説教「一人も残らず癒やしてもらった」使徒行伝5:12~16 深谷美歌子牧師

2021年1月31日(日)新宿西教会主日礼拝
聖書箇所:使徒行伝5:12~16
説教者:深谷美歌子牧師

 病の癒しということは、人類の悲願ですね。イエス様が宣教された時も大勢の群衆がおしよせていました。今日の個所は、イエス様昇天後のことで、使徒達の癒しの記事です。本当の癒しを一人残らずいただけますように。

使徒行伝のメッセージは、4か月ぶりです。それで、すこし振り返ってみましょう。 続きを読む 説教「一人も残らず癒やしてもらった」使徒行伝5:12~16 深谷美歌子牧師

説教「我、深き淵より汝を呼ぶ」ー都もうでの歌⑪ー詩篇130篇 深谷春男牧師

2021年1月24日(日)新宿西教会主日礼拝
聖書箇所:詩篇130篇
説教者:深谷春男牧師

「都もうでの歌」も、今日はもう、11番目となりました。信仰者の「人生巡礼の歌」も15の詩篇を学んできましたが、終わりに近づいてきましたね。わたしたちの人生は、地上で生を受けて、与えられた馳場を走ります。そして最後は天のお父様の所に帰るまでの生涯です。その人生途上で、今日は、非常に深い、人生の根本問題に目を留めた詩篇を学びたいと思います。  続きを読む 説教「我、深き淵より汝を呼ぶ」ー都もうでの歌⑪ー詩篇130篇 深谷春男牧師

説教「義なる神、悪の縄目を断ち切らる」ー都もうでの歌⑩ー詩篇129篇 深谷春男牧師

2021年1月17日(日)新宿西教会主日礼拝
聖書箇所:詩篇129篇
説教者:深谷春男牧師

「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。(ヨハネ16:33) ハレルヤ!

 主イエスが語られたように、わたしどもがこの地上で生活する時には「この世では苦難があ」ります。小さな苦難は日々体験するところです。時々、朝早く起きるのが辛かったり、足の関節が痛かったりします。虫歯の痛さなどは中ぐらいの苦難(?)。家族の誰かと小さな諍いをする時、職場や学校で友人とぶつかったりすることもあります。しかし、時にはそれらの小さな苦難を越えた「大きな苦難」と直面することもあります。年老いた両親との死別や、配偶者との死別等は誰でも体験せねばならない人生の悲しみです。また大きな病気をすることや不慮の災いに直面する時、わたしたちは今まで自分が立ってきた人生の基盤がもろくも崩れて行くような動揺を体験します。今日は詩篇129篇を通して「苦難に勝利する」道を一緒に考えてみたい。

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説教「人生は出会いで決まる」使徒行伝9:1~9 深谷春男牧師

2021年1月10日(日)新宿西教会主日礼拝
聖書箇所:使徒行伝9:1~9
説教者:深谷春男牧師

 

今年、成人式を迎えた兄弟姉妹、成人おめでとうございます。

また、ご家族の皆様や、ご友人の皆様、おめでとうございます。

国の定めた成人の日は明日ですが、1日前に祝福に与れるのはすばらしいことです。

 さて、今日の説教は「人生は出会いで決まる」です。これはユダヤの哲学者、マルチン・ブーバーの言葉として有名です。わたしも今年、70歳になりましたが、自分の生涯を振り返っても、いろんな方々と出会い、人格と人格との出会いを経験し、恵みの豊かな最高の生涯を歩んできたと感謝で一杯です。

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2021年初主日礼拝「すべては信仰による」ローマ人への手紙4:16~18 深谷春男牧師

2021年1月3日(日)初主日礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙4:16~18
説教者:深谷春男牧師

 わたしたちの主にある新しい人生は「信仰から信仰へ」と導かれる生涯です。元旦に与えられた詩篇57:7も「神よ、わが心定まれり」も、神様への信仰を持っていた者が、さらにいくつかの試練や課題に直面し、神様ご自身の深い恵みの業を体験して、霊的な目覚めを経験した時の、決断の歌でした。昨年に体験したコロナ・パンダミックと言われる現象、大規模な自然災害、また国際関係から生ずる複雑な問題を乗り越えてゆくには、聖書は神様への信仰を持って、雄々しく生きよ。アブラハムのように、ダビデのように、代々の聖徒のように!と勧めています。

 

【 今日の聖書箇所の概略 】

「第4章はローマ書の鍵の位置にある」(ケーゼマン)。パウロは、ロマ書は3章21―26節の「信仰義認」の主題の提示の後に、この信仰の内容は旧約聖書の中心主題だったと、アブラハムの例を引き合いに出しています。それは、ユダヤ人からの反論を想定していたからだと言われます。パウロはユダヤ人にとって、信仰の模範であるアブラハムの信仰内容を語ることによって、「信仰義認」の聖書的な根拠を示したのです。4章は以下のような構造となります。

 1- 5 信仰義認 アブラハムの例 創世記15:6

 6- 8 信仰義認 ダビデの例   詩篇32篇

 9-12 信仰義認 アブラハムの義認は割礼以前だった

13-16 信仰によるアブラハムの子孫が世継ぎの約束を受けた

17-22 神の約束を確信するアブラハム不可能を神は可能とする

23-25 アブラハムは信仰者の模範となった

 

【 メッセージのポイント 】

1)16 このようなわけで、すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって、すべての子孫に、すなわち、律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証される。 (16節)

⇒ 「すべては信仰による」という信仰!

今日の、この個所の翻訳では、わたしたちが使っている1955年翻訳の聖書協会訳口語訳聖書が、一番わかりやすいと思いました。

「すべては信仰によるのである。それはめぐみによるのである」というのです。アブラハムに神が約束されたように、神の約束は信仰によるのです。      

わたしは5年前に、65歳の誕生日を迎えたときに、神様はどのような御言葉を与えて下さるのか、大変、期待があり、2月4日の早天祈祷会に出席しました。この朝の聖書箇所がロマ書4章13~16節でした。ここを読んで黙想している時、最初はあまりぱっとしなくて、3章の記事とか、後の方がすばらしいのに…など思っていました。しかし、読み進む中で、「アブラハムの信仰」へと導かれてゆきました。そして、「信仰こそ、より始源である」という有名な神学者の言葉を思い起こし、神様との深い人格的交わりである信仰を思い起こさせていただきました。16節の「すべては信仰によるのである。それは恵みによる・・」(口語訳)という御言葉へと導かれて行きました。「救いは信仰により、恵みによる」とはエフェソ2:8と共に、ウェスレーが愛した言葉であり、彼の「標準説教53」の冒頭の説教の聖句です。ウェスレーのエペソ2:1~10の説教は、印刷されたもので100ほどあるそうです。神様との深い人格的な交わり!としての「信仰」、この世界の造り主であり、救い主である主との人格的交わりとしての信仰こそ、すべての始まりであることをしっかりと覚えたいと思います。「信仰こそより始源である」との御言葉を頂いて、今年の主日礼拝を、出発させていただきたいと思いました。

 

2)、17 「わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした」と書いてあるとおりである。彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。         (17 節)

⇒ 「死者を生かし、無から有を呼び出す神を信じる」信仰!    ここは大変興味の深い箇所です。世界の歴史を何度も塗り替えたと言われる「ローマ書」。このローマ書の中で、新約聖書の13巻の手紙を書くほどのキリスト教の歴史に決定的な影響を与えたパウロが、ユダヤ民族の父、信仰の父と言われるアブラハムの信仰について解説しているからです。いわば、新約聖書の代表者による、旧約聖書の代表者の最も大切な内容に関する説明なのです。「 彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。」(17節)。直訳は、「その御前で  彼は 神を 信じた

すなわち 死者を生かす方 そして 呼び出す方を 

ないものを  あるもののように 」。

  ここにはアブラハムの信仰を見る事ができます。ひとつは「死者に命を与える神」。この告白は、申命記32:39、サムエル上2:6、列王下5:7、Ⅱコリント1:9、Ⅰテモテ6:13などに現れてきます。

  もうひとつは「無から有を呼び出す神」。この「無からの創造」はマカベヤ下7:28、またフィロンの言葉に神を「無から有を呼び出されるお方」という表現があります。呼び出すはイザヤ48:13や詩篇33:9。

  この神が「光あれ!」と言えば光あり、神が「海出でよ!」と命ずれば海があらわれ、神が命じれば天空には鳥が飛びかい、大海には魚が群がるというのです。  神様は全能の力をもって、奇跡を行なわれるのです。ハレルヤ! わたしどもの信仰も、このアブラハムの信仰に倣うものです。

 改めて考えてみると110年前には、この新宿西教会の建物はここにありませんでした。しかし、主がこのところに教会を建て上げてくださり、ここから伝道者、牧師を輩出し、恵まれた教会を形作られたのです。まさに、神様は無から有を呼び出されるのです。

 以前、宮沢賢治の有名な童話、「銀河鉄道の夜」をテレビ・アニメで見たときに大きな感動を受けました。宇宙の暗闇を疾走する銀河鉄道。ある駅に着いたときに、暗闇から大きな時計に画面が変ります。そして、アメリカのひなびた駅が映し出され、それから、画面いっぱいに、ひまわりの花が咲き乱れる画面が映し出されました。それまでは真っ暗だった画面と時々、出入りする、夜汽車の乗客たちのまばらな姿から、急に明るいアメリカ大陸のひまわり畑の出現に、わたしは大きな感動を受けました。その時、わたしは、「無から有を呼び出される神!」という言葉を連想いたしました。神様はまさに無から有を呼び出されるのです。暗闇の世界から光の世界を、死の世界から命の世界を創造されるのです。死んだような一人の人物から、全世界を覆う砂粒のような、星の数のような信仰者が世界中に満ちるのです。不信仰の世界から、大きなリバイバルの信仰の世界を作り出されるのです。ハレルヤ わたしはそれを信じます。

 

3)18 彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。 (18節)

⇒ 「望み得ないのに、なおも望みつつ信じる」信仰!        ここでパウロは、アブラハムの信仰を希望と関連づけて語っています。「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。」のです。《望み得ないのに、なおも、望みつつ信じた》。これもいろんな訳があります。「彼は望みに反して、望んだ」という訳があります。その場合は、ユダヤ的概念の望みと、ギリシャ的概念の望みの違いとか、聖書的信仰とこの世的思いとの違いとかの解説がなされます。

最終的に伝えたいのは、目に見える絶望状況の中にあっても、神の善なることと、その神様のすばらしい摂理の御業を信じる信仰のこと。

  この時アブラハムは、自分が100才、奥さんが赤ちゃんを生んだ事がないのにもう90才。どうして、赤ちゃんが生まれることを期待できましょうか?しかし、聖書は言います。「神にはなんでもできない事はありません!」「彼は望み得ないのに、望みつつ信じた」。

新宿西教会では、日曜日ごとの礼拝で、聖書の言葉が取り次がれます。また、木曜日の朝と夜に「聖書研究祈り会」が持たれます。また、毎朝6時からは早天祈祷会で聖書の言葉を頂き、黙想するところから一日を始めます。ある方は、昨年は「コロナ災禍の年でしたが、毎朝、6時~7時の早天祈祷会をオンラインで守りました。それはとても深い恵みの世界で昨年の最大の収穫でした!聖書の約束を暗唱し、御言葉と共に歩みましょう。

ユダヤに「ミルクの桶に落ちたカエル」の寓話があります。

あるとき、カエルが野原を散歩していました。気分がよかったカエルは、思い切って跳びあがり、小さな山を越えたように思った瞬間、そこにおいてあったミルク桶の中にボチャンと落ちてしまいました。足元はミルクです。ミルク桶の壁は高いし、足元は不安定なミルクです。どんなに跳びあがろうとしても、跳び上がることができません。さあ、この蛙は一体、どうしたでしょうか?答えはこうでした。蛙は最後まであきらめなかった。どうにかならないかと「カエル泳ぎ」をして、手足を動かしているうちに、何と、手と足のあたりにミルクが固まってチーズとなったのです。その板の上に乗って、そこから思い切ってジャンプをし、蛙は外に出ることができたと言うのです。全能の主を見上げて、最後の最後まで、あきらめないことを教えているのです。

わたしたちの霊的な生涯は、「すべては信仰から始まる」のです。それは、「無から有を呼び出す神を信じる」という創造的な、全能の神への信仰、「望み得ないのに望みつつ信じる」という積極的な、ダイナミックな信仰。このような、アブラハムのような、勝利に満ちた信仰を持ってこの一年を歩み続けましょう。ハレルヤ!

 

【祈祷】主よ、新年を感謝します。「信仰から信仰へ」と成長する一年としてください。「すべてのことの始原となる霊的交わりとして信仰、無から有を呼び出す神への信仰、望み得ないのになおも望みつつ信じる信仰へと導いて下さい。主イエスの御名によって祈ります。アーメン