新宿西教会アドベント礼拝説教「神が人となられた」ピリピ2:6~11ベアンテ・ボーマン宣教師 2023年12月3日

新宿西教会の愛する兄弟姉妹の皆様。おはようございます。

主にあって、今年もこのアドベントの季節に皆様とお会いでき、共に礼拝の恵みの時を与えられて心から感謝します。わたしは皆様に、主イエスにあるすばらしい福音を語り、皆様と共に、永遠の御救いを喜ぶことを、心から感謝し、祈っております。ハレルヤ!

今日は皆様と共に、ピリピ人への手紙2章6節から11節の内容を語るように導かれておりますので、さっそく、御言葉を読んでみたいと思っております。

まず、第一のポイントとして、ピリピ人への手紙2:6~7を読みます。

6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、(6,7節)

ここには、 まず、「神が人となられた」と言うことが記されます。

  主イエス様は、「まさに本質において神」であり、神と同等の御方でした。 主イエス様は地上における永遠の神の顕現であり、始まりも終わりもない御方でした。 彼は生まれる前から、時間が始まる前に神と共に存在していました。 神は宇宙を創造し、支えておられます。(ヘブル書1:1~3)。

  この主イエス様は、神様の御介入によって、処女から超自然的にお生まれになりました。 旧約聖書ではなんと約332回も、その誕生のことが預言されており、天使の告知と超自然的な導きが彼の生誕の地を預言していたのです。 主イエス様は、人間の歴史の時間を二つに分けました。紀元前と、紀元後です。西暦は、ADで(Anno Domini「主の年」)。 原文はラテン語で、「anno Domini nostri Jesu Cristi」(私たちの主イエス・キリストの年に)で、1年と言う風になります。

   主イエス様は、私たちと同じ条件で生きました。彼は飢えを体験し、喉の渇き、身体の疲れを、わたしたちと同じように体験されました。でも、わたしたちと違う所は、彼はわたしたちのような罪がなく、神の力を持っていました。主イエス様は多くの奇跡を行い、そして、十字架につけられ、その後、復活されました。 主イエス様は天から来られ、天に昇られました。 イエスは死ぬ前に、「父よ、どうか、世が始まる前にわたしがあなたと共に持っていた栄光をもって、あなたの御前でわたしの栄光をあらわしてください」(ヨハネ17:5)と祈られました。

   最も素晴らしい音楽作品の1つは、マーラーの交響曲第2番「復活」です。 第4楽章では、イエス・イエス・キリストのことを歌う「Ich bin von Gott und will wieder zu Gott!」(私は神から来て、神に帰ります)です。

   キリストの神性にどのように反応するか?二つの方法があります。ある人は主イエスの出来事を、「物語」、「おとぎ話」、「フィクション」と嘲り、本当のこととは受け入れません。しかし、わたしたちは、それを、真実として受け入れ、それを信じます。あなたもどうか、真実な事と受け入れ、救いを経験してください。

 第2番目に、なぜ、神御自身が肉体を取って人となられたかを考えてみましょう。8節にこのように記されます。

 8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。(8節)

「 神は過去に預言者を通して語られましたが、終わりの日に御子を遣わされました」(ヘブル書1:1)。 主イエス様は、神についての理論や哲学を伝えたのではなく、神御自身として現臨されたのでした。

    主イエス様は、人間と交わり、人格的な交信をするために遣わされたのでした。 神は天から語られただけではありません。神は御子を遣わして、人間の言葉を話させました。 蟻はお互いにコミュニケーションをとることができますが、人間は蟻の言葉はわかりません。アリになってアリの言葉を話さない限り、アリとコミュニケーションを取るとることはできません。

  主イエス様は、人間の抑圧と苦しみと同一視されました(イザヤ53:3-5;ルカ4:18-19)。 神様は、人間に試練の中で逃がれの道を示してくださいます(1コリ10:13)。

  主イエス様は十字架の上で、死に対しても従順でした。 彼は死んでよみがえるために人間にならなければならなかったのです。主イエス様は、人類を罪から贖い、よみがえりと永遠のいのちの希望の現実を示すために、身代わりとなって死なれたのです。

第3番目に、「主イエス様の高挙と栄光」について考えてみましょう。

9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、11 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。

                   (9~11節)

     キリストの謙遜さが彼の高挙をもたらしました。 ヨハネの黙示録は、主イエス様が、「贖い主」、「神の小羊」、「王の王、主の主」(黙示録19:16)だることの賛美に満ちています。

   音楽史上、神への賛美を捧げた最大の作品の一つは、ヘンデルが作曲したオラトリオ「メサイア」です。 ヘンデルがハレルヤの合唱曲を作曲しているときに使用人が入ってくると、ヘンデルが涙を流して泣いているのを見つけました。 ヘンデルは僕に向かって、「私は目の前に、天国と、偉大なる神ご自身を見た」と言いました。 ヘンデルはキリストの栄光と天国の荘厳さを垣間見たのです。

   人間は今や、主イエス様を受け入れるか、あるいは主イエスが再臨の主として戻ってきた時に、あわてふためき、青ざめ、おびえるかを自分で選ぶことになります。でも、しまった!遅すぎた!とならないようにとくり返し警告しています。 「神を畏れ、神の戒めを守りなさい。これは全人類の本分である」(伝道の書12:13)。

【祈り】 この世界の造り主、全能なる神様。あなたが今日、わたしたち人間を罪と死の世界から救うために、人間の世界にお生まれになり、しかも十字架にまでかかり、死を打ち砕き、救いを成就してくださったことを学びました。自分の罪を悔いて、主イエス様の救いを受け入れ、神の子どもとしてください。この新宿西教会から、主イエス様を信じ、天国の恵みに入る人々を起こしてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン

新宿西教会アドベント礼拝説教「神が人となられた」ピリピ2:6~11ベアンテ・ボーマン宣教師 2023年12月3日

新宿西教会の愛する兄弟姉妹の皆様。おはようございます。

主にあって、今年もこのアドベントの季節に皆様とお会いでき、共に礼拝の恵みの時を与えられて心から感謝します。わたしは皆様に、主イエスにあるすばらしい福音を語り、皆様と共に、永遠の御救いを喜ぶことを、心から感謝し、祈っております。ハレルヤ!

今日は皆様と共に、ピリピ人への手紙2章6節から11節の内容を語るように導かれておりますので、さっそく、御言葉を読んでみたいと思っております。

まず、第一のポイントとして、ピリピ人への手紙2:6~7を読みます。

6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、(6,7節)

ここには、 まず、「神が人となられた」と言うことが記されます。

  主イエス様は、「まさに本質において神」であり、神と同等の御方でした。 主イエス様は地上における永遠の神の顕現であり、始まりも終わりもない御方でした。 彼は生まれる前から、時間が始まる前に神と共に存在していました。 神は宇宙を創造し、支えておられます。(ヘブル書1:1~3)。

  この主イエス様は、神様の御介入によって、処女から超自然的にお生まれになりました。 旧約聖書ではなんと約332回も、その誕生のことが預言されており、天使の告知と超自然的な導きが彼の生誕の地を預言していたのです。 主イエス様は、人間の歴史の時間を二つに分けました。紀元前と、紀元後です。西暦は、ADで(Anno Domini「主の年」)。 原文はラテン語で、「anno Domini nostri Jesu Cristi」(私たちの主イエス・キリストの年に)で、1年と言う風になります。

   主イエス様は、私たちと同じ条件で生きました。彼は飢えを体験し、喉の渇き、身体の疲れを、わたしたちと同じように体験されました。でも、わたしたちと違う所は、彼はわたしたちのような罪がなく、神の力を持っていました。主イエス様は多くの奇跡を行い、そして、十字架につけられ、その後、復活されました。 主イエス様は天から来られ、天に昇られました。 イエスは死ぬ前に、「父よ、どうか、世が始まる前にわたしがあなたと共に持っていた栄光をもって、あなたの御前でわたしの栄光をあらわしてください」(ヨハネ17:5)と祈られました。

   最も素晴らしい音楽作品の1つは、マーラーの交響曲第2番「復活」です。 第4楽章では、イエス・イエス・キリストのことを歌う「Ich bin von Gott und will wieder zu Gott!」(私は神から来て、神に帰ります)です。

   キリストの神性にどのように反応するか?二つの方法があります。ある人は主イエスの出来事を、「物語」、「おとぎ話」、「フィクション」と嘲り、本当のこととは受け入れません。しかし、わたしたちは、それを、真実として受け入れ、それを信じます。あなたもどうか、真実な事と受け入れ、救いを経験してください。

 第2番目に、なぜ、神御自身が肉体を取って人となられたかを考えてみましょう。8節にこのように記されます。

 8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。(8節)

「 神は過去に預言者を通して語られましたが、終わりの日に御子を遣わされました」(ヘブル書1:1)。 主イエス様は、神についての理論や哲学を伝えたのではなく、神御自身として現臨されたのでした。

    主イエス様は、人間と交わり、人格的な交信をするために遣わされたのでした。 神は天から語られただけではありません。神は御子を遣わして、人間の言葉を話させました。 蟻はお互いにコミュニケーションをとることができますが、人間は蟻の言葉はわかりません。アリになってアリの言葉を話さない限り、アリとコミュニケーションを取るとることはできません。

  主イエス様は、人間の抑圧と苦しみと同一視されました(イザヤ53:3-5;ルカ4:18-19)。 神様は、人間に試練の中で逃がれの道を示してくださいます(1コリ10:13)。

  主イエス様は十字架の上で、死に対しても従順でした。 彼は死んでよみがえるために人間にならなければならなかったのです。主イエス様は、人類を罪から贖い、よみがえりと永遠のいのちの希望の現実を示すために、身代わりとなって死なれたのです。

第3番目に、「主イエス様の高挙と栄光」について考えてみましょう。

9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、11 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。

                   (9~11節)

     キリストの謙遜さが彼の高挙をもたらしました。 ヨハネの黙示録は、主イエス様が、「贖い主」、「神の小羊」、「王の王、主の主」(黙示録19:16)だることの賛美に満ちています。

   音楽史上、神への賛美を捧げた最大の作品の一つは、ヘンデルが作曲したオラトリオ「メサイア」です。 ヘンデルがハレルヤの合唱曲を作曲しているときに使用人が入ってくると、ヘンデルが涙を流して泣いているのを見つけました。 ヘンデルは僕に向かって、「私は目の前に、天国と、偉大なる神ご自身を見た」と言いました。 ヘンデルはキリストの栄光と天国の荘厳さを垣間見たのです。

   人間は今や、主イエス様を受け入れるか、あるいは主イエスが再臨の主として戻ってきた時に、あわてふためき、青ざめ、おびえるかを自分で選ぶことになります。でも、しまった!遅すぎた!とならないようにとくり返し警告しています。 「神を畏れ、神の戒めを守りなさい。これは全人類の本分である」(伝道の書12:13)。

【祈り】 この世界の造り主、全能なる神様。あなたが今日、わたしたち人間を罪と死の世界から救うために、人間の世界にお生まれになり、しかも十字架にまでかかり、死を打ち砕き、救いを成就してくださったことを学びました。自分の罪を悔いて、主イエス様の救いを受け入れ、神の子どもとしてください。この新宿西教会から、主イエス様を信じ、天国の恵みに入る人々を起こしてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン

新宿西教会アドベント第二礼拝説教「アブラハム・ダビデ・バビロン捕囚」マタイ福音書1:1,6,17 深谷春男牧師 2023月12月10日

わたしたちは今、教会暦で言うとアドベントの時を過ごしております。 主イエスをむかえるための準備をする期間の意味です。人を迎えると言うことは大変なことです。先日、ある方が、子供の友人を迎えるための備えをした話がありました。けっこう大変で、お掃除したり、細かいことが必要だったと語られました。

わたしたちは、このクリスマスにお客様をお迎えします。そのお客様は、何と主イエス様なのです。イエスキリスト様を心の中にお迎えするのです。主イエス様は、どんな御方でしょうか?

愛の御方で、やさしく、わたしたちを導き、わたしたちのすべてのことへの良きカウンセラーであり、光と命を満たして下さいます。そして平安と喜びと永遠の恵みの世界を与えてくださる方です。この主イエス様をお迎えすることが、わたしたちの「魂の救い」と表現されますね。

昨年もアドベントの迎え方を、《4本のアドベントろうそく》で学びました。

第1週目は「希望のろうそく」を灯す時。今年は3日~9日の週。

第2週目は「平和のろうそく」を灯す時。10~16日の週。

第3週目は「喜びのろうそく」を灯す時。17~23日の週。

第4週目は「愛のろうそく」を灯す時。24日~。

今日は、「平和のろうそく」を灯す思いで、聖書の言葉を学びましょう。

【今日の聖書の箇所の概説】

今日、皆さんとともにお読みしているのは、新約聖書の初めの部分です。この箇所は、主イエスさまの家系図が記されているところです。ここには、アブラハムから14代のダビデ、ダビデから14代のバビロン捕囚、そしてバビロン捕囚から14代のイエス・キリストの誕生の歴史が記されています。

まず皆さん、この箇所を読んでみましょうか?

【メッセージのポイント】

1)1 アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。(1節)

⇒ アブラハムに学ぶ、「祝福の信仰」を持とう!     

 マタイの福音書はややこしい系図がまずあって、次にキリスト誕生の記事が続きます。そこでは神が人の世界の悲惨さをあわれみ、ご自身の独り子イエスをこの世に降し、救いを完成させるとのメッセージが語られます。

まず第一に語られるのが、アブラハムの信仰です。創世記12章でこの信仰の父と呼ばれるアブラハムの登場となります。

創世記1章は全能の神による、万物の創造が記されます。そして、27節

からは、人間の創造が語られます。そこには神の創造の業の後には「よかった」「良かった」と記され、1章の最後には、「それらは、はなはだ良かった」と宣言されます。しかし、「すべてが良かった」と言われるこの世界に大事件が起こります。それは創世記3章の「アダムとイブの堕罪」の事件です。この出来事によって、世界は恐ろしい「呪いの世界」となってしまいました。

創世記3章から11章の聖書の箇所は一般に「原歴史」と呼ばれます。人間が神に逆らい続ける「呪いの歴史」、罪と死の支配する呪いの歴史です。

創世記3章で神と人との断絶が語られ、

4章で人と人との断絶が語られ、

5章で死の到来が語られ、

6-9章で人間の「乱れと暴虐」が地を覆い創造の主である神様は、罪の世界に絶望し、人間を含む被造物一切を滅ぼすという破局を語り、

10章において諸国民の系図を語りつつノアの子孫たちによっても理想社会は来たらず、バビロン等の古代武力国家の罪の蔓延を語り、

11章においてベベルの塔の物語において科学技術文明の根本が罪と死の呪いの中にあることを語っています。

  創世記の3章から、人間と人間の罪の本質が語られ、救いのなさが宣言されます。しかし、神はこの絶望的な人間の世界に、12章から救いの業を始められます。それは、アブラハムの選びです。神はアブラハムを選び出し、彼に信仰の道を示し、彼を呪いの世界を祝福に変える人物とされました。

わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の基となるように。3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」(2、3節)

  今、アブラハムと同じように従おうとするあなたに、主は、深い愛をもって宣言されます。「あなたは祝福の基になる」と。

憎しみと不満の中に歩んでいたわたしたちの呪いの生活を、主は、愛と喜びの祝福の生活へ変えて下さるのです。C・ヴェスターマンによれば「祝福」とは「未来を切り開く命の力」です。ここには5回「祝福」なる言葉が出てきます。これと反対に実は創世記3章の堕罪以来、「呪い」という言葉が5回記されておりました。信仰は、呪いの生涯を祝福の生涯に変えるのです!呪いから祝福へ。今、主イエスの十字架と復活の福音により、未来へ向かって、扉は開かれました。過去の罪や悲しみから解放されて、新しい世界が始まろうとしています。

今日は第一に、アブラハムの信仰について共に学びました。

アブラム。あなたは祝福の基となる! 創世記122   彼はこの神、すなわち死人を生かし、無から有を呼び出す神を信じた。 ロマ417

2)6 エッサイはダビデ王の父であった。ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり、(6節)

⇒ ダビデに学ぶ、神の御前に砕けた悔いた心を持て!        

  第二に、ダビデの信仰について見たいと思います

ダビデという人は、イスラエル人にとって、救世主のような人物でした。イスラエルがヨルダン川を通って、カナンの地に入っていったのは、紀元前1000年前のころでした。 その頃の時代は、ユダヤ民族は、ペリシテ人に支配されておりました。このペリシテ人は地中海の方から、現在、問題になっているガザとかアシケロン等の5つの町を拠点に、パレスチナを押さえていました。サムエル記上16章からサムエル記下の終わりまではダビデ王の物語です。ヨルダンの東からはヨシュアに導かれたイスラエルの民が、約束の地へと進出して行きました。同じ頃、地中海の方からは「海の民」といわれたぺリシテ人が現在のパレスチナを地中海沿岸の5つの町、アシュドド、ガザ、アシュケロン、ガト、エクロン(6:17)を支配し、パレスチナ一帯を支配しようとしていました。東から入ってきたイスラエルと西から入ってきたペリシテが真正面から運命の激突。それはエラの谷(エルサレムの南西約20KM)というところでした。そこであの有名な「小さなダビデと3メートル近くあったと言われる巨人ゴリアト」の戦いがありました。神の力を助けとして勝利していったダビデは、ついに、南ユダの王となり、さらに、北イスラエル連合もダビデを王として仕え、彼は当時のパレスチナ地方の、諸民族を従え王となり、そこでエジプトに匹敵するほどの大帝国を築いたのでした。

 ダビデの信仰は二つ出てきますね。

 一つは、ゴリアテとの戦いに勝利する姿。信仰により、神様の助けによって勝利する姿です。サムエル記16章のサムエルによって油注がれ王となったとき以来、ダビデの上に、神の霊が彼の心を貫き、彼は信仰の人として、イスラエル国家を樹立して、ダビデの信仰ですね。

 その究極のダビデの信仰告白は詩篇18:1と詩篇51:17だと思います。

「わが力なる主よ。わたしはあなたを愛します。」

「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません。」

数年前に、スウェーデンのチェリスト、べアンテ・ボーマンさんが友人のフィンランドのチェリスト、ラッセルさんの証しをしてくださいました。イエス様とラッシーとの会話。主イエス様「お金をくれないか」。ラッシー「いやだ」。「お前の才能をくれないか」「いやだ」、「お前の命をくれないか」「いやだ」。それから「お前の罪をくれないか」「あ~、罪なら喜んであげるよ。持っていてくれ」。その時、救いの恵みが分かった!罪と交換に、新しい神の子の命をいただいた彼は、今、教会で牧師にまでなっているとのこと。

3) 11 ヨシヤはバビロンへ移されたころ、エコニヤとその兄弟たちとの父となった。(11節)

⇒ バビロン捕囚に学ぶ、暗黒に夜空に輝く救いの光を見よ!    

 さあ、今日は最後にバビロン捕囚の記事で、重要なのは列王記下17章の記事です。イスラエル民族は、残念ながら、「バビロン捕囚」「選民失格」で終わってしまう。いやそれでも、神は、残りの民を残す。イスラエルの国の使命は終わるけれども、神はアブラハムやダビデのとの約束を守り、ダビデの子孫から、キリストを送り、全人類のために救いをまっとうする。即ち、神御自身が来られ、わたしたちのために十字架にかかられ、死を打ち砕き、復活し、やがて再臨の主として臨まれる。残りの民として導かれ、神の残りの民は、主イエス御自身であり、主の救いを受ける神の民なのだ。

今日はマタイ一章の系図の内容の学びでした。アドベントの備えは神の与えてくださる「究極の平安」であります。石に綱の信仰。(参照:ヨハネ14:27,マタイ14:27) ハレルヤ

【祈り】今日は、今年、第二のアドベントの礼拝を感謝します!先週は「神が人となられた!」という究極の「希望」をベアンテボーマン先生からの説教を頂きました。今日は新約聖書の初めの部分から、イエスキリストの誕生にあたっての備えである、旧約聖書の信仰を、全体的に、さ~っと学びました。それは主イエス様の誕生。キリストを信じると言うことはどういうことかという主題のもと、三つのことを学びました。「アブラハム」「ダビデ」「バビロン捕囚」という三つのことでした。「祝福の基となる信仰」。「死者を生かし、無から有を呼び出す信仰」。ダビデからは「わが力なる神。わたしはあなたを愛します」という信仰。そして自分の罪を悔い、砕かれた魂」。さらにはバビロン捕囚からは、「残りの民として生きる信仰」「暗黒の夜空に輝く救いの光」を見ました。主よ、わたしども魂にまことの平安を与えたまえ。われらの救い主、クリスマスの光なる主イエスの御名によって祈ります。アーメン

新宿西教会成長感謝礼拝説教「今の自分として」ヨハネ21:1~9,15~19 キャサリン・ポーター宣教師 2023月11月12日

  今⽇⼀緒に考えていきたいのは、ペテロの信仰の歩みです。皆さんはペテロのことを想像したら、どんな⼈を想像しますか。⾃分と似ているような性格だと思いますか。それとも、違うタイプだと思いますか。時によっては、ペテロは素晴らしい信仰を持っているような発⾔をする⼀⽅、時によっては何もわかっていなかったかのような⾏動や⾔葉も記録されています。

「あなたは⽣ける神の⼦キリストです」とよみがえりのみわざを⾒る前に信仰告⽩をしたのはペテロだったのですが、イエス様が⼗字架のことを弟⼦たちに説明した時、ペテロがそれに対して「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずはありません」 とイエス様を正そうとしました。イエス様以上に⾃分がわかっているようなつもりでした。というのは、イエス様がキリストだという信仰告⽩をした後でも、ペテロは⾃分⾃⾝に⾃信を持っていました。すぐにイエス様を信じきれることはなくて、イエス様が⾃分に何を求めておられるのか、悟るのに時間が必要でした。

ゲツセマネの園で⼤祭司のしもべの⽿を切り落としたのもペテロでした。助けになりたい気持ちは確かに彼にありました。イエス様を救いたい!守りたい!イエス様 のために何かをやりたい!そのような思いをペテロが持っていたようですが、悪く⾔えば、考える前に、⾏動してしまうタイプだったかもしれません。 皆さんにはペテロと共感できるところはありますか。熱⼼にイエス様についていきたいですが、時によってはイエス様のおっしゃることを理解できなかったり、イエス様の道から離れたり、⼗分神様に⽿を傾けなくて間違いを起こして不信仰になってしまったりする、そのようなことは私たちにないでしょうか。誰にもありますよね。これが信仰の歩みです。すぐに全てがわかるということはなくて、イエス様と 前進しながら、イエス様と時間を過ごしながら、私たちは変えられていきます。 3年間イエス様のそばにいたペテロの信仰がどんなものだったでしょうか。その信仰がどのように成熟に向かっていたのか、イエス様はどのようにペテロの成⻑を導いていたのか、ペテロにくだされた使命とはどんなものだったのか、ペテロの⽣涯を振り返りながら、ヨハネの21章を中⼼として⼀緒に考えていきたいと思います。

ペテロは3年間イエス様と⼀緒に⽣活をして、⾒たことがない奇跡を⾒て、⼼にイエス様の教えがどんどん⼊っていたことでしょう。その3年間がペテロの⼈⽣を変える経験だったのです。ペテロが弟⼦として呼ばれて、⼈⽣初めての働きに関わるようになって、イエス様を通して⽣きておられる神様と関係を持つようになりました。すると、いつまでも、どこまでもイエス様についていきたいとペテロが固く思 っていました。イエス様が死ぬなら、⾃分も⼀緒に死ぬとペテロが熱い信仰を持って宣⾔したのです。 「たとえ、あなたと⼀緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」。 ペテロがこれを⾔ったのは、⼗字架の前でした。何が起こるのか、まだまだ知らない時でした。本当にそうするつもりだったのです。イエス様が死ぬなら、⼀緒に死のうとペテロが思っていました。ペテロの間違いはこれを⾔ったことではなくて、 ⾃分に死ねる勇気があると思っていたことです。イエス様と親しくしていても、まだイエス様について、また⾃分についてわからないことがペテロにありました。当たり前ですが、ペテロが未成熟でした。時によってペテロが素晴らしい信仰を持っ て、素晴らしい⾏動や⾔葉を発していたのですが、まだ彼の中にプライドもあったり、恐れもあったり、⾃分と周りの⼈を⽐べながら歩んでいるところがありました。成熟するのに、時間が必要です。神様のみわざが必要です。私たちには聖霊の働きかけが必要です。

このペテロが⼤きな試練にあって、砕かれていくのです。このペテロにとって、⼗字架がものすごいショックをもたらされました。イエス様がそのように⾏動すると ペテロが想像してはいなかったのです。⼦⽺のようにイエス様が殺されていくとペテロが想像していなかったでしょう。王様となるイエス様、勝利をもたらすイエス様、奇跡を起こすイエス様にペテロが従っていましたが、⼗字架の死を迎えるイエ ス様なんて、理解し難い存在だったでしょう。イエス様がこういうお⽅だというイメージをペテロが⾃分の中に持っていたのですが、そのイメージが事実から少し離 れていました。⼗字架という出来事があって、イエス様のことをどう理解したらいいのか、ペテロには考え直す必要がありました。ペテロにも、私たちにも⾃分が思ったイエス様、⾃分が勝⼿に想像したイエス様と本当に存在されているイエス様に 違いが出てくると、信仰が揺れたりします。そういうことが起こった時、すぐに受け⽌めきれなくて、⼀緒に死ぬと⾔っていたペテロが恐れて、逃げてしまったのです。⼀時的に信仰から離れてしまったのです。私たちにもこのようなことが起こりうるのです。たとえば、神様が優しいお⽅だと信じて、⾃分を試練から守ってくださると信じたところで試練が与えられると⾃分の神様に対する思いが揺れます。間 違った神感を考え直す必要があります。これは成熟に向かって、必要とされているプロセスです。 ペテロに試練が来ることをイエス様がわかって、それを耐えるように助けを与えて、「私のために命を捨てると⾔うのか。鶏が鳴く前に、あなたは私を3度知らないと⾔うであろう。」と注意しました。それでも親しい友であったイエス様を知らないとペテロが3度も⾔いました。この話はヨハネの18章 17 節と 18 節にあります。「すると、この⾨番の⼥がペテロに⾔った、『あなたも、あの⼈の弟⼦の 1 ⼈ではありませんか』。ペテロは『いや、そうではない』と答えた。僕(しもべ)や下役どもは、寒い時であったので、炭⽕を起こし、そこに⽴ってあたっていた。ペテロもまた彼らにまじり、⽴ってあたっていた。」 ペテロが「違う」と⾔っていたのです。「イエス様を知らない」「⾃分が弟⼦ではな い」と⾔っていました。ペテロの信仰は⾃分が思ったほど、強いものではなかった のです。イエス様に従いたい思いがあっても、⾃分の⼒で従いきれないことをここでわかったのです。⾃分の弱さをペテロがここで知ります。⾃分に⾃信が持てなくなるような経験だったでしょう。炭⽕で⾃分を暖めながらペテロがこのような経験をしました。炭⽕があったこと、この詳細(しょうさい)が書いてあるのはヨハネ の福⾳書だけです。今、意味がわからなくても、炭⽕があったことを覚えておいてください。後でこの炭⽕に戻ってきたいと思います。  

この後に、イエス様が⼗字架で死なれました。ペテロはイエス様を知らないと⾔って、⼗字架のことを知って、どれほどの後悔を持ったでしょうか。友達を裏切ったのです。信仰から出た⾔葉ではなくて、ペテロが恐れにコントロールされました。イエス様の真理から⽬を離していました。逮捕されたイエス様がペテロの⾔葉を聞こえたようです。ペテロが何を⾔っていたのか、イエス様がご存じでした。イエス 様が苦しい死刑になる前の⾃分の最後の⾔葉が愛の⾔葉ではなかった、不信仰な⾔葉だとペテロが深く後悔したに違いないです。お別れの⾔葉を選ぶことができたとしたら、「あなたを知らない」と選ぶ⼈はいないでしょう。でも、後悔してもどうしようもなかった。イエス様が殺されて、ペテロが謝りたくても、それができなかったのです。⾃分の⾏動を直したくても、それができなかったのです。後悔と共に、 ペテロがイエス様の死そのものを悲しんでいました。イエス様と⾔う⼤切な友達、 ⾃分を導いてくださった先⽣、将来の希望をもたらしてくださった主、急にペテロのそばからこの存在がいなくなりました。メシヤだと信じた⽅の死をどう受け⽌めたらいいのか、ペテロがわからなかったのです。彼の中で⼤混乱が起こったでしょう。どこに⾏ったらいいのか、何をしたらいいのか、明⽇をどうしようかではなく て、今⽇どうしたらいいのか、それもわからない状態だったでしょう。ペテロが何も考えられなくなっていたでしょう。

このペテロ、⼤混乱にあったペテロにイエス様が表されます。第1回⽬はペテロと弟⼦たちが部屋の中に閉じ籠もって、弟⼦たちに「平安があるように」「安かれ」と イエス様が⾔いました。第2回⽬の時に、イエス様がトマスに寄り添って、トマス の不信仰が信仰に変えられるのです。第3回⽬が今⽇⼀緒に読んだヨハネの21章 です。最初の2回と違って、イエス様がここでゆっくり弟⼦たちと⼀緒に時間を過ごしているような印象を受けます。21章の 1 節を⾒てください。1 節にこう書いてあります。 「その後、イエスはテベリヤの海辺で、ご⾃⾝をまた弟⼦たちに表された。」 場所がティベリアの海辺です。ティベリアの海辺という場所の呼び⽅が聖書の中で 2回だけ出てきて、2回ともヨハネの福⾳書にあります。⼀回⽬はヨハネの6章ですが、ティベリアの海辺で⼆匹の⿂と五つのパンの奇跡が起こされました。弟⼦たちにとってこの海辺は思い出深い場所です。イエス様は今回、どこで弟⼦たちに⾃分を表すのか、たまたまこの場所を選んだと私は思えません。以前の思い出を思い起こすために、弟⼦たちを強めたくて信仰に導きたくて、イエス様がこの場所を選 んだのだと私は思います。イエス様の⼿に五つのパンと⼆匹⿂を渡したら、それが5000⼈を満腹にする、イエス様と⼀緒にいるなら、⾜りないことはない、このことを弟⼦たちが学んだ場所をイエス様が選ばれました。

21章 3 節を読んだら、これはどこかで聞いたことがある話だと皆さんは気づくかもしれません。3 節を読みます。「シモン・ペテロは彼らに『私は漁に⾏こう』と⾔った。彼らは出ていって船に乗った。しかし、その夜は何の獲物(えもの)もなかった。」 漁師であるペテロたちは夜、ずっと働いても⿂を⼀匹とも捕ることができませんでした。これと似ているような話が以前にもあったのですよね。皆さんは思い出せますか。イエス様が3年前に、ペテロを弟⼦として呼んだ時のことです。ルカの5章に詳しく書かれていますが、イエス様が岸辺で群衆を教え終わったところ、ペテロたちに深みに漕ぎ出すように頼んで、「網を下ろして⿂を取りなさい」とイエス様が⾔ったのです。するとペテロが⽂句を⾔って、「私たちは夜通しずっと働きましたが、何⼀つも取れなかった」と⾔って、それでもイエス様の⾔葉に従って網を下ろしたのです。すると、おびただしい数の⿂が網に⼊って、船が沈みそうになり、弟⼦たちがイエス様のことを恐れます。ペテロが⾃分の罪を告⽩した後に、イエス様 は「今からあなたは⼈間を捕る漁師になるのだ」という新しい使命を弟⼦たちに与えてくださいます。これがペテロの弟⼦としての⽣活の始まりでした。⾃分が罪⼈であることを悟って、イエス様が聖なる救い主だと告⽩して、その⽇から以前の⽣ 活からペテロが離れました。ペテロがその⽇から全てを捨ててイエス様に従っていったのです。

その後3年が経ちました。ヨハネ21章にイエス様がペテロを⾃分のスタートラインに戻しているような、はじめの愛、はじめの思いと献⾝をリバイバルさせているようなことがここで起こっています。不思議なほど、ルカの5章とヨハネの21章で起こっていることが似ています。ペテロが⿂を取ろうとして、夜ずっと働いても、⿂を取れませんでした。そんな時にイエス様が来て、「網を下ろして」と⾔って、たくさんの⿂を捕るようになります。 9 節を⾒てください。9 節にこう書いてあります。「彼らが陸に上ってみると、炭⽕が起こしてあって、その上に⿂(うお)がのせてあり、またそこにパンがあった。」 炭⽕に戻ると私は⾔っていましたが、ここに炭⽕があるのです。

炭⽕という⾔葉が 新約聖書で2回だけ出てきます。ペテロがイエス様を知らないと⾔った時と今回です。福⾳書を書いたヨハネがこの詳細を⼊れた意味はあると思うのです。私たちは以前⾏った環境や場所に戻るとその時の思い出が⾃分の中で甦ってきます。これは⼼理⼠が研究されたことです。たとえば、⾃分が通っていた⼩学校に戻ったら、⼩学⽣の思い出が浮かんできます。私は交通事故を起こした後にしばらく運転中の横の⾵が苦⼿でした。交通事故を起こした時、横の⾵があって、それが事故を起こす⼀つの原因だったから、数年が経っても横⾵が吹くと私は横転するじゃないかというメモリーが強かったです。ペテロが炭⽕で体を暖めながらイエス様を知らないと⾔って、今回も炭⽕の前にいます。あの時のことをペテロが考えていたはずです。あの時の気持ちが戻っていたはずです。⼼がいろんな感情でいっぱいになったことでしょう。悲しみ、後悔、申し訳なさ。それと同時に、⿂の奇跡をも⾒て、イエス様に従いたい思いがペテロにありました。最初の献⾝の思いがペテロの中に思い起こされていました。献⾝したい、イエス様に従いたい、この思いと共にあったのは試練を通らされた後の知恵です。従いたくても⾃分が弱いとペテロがわかってきました。献⾝したくても、⾃分の⼒だけならまた失敗することをわかっていました。⾃分にイエス様が必要だ。救い主が必要だ。船から岸辺に⽴っているのはイエス様だとペテロがわかったら、少しでも待つことができなくて、すぐにペテロが湖に⾶び込んだのです。 弟⼦として召された時のことを思い出して、イエス様が全ての必要を満たしてくださる5000⼈を⾷べさせた奇跡のことを覚えて、そして⾃分がイエス様を知らないと⾔ってしまった弱さも知って、ペテロとイエス様がここで対⾯します。

まるで これが癒やしの場所として、イエス様がペテロのために⽤意してくださった時です。ペテロに⽴ち直って欲しいという思いをイエス様が持ってくださったために、 この会話があるのです。ペテロに使命が残っているために、ペテロが神様の愛する⼦どもだから、この会話があるのです。イエス様がペテロを愛しているために、この会話があるのです。3年前のペテロ以上に今のペテロには神様の愛を知る⼼の余裕が出てきました。表⾯的にその愛を受け⽌めるではなくて、⾃分の⼼の底、傷つけられたところまでペテロがその愛を受け⽌められるようになりました。3年前と違う器になってきました。

クリスチャンの⽣涯は失敗で終わるということはありません。失敗して、もう神様に⽤いられないということはありません。失敗して、悔い改めて、神様に赦されて、成⻑して以前以上に⽤いられるとは神様の国で起こることです。イエス様はペテロにやり直す、⾔い直すチャンスを与えてくださいます。15 節にイエス様がペテロにこのように聞きます:「ヨハネの⼦シモンよ。あなたは、この⼈たちが愛する以 上に、私を愛するか。」以前、「たとい、皆の者があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」と⾔ったペテロに対する質問です。イエス様が聞いています、 ペテロ、あなたは本当に他の弟⼦たちが愛する以上に、私を愛していますか。つまずかないのは本当にあなたなのか。あなたは周りと⾃分の信仰の強さを⽐べて本当にいいのか。イエス様がペテロの本⼼を問いています。ペテロに⾃分の⼼の思いを知って欲しい、演じている⾃分ではなくて、本当の弱い⾃分を知って欲しいとイエス様が思っています。そして⾃分を知っているために、神様の愛の⼤きさをも受け⽌めて欲しい、いただいて欲しいとイエス様が願っています。「ヨハネの⼦シモン。 私を愛するか。」イエス様とペテロの会話が親密的な内容になっていますよね。知識 を与えている、指⽰を与えているではなくて、イエス様がペテロの⼼の中⾝を⾒ておられます。⽴ち直るために、神様の本当の愛を知るために、何が必要かをイエス様がわかって、ペテロを導いています。あなたは私を愛していますか。 イエス様を知らないと⾔っていたことがこの会話の中で整理された後に、ペテロが 新しい使命をいただくのです。⽴ち直って、以前⽴っていた場所に戻るということではなくて、⼀歩下がって学び直すではなくて、以前以上に責任を持つような役割がペテロに与えられます。「私の⼩⽺を養いなさい」、「私の⽺を飼いなさい」、「私の⽺を養いなさい」とイエス様がペテロに願っています。⼦⽺の世話、成⻑された⽺の世話をイエス様がペテロに託しています。イエス様の模範から学びながら、牧会の働き、牧師、⽺飼いとしての働きがペテロの働きになります。

3年前にこの働きがペテロに与えられませんでした。その時は⼈間を捕る漁師という使命があったのですが、今回の使命が伝道だけではなくて、宣教だけではないです。3年前のペテロだったら、もしかしてできない働きです。考える前に⾏動してしまうペテロには牧会が難しかったかもしれません。⾃分に⾃信を持って、⾃分につまずくことがないと思い込んだペテロに牧会的な働きが難しかったかもしれません。でも、⾃分の弱さを知って、深い後悔をしたペテロにこの使命が与えられます。変えられたペテロに新しい使命が与えられます。

 皆さんは⾃分の信仰の歩みを振り返ったら、今は昔と同じように神様を仕えていると思いますか。救われた頃の⾃分が今の⾃分より熱⼼だったと思うことはありますか。以前やっていたことをやらなくなったということはないですか。あるいは、救われてから20年がたって、いろんな⼈⽣経験や成⻑が与えられたはずですが、新しく与えられた経験を神様のために⽤いていないということはありますか。考えずにずっとやっていたことを⾃動的にやっていて、今の⾃分に与えられているものを神様のために⽤いていないということはないですかね。神様が私たちにたくさんのものを与えてくださっています。⾃分の⼿にどんなプレゼントが与えられているのか、ぜひ⾒て欲しいです。ペテロの失敗が教会のために⽤いられました。その失敗を通して与えられた信仰や成⻑が⼤いに⽤いられて、福⾳が広がっていきました。 新しく⽣まれた教会に寄り添ったのはこの経験をしたペテロでした。変えられたペテロでした。時間がある時にぜひ⾃分の信仰の歩みを振り替えてみてください。今 の⾃分に神様が何をくださっているでしょうか。どんな経験を神様が⾃分にくださったでしょうか。これから教会のために⽤いられる失敗は⾃分にあるでしょうか。⾃分の失敗を神様に委ねてみてください。その経験はどのように神様の⽺の世話を するために⽤いられるのか、祈りながら期待していけるのです。

私たちは⾃分が⾃信を持っているところで⽤いられるというよりは、⼼が砕かれたその部分が⽤いら れます。⾃分はこれが得意というところで⽤いられるではなくて、弱さを知って神 様に変えられたその部分が⽤いられます。⾃信を持っているところではなくて、失敗された経験が⽤いられます。私たちに失敗した経験があるなら、神様がそれを福⾳の前進のためにお使いになれます。

イエス様がペテロに⼆つのことを話していました。⼀つ⽬は神様を愛しているかどうか。⼆つ⽬は隣⼈を愛するような使命でした。神様を愛していたら、次のステップが周りの⼈を愛することです。私の⽺を飼いなさい。これは牧師という職業をする使命、私たちと関係ないような使命だと誤解しないで欲しいです。イエス様の愛する⽺たちを愛するように私たち⼀⼈ひとりが召されています。神様を愛し、救わ れている兄弟姉妹を愛して、福⾳を必要とされている⼀⼈⼀⼈を愛するように私たちが召されています。私たちに託されている経験がこのために⽤いられるのです。 新しい使命が与えられた、今のペテロに以前できなかったことができるようになったからと⾔って、変わりがないイエス様からの命令もありました。19 節にイエス様 はペテロに「私に従って来なさい」と⾔います。すべてがこの⾔葉に含まれていま す。変えられたものがいくつあっても、いつまでも変わらないのはこの使命です。

 イエス様に従うなら、イエス様についていくなら、ペテロも私たちもイエス様の愛する⼈たちを愛することになるに違いないです。イエス様が⽣きたように⽣きようとすると全ての⼈を愛する、愛を学ぶ⼈⽣になります。ペテロがイエス様を知らないと⾔っていた時、それは⾃分を守るためでした。あの時、⾃分がイエス様の弟⼦だとペテロが⾔ったとしたら、イエス様と⼀緒に殺される危険がありました。ペテロはその時、殉教から逃げていました。ヨハネ21章にペテロがイエス様を愛していることを3回も⾔うのですが、イエス様に従い続けたら、愛し続けたら、ペテロの⼈⽣が殉教に終わるとイエス様ははっきりペテロに教えています。18 節 19 節です。 「『よくよくあなたに⾔っておく。あなたが若かった時には、⾃分で帯をしめて、思 いのままに歩き回っていた。しかし年をとってからは、⾃分の⼿を伸ばすことになろう。そして、他の⼈があなたに帯を結びつけ、⾏きたくないところへ連れていくであろう。』これは、ペテロがどんな死に⽅で、神の栄光を表すかを⽰すために、お話になったのである。」 歴史によると、イエス様の⾔葉の通りにペテロが殉教されました。イエス様への愛の上。イエス様に従った上、ペテロが殉教されます。以前のペテロが逃げていた死に⽅です。その将来が、⾃分を待っているとペテロがこの時からわかったのですが、この死が神様の栄光を表すためだと書かれています。死ぬために死ぬではなくて、迫害されているために死ぬではなくて、殉教を通してペテロに神様の栄光を表す機 会が与えられました。ペテロの死そのものが神様の栄光を表したように、私たちの死に⽅も神様の愛する⽺たちのために⽤いられることはあります。 私に従ってきなさい、イエス様がこの変わらない使命を私たちにもくださっています。⾃分に与えられた道が⼤変に⾒えても、周りと⽐べないでついてきなさいとイエス様が私たちに⾔っています。その道を歩みながら、周りにいる⽺を愛するよう にしていきたいと思います。

新宿西教会宗教改革記念礼拝説教「神の作品として生きる」エペソ書2:1~10 深谷春男牧師 2023月11月5日

エペソ2:1-10   ― 聖書のみ 信仰のみ 恩寵のみ -牧師 深谷春男

                    

【今日の聖書箇所の概略と区分】

 さて、この聖書箇所は、わたしどもクリスチャンの生涯と信仰を非常によく示しています。ウェスレーもここから、記録されただけでも100回以上説教しています。標準説教53の冒頭もここからの説教です。ここにはわたしたちクリスチャンの生涯 ー 過去・現在・未来 ― が記されています。第一にわたしどもの過去の姿、第二に神の恵みに触れた体験、そして第三に新しい創造物として、善い業へと導かれていることが記されます。いわば「クリスチャン生涯の、過去、現在、未来」が記されています。以下の通りです。

1、過去:死んだ状態-悪しき霊に支配され、この世に倣う生活 1-3節       2、現在:救いの体験-キリストの十字架と復活による救済   4-7節           3、未来:善い業への招きー新創造の神の作品として生きる   8-10節

【メッセージのポイント】

1)1 さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、2 かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。3 また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。(1-3節)  

⇒ 過去:死んだ状態-悪しき霊に支配され、この世に倣う生活

ここで聖書はわたしどもはかつて「自分の過ちと罪のために死んでいたのです」と指摘しています。生きているというのは実は名ばかりで実は、霊的には死んでいたと表現しています。そして、その実態は、わたしたちが従っていたもの、支配されていたものが何であるかが明言されています。それは「悪の霊」であり、「この世を支配する者」、「かの空中に勢力を持つ者」、すなわち、「不従順な者たちの内に今も働く霊」であると表現しています。そして、そのような生涯は、「肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動してい」ることとなります。パウロはここで、過去の罪の生活を言っていますが、その背景に、この世を支配する悪しき霊の存在、サタンの存在を指摘しています。全く自己中心の生涯はやがて破局を迎えます。それは生まれながらの「怒りの子」、「神の怒りを受けるべき罪びと」であると説明しています。

ちょうど、糸の切れた凧のような存在です。悪の風に身を任せて空高く飛んだとしても、ぷっつりと糸が切れて、くるくると風に舞いながら、地上へと転落する。もしも、生まれながらの罪の生活を続けているならば、それは恐ろしい「神の怒り」を恐れつつ生きる、惨めな敗北の生涯になってしまうのです。

2)4 しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、5 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである―― 6 キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。7 それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。 (4-7節)

  ⇒ 現在:救いの体験-キリストの十字架と復活の恵みに触れて

4節で「しかし」とあります。この「しかし」は重要です。罪の現実があります。過去の傷つけ、傷つけられた現実があります。そこには「怒りの子」と言われる事実がなまなましく続いているかもしれません。しかし、わたしどもは、その罪の支配の現実から目を転ずるのです。        

「しかし、憐れに富む神は」とパウロは語り始めます。憐れみ豊かな神に目を止めるのです。4節には神様がわたしどもを、「この上なく愛し、その愛によって」、死んでいたわたしどもをキリストと共に生かしてくださったと語っています。この4節には「アガペー」が2回使用されます。神の驚くべき愛、この上なき愛が、イエスキリストの十字架と復活という恵みを通して、わたしどもの現されたのです。この「神の愛」に触れた者は、死んでいたところから復活し、キリストと共に天の王座に着き、新しい生涯へと生まれ変わるのです。

 ある方はこの箇所には4つの神様の姿が記されていると語っています。「神の愛」、そして「神のあわれみ」。これらは何の価値もないわたしどもにそそがれれる特別なる恩寵を言います。そして「神の恵み」。これは神様の豊かな世界、われらを包み、反逆するものを受け入れ、罪と死の世界を、愛と命の世界に作り変えて行く。そして最後は「神の力」です。神の天地創造の力は、キリストの十字架と復活と言うかたちで現れ、全てを作り変えて行くのです。

3)9 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。10 わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。(8-10節) 

⇒ 未来:善い業への招きー新創造の神の作品として生きる                               

 ここには大変重要なことが語られます。わたしどもの生涯は、「恵みにより、信仰によって救われた」というのです。それはわたしどもの自分の力によるのではありません。それは神の賜物だというのです。神様はわたしどものために前もって準備して、キリスト・イエスにあって造って下さったと告白しています。わたしたちは、「神の作品」「キリストにあって善い業をするようにと造られた神の作品」であると言うのです。 

 今日の週報には、《コラム》の中に山田彰先生の証しも入れさせて頂きました。映画俳優で、加山雄三主演の「若大将シリーズ」に出て、若大将役。大金が入って、ついつい、お酒におぼれる日々・・。ついにアル中となった。職を失い、競輪競馬でも大失敗、持参金10円!路上で電話をした。近くの淀橋教会に紹介され、門を叩くと伝道師が出られた。彼の窮状を聞いた伝道師が「あなたに救われる道がある。」「ハア、どのような道ですか。」ロマ書10:9,10を読みましょう。」「読んでください。」と言われて読むと「心で信じて義とせられ、口で告白して救われる!」。ここから始まって、彼は求道生活、しばらくして洗礼を受け、クリスチャンになった。その後、小原十三司師に導かれて献身し伝道者として働かれた。今、彼は天国だが、御子息も立派な牧師となっている。「御言葉には魂を救う力がある。」ハレルヤ

 さて、今日は「宗教改革記念礼拝」と銘打っての礼拝です。すなわち、1517年10月31日に起こったマルチン・ルッターによる宗教改革の記念礼拝です。説教題は「神の作品として生きる」。副題は「聖書のみ・信仰のみ・恩寵のみ」。この副題は、プロテスタント教会の「三大原理」とも呼ばれます。

― 聖書のみ・信仰のみ・恩寵のみ ―   

  • 聖書のみ:プロテスタント教会は66巻の聖書だけを正典とします。

  正典が定まった後の外典等は正典(カノン)に入れない。

  • 信仰のみ:自分の功績や律法の行為によって救われるのではなく、

  主イエスを信じる信仰によって救われる。ロマ3:21~26

  • 恩寵のみ:救いは、人間の業によるのではなく、神の恩寵(恵み)に  

よる。実は、②と③は同じ性質のものです。エペソ2:8。

Sola scriptura : 形式原理。これらはラテン語の表記。聖書のみ

Sora fide :内容原理。第三の「恩寵のみ」と同じ。主体的表現。

Sola gratia :内容原理。第二の「信仰のみ」と同じ。客観的表現。

マルチン・ルターの生涯:

 プロテスタント(新教)教会はマルチン・ルッター(1483-1546)の宗教改革から始まりました。彼の原点は「神の義の発見」であり、それは「福音の再発見」と呼ばれました。わたしどもの信仰の原点であるマルティン・ルッターの生涯とその信仰について共に学んでみましょう。

 彼はドイツの宗教改革者です。彼の父はハンス・ルッタ-といい坑夫から身を起した坑山の所有者で、息子のマルティンにだけは最高の教育を授けたいと願い、まず、マンスフェルトのラテン語学校に入れ、続いてマグデブルクの学校、エルフルト大学の文学部に入れました。専門の法学部に入学し、エリートコースをまっしぐらに歩いていました。

 しかし、入学直後、丘を歩いているときに雷雨に逢い、死の危険にさらされました。思わず、そこで「もし命を助けてくれるならば修道士になります!」と誓約。嵐は無事に去ってしまいました。彼は誓約通り、名門大学入学をやめて、エルフルトのアウグスチヌス修道院に入ります。

 当時の修道院生活は、とてもきびしいものだったようです。起床は深夜2時。そこから修道僧は祈りの時を持ち、粗末な食事と厳しい訓練とで、必死になって訓練を受けました。アウグスチヌスの修道院は特に、祈りの時に詩篇の朗読日課。毎日詩篇を50篇づつ読み、3日で150篇を読み終えたそうです。真面目なルターは、自分の内側に起こる様々は罪と格闘しながら、霊的に成長。1507年に24歳で司祭となり、初めて礼典を司式。その時など、緊張と罪意識で倒れる寸前のような御用だったようです。

 しかし、翌年はヴィッテンベルク大学の講師となり、哲学と聖書の講義をし、アウグスチヌスの研究を始める。自分自身の罪との戦いで、ギリギリの状態で、自分を保っていたようです。それでも1512年神学博士、 ヴィテンベルク大学神学部の教授となり、このころに有名な《塔の体験》をしました。《塔の体験》とはルッターの研究室でもあった塔の中で与えられた霊的な一大転換のことです。それは『聖書の再発見』とも『福音の再発見』『神の義の再発見』とも言われています。この体験が歴史を覆すような宗教改革へとつながって行きます。

 ルッターは、詩編、ロマ書、ガラテヤ書、ヘブル書と大学での講義を続けながら聖書の教えている『救い』を再発見していったのでした。

 学びの結論は、『人は主イエスキリストを信じる信仰によって救われる。』という信仰義認の教えでした。

 自分自身の内面を厳格に観察することを教えていたルッターは、自分の内にある罪があることを見出して、深く悩みました。彼は何とかしてこの罪から逃れようと努力しましたが、断食も徹夜祈祷も彼の心を満足させ得なかった。ロマ書へと研究が進むにつれて彼の『神の義』の理解が深まり、神の義とは人を裁き罪人を罪あるものとする『義』ではなく、むしろ、罪あるどうしようもない人間を『義と認めてくれる』という神の与える『恵みの業』であることが分かったのです。この『神の義の発見』が世界の精神界に与えた影響は実に測りがたいものです。この発見は、更にガラテヤ書、ヘブル書の研究を通して確信へと導かれました。そして、1517年10月31日万聖節(聖徒の日)の直前、ヴィッテンベルク城教会に行き「95箇条の提題」を貼り出し、免罪符を攻撃し、宗教改革の火蓋を切ったのでした。そこには深い罪の認識と、そのような自分への神の恩寵認識。まさに「聖書的福音信仰」の出発でした。 

【祈祷】 父なる神様。宗教改革記念礼拝を感謝します。わたしどもも、この朝、代々の先輩たちにならい、プロテスタント教会の基本である、「聖書のみ、信仰のみ、恩寵のみ」の福音に立って、あなたの十字架の贖い、復活の恵み、聖霊による愛と喜びの生涯を歩んで、福音を証ししたいと考えています。この一週間も、あなたの恵みの中を導いて下さい。主イエス様の御名によって祈ります。   アーメン