2024年2月4日(日)新宿西教会主日礼拝説教「四っつの試練、二つの脱出」詩篇107篇 深谷春男牧師

 今日は2月4日です。暦の上では昨日が節分で今日はもう春となりました。2月は一年中で一番寒さの厳しい月ですが、温かな春の日差しがもう目の前まで来ていることを知るとき、わたしたちは、現実の厳しい寒さや試練と思われるような困難を乗り越えることができます。感謝!

【 聖書箇所の概略 】  

 詩篇105,106,107篇は「主に感謝せよ」との呼びかけで始まる感謝(ヘブル語:ホドゥ ラドナイ)詩編です。族長以来の救済史(105篇)、その間の罪の告白と赦罪(106篇)、刑罰としての患難からの回復(107篇)という一連の主題的まとまりを持つ三部作です。

松田明三郎先生は次のように解説しています。

「本詩は、(詩篇の)第5巻の冒頭を飾る詩であって、全詩篇中にても卓越するものの一つである。憐憫ある主に対する感謝の精神を呼び起こす目的をもって作られたものであるが、前の二つの詩篇105,106篇とは著しく相違している。これらはイスラエル初期の歴史的事件にしばしば言及しているのに反し、本篇においては一度もイスラエルの名を述べず、「人の子」(8、15、21、31節)になし給える主の奇しき御業について語る。もちろん詩人は半意識的には、バビロニア俘囚のことを歌っているが(10~16節)、彼は決して歴史的な事件については明記していない。」

 この詩篇は以下のように区分されています。

1~ 3節  序 言  主の贖いと慈しみに、感謝せよ。

4~32節  四種類の救いの業への感謝  

  • (4~9節)砂漠に迷う旅人の救い
  • (10~16節)牢獄からの解放   
  • (17~22節)病気からの回復 
  • (23~32節)海上における遭難からの救助

33~43節  補遺   世界を支配する神の摂理

 この詩篇には特徴的な「リフレイン(反復句)」が2つ使用され、そのリフレインが、4回づつ組み込まれて、この詩篇の中心主題を形成しています。それは6節と8節にまず現れてきます。

6 彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、

主は彼らをその悩みから助け出し、(6、13、19、28節)

8 どうか、彼らが主のいつくしみと、

人の子らになされたくすしきみわざとのために、

主に感謝するように。       (8、15、21、31節)

【メッセージのポイント】

1)1 「主に感謝せよ、主は恵みふかく、

そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」と、

 2 主にあがなわれた者は言え。

主は彼らを悩みからあがない、

 3 もろもろの国から、

東、西、北、南から彼らを集められた。(1~3節)

  ⇒ 感謝せよ。神の贖いと愛(=いつくしみ)を!

 この最初の言葉の中に、詩篇第五巻の冒頭を語るにふさわしい最高の聖句が記されていると思います。

 「主に感謝せよ、主は恵みふかく、

そのいつくしみはとこしえに絶えることがない!」(1節)

  まずこの詩人は、神の歴史を導く恵みの御手を見上げて感謝に満たされ、「主に感謝せよ!」と叫びます。それは、神の最善のゆえに、と続きます。そして、神の慈しみは永遠だと語ります。この詩篇では、「神の慈しみ(ヘセド)」がまず賛美され、締めくくりに神の慈しみが語られます。それから、「主に贖われた人々」はこの神の慈しみに深く感謝するのだと宣言されます。2節には「贖い」が2回使用されます。この詩で語られる最初の主題は「神の慈しみと贖いを感謝せよ!」ということです。この詩篇は、イザヤ書40~66章とヨブ記の影響を強く受けており、言葉においても、内容についても、「神の慈しみ」と「神の贖い」を歌っています。

 わたしも、66歳の誕生日に、わたしの生涯のメッセージとも言うべき「贖い、愛、臨在」というイザヤ書43:1~5からの説教を頂いたことがありました。そして、新宿西教会に招聘の話が出ていた2017年の11月にそこから説教をさせて頂きました。

「恐れるなわたしはあなたを贖った!」(イザヤ43:1)

「恐れるな。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)

「恐れるな。わたしはあなたと共にいる。」(イザヤ43:5)というメッセージを告げました。これ以上のすばらしい「神の愛と贖いと臨在」のメッセージはありませんね。ハレルヤ!

 7年位前に、福井市の如鷲教会の特別伝道会で奉仕したことがありました。主任牧師は当時31歳の亀井拓也先生。元気いっぱいでした。本当に楽しい、勇気を与えられる教会でした。土曜日の夜6時からのオープンチャーチでした。ゴスペルの賛美がすばらしかった。そうめんバイキングの夕食もいただきました。

日曜日の特別伝道会は、イザヤ書53章からの「運命の逆転!」でした。わたしも初めてのイザヤ53章の聖書からの伝道説教でしたが、みなさん、楽しく聞いてくださいました。礼拝後、すぐに近くの病院での病床洗礼。86歳のおじいちゃんでした。… 帰ってから役員会で「ホーリネスの群の歴史と信仰」の講演。まー、忙しい中でも、「走っても疲れず、歩いても疲れない!」の聖書箇所でしたからね~。本田弘慈先生のお孫さんに福井駅まで車で送っていただきました。

聖書の中心は、イザヤ書53章。「神の贖罪の慈しみ!」です。

内村鑑三はこの十字架の贖いの業への信仰を告白し続けた人です。

 「終(つい)に彼を捨てる」          内村鑑三 

国のためにキリストを信じたる者は終(つい)に彼を捨てる。

社会人類のためにキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。

教勢拡張を思い立ちてキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。

キリストの人格にあこがれてキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。

美(よ)き思想を得んとてキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。

患難苦痛を慰められんためにキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。

 されども、おのが罪を示され、その苦痛に耐えずして、「ああわれ、悩める人なるかな」の声を発し、キリストの十字架において神の前に義とせらるるの唯一の道を発見し、その喜びに耐えずして彼を信じた者は、かかる者は、よし宇宙は消え失(う)するとも、永遠より永遠まで彼を捨てない。  (1916年3月『聖書の研究』、著作集第12巻)

2)6 彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、

主は彼らをその悩みから助け出し、(6、13、19、28節)

  ⇒苦難の中で祈れ!主は救い給う!

 この詩篇の主題のひとつは、「祈れ!」ということです。イスラエルの長い歴史を通じて、この詩人のメッセージは、「祈れ!」ということです。人生には苦難が多い。人生には様々な試練がある。苦難がある。失意の時、落ち込んでしまうような時もある。絶望するような時だってある。4種類の苦難の体験が語られています。

  • (4~9節)砂漠にて道を見失う試練。砂漠で迷ったらもう生きられない。イスラエルの民は、バビロン捕囚からの帰還の時、火の中、水の中を通った。わたしは青春時代。道が見えなくなった苦悩!
  • (10~16節)投獄の苦難。時の悪しき権力に捕らえられて牢獄に入れられた時の絶望的恐怖。それは死を意味していた。しかし主は奇跡的に、その牢獄から助け出された。原田要蔵氏の証しなど。       
  • (17~22節)病気という試練。病気やけがに捕らえられる時、何とわたしたちは弱さと限界を感じる。もうだめだ!と感じる。私の場合、55歳の時。美歌子師の場合。!
  • (23~32節)海上における遭難。海の荒波は恐ろしい悪魔的な力として聖書には登場します。わたしも思い出してみますと、5歳の頃に仙台の伯父さんの家に行った時に船に乗り沖へ出た。波がドド~ンと来た時に「かあちゃん、うちへかえろう!」と叫びました。これはわたしの原体験。ジョン・ニュートンの回心は

3)8どうか、彼らが主のいつくしみと、

人の子らになされたくすしきみわざとのために、

主に感謝するように。 (8、15、21、31節)

⇒ 主は慈しみ深く、奇跡をなされる!

 主は「驚くべき御業をなされる」ということです。「驚くべき御業」とは、ヘブル語で「ニフレ オーテカー」といいます。「二歩で王手か」と何度か聞こえました。わたしは将棋をあまり知りませんが、「歩」のような何の取柄もないようなわたしどもが、敵の王サタンに打ち勝つ手がある。それはまず、神御自身の贖いの業を知り、信仰をもって答えること。そして御霊によって祈り続けることですね。ハレルヤ

【祈祷】

今朝は「四っつの試練・二つの脱出」を学びました。われらの人生には苦難や試練はつきものです。聖書の語る脱出の決め手は、①「神の贖いの愛への信仰!」。②「聖霊様の助けの中に祈る事」を学びました。どのような苦難や試練の中でも、「十字架の贖いヘの熱き信仰」と「聖霊に満たされた祈り」によって、奇跡的勝利を与え給え。贖いの主、主イエスの御名によって、祈ります。アーメン

2024年1月28日(日)新宿西教会主日礼拝説教「神がお与えになったとすれば」使徒行伝11:1~18 深谷美歌子牧師

久しぶりの使徒行伝を今日はご一緒に学びます。前回の個所の復習から。

 ペテロがシモンの家にいて、昼頃、祈りをするために屋上にのぼり、夢心地になりました。天から四隅をつるされた大きな布のような入れ物が降りてくるのを見、その中には律法で食することを許されていない動物が入っていましたが、ペテロに「それらをほふって食べなさい」と語りかけられました。「それはできないです。清くないものは食べたことがありません」「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない。」 そのことが3度もあったすぐ後に、異邦人コルネリオからの使いが来ました。「ためらわずに行け、私が彼らをよこしたのである」と主は語られ、ペテロは彼らと一緒に出かけました。そこで、イエスさまの福音を語ると、聖霊が一同に降り、彼らにバプテスマを授けました。

 その後の出来事が記されている所が本日の個所です。

【聖書箇所の概説】

1-3節ペテロがエルサレムに上った時、無割礼者と一緒に食事したと非難された。

4-17節 ペテロの証言。イエス様の福音を語った結果のできごとを順々と語る。

18節 聞いた一同は静まり、神を讃美し、異邦人にも命を与えられたと認めた。

【メッセージのポイント】

1)割礼のない人たちと食事を共にした。 

1 さて、異邦人たちも神の言を受けいれたということが、使徒たちやユダヤにいる兄弟たちに聞えてきた。2 そこでペテロがエルサレムに上ったとき、割礼を重んじる者たちが彼をとがめて言った、3 「あなたは、割礼のない人たちのところに行って、食事を共にしたということだが」。1-3節

 ペテロがコルネリオのところから帰ると、エルサレムの割礼を重んじる兄弟たちがペテロをとがめました。内容はペテロが割礼を受けていない人たちと食事したというものでした。彼らはクリスチャンでしたが、ユダヤ人でした。彼らは割礼は、神の民として、当然受けていました。

ここで、割礼の意味を考えておきましよう。ユダヤ人は選民として、世界に置かれていました。これまでは、世界に神様が聖なる方であることを現わす存在として、割礼を受け、清い動物しか食べない。それが聖別された民のしるしでした。そして、イエス様による命をいただいても、これは正しい事だから守るべきだと考えて居たのです。ペテロたちもついこの間まではそれが正しいと考えていました。前回の動物をほふって食べよという神様の言葉にも「それはできません、清くないものは何一つ食べたことがありません」と答えています。ですが、今やイエス様がおいでくださり、律法によらない命が与えられる道が開かれたのでした。 

以前にも言いましたが、この異邦人コルネリオと、その家族、親しい友人の救いの記事は2章に渡って取り上げられています。この事が今後の教会にとって、決定的に重要であったことの現れでこれだけのスペースを取ったのです。

ペテロは、ついこの間までの自分と同じ考えのユダヤ人クリスチャンに非難されても、無理からぬことと受け止めたことでしょう。

2)事実の証言

4 そこでペテロは口を開いて、順序正しく説明して言った、5 「わたしがヨッパの町で祈っていると、夢心地になって幻を見た。大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、天から降りてきて、わたしのところにとどいた。6 注意して見つめていると、地上の四つ足、野の獣、這うもの、空の鳥などが、はいっていた。7 それから声がして、『ペテロよ、立って、それらをほふって食べなさい』と、わたしに言うのが聞えた。8 わたしは言った、『主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないものや汚れたものを口に入れたことが一度もございません』。9 すると、二度目に天から声がかかってきた、①『神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない』。10 こんなことが三度もあってから、全部のものがまた天に引き上げられてしまった。

② 11 ちょうどその時、カイザリヤからつかわされてきた三人の人が、わたしたちの泊まっていた家に着いた。12 御霊がわたしに、ためらわずに彼らと共に行けと言ったので、ここにいる六人の兄弟たちも、わたしと一緒に出かけて行き、一同がその人の家にはいった。

 ③13 すると彼はわたしたちに、御使が彼の家に現れて、『ヨッパに人をやって、ペテロと呼ばれるシモンを招きなさい。14 この人は、あなたとあなたの全家族とが救われる言葉を語って下さるであろう』と告げた次第を、話してくれた。

⑤15 そこでわたしが語り出したところ、聖霊が、ちょうど最初わたしたちの上にくだったと同じように、彼らの上にくだった。

 16 その時わたしは、主が『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは聖霊によってバプテスマを受けるであろう』と仰せになった言葉を思い出した。

⑥17 このように、わたしたちが主イエス・キリストを信じた時に下さったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったとすれば、わたしのような者が、どうして神を妨げることができようか」。

ペテロは順々と自分が経験したことを語り始めました。経験したことといいうのは、教理とか、論理ではなく事実の証言です。同行者も、彼らは本当にその場に居合わせたので、ペテロの言葉を証人として認めました。

  • まずは、夢うつつの中で、四隅をつるされた布の中に汚れた動物も入っ

ていたのに「それをほふって食べなさい」との声がし「食べたことはありません」というと「神が清めたものを清くないと言ってはならない」と、同じ事が三度も起こったことを語りました。この事は決定的に大事なことでした。それまでは、ユダヤ人は神の選民で、割礼を受け、食物は聖なるものしか食べない、清い民と思ってきました。しかしペテロに語りかけられた時「神が清めたものを清くないと言ってはならない」と神様から三度も宣言されたのでした。

  • その経験の後、コルネリオの使いが到着しました。そのとき聖霊から

「ためらわずに(何の差別もつけずにの意)行きなさい」と語られたとき、ペテロは「神が清めたものを清くないと言ってはならない」の意味を瞬時に悟ったことでしょう。

  • カイザリアに到着したペテロに、コルネリオが招くに至った経緯を話し

ました。その内容は「あなたとあなたの全家族とが救われる言葉を語って下さるであろう」でした。「福音の言葉を聞かせる」ため神様が遣わされたのが分かりました。割礼を施せとか聖い食物を教えよとはおっしゃらなかったのでした。

  • すぐに10:36-43にあるように救われる言葉を語りました。10:36 あなたが

たは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、イスラエルの子らにお送り下さった御言(福音)をご存じでしょう。37 それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。38 神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、巡回されました。39 わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。40 しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、41 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。42 それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。と、ペテロは自分がイエス様と共に3年間歩んだ者として証言し、この方を信じる者はだれでも救われることを語りました。これが救われる言葉でした。

  • その時聞いていた人々の上に聖霊が降りました。それは、割礼などする暇も

なかったのに起ったできごとでした。そして、同行した6人もその場に居合わせて証人でした。ペテロも合わせると七人で完全な証人でした。

 3)神がお与えなるならどうして妨げることができましょう。

17 このように、わたしたちが主イエス・キリストを信じた時に下さったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったとすれば、わたしのような者が、どうして神を妨げることができようか」。18 人々はこれを聞いて黙ってしまった。それから神をさんびして、「それでは神は、異邦人にも命にいたる悔改めをお与えになったのだ」と言った。    17-18節

16節まで、順々と起こった出来事を語ってきたペテロは、異邦人の救いがこのように起こったのは、自分が何かしたのではなく、「神がなさった」と締めくくりました。 コルネリオの所に出かけて行ったのも、自分が思いついて行ったのでなく、神様の働きかけがあったからでした。一部始終を聞いていた一同は、しばらく沈黙しました。このところを榊原康夫先生は、『教会にディスカッションの仕方があるように、その終わり方にも、教会なりの終わり方があります。神のみ旨が解った時は、それまでの行き掛かりもメンツも自分の主義主張も全てを沈黙させるべきです。しかし、それだけでは気づまりを生みかねません。積極的に「神をほめたたえなければなりません」「それから神をさんびして、「それでは神は、異邦人にも命にいたる悔改めをお与えになったのだ」と。

こうして、初代教会のクリスチャン達は、イエス様のお与え下さった救いは、どこまでも恵みと、信仰によってのみ救われることを受け入れました。

そして、「この事は、それまでの生活習慣や、ものの考え方も違って生きて来た兄弟たちを受け入れる事です」と榊原先生は伝えます。民族の違いほどではなくても、全く環境の違った世界から、イエス様、聖霊様につながったお互いは、その後は、み言葉に聞きながらそこで一致して、生きるのです。このことを可能にするのは聖霊様にみんなが満たされることです。

先週の早天で内村鑑三先生の言葉が紹介されました。46才のとき、26歳で聖霊を受けた時の経験です。「聖霊を受けし時の感はこれである。すなわちこんな良いものは全世界にない。これさえあれば余はなんにもいらない。金はもちろん、位も名誉もなんにもいらない。家庭もいらない(もし神の聖意ならば)なんにもいらない。成功もほしくはない(もし神の聖意ならば)伝道に従事できなくともよい(もし神の聖意ならば)。なんにもいらない。ただこれ(聖霊)を永久にもっておりたい。・・これであるしかり、これである。これがキリスト教が人類に与えんとする最大の賜物である。これを受くるための手段とならずして、バプテスマの式も、聖晩餐の式も神学の研究も、日曜ごとの礼拝も、何の用にも立たない。これを得て、われは初めて満足するのである。これを得るまでは、われに何らかの不満は絶えない。・・これを我らに賜わんために、神はその一人子を世に遣わし、またキリストは我らのために十字架の上に血を流したもうたのである。ルカ11:13天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。

祈り。神様、律法によらず、信ずるだけで救われたことを感謝します。聖霊様に満たされ、このように一致していますという証しを持たせてください。

2024年1月21日(日)新宿西教会主日礼拝説教「人生の正月?」出エジプト記12:23 深谷春男牧師

今日は「お正月」の話をします。今年もお正月を迎えて、20日を過ぎようとしています。お正月はいいですね。子供の頃、「もういくつ寝るとお正月~♪~お正月には凧揚げて、コマを回して遊びましょう。~♪~早く来い、来いお正月~♪」などと歌いましたね。皆さん、お正月にはたくさんの思い出があるのではないでしょうか?わたしもお正月には、色々な思い出があります。

小学生の頃、お正月には親戚の方々が集まって、楽しいお食事会の時があり、東京の兄や、仙台の方のおじさんたちが集り、酒を飲んだり、ぼた餅や、お雑煮なども頂きました。うちの母と二番目の姉が、揃ってお餅をこねて料理をしていた時、20才ぐらい違うお二人が、同じようなお顔で、「あれ?うちの母とうちの姉はほとんど同じ顔だ。丸くてぽちゃぽちゃだ!」と感じました。

【今日の説教箇所の概説】   ロバート・リー先生の『輪郭的聖書』によれば、「出エジプト記」の理解の鍵となるのは12:23であると指摘しています。イスラエルの民が400年の奴隷生活をしいられ、あのモーセに導かれたイスラエルの何百人の奴隷たちが、大帝国エジプトを脱出する大スペクタクル。モーセを先頭に、昼は雲の柱、夜は火の柱に導かれ、「前は紅海、後は敵、進退ここに極まれり!」という中にあって、紅海は二つに分かれ、イスラエル民はその乾いた海底を通り、通り終わったとはエジプトの軍隊、戦車が波にのまれて海の藻屑となりました!空前絶後のスペクタクルですね。映画「十戒」に描かれた「出エジプト」の出来事は、一体、何を語るか?その理解のキーワードは12章23節にあると言うのです。

この12章には、イスラエルの国の一番大きな祭り、「過越の祭」の原点となった出来事が描かれています。新約聖書の中には主イエスが過ぎ越しの祭りの時に、十字架の上でほふられたことが記されます。新約聖書の「贖いの救いの業」は「過越の祭」と深い関係があるのです。

出エジプトの中心と言われる12:23には「主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである」と記されています。そして、この出来事は、新約においては神の小羊である主イエスの十字架の贖いの血潮を表現しています。

【メッセージ・ポイント】

1)1 主はエジプトの国で、モーセとアロンに告げて言われた、2 「この月をあなたがたの初めの月とし、これを年の正月としなさい。(1-2節)

   ⇒  過越の体験を、人生の正月とせよ!

  過越の祭がイスラエルの人々の生活の原点でした。この神の圧倒的な介入の事件を通して、彼らはあの強大なエジプトの力から逃れて自由を得たのです。唯一の救いの道は、「家の門と鴨居に、神の小羊の血を塗る事」だったのです。

 神様はイスラエルの民に、「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい」と命じられました。わたしたちの人生の原点、わたしたちの活動の原点はこの「過越し」の事実にあるのです。

 詩篇78篇42節を早天祈祷会で読みました。この詩編はイスラエルの民の歴史の総括の詩編です。「イスラエルの罪は贖いの日を思い起こさなかったことである」と結論付けています。「贖いの日を思い起こす」とは、この「過越しのできごと」を思い出すこと、主のあがないによって救いを得たことを思い起こすことを意味しています。イスラエルの民は、最後は選民失格として、バビロン捕囚という民族の破局に遭ったのですが、その原因は、「贖いの日を忘れ」この世の世界に埋没していったことだと語られています。

これは新約聖書では主イエスの十字架によって救われた原点を思い起こすことの大切さを語っています。信仰生涯は、救いの原点、主の贖いの原点を思い出すことです。これこそ「礼拝の場」でなされることです。礼拝の場ではいつも、主イエスの贖いの原点を見つめます。説教においても、聖餐においても、主イエスの十字架がそこには記されます。。この原点にいつも立って、自分の人生を築きましょう。「過越の祭り」こそ、わたしたちの正月なのです。

2)3 あなたがたはイスラエルの全会衆に言いなさい、『この月の十日におのおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。すなわち、一家族に小羊一頭を取らなければならない。4 もし家族が少なくて一頭の小羊を食べきれないときは、家のすぐ隣の人と共に、人数に従って一頭を取り、おのおの食べるところに応じて、小羊を見計らわなければならない。(3-4節)

  ⇒ 神の民は、家族ごとの行動であった!

   過越の祭は家族ごとの礼拝でした。これは注目に値することだと思います。現代は家族の崩壊の時代と言われます。人間関係は家族の中ではぐくまれます。父母の愛と兄弟姉妹との関係の中で人は育って行きます。特に26、27節は子供の参加が促されます。

  「26 もし、あなたがたの子供たちが『この儀式はどんな意味ですか』と問うならば、27 あなたがたは言いなさい、『これは主の過越の犠牲である。エジプトびとを撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、われわれの家を救われたのである』」。民はこのとき、伏して礼拝した。

  信仰の継承を真剣に考えたいと思います。教会では、礼拝やクリスマスやイースターなどの祝いの時があります。しかし、各家族で祝うのも大切であろうと思います。そこで福音を語り、救いの業をともに受けるのです。

 現代においては、家族で共に礼拝を守り、家族の祈りを大切にしたいと思います。子供たちは、教会でも、家庭においても、深く祈り、神を知ります。

3)23 主が行き巡ってエジプトびとを撃たれるとき、かもいと入口の二つの柱にある血を見て、主はその入口を過ぎ越し、滅ぼす者が、あなたがたの家にはいって、撃つのを許されないであろう。24 あなたがたはこの事を、あなたと子孫のための定めとして、永久に守らなければならない。

   ⇒  神の小羊の血を心の門に塗れ、また小羊を食せよ!

  ここには神様が介入され、エジプトへの最終的審判を下す姿があります。かたくななパロとエジプトの民に、10の災難があったが、最終的な審判、

長男の死という裁きが下ったと記されます。長男の死は民族の死滅を意味して

います。子孫の繁栄は、聖書の祝福の中には繰り返して言及される内容です。最終的な裁きに対する、神の唯一の救済の道は「入り口の二本の柱と鴨居に

小羊の血を塗ること」でした。これは実に象徴的なしるしです。神から遣わさ

れた「抜き身の剣を持つ裁きのみ使い」は、門と鴨居に血の塗られた家を「過

ぎ越した」のでした。外側から見たら、エジプトとイスラエルの家はそんなに

違いはありません。しかし、「塗られた血」は、神の印であり、神との契約の

しるしでもありました。我等もクリスチャンで、少しは心も清くされているかも知れないが、神の清い目からは同じ罪人なのです。主イエスの十字架の血潮

への信仰がロマ3:21-26、ガラテヤ2:16でも語られます。

それと共に、この間の礼拝説教でも、ヨハネ6章の聖餐の御言葉を学びました。。「47 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。48 わたしは命のパンである。51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。

55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。

56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。

4)14 この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り、代々、永久の定めとしてこれを守らなければならない。(14節)

  ⇒  救いの日を記念の日とせよ!

   主の救いを体験した者は、いつでも、主の救いを覚え、これを感謝し、主への献身の時とすべきです。それは「人生の正月」です。聖霊に導かれた、真実なる礼拝こそ、「人生のクライマックス」、栄光に満ちた出発なのです。日曜日ごとに、記念の日としましょう。お正月としましょう。ハレルヤ!

【祈り】 今日は聖書の語る「お正月について」、旧約聖書の中から、「過ぎ越しの祭」について学びました。この過ぎ越しの祭りこそ旧約聖書の中心でもありました。「贖いの小羊の血潮」。これはまさに、新約においては、神の小羊、主イエスの十字架の贖いの型、これは実に「人生の正月」であると学びました。いつでも、主イエスの十字架の贖いの業を思い起こす者としてください。主イエス御自身がわたしどものために贖いの供え物となってくださったこと。この主イエスの贖いを覚えて、おのが身を聖なる供え物として捧げることこそ真の礼拝であり、勝利の歩みであると、生活を通して、魂の深みまで悟らせて下さい。主イエスの御名によって祈ります。アーメン!

2024年1月14日(日)新宿西教会主日礼拝説教「見よ、わたしは参ります。」詩篇40篇 深谷春男牧師

今年は、元旦から震度7の能登半島地震と津波の悲劇。日航機と海上保安庁の飛行機が衝突、炎上。この地震で亡くなった方が220名を越えました。これから自然災害や国際的な関係も厳しさを増す中で、心の帯を引き締められました。しかしこの一年の初め、元旦礼拝は「権勢によらず、能力によらず、わが霊による。」(ゼカリヤ4:6)との御言葉。2日のホーリネスの群の首都圏新年聖会では「見よ、わたしは新しい事をする。その萌しは見えはじめた」(イザヤ43:19)。対面で開かれたのは4年ぶりで、吉川の会堂に大勢のなつかしい方々が集いました。4日は教会の聖研祈祷会。5日はお茶の水のTPCで説教「ホップ、ステップ、ジャンプ」(3つの出エジプト)、7日(日)の礼拝では「汝の信仰、汝を救えり」、9日断食祈祷聖会では、イザヤ6章から「イザヤの召命と残りの者」と励ましを受けています。勝利は主にあり!

【 詩篇第40篇の概略と区分 】

  この40篇の前にある詩篇38篇は、表題が「記念として」とあり、バックストン先生は「罪の記念」としていつも読むべき詩篇と解説されます。

バテシバ事件のもたらした罪の報酬は、恐ろしいほどの悲惨な結果として現れました。罪を犯した本人の恐ろしい内的苦悶のみならず、殺人や偽証の罪に及び、さらには、愛する者の死、家庭内の恐るべき憎しみと殺害事件、そして最後はアブサロムの反乱につながる内乱にまで発展し、イスラエルの国は、二分されて殺し合い、多くの人々が犠牲となりました。その苦しみを驚くべき克明さで記した詩篇の38篇は、決して忘れることのない戒めとして「罪の記念」として残されたのだ、バックストン師はこう語りました。そして、詩篇39篇はスキップして、詩篇40篇を解釈してこのように語ります。「本篇は38篇に反して、救いの歌である」と。

バックストン先生によればこの詩篇全体は以下のようになります。

 1―   3節  救いの7つの段階           

       6-  9節 献身の6つの段階

    10節 伝えるべき救いの内容

11―  17節 祈祷   

 ここにはわたしたちの「勝利の賛歌」とも言うべき内容が記されます!

【メッセージのポイント】           

1)聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌

1 わたしは耐え忍んで主を待ち望んだ。

主は耳を傾けて、わたしの叫びを聞かれた。

2 主はわたしを滅びの穴から、泥の沼から引きあげて、

わたしの足を岩の上におき、わたしの歩みをたしかにされた。

3 主は新しい歌をわたしの口に授け、

われらの神にささげるさんびの歌を

わたしの口に授けられた。

多くの人はこれを見て恐れ、

かつ主に信頼するであろう。(1~3節)

  ⇒ 「聖書の語る 救いの7つの段階!」 

バックストン先生の解説では「詩篇38篇において「罪」が表れ、詩篇40篇において「救い」が表れる。38篇にて「滅びの穴」また「泥の沼」とはいかなるものかが示され、40篇のこの7つの段階によっていかにして救い上げられるかを知ることが出来る。」

①神を待ち望む(1節)  - わたしは耐え忍んで主を待ち望んだ。

②祈りは答えられる(1節)- わたしの叫びを聞かれた。

③救われる(2節) -主はわたしを滅びの穴から、泥の沼から引きあげて

④確信が与えられて(2節)- わたしの足を岩の上におき、

⑤歩む力を授けられる(2節)-わたしの歩みをたしかにされた。

⑥神を賛美する(3節) -主は新しい歌をわたしの口に授け

⑦他の人々を導く(3節)-多くの人はこれを見て恐れ、かつ主に信頼する

バックストン先生の上記の解説によれば、「救い」ということを、7つの段階ということで示され、救いとは38篇で語られたような、罪、(滅びの穴、泥の沼)からの解放であることが明確に示されていますね。

マルチンルターがアウグスチヌス修道院で、毎日、詩篇を50篇づつ読むのが日課だったと言いますが、詩篇とロマ書から、宗教改革が起こったということを改めて、思い出されました。

③の「救い」の具体的な内容は、3)の9,10節の解説で詳細が語られます。新約までの内容を考えるならば、それは十字架・復活・再臨の「罪の赦しと永遠の命」と表現できる内容ですね。ハレルヤ

2)4 主をおのが頼みとする人、

高ぶる者にたよらず、

偽りの神に迷う者にたよらない人はさいわいである。

5 わが神、主よ、あなたのくすしきみわざと、

われらを思うみおもいとは多くて、くらべうるものはない。

わたしはこれを語り述べようとしても

多くて数えることはできない。

6 あなたはいけにえと供え物とを喜ばれない。

あなたはわたしの耳を開かれた。

あなたは燔祭と罪祭とを求められない。

7 その時わたしは言った、「見よ、わたしはまいります。

書の巻に、わたしのためにしるされています。

8 わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。

あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」と。

9 わたしは大いなる集会で、救についての喜びのおとずれを告げ示しました。

見よ、わたしはくちびるを閉じませんでした。

主よ、あなたはこれをご存じです。      (4~9節)

⇒ 「聖書の語る 献身の6つの段階!」

    再びバックストン先生の解説。「6節から9節までは、へブル書に引照されている言葉で、同書によって、これは主イエスの御言葉であることが解る(へブル10:5~7参照)。しかしここで学ぶべきは、われらは主イエスに従って人を救おうと願うならば、われらもまたこのようにいい、主が踏まれた道を歩み行かねばなりません。」そして6つの段階が示されます。

①心の耳を開かれる(6節)  - あなたはわたしの耳を開かれた。

②生涯を神に捧げる(7節)  - 見よ、わたしはまいります。

主イエスの御降誕は、父なる神への献身の結果。③神の御言葉に服従(7節)- 書の巻にわたしのためにしるされています             

御言葉に服従する者は、聖書にかなう生涯を送る④楽しんで神の働きをなす(8節-わたしはみこころを行うことを喜びます 

⑤御言葉を味わう。(8節)-あなたのおきてはわたしの心のうちにあります⑥忠実に救いを宣べ伝える(9,10節)-わたしは大いなる集会で

救についての喜びのおとずれを告げ示しました

 バックストン先生は、救いの道は献身の道へと繋がっていることを示しました。「以上のことは献身の道である。献身の6つの段階である。この詩篇の始めは、救いの段階である、次は献身の段階である。」

3)10 わたしはあなたの救を心のうちに隠しおかず、

あなたのまことと救とを告げ示しました。

わたしはあなたのいつくしみとまこととを

  ⇒「聖書の語る 救いの内容」

この10節には、救われ、献身したものが語るべき救いの内容が記されます。①神の義  -わたしはあなたの救(原語は「義=ツェデク」)を

      神が罪人を義とされる。ロマ3:21~26 福音の中心。

②神の真実 - あなたのまこと(エムナー=アーメンの原義)、

契約に真実なこと、神はダビデへの契約を成就された

③神の救い - あなたの救い(イシュア=神の救済=主イエスの名)。

④神の慈しみ- あなたのいつくしみ(ヘセド=神の契約愛)

⑤神の真理 -あなたのまこと(エメス=神の真実、巌のような世界の支え)

4)11 主よ、あなたのあわれみをわたしに惜しまず、

あなたのいつくしみとまこととをもって常にわたしをお守りください。

12 数えがたい災がわたしを囲み、わたしの不義がわたしに追い迫って、

物見ることができないまでになりました。

それはわたしの頭の毛よりも多く、

わたしの心は消えうせるばかりになりました。

13 主よ、みこころならばわたしをお救いください。

主よ、すみやかにわたしをお助けください。

 ・・・ 中略・・・

16 しかし、すべてあなたを尋ね求める者は

あなたによって喜び楽しむように。

あなたの救を愛する者は常に「主は大いなるかな」ととなえるように。

17 わたしは貧しく、かつ乏しい。しかし主はわたしをかえりみられます。

あなたはわが助け、わが救主です。

わが神よ、ためらわないでください。     (11~17節)

⇒ 「最後は、聖書の語る 熱き祈り!」

今、この詩篇40篇は、熱き祈りをもって締めくくりとしました。詩篇の38篇に示されたような罪の力に敗北する人間が語られた後に、詩篇40篇のように、この罪の力からの救いを求めての熱き信仰の告白がなされます。

神の救いの7段階を覚えよ。そして、献身の6段階を覚えよ。救いの証し人として語るべき内容を覚えよ。いかなる試練の中にあっても、神の顧みを覚えて、「わが助け、わが救い主、わが神よ!」と叫びつつ、閉じられます。

【 祈り 】父なる神、あなたの前に出る時に、「記念として」詩編38篇を覚える者とし、更にあなたの救いである詩篇40篇を一緒に必ず覚える者としてください。その罪の恐ろしさと共に、神の救いの恵みをはらわたに刻んでください。あなたの義、あなたの真実、あなたの救い、あなたの慈しみ、あなたの真理、その具現者なる主イエスとその究極の姿なる主の十字架と復活と再臨を覚え、わが助け、わが救い、わが神!」と祈る者としてください。わたしどもの救い主、主イエスの御名によって祈ります。アーメン! 

2024年1月7日(日)新宿西教会2024主日主日説教「汝の信仰、汝を救へり!」ヨハネ福音書3:16 深谷春男牧師

この1年初めの主日礼拝で何を語りましょうか?と祈っていたら、この言葉が、心に浮かびました。「あなたの信仰があなたを救った。」 

昨年の暮れに、ある姉妹と話しておりましたら、「わたしの信仰は、あまり深くはありませんが、マルコ5章にある言葉、長血を癒やされた女性へのイエス様の言葉「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」(マルコ5:34)わたしの信仰は、この言葉につきます。」ハレルヤ

愛する、兄弟姉妹!今朝の御言葉ははっきりしています。

「あなたの信仰があなたを救った!」。アーメン

それじゃあ、聖書で言う「信仰」とは何か?

旧約聖書は、ヨブ記19:25 イザヤ53章。

新約聖書は、ロマ3:21~26。ガラテヤ2:16。

これはいつも語っている。

そうだ!この日は、聖書で言う、小聖書と呼ばれる、ヨハネ3:16を読んでみよう。ここに全てがある。ハレルヤ!

【 今日の聖書箇所の概説 】

 このヨハネ3章16節は宗教改革者マルチン・ルッターによれば「小福音書」。これは聖書66巻の要約。福音の最も短い宣言。人間の語った言葉の中で最も尊い言葉。ここには黒崎幸吉先生によれば、7つの聖書の中心課題がつまっているというのです。             

①救いの源は「神」、

②救い主は「神の独り子(=イエスキリスト)」

③救いの対象は罪深い「世」、

④救いの方法は独り子を「与える(=十字架のあがない)」こと、

⑤救いの動機は「愛」、

  • 救われるためにすべきことは彼(=イエス)を「信じる」こと
  • 信じた結果は「永遠の命」を得ること。 

【メッセージのポイント】

  • 16神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 (3:16)

⇒ 神は世(=あなた)を愛された。

 16節はギリシャ語の言語では3つに分かれています。その第一は「愛された、神は、世を」という語です。世とは神の創造された世界の意味です。特に被造物の中の人間の世界をいう言葉です。神は人間とその住む世界を深く愛された。父母が子供を慈しむように、包み込む、限りないやさしさをもって愛された。この「世」という所に、名前を当てると良いと言われますね。神は「深谷春男」を愛されたと言う意味です。

 最近は年を取ったせいもあってか、涙もろくなってますね。数年前、結婚式で田舎に帰り、久しぶりにあった兄弟達と夜おそくまで、幼い頃の思出や、すでにこの世を去った父や長兄の思い出などを話したことがありました。貧しい中で自分たちを精一杯育ててくれた両親や一緒に育った兄弟の愛を深く感じました。翌日、一番早い新幹線で帰ったが注がれた愛の恵みに涙が流れてとまらなかったことがありました。    

 最近は年を取ったせいもあってか、静かに祈る時に、神様の愛が深く深く心に迫る時があります。聖書の語る救いは、この「なつかしい父母の愛」を思い起させる、否、この父母の愛を更に浄化した「神の愛」を知ることに始まるのですね。

「君は愛されるため生まれた」という讃美があります。66歳の誕生日の時に与えられた恵みの賛美でもありました。「わたしの目にあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ43:4。「わたしは限りなき愛をもて、あなたを愛している」エレミヤ31:3。驚くばかりの神の愛!これが聖書の語るメッセージです。アガペーの愛です。

  • 16神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 (3:16)

⇒ 神の愛(アガペー)、その第一は、罪の赦しです。    

 神の愛(アガペー)は限りない愛です。それは人間の理解を越えた深い、真実な愛です。それは神の独り子イエスキリストをくださるほどの愛、すなわち、わたしどもを罪から立ち帰らせるためにご自身の独り子、主イエスキリストを十字架にかけられたほどの愛です。  

 自分の子供は可愛いものです。自分の分身でもあり、小さい頃から心の交流があるのでいとおしさとなつかしさとが入り交じった感情が伴うものです。神は反逆する人間を愛してご自身の独り子を犠牲にされたのです。ここに神の深みと人生のすべての問題の解決があります。十字架こそ神の知恵と愛の結晶なのです。

数年前のケズィック・コンベンション東京大会で講師のカンビル先生がこのような話をされました。「わたしたちの生涯は主イエス様の十字架の血潮で贖われた生涯です。主の尊い御血潮をないがしろにしてはいけません。あるお母様のことを聞きました。このお母様は、息子を交通事故で亡くされました。事故のことを聞いて息子さんの事故現場に駆けつけました。その時はまだ息子さんは車の下で命があったそうです。でもこの息子さんの血が道路に溜まって、血だまりになっていました。そしてついに息子さんは亡くなりました。やがて事故現場の整理がされて通行が元に戻ると息子さんの血だまりだったところを多くの車が走り去りました。お母さんは思わず「わたしの息子の血、わたしの息子の血を粗末にしないで~!」と叫んだというのです。

「息子の血を粗末にしないで下さい!」これは天の父である神様の心からの叫びでもあります。           

 以前、吉川で牧会していたとき、転入会された韓国の姉妹の証しが載っていました。それを読みながら、感動を新たにさせられました。プロポーズをされた時に、結婚の条件を二つ出されたというのです。

  • 一緒にまことの神、主への礼拝を守ること。
  • 頂いたお給料の中から、収入の十分の一を捧げる。

 K兄はそれをうけいれて新しい歩みに入ったと証しされております。

主イエスの血潮を粗末にせず、わたしのために流された血潮を、毎週礼拝の中で覚えつつ、特に聖餐式のある時はなおさらですが、主イエスの贖いの血潮に、感謝と恐れとをもって歩みたいものです。

  • 16神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 (3:16)

⇒ 神の愛(アガペー)、その二つ目は、永遠の命です。              

 ここには「すべて彼(イエス)を信じる者の永遠の命を得るために」とあります。主イエスを信じる者には「永遠の命」が与えられる。永遠の命とは、時間的な長さのみならず、絶対的な命、死をも乗り越えた命を意味する言葉です。主イエスを信じるものはこの新しい命、神の命を内に持ち、この命に生き始めるのです。「永遠の命の泉」を宿すのです。

しばらく前に、祈祷会で詩篇16篇を読みました。この詩篇、黄金で書きつけるべき、ミクタムの歌と言われますが、そこには、永遠の命なる神の恩寵経験があまりにも鮮やかで、「主の慈しみに生きる者は墓穴 を見ない!」と歌います。神の命の中を歩む者にとって、「死」は実に恵みの現実と合わないのです。聖書の信仰は、永遠の命の確信と喜悦充満の世界です。

ヨハネ6:51にも次のような言葉があります。 「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」 これは聖餐式の主題でもあります。今日は説教後に、千沙子牧師による初めての聖餐の司式があります。共に恵みに与ると共に、罪の贖いと永遠の命を深く覚えましょう。6:47にも「信じる者は永遠の命を得ている」とあります。「信じる者には永遠の命がある!」。

わたしどもの先輩たちを見ると永遠の命を得ている方々の証しです。

わたしの尊敬する伝道者、藤井武先生は、最後などは、布団の上に寝かされていたが、走るような姿だったと矢内原先生は書いています。

三室泰平兄は池袋の病院にお見舞いに行った時に、もう声も出ませんでしたが、天を指差し、「天国でまたお会いしましょう!」と、地上の最後の挨拶とされました。

小松川教会の飯寄ます姉の証しは、高山松枝牧師夫人の召天の証しでした。布団の上に正座して、花を一輪持たれ、婦人会の姉妹方に最後の挨拶をされました。「わたしは近いうちに天に召されます。皆さん。しっかり信仰を持って、最後まで歩みましょう。どのような時代になっても、最後まで信仰を全うして主イエス様の前に出て、善かつ忠なる僕、よくやったと言われるお褒めの言葉を頂くのですよ」。

【祈祷】 天の御父!2024年初主日礼拝感謝します。この朝、「汝の信仰、汝を救へり」の御言葉を感謝します。ヨハネ3:16の信仰に立たせてください。あなたの愛が良く分かりますように。その中でも、イエス様の流された十字架の血潮の、赦しの福音を深く理解できますように。また死をも越えた復活の命、永遠の命の「確信」を与えて下さい。能登半島に地震に被災者を守って下さい。ウクライナ、パレスチナの戦火の中にある人々に救いと命を!主の御名によって祈ります。アーメン