説教「強く雄々しくあれ!」 

2020年2月23日 主日礼拝
聖書箇所:ヨシュア記1:1~9
説教:深谷春男牧師

第59回「日本ケズィック・コンベンション」が熊谷市の森林公園のホテル・ヘリテージで18日(火)~20日(木)に開催されました。わたしは1973年の頃から参加し、多くの恵みを頂いてきましたが、今年も新たな恵みを頂いてきました。今年のテーマは「聖霊の満たしと大胆な宣教」。イギリスからリスブリッジャー先生、アメリカからオズワルト先生が来日され、リスブリッジャー先生は「山上の説教」から、オズワルド先生は主に旧約聖書から、「聖化の恵み」の大切さを語られました。今回は、特に日本人講師の先生方との交わりがとても刺激的でした。

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説教「安息日の歌」礼拝者のセルフイメージ 

2020年2月16日 主日礼拝
聖書箇所:詩篇92編
説教:深谷春男牧師

 わたしどもクリスチャンの生涯は、神の恵みにあふれつつ歩む生涯です。それは、まず、あふれる神の恩寵があって、人間はその恩寵に答えて生きると言うことです。もっと具体的に言えば信仰生涯とは、主イエスの十字架のあがないの業によって、罪赦され、神と和解し、神の子供となり、新しい人生に生きることになったというものです。
クリスチャン生涯のクライマックスは主日礼拝です。

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説教「種まきのたとえ」  

2020年2月7日 主日礼拝
聖書箇所:マタイ13:1~23
説教:深谷春男牧師

18歳で、大学受験の準備をしていたころ、親友のS君のアパートで、夕食を共にし、芸術論について色々なことを話し合いました。その中で、わたしが最近、教会の礼拝に出席していることを話した時に、この友人は、わたしにこのようなことを話しました。「実は僕も熊本にいた時に、子供のころに教会学校に行き、青春時代も何回か教会に行ったことがあるよ。深谷が教会に行ってキリスト教の教えを聞くことは素晴しいことだと思っている。僕も何回か教会に行ったが、印象に残っているのは『種まきのたとえ』だね。

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説教「砂漠は喜び番紅花の如く花咲く」  

2020年2月2日 主日礼拝
聖書箇所:イザヤ35:1~10
説教:深谷春男牧師

 日本の暦ですと2月3日が節分、2月4日が立春となります。1年で
一番寒い時ですが、わたしたちはその寒風の中に春の到来を感じとり、
立春を祝います。旧約の預言者らは、いつもイスラエルの不従順と罪と
に対決し、冬のような厳しい霊的な状況の中にあっても神の恵みの時、
福音のかぐわしい春の到来を感じ取っていました。元旦から毎日読み続
ける聖書箇所の一つイザヤ書は、2月4日には35章を迎えます。  続きを読む 説教「砂漠は喜び番紅花の如く花咲く」  

説教「人生巡礼の歌」     ーバカの谷を通ってもー  

2020年1月26日 主日礼拝
聖書箇所:詩篇84篇
説教:深谷春男牧師

 スポルジョンはこの詩篇84篇をこのように語っています。「もし、詩篇23篇が最も人気のあるもの、103篇が最も喜びに満ちたもの、119篇が最も深い体験によるもの、51篇が最も悲痛に満ちたものであるとすれば、この詩篇は最も甘美な平安の詩篇である。」慰めと祝福に満ちた甘美な詩篇を学びます。

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説教「見よ、わたしは新しい事をする」ー三つの出エジプトー  

2020年1月19日 主日礼拝
聖書箇所:イザヤ43:14~21
説教:深谷春男牧師

 今年のホ群新年聖会の「テーマ」は、「見よ、わたしは新しいことをする」でした。説教者は横山好江先生と島隆三先生。お二人ともイザヤ書から、神様に恵みによる勝利の生涯を語っていただきました。説教を聞きながら、小林和夫先生が語られた「三つの出エジプト」という説教題が心に浮かびました。オリンピック三段跳びのように、ホップ・ステップ・ジャンプのイザヤの主題を見たいと思います。

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説教「ひとえにイエスキリストの御名による」  

2020年1月12日 主日礼拝
聖書箇所:使徒行伝4:1~12
説教:深谷美歌子牧師

 台湾の選挙戦が終わりました。まさに戦争のような激しさですね。この選挙戦の結果如何で、今後の国のありようが変わっていきます。両陣営も必死であったことです。
 この歳になって世界の仕組みが少し見えています。もしも、わたしたちの日本において、自分の支持した政党が、政権を取れなくても、わたしたちは、自分の今あるところから、出て行かねばならないということはほとんどありません。そして、国の方向が、自分の願わない方向に進んでも、いくら主権在民といっても、わたしたちの個人の小さな力では、世界を変えることはむずかしいのが現実です。
 ところで、国の方針に従わなかったら、どうなるのでしょうか。現代の日本では、「言論の自由」が保証されていますので、少しぐらい過激な発言をしたからと言って、逮捕されるとか、殺害されることはほとんどありません。
 でも、現代でも、国によっては、体制に反対する者は、捕らえられるとか、殺されるところもあります。
 今日の聖書箇所は、約二千年前のエルサレムでの出来事です。話をしただけで、捕らえられ、迫害された人の記事です。何が起こったのでしょうか。

【聖書箇所の概説】
1-3節 ペテロ達がイエスキリストの復活を語り、為政者達に捕えられる。
  4節 ペテロの言葉を聞いて、五千人者人々がキリストを信じた。
5-12節 誰の権威で、ペテロは足の萎えた人を癒やしたのか?それは、「ひと えにイエスキリストの名による」。
 3章のはじめに、エルサレムの「美しの門」の前で、物乞いをしていた足のなえた男性の癒しがありました。ペテロとヨハネの「ナザレ人イエスの名によって歩け!」という言葉によって、彼は、歩き始めました。彼は、歩ける奇跡を体験して、うれしくて、歩き回ったり、踊ったりしながら、境内に入って行きました。前回はそこに神の国が誕生していたことを見ました。
 ペテロとヨハネの回りに集まってきた人々に向かって、ペテロは、「主イエスの十字架と復活」を大胆に語りました。
 今日のところは、この話を聞いた神殿の権威者達が二人を捕らえ、ペテロとヨハネが、議会に呼び出されて、取調べを受けたところです。

【メッセージのポイント】
1) 主イエスに起こった死者の復活を宣べ伝える。
 1 彼らが人々にこのように語っているあいだに、祭司たち、宮守がしら、
サドカイ人たちが近寄ってきて、2 彼らが人々に教を説き、イエス自身に起った死人の復活を宣伝しているのに気をいら立て、3 彼らに手をかけて捕え、はや日が暮れていたので、翌朝まで留置しておいた。  (1-3節)
 ここには初代教会のすばらしい信仰の記録があります。ペンテコステに聖霊の降臨、内住を経験した弟子たちは、祈りとみことばの学び、神の家族の交わりを続け、イエス様の十字架と復活を宣べ伝えました。すると、主イエスの名による奇跡の業が起こりました。そのたびにペテロやヨハネたちの説教があり、証しがあって、主の教会(神の国)に加えられる人たちが次々と起こされました。ペテロとヨハネが話したのは「主イエスの十字架と復活による救いのこと」、「この主イエスこそが旧約の預言者たちが記していた救い主であること」「今、悔い改めて洗礼の恵みに預かり、永遠の命を受けよ!」というものでした。
 ところが今日の箇所では、この説教を聞いた、祭司達、宮守がしら、サドカイ人達が「イエス自身に起こった死人の復活を宣伝しているのに気をいら立て、彼らに手をかけて捕らえ、留置所にいれた」と記しています。
 ここには、明らかに「イエス自身に起こった死人の復活」が逮捕の理由であったと記されています。
 サドカイ人というのは、当時の社会の政治的権力者達で、祭司、貴族階級であったようです。ローマの支配におもねって、旧約聖書以外の口伝を廃し、合理的に解釈する進歩主義者であったそうです。彼らは、「復活とか、天使とか、霊とかは一切存在しない」(使徒23:8)と説きながら、民衆を導いていました。ですから、このとき、弟子達が「イエス自身に起こった死人の復活」を語っているのに気をいらだてたのです。しかも、ユダヤの指導者である彼らが、つい五十日ほど前に、十字架につけて殺した、あのイエスが復活したと言うものですから、我慢がならなかったのです。
 現代の教会も、この世に伝えるメッセージは、同じ事です。「主イエス様は私達の罪を負って死に、死を打ち破って復活し、昇天し、地上に聖霊を送られた」というメッセージです。
 教会の伝道は、教えではありません、世界に起こった歴史的な事実を伝えるものです。
 藤井圭子先生は仏教に真理があると思って、追求しました。出家得度し、その教理を教えられ、それを得るために、専心修行しました。しかし、得られるはずの解脱が得られませんでした。失望した藤井先生は、還俗して小児科医となりました。その後も、真実な方ですから、自分の心の底にある、いやな自分を時々発見するのでした。あるとき、自分の家の隣に教会ができて、特別集会がありました。伊藤栄一という説教者が、「イエス様がわれらの罪を贖って死んで下さり、死を打ち破って復活し、聖霊を送ってくださった、あなたもこれを受け入れて、新しい命を頂きませんか?」藤井圭子先生は、感じるところがあり、集会の終わりに、伊藤先生にお願いして祈っていただき、この聖書のメッセージを受け入れて帰りました。次の日、彼女は、自分が変わったことに気がつきました!「あの嫌いな夫のところに訪問に行くのに、車のハンドルを握ってもいつも感じる「あの夫のところにゆくは、いやだな~」という感情が湧かなかったのです。「あ!わたしは変えられた!」これは、藤井圭子先生になされた神様の業でした。教会は、2000年の間、主意エスを信じて、心の変えられた人々の経験した人々の証言によって、つづられ、伝えられてきました。


2) 聞いて信じたものが五千人にもなった
しかし、彼らの話を聞いた多くの人たちは信じた。そして、その男の数が五千人ほどになった。              4節
 4節には「彼らの話を聞いた多くの人たちは信じた。そして、その男の数が五千人ほどになった」と記されています。ペンテコステ当日に洗礼を受けたものが三千人でした。女性も混ぜたらあっという間に1万人の教会が出来上がったことになります。
 ペトロとヨハネが説教をして、「祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々がやってきて、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた」と記されています。宣教をはじめて、最初の迫害が起こりました。
 冒頭でお話ししましたように、当時の為政者による、言論の封じ込みです。彼らは、それが事実であるか否かであるよりも、自分たちの統治を邪魔する者を逮捕したのでした。このところを「もしイエス様が本当によみがえらなかったのだとしたら、イエス様の死体を提示すればよかったのだ」と書いている方がいました。なるほどと思います。弟子達が盗み去ったと番兵達に言わせて、今日でもそれがユダヤ人の間に広まっていると、マタイ28:11-15には書いてあります。復活の事実が、嘘であったなら、とことんイエス様の遺体を捜せばよかったのです。
けれども、それは証明できませんでした。それでも、イエス様の復活を証言する弟子達を捕らえたのでした。
 しかし、このような妨害にも関わらず、信じた者が五千人も起こされたのでした。普通でしたら、一人の人間が、体制にもの申しても影響を与えることなどほとんどありません。足の萎えた人が癒やされた事実と、聖霊に満たされて、ペテロが語った証言の言葉を聞いて、信じた者が次々、起こされたのでした。


3) 聖霊に満たされて
8 その時、ペテロが聖霊に満たされて言った。   8節
 翌朝、ペトロとヨハネとは議会に連れ出されて、居並ぶユダヤ教の権威、議員、長老、大祭司の中で尋問されました。これは当時の最高権威のサンヒドリンの議会でした。日本で言えば国会です。「お前たちは何の権威によって、誰の名によってああいうことをしたのか?」との尋問です。
 今回ここを学んでいて、教えられたことは、このときの尋問内容が、前日の逮捕時の理由と異なっているということです。サドカイ人達は、合理主義で、「復活とか、天使とか、霊とかは一切存在しない」(使徒23:8)という信仰を持っておりました。が、このサンヒドリンの議会には、律法学者、パリサイ人も加わっていました。彼らは、復活を信じる人々でした。それで、復活を説いていたという理由では、一致できないということになり、尋問の内容が、足の萎えた男の癒やしを、誰の権威によってしたのかと、変わっていました。彼らがいかに日和見で、確固たる真理に基づく行動でなかったかを表しています。それにしても確かに大勢の群衆が集まり、治安を乱したとはいえるかも知れません。
しかしこの設問を逆手にとるようにして、二人は聖霊に満たされて言ったとあります。 以前、イエス様が議会に引き出されたときには、何を語るかと心配するな。聖霊が教えると語られたとおり、無学なただの人であるこの二人は大胆に適切に語りました。
 今も、全て求める者に来てくださる、聖霊は、イエス様が世の終わりまで共にいると約束されたことを実現してくださっています。わたしたちも、この方にいつも依り頼みましょう。


4)ひとえにイエスキリストの名によって!
あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。   10節
 

「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」12節
 当時の最高権威であるサンヒドリンの議員の前で、イエス様を十字架につける決議をした議会の中で、「あなた方が殺した、あのイエスが今も生きて、このことをされたのです。」これが弟子たちの答えでした。
 12節の言葉は最高の権威は、イエスキリストと宣言しています。そのイエスキリストの名の権威のもとに語ったのだと語りました。
 罪のない神の子、イエスキリストの十字架による罪の身代わり、死を打ち砕かれた主イエスの復活!全ての権能を頂いて、共にいて、語るべき言葉を教え、主の愛を満たしてくださる、イエスキリストの霊、聖霊の臨在!
 わたしたちもこの権威のもとに立てられていることを深く覚えましょう。この世では、能力や容姿、立場で、価値が計られます。
 相模原で19人も殺害した人が、意志を表せないものは生きている価値がないというようなことで、殺害したと聞きました。全ての人は神の前に罪人です。しかし、そのことを認め、イエス様の十字架が、我がためであったと認め、悔い改めてイエス様を信じるものは、神の子とされます。最高権威の許に置かれるのです。
 ペテロもヨハネも、当時の世界でも「無学なただの人」(13節)でした。
謙遜に、でも堂々と歩みましょう。天下にイエスキリストの外に救いはない!と光を高く掲げながら。      ハレルヤ!


【祈り】 父なる神様。今日は新年第二聖日です。年頭にあたり、わたしたちが、何よりも確かな権威の中に生きる者とされていることを、御言葉によってお示しくださってありがとうございました。人間の罪をイエス様が十字架で贖われたこと、信じた私たちが聖霊に依り頼み、神の命に生かされていることを、経験させてください。今日のペテロのように「この名のほかに救いなし!」と混沌としたこの世界に、大胆にイエス様を証しする者としてください。主の御名によって祈ります。アーメン。 

 

説教「脱出の道を備えたもう神」  

2020年1月5日 初主日礼拝
聖書箇所:1コリント10:13
説教:深谷春男牧師

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 このお正月、皆さんいかがお過ごしだったでしょうか?わたしは、元旦礼拝で恵まれ、新年聖会で深く取り扱われ、毎朝6時から早天で、毎朝、喜びに満ちた出発をさせて頂きました。また、子供たち、孫たちが、お正月で家に集まり、9人の家族に囲まれて、楽しい時間を過ごしました。新しい体験もいくつかし、「すみっこぐらし」のアニメとか、ドラマ仕掛けのダイエット体操とか、刺激的な体験もありました。京都からはるばるやってきた四歳と七歳の孫も、食事の時には、大きな声で祈ってくれて、感激でしたね。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われる」(使徒16:31)の御言葉を、今更ながら、思い起こすひとときでした。ハレルヤ 

 さて、今朝は有名な第1コリント10:13、一節からのメッセージです。

 前任地で牧会をしていた時に、刑務所から出てきたという方が来られました。この方は、刑務所で教誨師の話を聞いてきましたと言って、こう話されました。


 「わたしは実は恥ずかしいことをして、刑務所に入っていた者ですが、刑務所で聖書の話をしてくださる牧師先生が毎月来られまして、このようなお話をされました。実に立派な方でわたしは毎回、楽しみにしておりました。


 第1回目の話は「神さまは愛なるお方です」というお話でした。
その初めのところで、放蕩息子のお話をされました。お父さんから受け継いだ財産を使い果たした息子がぼろぼろになって帰って来る。お父様は息子がいつ帰ってくるか、いつ帰ってくるかと待ちわびておられる。そして帰ってきたらとがめることなく迎え喜んでくださる。これが天の神様の姿と教えられました。涙が出るほど感動して、その話を聞きました。
 第2回目の話は「キリスト様の十字架」のお話でした。
何一つ罪のないイエス様が、わたし達の身代わりになって、全ての罪を負ってくださった。人間は刑務所に入った人だけが罪人ではなくて、全ての人が罪人。心の中で犯した罪を厳密に見てゆけば、神様の前ではすべての人は罪人。環境が悪かったり、偶然、罪の出来事に会わなかっただけのことで、義人はいない、一人もいないと聖書は教えていると話されました。人間の救いはイエス様の十字架を信じるとき始まるのだ。心にイエス様をお迎えして、救いを頂きなさい、と語られました。救いはキリストの十字架にある。感心しました。
 第3回目の話は「天国」のお話でした。
イエス様を信じて、罪の赦しを得たら、こころは軽くなり、こころの平安が与えられる。そして、永遠の命をいただけるということです。人間はいつも死ぬ事がこわいのですが、イエス様の信じるなら天国にイエス様がお迎えしてくださる。死の恐怖から解放されるということでした。・・・」
わたしはこの人の話を聞いていて、すごい。とても真実な、牧師先生が、教誨師になって、キリスト教の基本を教えられたんだ。また、この方は刑務所で深く反省して、お話を良く聞いておられたんだと感心しました。
  それから彼は、4回目の話をされました。
「はて、第1、神の愛、第2、キリストの十字架、第3は天国、そしたら、第4なんだろう?」と興味を持っていたら彼はこう言いました。
 第4回目の話は、[脱出の道]です。
わたし達が、神様の愛を知り、罪の赦しを受け、天国を確信して楽しい、充実した人生が始まる。刑務所を出ても、このことを忘れないで、神様に祈りながら歩んでくださいね。そうすれば、必ず道は開けます。そして、1コリント10:13のすばらしい言葉を忘れないで歩みましょう。暗唱できるといいですね。皆さんも刑務所から出て行ってから、いろんな試練があるでしょう。でも、神様は、真実な方ですから、「あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはない」と教え、更に、「試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さる」のです。ああ、これは厳しいな、試練だな、と感じるような時にも、しっかりとその場所に留まり、のがれの道を神様が備えられているのを信じて、立派な社会人となってくださいね、と言われました。」

 わたしは思わず、なーるほど!と思いました。
 神の愛、十字架の贖い、天国の確信、そして、「脱出の道」を備えたもう神への信仰。ああ、現実の厳しさを乗り越えるには、神様の助け、「脱出の道を備えてくださる」という信仰が大事なんだと、わたしに悟らされました。
 さて今日は前置きが少し長くなりましたが、わたしたちがこの世で試練を受けた時に、いつでも立ち返る有名な聖句を共に頂きましょう。

【今日の聖書箇所の概略】
 今日ご一緒に読みましたコリント信徒への第一の手紙は、伝道者パウロのコリント教会宛の手紙です。コリントという町は紀元一世紀、繁栄を極めたギリシャの港町でした。豊かな繁栄は、人間の自由や尊厳、人間として充実した文化生活へと人々を導きます。けれども、歴史の中で常に見る事ですが、それらの文化の発展と共に、快楽や欲望の追求が、人間の倫理的な生活を圧迫し、風紀の乱れを生んでゆきます。コリントの町もそのようでありました。当時は「コリントする」という言葉が作られ、「放蕩三昧をする」という意味で使用されるほど、コリントの環境は乱れておりました。
 しかし、コリントの教会は非常に活発で、伝道意欲が旺盛で、教会は大きく成長していったようであります。でも様々な問題が起きて、コリント教会の主だった人々が、パウロ先生に質問の手紙を書きました。それに対する答えが、現在、コリント信徒への手紙として、第一、第二の手紙としてわたしどもは読むことが出来るのであります。ですから、そこには具体的な質問事項、教会の中の分裂問題、結婚問題、礼拝の持ち方、聖餐式の持ち方、霊的な賜物のこと、一部の教会員の中にあった復活信仰の否定のことなど、細やかな配慮のもとに記されています。そういう中でも、今日の聖書箇所はすばらしい、深く霊的な内容を教えています。
 特に、わたしどもが試練にあったときに、どのようにその試練を乗り越えるかが、記されています。

【メッセージのポイント】
1)13 あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。                     Ⅰコリント10:13
 ⇒ 耐えられないような試練はない!
 わたしたちの生涯には多くの試練がありますね。ある方の証しを聞いたら、試練の時に、「あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはない」という御言葉が心に浮かんだというのです。そのような意味でこの聖句は大きな慰めに満ちたものです。神様はすべてを知っておられて耐えられないような試練は与えられないというのです。
この手紙の書かれたコリントの教会は、多くの「試練」を経験しました。分裂や争い、不平やつぶやき、傲慢や異端、偶像礼拝や性的な不品行・・・。伝道者であり、牧会者であるパウロは、ここで神の民として歩むわたしどもへの戒めを語ります。「試練」はいつの時代でもやってきます。しかし信仰によって勝利できない「試練」や「誘惑」(ギリシャ語でpeirasmos。この語は試練と誘惑のどちらにも訳せる)はないのだ、と言うのです。パウロはここで、イスラエルの民がエジプトを脱出してから荒野で経験した試練を語ります。

①は偶像礼拝。

②は性的不品行。

③は神の臨在への不信仰。

④はつぶやきです。
 しかし皆さん、自分のあった試練を思い起こしてください。外から見るのと自分の中で体験するのはかなり違いますね。わたしも、2010年の5月から約半年間、声が出なくて説教者としては本当につらい経験をしました。のどの治療にも病院に6ヶ月かかりました。2ヶ月に一回ぐらいはのどに内視鏡を入れて、のどの内側のポリープなどを見ます。あの検査がいやでしたね。鼻の穴に麻酔をスプレーでかけ、そこからカメラを入れてのどの部分を見るのですが、のどのところが通りがよくない。強く押し込むと、ゲッとのどの筋肉が、そのカメラを押し出すのですね。お医者さんが「はーい、ごめんなさいね、はーい、すぐ終わりますよ・・」など言うのですが、4,5枚の写真を取るので何回も、「ゲッ、ゲッ・・」となるのです。体に医療器具を入れるのはいやですね。
 愛する兄弟姉妹!試練に直面した時に、いつでもこの聖句に立ち返りまし
ょう。神様は「耐えられないような試錬に会わせることはないお方」と。昨年、白血病の宣言を受けた水泳の池江璃花子さんが語ったので有名な言葉です。

2) あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。                     Ⅰコリント10:13
⇒ 神は真実なお方!
  続いて彼は、たいへん重要な言葉を語ります。
 「神は真実である」。
 この一語はわたしどもの生涯を支える力のあるような言葉です。この世界を創造し、導いておられるまことの神は「真実なお方」であるとの告白です。これは長い間信仰の生涯を歩まれた方々の心からの告白でしょう。時には信仰のゆえに試練に遭ったり、損をするように見えたりすることもあるかもしれない。そのような時は主を見上げ、「神は真実!」と祈りつつ、歩みましょう。

3)13 あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。                     Ⅰコリント10:13
⇒ 脱出の道を備え給う神!
 この真実なるお方はわたしどもにどのような試練がやってきても、かならず「のがれの道」を備え給うとパウロは語ります。「のがれの道」とはekbasis という語でこれは「細い道、狭い山道から出る道」を意味しています。「敵に包囲された軍隊が突然、安全への逃げ道を発見するといった含蓄を持つ言葉」(バークレイ)だそうです。新改訳では「脱出の道」と訳しています。今日はわたしは説教題に、新改訳を用いさせていただきました。
 わたしどもの生涯では新しい学校に入ったり、新しい会社や慣れない環境に
置かれることもしばしばかもしれません。しかし、厳しい試練やサタンの甘い誘惑に出会った時に、恐れ惑うなかれ。まず、主を見上げて、「主よあなたを愛します。力を与え給え!」と祈りつつ歩みましょう。主は必ず「脱出の道」を備えてくださるのです!究極の脱出の道は、神の御言葉と祈りですね。ある教会の非常口に「人生の非常口は聖霊の充満」とありました。ハレルヤ

【祈り】 全能の父なる神様。今日は、「脱出の道を備えたもう神」という題のもとに御言葉を頂きました。「耐えられない試練にあわせ給うことのない」あなたが、「真実を持って」「脱出の道を備えて下さる」との信仰告白と感謝をなしつつ、新しく迎えたこの一年を歩み行かせてください。わたしたちの救い主、主のイエスの御名によって祈ります。アーメン

 

説教「兄弟愛と尊敬をもって」  

2020年1月1日 元旦礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙12:9,10
説教:深谷春男牧師

 2020年、明けましておめでとうございます。昨年一年間、主にある交わりを感謝します。新しい一年、よろしくお願いいたします。
 昨年のクリスマスの祝会でクイズを降矢兄と担当させて頂いて、大変恵まれました。聖書クイズ、いいですね~。元旦のおめでたい場での礼拝ですが、クイズからの説教を始めるのをお赦し下さい。この内容は、実は今日の説教の結論と関係があるのですが、・・・。
 ある方の結婚式の祝宴でのこと。お祝いの電報を、有名な先生から頂いたので、司会者が言いました。「有名な○○先生から電報を賜りました。聖書箇所が記されています。4:18、19です。え~、せっかくですから、これは朗読します。」一瞬、新郎新婦、祝宴のお客様が静まりました。そこで司会者は大声で読みました。
 「女は答えて言った。『わたしには夫はありません。』イエスは女に言われ た。『夫はないと言われたのは、もっともだ。あなたには5人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉の通りである。』女はイエスに言った。『主よ、わたしはあなたを預言者と見ます』」。
司会者は、「あれ?おかしいな?・・。ヨハネⅠ 4:18,19だよね・・・。」さあ、この司会者は、一体、何を間違えてしまったのでしょう。 
皆さん、おわかりになられたでしょうか?答えは、来週。

【今日の聖書箇所の位置と概略】
 ロマ書12章は、クリスチャンの具体的な倫理、地上における信仰の実践を論じた箇所です。それも大事なことは、倫理道徳を論じるにあたり、まず、使徒パウロが語っていることは、人間の倫理と道徳は、神の愛への応答、神の御救いの恩寵、十字架の愛に応答すると言う大きな枠組みがあるということです。ですから、ここには以下のような特質を見ることができます。
 1-2節は、「神への献身と自己変革」という主題。ここでも、キリストの救いを受けた者、主にあって新しく変えられた生涯という主題が語られます。それは魂の霊的な変革をもたらすのです。
 3-8節は、第二は「共同体倫理」が語られます。「教会生活の基礎的な内容」についての教えについてです。キリストの救いを受けた者の共同体、すなわち、教会における謙遜と奉仕が第二の主題となっています。
 9-21節は、ここから、一般的な「愛の倫理」が語られることになります。愛の内包と愛の外延についてすばらしい勧めが語られます。

  今日はキリスト教信仰生活の基本となる愛についてです。短い箇所ですが実に味わい深い言葉ですので、9,10節だけに焦点を絞ります。
1) 愛には偽りがあってはなりません。      偽りのない愛
2) 悪を憎み、善には親しみ結び         悪を憎み、善に親しみ
3) 兄弟愛と尊敬をもってキリストの共同体を作る。 兄弟愛と尊敬をもって
と言う主題で考えてみましょう。

【メッセージのポイント】
1)9 愛には偽りがあってはならない。
⇒ 愛には偽りがあってはならない。
 一体これはどういうことでしょうか?「愛には偽りがあってはならない」とまず勧められています。愛の真実性をいつも保つようにと言うのです。これは丁寧に自分の生活と照らし合わせてゆくと、なかなか大変です。
 クリスチャンの生涯は、信仰、希望、愛の生涯であるとパウロはしばしば言います。1コリント13章や1テサロニケ1章を参照。そして、「最も大いなるものは愛です」と語ります。クリスチャンの生活の一番の基本は愛ということになります。
 わたしは、この「愛には偽りがあってはならない」という聖句を読むと、まず思い出すのは藤井武という人です。彼は「真実」ということを大切にしました。神様を真実に愛し、人々を真実に愛するとは一体どういうことか?それを追求したのか彼の生涯であるといってもいいでしょう。彼は内村門下に入り、伝道者としての歩みをいたします。

 藤井武は1888年(明治21年)、金沢に生まれました。東京帝大の学生時代に、聖書を学ぶ講座を開いていた内村鑑三の門下に入門しました。それによって、人間個人の救いも、同胞としての日本の救いも、キリストの真理を発見する以外にはないと確信しました。そして大学卒業と同時に、専心伝道しようとしましたが、内村から、「何をやるにしても、もっと人生を知らなければダメだ」とたしなめられ、十年くらいは社会実践を積むことを勧められました。そして文官試験を受け、その後、官界で働くことになりました。
 大学を卒業すると同時に、かねてから婚約中の喬子夫人と結婚されました。そしてこの結婚関係が、藤井武に空前とも思える宇宙観、人間観に目を開かせることになりました。それはキリストを媒介とすることによって生まれた男性と女性の一体関係が、共に信頼し、共に理解し合う中に、全宇宙の仕組みと全歴史運動の深層を開花させたという、彼が書き残した『羔の婚姻』と題する一大長篇詩に、見事に昇華されて記録されています。
 官界に身を投じて約五年、ようやく時が満ちまして、専心伝道に献身しました。武二十八才、喬子夫人二十二才の時でした。そして彼が三十五の時、突如夫人は病に倒れ、天に召されることになりました。その時の情況と、それに対する信仰的理解を綴ったのが、『夕べに我が妻死ねり』の短文です。それは1922年10月1日のことでした。それ以来、彼は毎年十月一日を「私の日」と呼び、彼を記憶する者は「十月一日」において彼を記憶してくれるようにと告げました。そしてそのときから、宇宙の誕生と人間の運命とを歌い上げた長篇詩『羔の婚姻』は、8年間の長きに渡って、毎月彼の個人伝道誌『旧約と新約』を通じて、彼が死ぬまで書き続けられました。

 愛には偽りがあってはならない。この聖句は藤井武の愛唱の聖句です。

2)悪は憎み退け、善には親しみ結び、
  ⇒ 悪は憎み退け、善には親しみ結ぶ、 (9節b)
 パウロは愛の生涯は、「悪は憎み退け、善には親しみ結ぶ」と言う生涯だと語ります。1コリント13章でも「愛は不義を喜ばないで、真実を喜ぶ」(6節)と語っています。愛と善はいつでも結びつき、罪と悪はいつでも結びつくのでしょう。示される悪があったらそれを憎み、退け、そして善に親しみましょう。
 滝元明と言う有名な伝道者が赤羽教会にはじめて来られた1980年の頃に、先生の4日間の赤羽クルセードが大変祝され、恵みに満たされるので、このように聞いたことがありました。
「滝元先生。先生の集会は本当に恵まれますね。いろんな集会でも、豊かな祝福がありますが、先生の集会は魂の底から喜びが湧いてきますね。何か秘訣があるのですか?」
先生はしばらく考えられて、こう答えられました。
「深谷先生。それはきっとへブル書1章9節の御言葉だと信じています。」「はあ、そうですか?」
そしてその箇所をお読みになられました。
「9 あなたは義を愛し、不法を憎まれた。
それゆえに、神、あなたの神は、喜びのあぶらを、
あなたの友に注ぐよりも多く、あなたに注がれた。」
「深谷先生。わたしは、義を愛し、罪を憎みます。
ですから、わたしの集会は、喜びに溢れるのだと思います。」
なあるほどと思いました。
先生の集会は、罪は地獄へ落ちる!と大胆に語られます。

明確に罪を捨てて主に立ち返る者に主は祝福の油を注いでくださいます。
3)10 兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。
⇒ 兄弟愛と尊敬をもって。               (10節)
今日、聖書交読で読まれた詩篇は、「都もうでの歌」の最後から二番目の歌です。「人生巡礼の歌」とも呼ばれるこの15の珠玉の詩篇は、わたしたちのクリスチャン生涯を語っています。以前、学びましたようにこの15の詩篇の中でクライマックスに位置するのは、詩篇132篇、礼拝の歌です。そして、詩篇の133篇は、人生の最も「良きもの(トーブ)」は「兄弟愛」だと語るのです。「兄弟愛」は神様からの人生最大のプレゼントと絶唱されています。しかし、改めて聖書を読んでみますと、創世記の初めから、人間は、兄弟を愛し得ないものとして描かれています。 最初の兄弟アベルとカインは兄弟殺し。双子のエサウとヤコブは祝福をめぐって争い、ヨセフと兄弟たちは、生意気なヨセフに殺意を持ち、エジプトに奴隷として売り飛ばします。聖書は、人間の妬みや憎しみを描きながら、この「神の最善」が消えていることを指摘しています。  
 真の兄弟愛は人間の業ではありません。それは神に、源を持たねばなりません。この詩篇133篇では、兄弟愛は、天から「滴り落ちるもの」だと、3回も繰り返されています。兄弟愛は、主イエスの十字架の贖いの業に始まるのです。主イエスの贖いの愛を知る時に、人を愛することがどういうことかがわかるのです。ヨハネは「神は愛である」と語ります。そしてこの愛のあるところには命があると強調しています。また、愛さないものは死のうちに留まっており、兄弟を憎むものは人殺しなのだとまで言います。
 美歌子先生は最近、聖書の中心メッセージが「神の国」であることがわかった!と言うことを何回か、言いました。いや、10回以上、言いましたか。早天祈祷会から、祈祷会、礼拝、ぶどうのみ実礼拝、いろんなところで語りました。あるときには、「個人の魂の救いよりも大切なこと」と語ることがあったので、「それは行き過ぎ・・。聖書のメッセージは、主イエスの十字架の贖いによる魂の救いが第一だと思います。」と話したことがあるほどです。でも、本当に教会が「神の国」=「神の支配」=「天国」になることを、「兄弟愛と尊敬による」と教えています。昔開かれた青年宣教大会の時に、田中信生先生が、よく語られました。「人間関係は大切ですよ。特に語る言葉は、花束をあげる思いで、語りましょう。」新しい年、主にある兄弟愛で、天国のような交わりを証しましょう。
 
【 祈 り 】

 天の御父。新しい2020年を感謝します。この新しい1年のはじめの礼拝で、わたしどもは、ロマ書12章9~10節を与えられました。主イエスの贖いを受けて、救いの道に入ったわたしどもですから、主から与えられた驚くべき愛を大切に生きることができますように。「偽りのない愛」「悪を憎み、善に親しみ」「兄弟愛と尊敬をもって」、新宿西教会を、キリストの共同として、しっかりと築いて、この世に主イエスの救いを証しできますように、導いてください。主よ、、日本中に、世界中に、リバイバルの恵みを与えて下さい!主イエスの御名によって祈ります。アーメン

 

説教「心を込めて愛し合い」  

2019年12月29日 主日礼拝
聖書箇所:1ペテロ4:7~9
説教:深谷美歌子牧師

「人類が滅びようとしているのに、金儲けの話か、温暖化対策に本気に取り組まなければあなたたちを許さない。」と、スウエーデン人のグレタ・トゥーンベル(16歳)さんが、国連の世界環境会議で演説しました。
 NHKでも、首都直下型大地震が起こったという、シュミレーション番組を組みました。「もしこの地震が起こったら、首都は再建できるのですか?」の質問に専門家は「できません」」と返答していました。 
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