説教「父の懐に帰る」ルカ15:11~24 深谷美歌子牧師

2020年10月11日 オープンチャーチ第二主日礼拝説教
聖書箇所:ルカ15:11~24
説教者:深谷美歌子牧師

 今日開かれた聖書は、イエス様がされた有名なたとえ話で、神様と人の姿が語られているところです。

 よく、「放蕩息子の話」と言われて、放蕩息子が主役のように扱われてきました。でも、ここを調べてみて、本当の主役は「二人の息子を愛する父」だと納得しました。そのことを見てまいりましょう。

 

【今日の聖書箇所の概説】  

11-12節 二人の息子がいて、父が財産を分けてあげた。

⒔-24節 弟息子の放蕩と、帰還。

25-32節 兄の思いと父の思い。

 

【メッセージのポイント】

1)「二人に分けてあげた」 ― 子ヤギ一匹くれない 

11-12節 29-30節

 ここに二人の息子とお父さんの姿が語られています。

 弟がある日、自分が受けるはずの財産を今欲しいと言いました。本来は親が死んだとき分けて、財産は、長子は弟の二倍と決まっています。申命記21:17 ですが、お父さんはこの申し出を受け入れました。

 父は神様を表していますが、神様は、人間に人格を与え、自由意志を与え、自由に行動することを許されています。

 多くの人は、誰にも邪魔されず、やりたいことが何でもできたらそうしたいと願っているでしょう。それが本当の自由だと思っています。 

 弟はそれをするために、たくさんのお金を持って、邪魔されない遠くの国に出かけました。でもその結果は、満足ではなく、当時は呪われた仕事とされていた、惨めな豚飼いしか与えられませんでした。

 ところで、お兄さんは優等生です。自分の仕事を毎日ちゃんとして、いいつけに背いたことはありません。でもそれを喜んでしていたでしょうか?いいえ、本心は弟が自分勝手にやりたい放題しているのを、怒っていました。「子ヤギ一匹くれない!不公平です!」と言う言葉にそれが現れています。―ですが本当は、お兄さんは弟の二倍もいただいていたのに、全く忘れています。

 でも、多くの人がこのお兄さんの言葉を「そうだ」と思うのではないでしょうか?見えるところやりたい放題して、落ちぶれて帰ってきたら、待っていて、走り寄って息子として迎え、大御馳走でお祝いするお父さんは公平と思えますか?怒るのではないでしょうか?私達は人と比べる習性があります。

 でもよく考えると、世界中だれも同じ人はいません。とても頭がいい人もいれば、身体が不自由な人もいます。お金持ちが居れば貧乏な人もいます。ここに生まれようと思って生まれた人はありません。

 藤井圭子先生と言う方がいます。

 人は何のために生きるのか?本当に生きる道を究めたいと尼僧になりました。尼僧の舎監に抜擢されましたが、悟りの確信が与えられず、導くことができないと、還俗し小児科医をしていました。

 お隣の教会で開かれた集会で、イエスキリストを救い主として信じる決心をし、牧師と祈りました。翌日の朝、自分が変わったことに気づきました。嫌だなと思いながら行っていた夫の病院に行くのに、嫌だと思っていなかったのです。先週のメッセージで語られた、人生に赤いしおりを挟んだ日、つまりイエス様を人生に迎え入れた日でした。この喜びをすぐ伝える人になり、全国行かない県はないそうです。

 その後、医者として嘱望されていた、素晴らしい息子、研太さんが突然交通事故で亡くなりました。

 研太さんがお姉さんの流産の見舞いに行ったとき、弟に「つらかったの」と語った時、「どうにもならないことがあるものよ、誰が悪いのでもないのにねー。」と優しく慰め、義兄がそばで聞いていて、何か自分にも責任があったかと自責の念があったのが、この言葉で解放され、涙ぐんだということが過去にありました。

 藤井圭子先生は、この時「どうにもならないことが起こったねー」と心で息子に語り掛けながら、お葬儀のことをしていた、と語られました。「なぜですか?」と考えたら答えは解りません。でも、藤井圭子先生は神様が全てを最善に導かれることに信頼できて、悲しみの中でも、心の底には平安があったと語られました。

 神様は善にして愛の方であることに信頼いたしましょう。

 

2)本心に立ち帰った  17―19節

 弟は豚飼いまでなって「我に返った」のでした。お父さんの所に居たら、何不自由なく暮らせたのに、自分から逃げ出して、食べ物もないありさまです。

 本当の満足の命は、神様の愛の中、感謝して、自分に与えられた分を喜んで生き、神様と隣人と愛し合って暮らすことです。それがイエス様がもたらした「神の国」でした。

 でも人間の罪の性は、それができないものになっています。自分を深く見つめ、文学で表した人々が、先週、深谷牧師が語られた、ドフトエフスキー、夏目漱石、太宰治、芥川龍之介等の人々でした。その絶望から救うために、神御自身が人となって世界に来られ、全ての誘惑に勝たれて、人の罪を御自身が身代わりに負い、十字架の死を受け、死を打ち破って復活されました。それを弟子たちが証言し、命を得た者たちがまた証言して、今日に至っています。

 弟は自分の人生は、自分のものだとして好きなように生きてきて行き詰まり、父に立ち帰りました。赤い栞を入れたことでした。

 

 3)「待っていたお父さん」

20 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。                20節   

28 兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめ・・32 しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。 28・32節

 お父さんは、弟息子が自分勝手にしているのを、悲しく思っていたでしょうが、無理やり引き留めることはしませんでした。

 お父さんの所こそ居るべきところと「我に返った」弟息子が帰って来た時、お父さんは「死んでいたのに生き返った」と喜び、子供として晴れ着を着せ、靴を履かせ(当時は雇人や奴隷は、はだしでした。)指輪をはめ(子の権威の象徴でした)この大祝いをしました。

 お兄さんに譬えられている人は、多分この話を聞いている、パリサイ人、律法学者ではないかと思われます。彼らは神を信じ、律法を守り、一生懸命生きてきました。でも本当に喜んでお父さんの所で仕事をしていたかと言うと、義務的でした。好き勝手にしている取税人や罪人と書いてありますが、律法を守らない人々を憎んで、滅んで当然と思う冷たい心でした。イエス様が彼ら罪人を受けれ一緒に食事するのが赦せませんでした。

 お父さんはお互いが愛しあい、感謝して毎日を過ごして欲しいと願っていました。すねているお兄さんも、愛し合う家族になれることをお父さんは願っていました。

 実はお兄さんは正しく生きてきたと思っていますが、本当の満足、喜びに生きてはいませんでした。バリバリのパリサイ人だったパウロがロマ書で吐露しています。なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。ロマ3:20 

 藤井圭子先生が究めようとして心の底からの愛の命が得られなかったように、文学者が心の底を見て絶望したように、どの人間も罪の性に捕えられているのです。その事にお兄さんは気づいていないのでした。だれも、イエス様の赤いしおりを必要としています。

 深谷牧師の幼馴染の仁井田義政先生は、学校にはほとんど行けず、成績は下から2番目でした。お母さんは、お父さんと離婚して、仁井田先生を育てていましたが、亡くなってしまい、お父さんの所に戻されました。(この時深谷牧師と知合いました。)でもお父さんはお酒に囚われて、子供の仁井田先生に仕事をさせたり、殴ったりしました。「大きくなったら殺したい」とナイフを作って隠していました。それを使う時もなく、あっけなくお父さんは中学2年の時亡くなりました。お弁当はほとんど持って行けず、学校のお昼の時は、校庭のはずれにあった墓地の大きな桜の木の下で寝ていたそうです。中学を卒業すると、働きに出ました。満たされない心を、バーとかに行って一か月分の給料を一晩で使ってしまったりしました。中学の担任だった渡辺正夫先生が子供達を愛し、キリストを伝えていました。それで、深谷牧師が誘ってキリスト教の集会に行き、イエス様の救いのことを知りました。その時、神学生に「お祈りは天のお父様といってお祈りするんですよ」と教えられ、会社の寮の部屋に帰り、皆が寝静まるのを待って、布団をかぶって、「天のお父様」と祈ったとき、「本当のお父様がいたんだ!」と分って泣けたそうです。我に返った出来事と言えるでしょう。そして、肉のお父さんも全く自然に赦せたそうです。

 人生に赤いしおりを挟んだのでした。

 あまりの救いの素晴らしさに、献身して牧師になりました。渡辺先生は生前「あれほど変わった人間を見たことがない」と絶賛しておられました。渡辺先生のお葬儀は、「俺の葬儀は深谷と仁井田がやれ」との遺言で行われました。あふれる人々のお葬儀でしたが、堂々とメッセージを取り次ぎ、最後は「渡辺先生、万歳!」と、先生が生涯尊敬していた内村鑑三が、愛嬢、路得(るつ)子さんを送った言葉で送り、感動でした。

 神様は自分から「お父さんのところが一番でした」と帰ってくるのを待っておられます。駆け寄って抱きかかえて喜んでくださいます。

 神の家族は信頼し合い、愛し合い、赦し合い、神の国がこの世界にあることを味わい、喜んで神様と共に生きることです。ハレルヤ!

 

〈祈り〉

 神様、心から感謝しています。全ての人があなたの懐に飛び込むことができますように。神の子としてあなたの愛を満たして、すべての人にお遣わし下さい。主イエス様の御名によって祈ります。 アーメン


 

 

説教「聖書が語る中心主題」ー人生三万ページの本の如しーロマ1:1~4 深谷春男牧師

2020年10月4日 オープンチャーチ礼拝説教
聖書箇所:ローマ一への手紙1:1~4
説教者:深谷春男牧師
 

 新宿西教会は、今年の10月は、「オープン・チャーチ」伝道月間として恵みの時を持つこととなりました。今日、教会にいらっしゃった方々も、ご自宅でのこのユーチューブで、説教を視聴する方も大歓迎です。皆様の生涯に、神様のすばらしい祝福が満ちますように!歓迎いたします。  続きを読む 説教「聖書が語る中心主題」ー人生三万ページの本の如しーロマ1:1~4 深谷春男牧師

説教「あなたの自由になる」使徒行伝5:1~11 深谷美歌子牧師

2020年9月27日 主日礼拝説教
聖書箇所:使徒行伝5:1~11
説教者:深谷美歌子 牧師
 

 前回まで、教会が、外からの迫害にもかかわらず、救われるものが加えられ、救われたものたちは一つになって、持ち物を共有し、貧しい者はなく、祈りとみ言葉を頂きつつ、愛し合う神の国を形成していたことを見てきました。

 しかし、今日の箇所はその姿とは違うような、悲しい出来事が書かれています。ルカは正直にこの地上にある教会の姿を書きしるし、神の子とされても、 地上にある教会は、誘惑もあることを知らせています。

 ドキドキするできごとでしたが、アナニヤとサッピラのことは、今の私たちの教会でもありえることではないでしょうか?

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説教「涙と共に種をまく」 詩篇126編 都もうでの歌⑦ー 深谷牧師

2020年9月20日 主日礼拝説教
聖書箇所:詩篇126編
説教者:深谷 牧師
 

 「ひとりでできないものは結婚と救いの体験」との言葉があります。「救われる」という出来事が起こるということは、誰かが祈り、伝道してくれたからです。それは多くの犠牲と涙なしにはできないことなのです。この詩篇126篇には繰り返し「笑い」と「涙」に言及されます。伝道の奉仕に当たる時に、笑いが起こり、涙が流れることはその信仰が生きている証拠なのです。命ある信仰は、喜び、笑い、泣き、悲しむのです。

 さあ、今日は、「都もうでの歌」⑦の詩篇126篇の学びです。  続きを読む 説教「涙と共に種をまく」 詩篇126編 都もうでの歌⑦ー 深谷牧師

説教「主に信頼する者はシオンの山」 詩篇125編 都もうでの歌⑥ー 深谷牧師

2020年9月13日 敬老主日礼拝
聖書箇所:詩篇125編
説教者:深谷 牧師
 

今日は「敬老礼拝」です。人生の先輩たちに、兄弟愛と尊敬とをもって、共に、神様に礼拝を捧げましょう。礼拝の最後に、75歳以上の兄弟姉妹に、教会からささやかなプレゼントがあります。楽しみに。             続きを読む 説教「主に信頼する者はシオンの山」 詩篇125編 都もうでの歌⑥ー 深谷牧師