現れた」と書いています。これは何を言っているのでしょう。

ヨハネの福音書には「言は神と共にあった。言は神であった。この言にいのちがあった。言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」と書かれています。永遠の神、イエスさまがこの世界に来られたことを現しています。そのことをここでも言っているのです。「現れた」という言葉はRSVではmanifestという言葉が使われ、明らかにする、証明するなどの意味があります。ギリシャ語では不定過去形で書かれていて、過去のある時期に起こった出来事を現しています。つまりキリストが、肉体を持って、人間の歴史に出現したことです。突然出現したのではなく、約束が現れたのでした。政治家が選挙の時manifestするといったら、前回の約束した公約をどの程度達成したかを公表することです。聖

なる神がこの世界に現れたことを伝えることです。そしてそれをヨハネはよく見た。手で触れた。と証言します。

よく見たとこの聖書は訳されていますが、新改訳では「じっと見て」と訳されています。これは、何気に見たというより、観察するように確かめる見方、意味を、熟視しようと見る見方を現わしています。いつも一番そばにいてイエス様を見ていたヨハネの証言です。

手で触れたとは、復活のイエスさまが現れた時、その場にいなかったトマスが「そんなことはあり得ない、釘あとに指を入れなければ信じない」と語ったところ、次の週、イエスさまはトマスも一緒にいるところに現れて、「指を入れてごらん。まさしくわたしだ。」と語りかけられて、驚いたことがありました。40日にわたって復活のイエスさまに出会い、ヨハネは触ったこともありました。幻想ではありませんでした。

聖書は人間が考え出したお話しを書いているのではなく、歴史に起こった事実を告げているのです。このイエス様は信じる者に、永遠の命を

あたえてくださったのでした。

 

2)御子イエスキリストとの交わりを持つようになるため

すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。(3節)

わたしたちとの交わりに入らせるためと聞くと、なんとなく教会の兄弟姉妹との交わりに入るためと言っているように思います。しかしここでいう交わりは、父なる神と、イエスキリストとの交わり、つまり神様との交わりに入ることが一番の目的です。

神の御存在を知っておられるでしょうか?今も生きて働いておられる人格としての神を知ることは、二千年前のイエスキリストが何をしてくださったかを知り、自分が真の神を信じてこなかった現実を認め、今も生きたもうイエスキリストを救い主と受け入れることによってです。

7月に来て下さった、籐井圭子先生は、尼僧になってまで救いを求道して、得られなかった救いの確信を、イエス様に「私を救ってください」と祈った時、救われ、自分が変えられて、証言者になりました。

交わりという言葉は「コイノニア」という言葉ですが、もともと財産を共有する者同士のことを言うそうです。ここでは永遠の命の共有者とされ、神様との交わりを持つことができるものとなることを言っています。祈りによって、御言葉を生きることによって、今も生ける神を知ることができます。

そしてこの神様との交わりを頂いた者同士は、神の家族として、互いに愛し合い、赦し合う交わりにも入れられます。

 

3)喜びが満ち溢れるようになるため

これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。(4節)

「これらのことを書くのはわたしたちの喜びが満ち溢れるようになるため」とありますが、「わたしたち」を「あなたがた」と書いている写本もあります。だからここの「わたしたち」は書いている側だけではなく、読んでいる人々を含めたわたしたちと考えます。この手紙を書いたのはイエスキリストを知って喜びに満ち溢れることを願ってのことです。「満ち溢れる」の前に「全き」と新改訳にありますが、完全な完成した喜びです。人が愛の、赦しの神がおられることを知り、この方との交わりに入れられることは、なにものにも代えられない喜びです。

先週の木曜日の聖書研究祈り会の学びはマタイによる福音書5章21-26節まででした。パリサイ人の義に勝る義をイエス様がもたらしてくださったと学びました。イエス様の求める義は、パリサイ人は見える殺人だけを裁いているが神様の前では、心で兄弟を馬鹿にした、つまり、人格を否定するものは、神の裁きでは地獄の火に投げ込まれるという、表面に出る殺人を犯さないでも心の中で人格を否定したら殺人したのと同じという厳しいものでした。

しかも、兄弟が自分に何かうらみを持っていたら、仲直りをしてからでなければ礼拝に行って捧げものをしても受け入れられない。というものでした。最後の1コドラントを払いおえなければという厳しいものでした。人生70年生きて来て、心にかかることを全部きれいにしなければ神様の裁きで地獄の火に投げ込まれると言われたら到底できません。

しかし、イエス様はそのように厳しく仲直りを求められました。が、「天国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」とご自分の命を十字架にかけて、拭いきれない仲直りの代価を、イエス様が用意してくださったのでした。最後の1コドラントまでです。パリサイ人の義に勝る義

を用意した上でこう言われたのでした。なんとありがたいことでしょう。イエス様を救い主と受け入れ、悔い改めるなら、もう、心に咎められ

ることはないのです。もちろんその後でお友達とも仲直りができたら、

素晴らしいですが、もう代価は払われたので、もしかしたら人間からは

赦されないことがあっても、神様の前では、天国に入れて頂けるのです。

礼拝で、神様に受け入れられ、主にお会いすることができるのです。

今から感謝して喜んで生きましょう。そしてこのいのちをまだ受けていないすべての人のために、祈り、語る時が与えられたら、お伝えしましょう。迫害や、貧困、病気、別れ。未来に何が起ころうとも、永遠のいのちの交わりの中で喜びに溢れて歩み続けましょう。ハレルヤ!

守部さんの命の水の働きをいつも祈って支えてくれた大西はるえさん。若い時に、親の借金のかたに売られて辛い生涯でした。九州で小さなお店を開いていた時に、イエス様に出会って以来、忠実に礼拝し、生きてきました。四国の老人施設に入っていた時に、守部さん御夫妻が訪ねたそうです。生活保護でベッドと、小さな台が全ての持物でした。でもそこで、皆から嫌われているような方の話にじっと聞き「あなたは優しい人なのね」といたわり、生涯で一番幸せだった時は?との質問に「今です」と即、返事されたそうです。何歳になっても「今、喜びに満たされています」との生涯を歩んでまいりましょう。ハレルヤ!

【祈り】

イエス様が肉体をとってこの世に来られたこと、よく見て、手で触ったヨハネが証言してくださったことを感謝します。そしてイエス様に赦されて、神様を礼拝し、御言葉をいただき、祈りが聴いて頂ける者とされていることを心から感謝します。兄弟姉妹とも愛し合い、赦されあって交わりに生きる喜びがいつも満ちあふれる主の証人とされますように導いてください。 主イエス様の御名によって祈ります。アーメン!

説教「わたしが背負う」

2019年9月8日 主日礼拝
聖書箇所:イザヤ書46:1~4
説教:深谷春男牧師

全米で一番愛唱されている聖書の言葉は、このロマ8:28の聖句だと聞いたことがありました。それを聞いた時に、あ、皆、同じなんだなーと思いました。

わたしたちは救いを求めています。そして主イエスを信じて魂に救いをすでに得ました。しかし、それでもなおかつこの地上で生きているうちは完全ではありません。試練があります。悩みがあります。誘惑や戸惑いや誤解やいやがらせや、行き違い、さまざまな問題で地上は満ちているのです。多くの日々は、讃美しながら歩む恵みの日です。空は青く、雲は白く、風はさわやかです。でも、時として雨は降りますし風も吹きます。足許の石ころにつまずくことも、バラのとげの刺されることも、暴風雨や大嵐の時だってあります。

そのような時には、この聖句が支えとなるのだと教えています。 

【 聖書のテキストと概略 】

ロマ書の第一の主題は、「個人の魂の救い」です。これが1-8章の主題です。概略的に言えば個人の魂の救いは2つに分けられています。1-5章が「信仰義認」です。そして、

6-8章が「聖化」という主題になります。

8章は「聖霊による勝利の生涯」という主題です。8章の特徴は「聖霊」と言う言葉が急に増加することです。1-7章では5回しか出てこなかった「聖霊」「霊」という語が、8章では20回以上使用されます。松木治三郎は8章を「聖霊による救い」と読んでいます。全体は、以下のように区分できます(松木治三郎による)。

1-11節 キリストへの信仰により、罪と死の法則から解放されて

12-17節 聖霊に助けられて「アバ父よ」と神様呼ぶ人生を生きる

18-30節 今は苦難と試練の時(3つのうめき)将来の栄光を待望

31-39節 最後は神の愛、十字架の愛を悟った信仰者の勝利の歌。

今日は28節だけを扱います。

 

【メッセージのポイント】

1)28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。         (28節)

⇒ ぼく、知ってるもん                          

まずこの節で特徴的なのは「わたしたちは知っている(oidamen)」という言葉から始まっていることです。日本語だと文章の最後になってしまいますが、もともとのギリシャ語は最初の言葉です。「わたしたちは知っています」という告白をして、前からの論議を一応止めて、新しいことを話そうとしているのです。つまり、「三つのうめき(自然界のうめき、クリスチャンのうめき、聖霊のうめき)」を語った後に、パウロ先生は、「(それでも)わたしたちは知っている!」と語り出しています。ある方はこれは、小さな子供が、「わたし、知ってるもん!」という時のことと同じであると語っています。

たとえば、今は病気でも、お医者さんが3日後には快方に向かいますよと太鼓判を押している状況と同じです。「大変ねー?大丈夫?」という友人に、「うん、今は厳しいの。でも知ってるの。三日から快方に向うんだって」。

あるいは貧しい生活をしている人が、「大変ねー?大丈夫?あとのこり500円しかないんだって?」「うん、なかなか厳しいんですよ。でも、うちの親父が500万円送ったから、明日届くって知ってるもん」

ある人がひどいおうちに住んでいて、雪が吹きかかる。「大変ねー。大丈夫?」と友人が心配している。「大丈夫よ、明日の朝が新しいおうちが出来上がる日なのよ。それを知ってるもん」いうようなものだというのです。

信仰の確信に持つためには、まず、わたしたちは知らねばなりません。聖書の教えていることや、聖書そのものの背景など、そんなに詳しくなくてもよいのですが、ある程度のことは知らねばなりません。特に聖書の救いについて、「信仰義認」や「摂理」についてはよく知らねばなりません。そして神さまが「最善をなしてくださる天のお父様であること」と知らねばなりません。

パウロ先生は神様が良きお方であり、「最善をなしてくださるお方」であることをよく知っています。そして、このお方がこの世界の創造主であり、贖い主であることを「知ってるもん!」と語っています。

今日の説教は「僕、知ってるもん!」という、いつもとは一風変わった題名にしました。「5歳児の言葉ですね~」とか言われましたが、子供のように素直な、神様へのまっすぐな信頼をもって日々歩みましょう。

2)28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。         (28節)

⇒ 万事が益となるように共に働く!

さて、全てが「益」として働くことを知っていますとパウロは告白しています。ここの「益として」と言う言葉は、ギリシャ語で「アガソス」という言葉です。これは「良い」と言う意味、英語のgoodという言葉に当てはまる言葉です。へブル語の新約聖書では、「トーブ」と言う言葉が使用されています。「最善」という言葉です。この言葉に一番近い聖書の箇所は詩編119:68と思います。「主は善にして善を行なわれる」のです。神様の本質は善、その行動は善なのです。

この箇所は2つの解釈が可能であると言われます。

第一は「神」を主語とする理解

第二は「全てのこと」を主語としての理解

第一を取ると口語訳のような文章となり、第二を取ると新共同訳、文語訳のような形になります。

第一のグループ「神」を主語とする。

口語訳:28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。

第二のグループ「全てのこと」を主語とする。

新共同訳:28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。文語訳:神を愛する者、すなわち御旨によりて召されたる者の為には、凡(すべ)てのこと相働きて益となるを我らは知る。

文法的にはどちらも可能な解釈ですが、第二のグループ「全てのこと」を主語とした解釈の方が、より強いそうです。しかし、「全てのこと」が自動的に働いて、益となるという考えは、汎神論的な解釈も生まれて、「人生万事塞翁が馬」のような解釈をする人が出てこないとも限りません。「神が、すべてのことにおいて共に働いて、善のために」とするのが良いと松木治三郎は言います。 わたしも同感です。全能の神様、愛と恵みの神様が、すべてを最善に導いてくださるのです。アブラハムの時も、ヨセフの時も、モーセの時も、摂理の神は働き給う!アーメン3)28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。         (28節)

⇒神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちに

最後に、ここではクリスチャンのことを「神を愛する者たち」と言う言葉と「御計画に従って召された者たち」という二種類の言葉で表現しています。「神を愛する者たち」という表現はここにしか出てきません。「神に愛されている者たち」という表現は多いのですが「神を愛する者たち」と言う表現は少ないのです。それは神の愛を受けることが大事で、その愛を受けるところから「主を愛するもの」となることを暗示しているのでしょう。また、「御計画に従って召された者たち」という表現は、神の歴史支配と摂理と言うメッセージの中で理解される言葉だと思います。神様はわたしどもを天地の造られる前より選び分かち、十字架の血潮によって贖い、神の救いの中にいれ、聖霊に満たして証しの業をさせて、やがて終末にいたる主のご計画、主の御経綸に霊の目を開き、世界の救いのために労する器、「御計画に従って召された者たち」と呼びます。神様を愛し、神の救いの計画を証しする者となりましょう。

この聖句は、淀橋教会の小原十三司先生の特愛の聖句で、昔の淀橋教会の会堂には、二つの聖句がかかっておりました。一つは「からし種一粒ほどの信仰」、もう一つは「すべての事相働きて益となる」でした。昭和17年6月の弾圧で投獄され、体重が40キロにまでなられても、この神の最善への信仰に堅く保ち、忠実に、神様に仕え続けた信仰は、このロマ書8:28に裏打ちされています。わたしどもも、パウロ先生のように、神の最善と最愛を信じ、その生涯を全うし、主のみ前に出た時には、「善かつ忠なる僕、よくやった!」との主のお褒めの言葉を受けたいと思います。こころの友では92歳の横山義孝先生が御用をされ、今日は肩の骨折を越えて、金谷姉が礼拝に出席されました。ハレルヤ

【祈り】 主よ、今日はロマ8:28を学ぶことが出来て感謝します。「僕知ってるもん!」と神様の救いと恵みの世界を、讃美しつつ歩み行かせてください。神様の不思議な愛の御経綸に支えられて、自分の職場や家庭で主の救いの証し人としての歩みを全うすることができますように。どのような試練や困難の中にあっても、勝利の中に歩めるように導いて下さい。愛と恵みに満ち給う主イエスの御名によって。アーメン

説教「ぼく、知ってるもん」

2019年9月1日 主日礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙8:28
説教:深谷春男牧師

全米で一番愛唱されている聖書の言葉は、このロマ8:28の聖句だと聞いたことがありました。それを聞いた時に、あ、皆、同じなんだなーと思いました。

わたしたちは救いを求めています。そして主イエスを信じて魂に救いをすでに得ました。しかし、それでもなおかつこの地上で生きているうちは完全ではありません。試練があります。悩みがあります。誘惑や戸惑いや誤解やいやがらせや、行き違い、さまざまな問題で地上は満ちているのです。多くの日々は、讃美しながら歩む恵みの日です。空は青く、雲は白く、風はさわやかです。でも、時として雨は降りますし風も吹きます。足許の石ころにつまずくことも、バラのとげの刺されることも、暴風雨や大嵐の時だってあります。

そのような時には、この聖句が支えとなるのだと教えています。

 

【 聖書のテキストと概略 】

ロマ書の第一の主題は、「個人の魂の救い」です。これが1-8章の主題です。概略的に言えば個人の魂の救いは2つに分けられています。1-5章が「信仰義認」です。そして、

6-8章が「聖化」という主題になります。

8章は「聖霊による勝利の生涯」という主題です。8章の特徴は「聖霊」と言う言葉が急に増加することです。1-7章では5回しか出てこなかった「聖霊」「霊」という語が、8章では20回以上使用されます。松木治三郎は8章を「聖霊による救い」と読んでいます。全体は、以下のように区分できます(松木治三郎による)。

1-11節 キリストへの信仰により、罪と死の法則から解放されて

12-17節 聖霊に助けられて「アバ父よ」と神様呼ぶ人生を生きる

18-30節 今は苦難と試練の時(3つのうめき)将来の栄光を待望

31-39節 最後は神の愛、十字架の愛を悟った信仰者の勝利の歌。

今日は28節だけを扱います。

 

【メッセージのポイント】

1)28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。         (28節)

⇒ ぼく、知ってるもん                          

まずこの節で特徴的なのは「わたしたちは知っている(oidamen)」という言葉から始まっていることです。日本語だと文章の最後になってしまいますが、もともとのギリシャ語は最初の言葉です。「わたしたちは知っています」という告白をして、前からの論議を一応止めて、新しいことを話そうとしているのです。つまり、「三つのうめき(自然界のうめき、クリスチャンのうめき、聖霊のうめき)」を語った後に、パウロ先生は、「(それでも)わたしたちは知っている!」と語り出しています。ある方はこれは、小さな子供が、「わたし、知ってるもん!」という時のことと同じであると語っています。

たとえば、今は病気でも、お医者さんが3日後には快方に向かいますよと太鼓判を押している状況と同じです。「大変ねー?大丈夫?」という友人に、「うん、今は厳しいの。でも知ってるの。三日から快方に向うんだって」。

あるいは貧しい生活をしている人が、「大変ねー?大丈夫?あとのこり500円しかないんだって?」「うん、なかなか厳しいんですよ。でも、うちの親父が500万円送ったから、明日届くって知ってるもん」

ある人がひどいおうちに住んでいて、雪が吹きかかる。「大変ねー。大丈夫?」と友人が心配している。「大丈夫よ、明日の朝が新しいおうちが出来上がる日なのよ。それを知ってるもん」いうようなものだというのです。

信仰の確信に持つためには、まず、わたしたちは知らねばなりません。聖書の教えていることや、聖書そのものの背景など、そんなに詳しくなくてもよいのですが、ある程度のことは知らねばなりません。特に聖書の救いについて、「信仰義認」や「摂理」についてはよく知らねばなりません。そして神さまが「最善をなしてくださる天のお父様であること」と知らねばなりません。

パウロ先生は神様が良きお方であり、「最善をなしてくださるお方」であることをよく知っています。そして、このお方がこの世界の創造主であり、贖い主であることを「知ってるもん!」と語っています。

今日の説教は「僕、知ってるもん!」という、いつもとは一風変わった題名にしました。「5歳児の言葉ですね~」とか言われましたが、子供のように素直な、神様へのまっすぐな信頼をもって日々歩みましょう。

2)28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。         (28節)

⇒ 万事が益となるように共に働く!

さて、全てが「益」として働くことを知っていますとパウロは告白しています。ここの「益として」と言う言葉は、ギリシャ語で「アガソス」という言葉です。これは「良い」と言う意味、英語のgoodという言葉に当てはまる言葉です。へブル語の新約聖書では、「トーブ」と言う言葉が使用されています。「最善」という言葉です。この言葉に一番近い聖書の箇所は詩編119:68と思います。「主は善にして善を行なわれる」のです。神様の本質は善、その行動は善なのです。

この箇所は2つの解釈が可能であると言われます。

第一は「神」を主語とする理解

第二は「全てのこと」を主語としての理解

第一を取ると口語訳のような文章となり、第二を取ると新共同訳、文語訳のような形になります。

第一のグループ「神」を主語とする。

口語訳:28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。

第二のグループ「全てのこと」を主語とする。

新共同訳:28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。文語訳:神を愛する者、すなわち御旨によりて召されたる者の為には、凡(すべ)てのこと相働きて益となるを我らは知る。

文法的にはどちらも可能な解釈ですが、第二のグループ「全てのこと」を主語とした解釈の方が、より強いそうです。しかし、「全てのこと」が自動的に働いて、益となるという考えは、汎神論的な解釈も生まれて、「人生万事塞翁が馬」のような解釈をする人が出てこないとも限りません。「神が、すべてのことにおいて共に働いて、善のために」とするのが良いと松木治三郎は言います。 わたしも同感です。全能の神様、愛と恵みの神様が、すべてを最善に導いてくださるのです。アブラハムの時も、ヨセフの時も、モーセの時も、摂理の神は働き給う!アーメン3)28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。         (28節)

⇒神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちに

最後に、ここではクリスチャンのことを「神を愛する者たち」と言う言葉と「御計画に従って召された者たち」という二種類の言葉で表現しています。「神を愛する者たち」という表現はここにしか出てきません。「神に愛されている者たち」という表現は多いのですが「神を愛する者たち」と言う表現は少ないのです。それは神の愛を受けることが大事で、その愛を受けるところから「主を愛するもの」となることを暗示しているのでしょう。また、「御計画に従って召された者たち」という表現は、神の歴史支配と摂理と言うメッセージの中で理解される言葉だと思います。神様はわたしどもを天地の造られる前より選び分かち、十字架の血潮によって贖い、神の救いの中にいれ、聖霊に満たして証しの業をさせて、やがて終末にいたる主のご計画、主の御経綸に霊の目を開き、世界の救いのために労する器、「御計画に従って召された者たち」と呼びます。神様を愛し、神の救いの計画を証しする者となりましょう。

この聖句は、淀橋教会の小原十三司先生の特愛の聖句で、昔の淀橋教会の会堂には、二つの聖句がかかっておりました。一つは「からし種一粒ほどの信仰」、もう一つは「すべての事相働きて益となる」でした。昭和17年6月の弾圧で投獄され、体重が40キロにまでなられても、この神の最善への信仰に堅く保ち、忠実に、神様に仕え続けた信仰は、このロマ書8:28に裏打ちされています。わたしどもも、パウロ先生のように、神の最善と最愛を信じ、その生涯を全うし、主のみ前に出た時には、「善かつ忠なる僕、よくやった!」との主のお褒めの言葉を受けたいと思います。こころの友では92歳の横山義孝先生が御用をされ、今日は肩の骨折を越えて、金谷姉が礼拝に出席されました。ハレルヤ

【祈り】 主よ、今日はロマ8:28を学ぶことが出来て感謝します。「僕知ってるもん!」と神様の救いと恵みの世界を、讃美しつつ歩み行かせてください。神様の不思議な愛の御経綸に支えられて、自分の職場や家庭で主の救いの証し人としての歩みを全うすることができますように。どのような試練や困難の中にあっても、勝利の中に歩めるように導いて下さい。愛と恵みに満ち給う主イエスの御名によって。アーメン

説教「立ち上がり、歩きなさい」

2019年8月25日 主日礼拝
聖書箇所:使徒行伝3:1-10
説教:深谷美歌子牧師

8月13,14日は日本キリスト伝道会の主催する「幻を語る会」が、市川でもたれました。今年は「若者と共に伝道の幻を」というキャッチフレーズで持たれました。51回目の会でした。これまで一千万救霊を掲げ続け、信仰を持ってこの会からリバイバルを!と全国からの兄弟姉妹、先生方で持ってきましたが、近年、若者の参加が少なくなっていました。これはキリスト教会全体の傾向です。希望に燃えた若者が起こされ、愛する日本に、また同時代に生きるすべての人々が、希望に生き始められるようにとの願いが込められた集会でした。その兆しを感じる各会でありました。

今日の聖書箇所は、一人の生まれつきの足のなえた男性が歩けるようになったという奇跡が記されています。このことは現代とは関係ない昔のお話なのでしょうか?でも聖書が時代、空間を越える真理の書であるとしたら、ここにある真理は何でしょうか?聞いてまいりましょう。

 

【聖書のテキスト】

使徒行伝3章はペンテコステの日(聖霊降臨)を体験したあとの弟子たちの行動が描かれています。ペテロとヨハネは神の霊に満ちて力強い活動を始めました。その一つの働きが「美しの門」で物乞いをしていた足の不自由な男の癒しの話です。神様の恵みと力に満たされた弟子たちは、変えられて、大胆に主の証人とされてゆきました。

 

【メッセージのポイント】

1)午後三時、祈りの時に!

1 さて、ペテロとヨハネとが、午後三時の祈のときに宮に上ろうとしていると、2 生れながら足のきかない男が、かかえられてきた。この男は、宮もうでに来る人々に施しをこうため、毎日、「美しの門」と呼ばれる宮の門のところに、置かれていた者である。  (1.2節)

まずこの出来事は、「ペトロとヨハネが、午後3時の祈りの時に神殿に上って行った」時に起こったと記されています。初代教会の使徒たちは、いつも祈りの中に歩んでいたようです。1章の記事を見ると、ペンテコステ(聖霊降臨)前、主の教会が誕生する前から弟子たちは10日間の祈りをし、備えの時を持っていました。いわば、教会は祈りの会から生まれてきたのでした。そして、この弟子たちの大きな働きの出発も祈りのために神殿にのぼってゆく所から始まりました。奇蹟は祈りから始まります。

イエス様も神であられましたが、地上の人間として歩まれた時、常に父なる神様に祈り、交わって行動されました。祈りは神様との会話であり、呼吸です。イエス様によって、この世の命から、神の永遠の命に入れられた者にとっても、祈りは呼吸です。Ⅰテモテ2:1には「そこでまず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のために捧げなさいとあります。第一にすることが祈りです。聖霊を受けたペテロ達こそ祈りを必要としていました。神の御心をいつも求めました。

ここを「主の十字架の時、三度主を知らないと否定したペテロと、最後まで、主の十字架の下で見守ったヨハネが、赦しあって一つになって歩いている。」と書かれている方がいて、その姿に気付かされ感動しました。しかも、今日ここに出てきた足の不自由な男は、毎日連れられてきていたのだから、イエス様がこの門を通られたときも、ここにいたのだ。弟子たちも一緒だったはず、しかし彼らはこの男に気が付かなかった、母親が子供を連れてきたときも、邪魔もの扱いした弟子達だった。ところが今日、彼らはこの男に注目して「わたしたちを見なさい」と語りかけている、彼らは変えられたのだとあり、愛の姿に変えられていると教えられました。

癒された彼は生まれながらの足の不自由な男でした。どんなに苦しい人生を歩んできたことでしょう。彼は自分で歩くことができずに人々に「運ばれてきた」のです。そして彼は、美しい門のそばに物のように「置かれていた」のでした。

この神殿の「美しの門」というのは、エルサレムの北の方に神殿があり、その正面の門でした。多くの人々がそこを通って礼拝しに境内に入ります。しかし彼は神殿の境内に入れません。当時は身体に不自由なところがある人は、神殿にはいることができませんでした。そこに置かれ、生活の必要のための物乞いをし、そして夕方になると、またそこから運び出してもらうという毎日の生活でした。

今、失意と悲しみの宿命に支配され、神殿で神を礼拝することからも締め出されたこの一人の男性に、主御自身が触れようとされていました。

 

2)イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい

3 彼は、ペテロとヨハネとが、宮にはいって行こうとしているのを見て、施しをこうた。4 ペテロとヨハネとは彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。5 彼は何かもらえるのだろうと期待して、ふたりに注目していると、6 ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。     (3-6節)    

彼は、「美しの門」の前で、目前の生活のための必要の施しを乞うていました。すると、恵みに輝いた二人の人が向うから歩いてきました。ペテロとヨハネでした。彼らが境内に入ろうとするのを見て、何かもらえると思ってこの二人に施しを乞いました。すると4節にはこう記されます。ペテロとヨハネとは彼をじっと見つめました。先に言いましたように、ペテロもヨハネもこの生まれつき歩いたことのない男に、心をとめたのでした。そして、それから言いました。「わたしたちを見なさい」。この男は、何かもらえると思って二人をじっと見つめていました。6節でペテロの言った言葉が記されています。「金銀はわたしにはない。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい!」この男は、「金銀」を求めていたでしょう。しかし、ペトロもヨハネも、金銀はなかったのです。でも金銀に勝るものを彼らは持っていました。それは「ナザレ人イエスキリストの名」でした。「ナザレの人、イエスキリストの名!」これはこの世の最高のものでした。ペトロやヨハネはこの「主イエスの名」によってこの男を立たせたのでした。この男が求め得ないものと諦めていたものでした。

  このことが起こったのはペテロや、ヨハネの力ではありませんでした。それは12節で二人の口からも言われています。「わたしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのようになぜ見つめているのか」です。

このことをしてくださったのは、イエス様が救いの道を完成し、送ってくださった聖霊によってでした。そのことを「イエスの名」と言う権威として表しています。

ところで、この権威は、現代に生きるわたしたちにも与えられているものです。先週は高橋順一座の指人形で、サル爺さんの痛みを「イエスキリストの名によって癒されよ」と祈って癒されました。が、祈って奇跡的な癒しが起こされることもありますが、そうならないことも多いですね。もし、全ての人が癒されて、死ななかったら、この世界は大混乱に陥ります。

パラリンピックが大きく報道されるこの頃で、障害を持った方たちが尊重されることは素晴しいです。が、それでもその栄冠を受けるのはごく一部の人々です。けれども主からの祝福はすべてに及びます。信じる者は全て罪赦され、永遠の命が与えられるのです。全人格的な永遠のいやしです。

3)躍り上がって立ち、歩きだした!

7 こう言って彼の右手を取って起してやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、8 踊りあがって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った。9 民衆はみな、彼が歩き回り、また神をさんびしているのを見、10 これが宮の「美しの門」のそばにすわって、施しをこうていた者であると知り、彼の身に起ったことについて、驚き怪しんだ。  (7-9節)

ペテロが「主イエスの名によって歩きなさい。」と言って、右手を取って彼を立ち上がらせました。「すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、 躍り上がって立ち、歩きだした」のでした。彼は、癒された恵みに満たされて「歩き回ったり、躍ったりして神を讃美し、二人と一緒に境内に入って行った」と記されています。今まで呪われた者と言われ、入ることができなかった、その神殿に入っていったのでした。イエス様がヨハネの弟子たちに「足なえは歩き、貧しいものは福音を聞かされている・・・わたしにつまずかないものは幸いである」と語り、救い主であることの証拠としての業をあげられたことがありましたが、今ここに実現したのでした。

「歩き回ったり、躍ったりして神を讃美し、二人と一緒に境内に入って行った」とあります。深谷牧師が「自分自身に向かって出発せよ」と語られました。人が真に生きるのは、神の命に満たされ導かれ始める時です。

「幻を語る会」で近藤勝彦先生が、真に若者が生きるのは、Boys be ambitious in Christ!キリストにあってである。いや人が真に生きるのは、キリストにあって生かされるときである。ご自分は今もこの福音のために生かされているが、同級生は仕事が終わってすることがない。「朝ご飯を作っている」と一人が言えば「3食作っている」という人がいる。「彼らは何のために生きているのかわからないのです」そして「真の再生は礼拝です。」と語られました。人は神の命を頂き、神を礼拝し、交わり生かされて、踊りだすように喜びの命に生き始めるのです。

【祈り】父なる神様。聖霊によって変えられたペテロとヨハネが祈り場で、イエスキリストの名の権威によって男を立ち上がらせた姿を見ました。わたしたちも、祈りの時にあなたに向かい、整えられ、力を得ることができますように。そして「わたしには金銀はない。しかし、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ちあがりなさい」と人々を生かすために、お遣わし下さい。主の聖名によって。アーメン