新宿西教会オープンチャーチ第五週主日礼拝説教「どうしたら天国に行けるの?」ヨハネ福音書6:47~51 深谷春男牧師 2023月10月29日

おはようございます。今年の10月は、オープン・チャーチの月間で、毎週、聖書の中心メッセージが語られました。すばらしい一時でしたね。

(新宿西教会のHPで今もこの説教の内容を聞くことができます。)

1日 説教「今が、一番のしあわせ」  深谷牧師

  聖書:コリント人への第2の手紙 6:2・コロサイ書3:15,16,17)

     聖歌隊讃美・聖歌独唱 高島泰英兄

8日 説教「神が与える希望」    福田理絵神学生

   聖書:ローマ人への手紙5:1~5  ピアノ奏楽と証:本江園子姉

15日 説教:「神様からのラブレター」 小林則義牧師

   聖書:マタイ福音書4:4  証:長谷川武国兄

22日 説教:「永遠の命の泉」   深谷美歌子牧師

   聖書:ヨハネ福音書4:14  証:宇野直子姉

29日 説教:「どうしたら天国に行けるの?」深谷春男牧師

    聖書:ヨハネ福音書5:47~51

ピアノとヴァイオリン演奏 本江園子姉、澤田奈都子姉

(29日は永眠者記念礼拝でもあります)

さあ、今日は、オープン・チャーチ最後の日であり、また永眠者記念礼拝の時でもあります。神様の豊かな祝福のまとめの時といたしましょう!

 先日、福井県の武生教会で、特別伝道集会がありまして、すばらしい恵みの時を持ちました。礼拝で、ピリピ書4:4~7から、「パウロの白鳥の歌」という内容をお話しし、パウロ先生の『遺言』のように、共に聞きました。「主にあって喜べ」.と言う、喜びの生涯を語りました。なぜなら、「主の臨在の中を歩むこと」ができること。そして、主は近い、何事も思い煩うことなく、感謝を持って、祈り続けるのだ!と語りました。

熱心な方々が、耳をそばだてるようにして聞いて下さいました。

恵みの礼拝を終えて、皆さんで、一緒にお食事の時を持ちました。

その時に、20数人の方々が昼食に残られ、楽しい食事と交わりの時がありました。皆さんの自己紹介がありまして、おひとり一人が救いの証しや、試練の時の証し、今直面している課題など、あらゆる話題と質問の時があり、あっという間に、定刻の2時は過ぎてしまいました。その時に語られた内容のひとつは、70歳を超えている人や最年長92歳ぐらいだったでしょうか?その方々が、教会生活を続けており、聖書は読んでおりますが、「最終的に、聖書の教えている、天国について、教えて欲しい」というのです。信じてはいるのですが、いまいち、はっきり教えて欲しい。それでわたしも、聖霊様の助けを背後に覚えつつ、語りました。

今日の説教の内容と関係が深くあることと思います。

人はどうしたら天国に行くことができるか?

滅びの中に、神様に捌かれて滅びに落ちはしないだろうか?

そもそも、救いはどのような内容なのでしょうか?

 わたしは待ってましたとばかり語りました!

 結論は以下の通りです。

【結論】は、次の御言葉です。= 特に、ヨハネ6:47

「47 よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。48 わたしは命のパンである。49 あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。50 しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。51 わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。

 主イエスを信じる信仰よって、永遠の命は与えられるのです。アーメン

【聖書の語る基本的メッセージのポイント】

  • 神が天地を創造し、創造の冠として人間を創造された。

   創世記1:1    創世記1:27  

  • 人間は罪を犯して神と断絶し、罪と死の支配の中に落ちた。

 創世記3:1~7

  • 神はこの人間の現状を救うために、アブラハムを選び契約を結ばれた。

モーセを通して救いの道として「律法」を与え、ユダヤ民族を立てた。

創世記12:1~4
出エジプト記19~24

  • しかし、人間の罪は深く、イスラエルの民は、十戒を中心とした律法は救いとならなかった。結果は選民失格。バビロン捕囚でイスラエルの民の使命、呪いの世界を祝福に変える使命はは終わった。

アモス8:2 列王下17章

エレミヤ31:31~34 イザヤ53章

  • 神様は、新しい計画を実行された。それは、人間の救いの新しい契約。神の独り子、主イエス様を通して全人類を救う計画です。「主イエスキリストを信じる信仰」によって全人類を救うのです。神は、独り子キリストを遣わし、その十字架の贖いの血潮をもって人間の罪をゆるし、復活をもって死を打ち砕かれました。その罪の負債をすべて負ってくださり、創世記3章以来の、罪と死の呪いを解決して下さいました。つまり、主イエスの十字架の血潮によって罪は贖われ、その復活の命に与って死をも克服するという救いの道です。これが新約聖書の内容。「神の受肉・十字架・復活・聖霊の付与・再臨」という救いが、完成、成就されました。それを信じ、受け入れることが天国に入る方法です。

*以下のように祈ってください。                  「天の神様。①わたしは、あなたの目から見ると、破ればかりの人間です。つみびとです。②しかし、あなたが、わたしのために主イエス様を送って下さり、十字架の贖いをなして下さいました。主イエスのなされた、「十字架と復活」によって、わたしの罪と死の呪いの業を打ち砕き、救いの道、永遠の命の道を開いて下さいました。それを信じます。③信仰の決断として、洗礼の恵みに与ります。わたしを神の子とし、天国の住人として導いて下さい。イエス様のお名前によって祈ります.アーメン。」

さあ、今日は、わたしどもは、新宿西教会の先達たちの写真と共に、

あなたの御前で、「永眠者記念礼拝」を献げています。

大内文平牧師:1881年(明治14年)~1918年(大正7年)

柳田文吾牧師:1872年(明治5年)~1945年(昭和20年)

岡田實牧師:1905年(明治38年)~1991年(平成3年)

 そして多くの愛する兄弟島師・・・・・・。なつかしい皆さんのお名前を、ここにすべて騰げることは、残念ながらできません。おゆるし下さい。

山室軍平先生がイザヤ25章の解説の中で。◇真の宗教は永遠の命を約束する。イエスの救いは、人を死に打ち勝たせるものである。ここに「とこしえまでも死をのみたまわん」(8節文語訳)とあるは、それを示しているのである。有名な説教者ムーディーの言葉。「いつか一度、君は新聞紙上に、東ノースフィールドのD.L.ムーディが死んだという記事を見るであろうが、その一言半句も信じてはならない。その時こそわたくしは、これまでにかつてないほどに、生き生きしているのである。ただわたくしは高い所へ上っている。それだけである。このわたくしは土くれのような住み家を出て、崩壊の恐れを去り、イエスの御姿に似た霊体に移されているだけである」。 

三室泰平さん、湯沢七重先生、滝元明先生、藤井武先生、小渕しず姉、朝位真士先生など天国凱旋の先輩たちの勝利の笑顔が浮かんできます。

内村鑑三の召天の記事。人と思想『内村鑑三』関根正雄 篇・著

1930年(昭和5年) 3月28日、午前8時51分永眠、70歳。

3月26日、古希の誕生日迎える。聖書研究会員による古希祝賀感謝会開かれた。内村は、心臓衰弱の発作による苦しみの中で、集まった方々に伝えるように「万歳、感謝、満足、希望、進歩、正義、すべての善きこと」という短い言葉にその時の心持ちを託した。付け加えて言うには、「聖旨にかなわば生き延びて更に働く。しかし、いかなる時にも悪しきことはわれわれおよび諸君の上には未来永久に決して来ない。宇宙万物人生ことごとく可なり。言わんと欲すること尽きず。人類の幸福と日本国の隆盛と宇宙の完成を祈る」との語を参会者に送る。藤井武はこの祈りについて言う。「宇宙の完成!多くの人はそれが何を意味するのかさえ、解しません。・・・・・」

【祈り】 天の父よ。恵みの言葉を感謝します。「47 よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある」。主よ、わたしどもは信じます。あなたこそ、生ける神の子キリストです。永遠の命をもたれるお方、わたしの救い主」です。パウロのように、D.L.ムーディー先生のように、代々の聖徒たちのように、復活の信仰の中を、大胆に歩ませてください。罪と死の呪いを砕きたもう、復活の主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

新宿西教会オープンチャーチ第四週礼拝説教「永遠の命の泉」ヨハネ福音書4:14 深谷美歌子牧師

 

《新宿西オープンチャーチ礼拝》  永遠の命の泉」   2023・10・22

 ヨハネ4:1-26                    深谷美歌子

この頃、線状降水帯や台風で被害を受けた方が、飲料水を受けるために、容器を持って給水車で受け取る映像がテレビで報道されます。今はイスラエルが戦争状態で、給水が1日分しかないなど「水」がなくては生きて行かれません。日本では水は豊富なのが普通なので、普段はあまり水のありがたさを感じません。わたしは子供の頃、近くの井戸から水を運びました。重い水を運ぶのは苦労です。水道が付いたときは「便利!」と思いました。

今日の聖書箇所は今のイスラエルの中程にあった、スカルの町の井戸のそばで、サマリアの女の人がイエス様に出会った出来事です。

聖書は作り話の書ではありません。ほんとうに起こったことを伝えています。本日は、独りの偏見や恐れに囚われていた女性が、心の底から満たされ、生かされたできごとを知って、今も起こるこのことをお伝えしたいと思っています。ご一緒に見て参りましょう。

【今日の聖書箇所の概説】  

1-9節 ガリラヤに向かう途中、ヤコブの井戸に来られ、疲れて

座っていたイエス様が サマリアの女に水を求め、彼女

はなぜ私に?と質問する。

10-15節わたしが生ける水を与える人であると知ったら、あなたの方から生ける水を求める。私が与える水を飲む者は永遠の命に至る水が湧き出る。女性はその水を下さいと言った。

16-18節 過去の夫の事を言われ、彼女は全知のイエス様に驚く。

19-26節 神の前に出るとしたら、ゲリジム山かエルサレムかと問う。

    メシアがきて霊とまことをもって礼拝する時がきているあなたと話しているこの私がそれを与える者です。

【メッセージのポイント】

1)「水を飲ませて下さい」

3 ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。4 しかし、サマリアを通らねばならなかった。5 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。8 弟子たちは食物を買いに町に行っていたのである。9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。3-9節

バプテスマのヨハネの時代が終って、イエス様のほうが弟子を多く作っているとファリサイ派の人々が知ったとき、攻撃がイエス様の方に向くと思われたのでしょう、まだ最後を迎える時ではなかったので、ガリラヤに向かわれたと思われます。そのときサマリアを通ったのでした。確かにサマリアを通った方が近道ですが、迂回していく道もありました。がイエス様はサマリアを通らねばならなかったのでした。目的があったのでした。

 このサマリアは紀元前722年にアッスリアに北イスラエルが滅ぼされた時、アッシリアの王が違う民族を送り込み、混血の民ができました。586年にユダ王国もバビロン捕囚となりましたが、ユダヤ人はけして他民族とは同化しなかったのです。その後、捕囚から帰還が許され、神殿再建が許されましたが、サマリア人は混血したということで、仲間に入れてもらえず、ゲリジム山に神殿を立てました。それ以来、反目の仲になっていました。しかも女性にラビが、声をかけるなど考えられない時代でした。「サマリアの女の私に」との言葉にはこんな意味が含まれてます。そのサマリアの井戸のそばで、イエス様は渇きを覚えておられました。そこに、サマリヤの女の人が水を汲みに来たのでした。

 イエス様は「水を飲ませてください」と頼みました。女の人はビックリしましたが、その態度は、やさしく、サマリヤ人への偏見も、女性への偏見も感じさせないものでした。けれどもこのことはあり得ないことだったので、「どうしてサマリアの女のわたしに飲ませてくれとおっしゃるのですか」と聞いたのでした。神様は人類全てを偏見なく愛しておられます。この女性はこの愛に満ちたイエス様に接したとき、心を開いたことでしょう。

 現代においても、あなたが必要だ、助けてくれないか?とやさしく声をかけてくださっています。無用な人など一人もいないのです。

2)「生ける水を与える主。」

10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」  10-15節

 イエス様は、水を下さいと自分から言ったのに、急に『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。と答えました。イエス様から生きた水の話を始めたのでした。

 ヤコブの井戸はたまり水です。30mあるいは60mもあったと言われています、それだけ掘って地中からしみ出してきた水でした。。旅人は動物の皮で作った紐や袋を持っていて、それで水をくみ上げて飲んだそうです。

「生きた水」と言う表現は、泉のような流れる新鮮な水を現わす言葉だそうです。イエス様は4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と言われました。この女性は人目を避けて水を汲みに来ていたので、そのような水があれば欲しいと言いました。水道が付くようなイメージだったでしょうね。

3)夫をここに連れてきなさい

 16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」  16-18節

 生きた水が欲しいと言った女性に対し、その水を頂く条件のように

「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」とイエス様は言われました。彼女は「わたしには夫はいません」と答えました。彼女は過去5人の夫がありましたが、今一緒にいるのは正式な夫ではありませんでした。

 突然イエス様はこの女性の現実をズバリと指摘しました。 彼女が人目を避けて水を汲みに来なければならない理由はこれでした。  

 今年の首都圏イースターでメッセージしてくださった大嶋重徳先生が「この女性は過去に5人も夫がありました。裏切られたのか、どうしてそのようなことになったかは書いてありませんが、こりないで同棲している人がいました。人は誰かに好きだ、愛していると言われたい。満たされたい存在なのだ。」と語られました。この人の一番必要としていたのは、裏切られない真実の愛の命に満たされることでした。

4)メシヤ(救い主)はこの私である

 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。20 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。・・23 霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます」26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである」  19-26節 抜粋

 自分の過去を全て知っているイエス様に「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。20 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。と神様に向く場所について尋ねます。「婦人よ、わたしを信じなさい。まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。イエス様がメシヤで、自分が赦されることを聞き、心の底から赦された喜びを経験しました。湧き上がる喜びで、人の目も気にならなくなって、この素晴らしい知らせを知らせるために、町に走っていきました。復活し、今も生きておられる主は「婦人よ、わたしを信じなさい」と語っておられます。全ての罪を負って十字架についてくださったイエス様を信じ、溢れる命を今から頂いてください。→ 藤井圭子先生の証し。

祈り、この世の何ものによっても満たされない、死に繋がった命でした。イエス様の赦しの永遠の命を、今から感謝していただきます。御名によって。 アーメン

新宿西教会オープンチャーチ第三週礼拝説教「神様からのラブレター」マタイ4:4 小林則義牧師

 

 

今日は3つのお話をします。最初は「握手」という私のトラクトに書かれていたお話です。

私は握手について恥ずかしい思い出があります。中学2年生の時でした。ある女の子と握手をしたのです。その子は可愛い女の子でした。髪は三つ編みで、みんなからとても好かれていました。どうして握手をしたのか理由は忘れてしまいました。ドキドキしながらその女の子の手を握りました。

ところが、手を握ったとたん私はびっくりしました。女の子の手が何とごわごわだったのです。ゾウの皮のような手をしていたのです。

何故?どうして?頭の中が一瞬混乱しました。私はショックを引きずりながら気の置けない友人に相談してみました。

「どうしてあの子はあんな手をしているのだ?」

しばらくして、その理由が分かりました。その女の子はよく家でお母さんのお手伝いをしていたのです。だから、手がごわごわだったのです。

それからは、私はその女の子を好きだというより、むしろ尊敬するようになりました。女の子はもう大人の手をしていたのです。

最近、私は自分の手を見て、自分の手もやっとあの女の子のような大人の手になったのだなと思いました。手は変わっていきます。手は成長していきます。まず自分のことは自分でするようになります。次に働く手、人のために役立つ手になっていきます。そして最後には育てる手、愛する手、祈る手へと変えられていきます。

カルバリの丘の十字架上の主イエスに目をやると、主イエスの手が釘づけられているのが分かります。その手から血潮が流れています。それは、私たちの過ち、罪、孤独、心の傷を背負うためでした。私は、この手によって愛され、この手によって癒されたのだと思うと同時に、私の手もこの主の手の代わりをさせていただきたいと願わずにはいられなくなりました。

「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。」(Ⅰヨハネ3章16節)

 私たちは本当の愛に触れなければなりません。偽りや裏切りのない本当の愛に触れなければなりません。

「たしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。」(Ⅰヨハネ3章10~12節)

聖書は十字架上に愛があると言っています。わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」と言っています。神様は御子をこの地上に送ってくださいました。このイエス・キリストが十字架上で死んでくださいました。それは私たちの罪のためでした。

みなさん、聖書は神様からのラブレターです。それは本当の愛に満ちています。

高校時代、私は電車通学をしていました。あるとき、ひとりの小柄な女子高生が私の前に立っていました。私は気にも留めず、お気に入りの本を読んでいましたが、彼女は突然、私に白いものを差し出し、電車が止まると同時に、逃げるように降りて行きました。それは紛れもないラブレターでした。

私が彼女と交際していた、ちょうどその時、私は通学の車中で旺文社文庫の「新約聖書」を読んでいました。たまたま兄が持っていたこの本をもらい、通学の車中で読んでいました。しかし「新約聖書」を読んでもよく分かりません。でも何かためになることが書いてないかと思って我慢して読んでいくと一箇所だけ惹かれることばがありました。そこに赤線を引いておき、それで読むのをやめにしてしまいました。

その後、この「新約聖書」から彼女のラブレターより強烈なラブレターを受け取るとは思いもしませんでした。

 それは私が大学の受験勉強をしていた時のことです。何年か社会人生活を送った後、やはり勉強しなくては、勉強したいというという思いに駆られ、会社を退職して受験勉強をしていた時のことです。私は、食事、トイレ、お風呂以外全ての時間を勉強に当てました。一日に十数時間勉強したでしょうか。でも、とうとう勉強が続かなくなり、力尽きてしまったのです。頼れるものが何もかもなくなり、自分がガタガタと崩れていくのがわかりました。学力ない、お金ない、頼れる人ない、本当に目の前が真っ暗になり、もう駄目だと思いました。

自分の部屋で悶々としていると、あることばが思い出されました。それは高校時代に車中で読んだあの「新約聖書」のことばでした。それは闇の中から光を帯びてくるように私に迫ってきました。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」    (マタイ4章4節)

愛に満ちた諭しのことばでした。私は全く新しくされ立ち上がることが出来たのです。大学に入ることより大切な人生の意味と目的を教えられたのです。こんな強烈なラブレターは他にあるでしょうか

 聖書は神様からのラブレターです。それは私たちに人生の意味と目的を教えてくれます。

私たちの人生は、病気になるとか、事故に巻き込まれるとか、突然失業してしまうとか、思いがけない出来事が起こります。そういう時、私たちはどういう態度を取ればよいのでしょうか?

牧師にとって思いがけない出来事、それは、お元気だった信徒の方が突然天に召されるということです。私が群馬の渋川教会に赴任して3か月が過ぎた時、突然、ある姉妹が天に召されました。それは、まさに青天の霹靂でした。姉妹はお体が不自由でしたが、1週間前の礼拝には元気に出席されていたのです。お連れ合いの兄弟から夜中の午前3時頃お電話をいただきました。何はともかく、祈りました。そして葬儀の流れを確認しました。そして役員の方に連絡をし、朝、ご自宅に向かったと思います。次の日はもう前夜式でした。当時、教会には冷房設備がなく7月の蒸し暑い中での前夜式でした。マイクも故障で使えず、司式をすべて肉声で行ったことを覚えています。何とか、前夜式、そして次の日の告別式を執り行うことができました。

 聖書は、私たちに「成長するように」と促しています。「成長するために」私たちは何をすればよいのでしょうか?私たちは、まず、何はともかく、祈りましょう。聖書を読みましょう。それは「成長するための」第一歩です。

「今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入(い)るようになるためである」(Ⅰペテロ2章2節)

神様が私たちを成長させてくださるのです。聖書は神様からのラブレターです。ラブレターは私たちを成長させてくださるのです。

それでは、みなさん、突然の出来事の最大のものは何でしょうか?それは私たちが天に召されることです。この地上の生涯を終えることです。

 私は今年の4月、重篤な肺炎を患いました。1か月の闘病生活でした。胸が苦しく、呼吸困難になり、夜は眠れませんでした。病院に入院する時「もう家には帰れない」「天に召されるかもしれない」と思いました。その時ヨブ記のことばが与えられました。

「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ1章21節)

 体の激しい痛みはあったのですが、何故か心は落ち着いていました。私は、クリスチャンは死に直面しても死を恐れないと聞いていました。イエス・キリストが十字架の死と復活を通して、罪と死に打ち勝ち、永遠のいのちを与えてくださったと信じていました。この時、私は「天に召されるかもしれない」という思いの中でも平安があることに、救いの確かさを強く思わされました。

「生きることはキリストであり、死ぬことは益である。」(ピリピ1章21節)

「生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。」(ローマ14章8節)

 このパウロの心境がよく分かりました。もはや生と死の境目はない。生と死が続いている心境です。もう天の御国にいるという心境です。

しかし、病院での治療は厳しく、余りにも辛いので大声で泣いたこともありました。祈っても「神様!」「神様!」と叫ぶだけでした。後のことばが出てこないのです。

入院して2週間目でしょうか。何と激しい痛みが治まってきたのです。はじめてぐっすり眠れました。その時「あ~神様と祈れる方を知っていてよかったな~」と思いました。それからは神様からのラブレターのラッシュです。次々と聖書のみことばが与えられました。

「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」詩編23編4節)

この時、私はいやされるという確信を与えられました。入院して思わされたこと、それは、神様からのラブレターは救いの確信を与えてくれるということです。

新宿西教会オープンチャーチ第二週礼拝説教「神が与える希望」ローマ5:1~5 福田理絵神学生

 

 いつも東京聖書学校や神学生を覚えて祈り支えて下さりありがとうございます。今日、このようにして新宿西教会の皆さまと共にみ言葉を分かち合う機会が与えられますことを心から感謝いたします。神学生の説教で聞き苦しい所があるかと思いますがご容赦ください。

 「神が与える希望」と題しましてお話させて頂きます。

神が与える希望

  • 神との平和

神が与えてくださる希望とは一つ目は神との平和です。今こそ平和が必要な時代です。

平和とは争いがないこと、生命の危機を感じることなく安心して暮らせることです。

私たちの心はどうでしょうか?平和があるでしょうか。安心しているでしょうか。

多くの人に囲まれていても、沢山お金を稼いでも、家庭に争いや、心に苦しみや問題を抱えていたら平和だとは言えません。また、今、「平和」だと思ってもその平和が永遠に続く保証はありません。そのような私たちに神は平和の道を、イエス・キリストを通して与えて下さいました。

1節に「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神に対して平和を得ている。」とあります。

私たちはかつて神を知らないで生きてきました。それは、つまり神と関係なく自分中心に生きてき、神との間に平和がなかったのです。

神との平和がない私たちは、平安がないので自分の力や努力で正しくなろう、義となろうとします。昔、ユダヤ人は律法を守ることが救いだと考え懸命に行いました。しかし、ユダヤ人はイエス・キリストが来た時に自分たちを正しいとし、主イエスを拒絶し、猛烈な妬みと怒りにかられ何の罪もないキリストを十字架につけてしまいました。律法を守ることでは、内に潜む火のような罪を消すことはできないのです。

このように人間は自分の力では神の義に到達することも、人の罪どころか自分の罪も取り除くことはできないのです。

そのような、罪の前に無力な私たちのために、神は平和の架け橋として、ご自分の御子であるイエス・キリストを地上に送って下さいました。

このキリストが私たちの罪、つまり自分を神として生きてしまう高慢さや自己中心、神を信じきれない不信仰、人を許せない、愛せない心、苦々しい心、妬みや憤る心、そのような私たちの罪のために身代わりになって死んで下さったのです。

このキリストを信じる者は、善行や自分の努力によらず、神の恵みによって与えられた神を信じる信仰によって義、つまり正しいとされ、神との平和な関係へと導かれるのです。

平和な関係とは国と国との平和条約がそうであるよう、神があなたの全ての面で後ろ盾となり、共に戦い、あなたの人生の保証人となって下さるということです。

神との平和な関係があってこそ、私たちはあらゆる状況、困難な時代においても平安を保つことが出来るのです。

私たちは、キリストによって義とされ、神との平和な関係が与えられ、神が私たちの人生の後ろ盾となって下さっていることを改めて覚え感謝したいと思います。

  • 真の希望に生きる

次に、神が与える希望は朽ちない希望です。

人間が持つ希望は必ずそうなるという保証はありません。朽ちない断ち切れない希望は神が与える希望です。

3,4節で「艱難をも喜んでいます。なぜなら、艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出す。」 と語られています。

私たちの人生には苦難と言える、私たちが悩み苦しむ試練や問題、病などがあります。キリストを信じたから苦難はないということはありません。また、希望が絶対にかなうというわけでもありません。「艱難は忍耐を忍耐は練達を」とあります。この「練達」とは物事に深く通じ、達人の域であること、火で精錬された金が合格した状態を指します。

主を信じ、主により頼み、苦しみや困難を忍耐持って乗り越えた者は達人の域のような火を通しても朽ちない金のような練達した信仰が与えられるということです。

そして、この練達が希望を生むというのです。

「希望」というと、青少年の特権のような、または空に浮かんでいるフワフワとした漠然としたもののように私たちは感じそうですが実は違うようです。練達を通して朽ちることのない真の希望が生まれるのです。では、練達の先にある希望とはどのようなものでしょうか。5節に「この希望は失望に終わることがない」とあります。

他の訳では「欺かない」「恥をかかせない」とあります。

「神が与える希望は私たちを欺かない、失望で終わらせない」と言われるのです。

私たちには、何があっても神が支えて下さっているという安心感と希望があるのです。

  • 最後に、最高の希望とは

2節で「神の栄光に預かる希望を喜んでいる」とローマ書の著者パウロが語っているように「御国において神と顔を会わせ、神からの栄光を受ける」ことだと言えます。

パウロはこの世の栄誉ではなく、神からの称賛、栄化され、神に似た者とされることを求め、、そこに希望を置きました。パウロは迫害の中、神の言葉を異邦人に伝え、牢獄の中から手紙を書いて人々や教会を教え、励まし支えました。そして、最後を迎え、地上の栄光ではなく、神からの栄誉と栄光を受け取りました。

御国で神と顔を会わせる時に私たちは栄光の体となり、悲しみも、病も苦し

みもない神への賛美で満ちた御国で神と共に永遠に住むという大きな希望と喜びが待っているのです。

私たちはこのように主とお会いすることをゴールとする時に、今生かされている時を、一日一日をより大切に神の前に備え準備し、希望に溢れて生きるようになるのです。

信仰によって義とされ、神との平和が与えられた私たちは、神が与える朽ちない確かな希望を持ってゴールまでしっかりと歩んで行きたいと願います。

5,6節に「この希望は失望に終わることがないのです。なぜなら聖霊によって私たちの心に神の愛が注がれているからです。」 とあります。 

私達の人生にはこれからも問題、試練はあるかもしれません。しかし、心を強くしたいと願います。神が与えて下さる希望は失望で終わることがないからです。主イエスが十字架で死んで三日後に復活されたように神の与える希望は失望で終わることがないのです。

なぜなら、神の愛が聖霊によって今も私達の心に溢れるほどに注がれているからです。神の愛が私たちの希望の保証となるのです。

この溢れるほどの神の愛のゆえに私たちは、希望に満ちて今をそして将来を力強く歩むことが出来るのです。

【祈り】 愛する天のお父様、今朝の神学校日礼拝を感謝いたします。

私たちは信仰によって義とされ、神との平和な関係が与えられ、あなたからの朽ちない希望、永遠の希望が与えられていることを感謝いたします。この溢れるほどの恵みにしっかりと立って揺るがされることなく希望をもってこれからも歩み行く者とならせてください。

「希望は失望に終わることがありません。神が与えて下さった聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

神の愛が私たちの希望の保証となって下さっていることを感謝いたします。今日、新宿西教会に集われましたお一人お一人に主の豊かな希望と恵みがありますよう、今週1週間もこれからもありますよう祝福をお祈りいたします。   アーメン

新宿西教会オープンチャーチ第一週礼拝説教「今が、一番しあわせ」Ⅱコリント6:2 深谷春男牧師

 

今日は、10月の「オ-プンチャーチ特別礼拝」です。皆さんと共に、この一年

間の歩みの中で、初めての方をお迎えして、「最高のメッセージを!」と、生きに感じて備えの時を持ちました。期待して、この時を備えしました。

いつものわたしの礼拝説教は、基本的に聖書の御言葉の講解説教ですので、聖書になじみのない方には少しむずかしい時もある。それで今回は、できるだけやさしく、解りやすく、できるだけ感動的で、きて良かったと言われるような説教をと祈ってきました。

そこで、隣にいた、教会ビルの、いつも恵まれている中野さんに、聞きました。「中野さん。あの~、中野さんが初めて方に、一番聞いていただきたいメッセージって、どのようなメッセージですか?」中野姉は「え~?」とかしばらく考えていたのですが、「そうですね、わたしは『今が一番、しあわせです』と告白された、90歳を超えて四国の姉妹の告白が一番いいですね。」と言うのです。「え?『今が、一番しあわせ』といメッセージ??」

 しかし、これは、むずかしかったですね・・・。

【 テキストの概略 】  

かつて、赤羽教会の時代。わたしも30代の終わりの頃でしたか、宇都宮上町教会の国吉伊三郎先生が「深谷先生。元気に頑張っていますね。わたしも92歳になりました。一度お招き下さい。90年の歴史を持って伺います。」と言われて、先生をお招きして、特別伝道礼拝をしたことがありました。90歳を越えておられた元気な信仰のベテランの先生。何を語られるか、興味津々でした。そのとき、国吉先生は今日の聖書箇所、コロサイ書3:12―17を引かれまして、ここからメッセージをされました。大変、印象深いメッセージでした。

 ちょうど、試練の中にあったある姉妹は、そのしばらく後、この箇所はすば

らしいと、毎朝の暗唱聖句として選んで、この箇所を暗唱しておられました。

今日はオープンチャーチ初めの日です。皆さんに聖書の一番、すばらしい所をプレゼントさせていただきますね。

このコロサイ人への手紙というのは、パウロ先生の描いた手紙で、「キリスト」とはどのようなお方かということが中心的な主題として描かれております。「心のうちに住んで下さるイエス様こそ神の奥義であり、栄光の望みである」と記されており、キリストを宿して歩む人生の豊かさが証しされております。その中でも、今日、お読みいただきましたコロサイ書の3:12―17は、主イエスの十字架によって罪赦され、神の子とされ、その愛の豊かさと恵みに満ちて歩む生涯が美しく描かれているところです。それは、「キリストにある恵みの人生!」とでも表現しましょうか、主にある潔い信仰の典型的な聖句と言っても良いところだと思います。十字架の贖罪の赦しを中心に、赦しあう歩み、アガペーの愛、主にある平和、キリストの御言葉、神への感謝。あらゆる良き内容が集中しています。 

 その中でも、今日は、「感謝」の3連発の聖書箇所が与えられています。

15節 キリストの平和が心と、教会を支配するようにせよ。 主に感謝せよ

16節 キリストの言葉によって互いに導かれよ。讃美しつつ 主に感謝せよ。

17節 何を話すにも行うにもイエスの名によって行い、父なる神に感謝せよ。

 昔、わたしが16歳のころ、藤圭子さんという方が、「15,16,17とわたしの人生暗かった!」という言う歌を歌っておられました。」。コロサイ書3章は「15,16,17とわたしの人生、感謝ばかり!」と歌っています。

【メッセージのポイント】

1)15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。              (15節)

⇒ 感謝せよ。   キリストの愛と臨在に感謝する!

パウロはここで、まず、キリストの平和があなた方の心を支配するようにしなさい、と語っています。この平和に与らせるために、わたしたちは教会に招かれたのだと語ります。

キリストの平和と教会の交わりの中にある平和!

数年前に、東日本大震災の被災地、気仙沼から、気仙沼第一バプテスト教会の峰岸浩先生から、「一生感謝」という御本が送られてきました、その中に、オプラ・ウィンフリーのことが書いてありました。

世界132カ国、1億4000万人の視聴者に笑い涙を与えるトーク・ショウーの女王、オプラ・ウィンフリーのこの番組はエイミー賞を30回も受け、アカデミー・オブ・TVの栄誉も受けた。オプラは今や多くの人々に生きる勇気をふりまくスターですが、彼女の生涯は決して平坦ではなかった。彼女の母親はとても貧しく未婚の中で彼女を生みました。彼女は祖母に育てられ、叔父から性的暴力を受けて14歳で出産。子供は一週間で亡くなり、絶望の中で彼女は麻薬に逃げて、地獄のような日々を過ごした。その彼女に転機が来た。実の父親が現れた。この父はキリスト教信仰によってまったく変えられたクリスチャンとなっていた。この父が、彼女に毎週、聖書を読み、聖句を暗唱する信仰の道を教えてくれた。19歳でTV局に入社し、多くの試練を経験しながらも、さまざまな困難や試練を乗り越えて、今や、信仰に輝く証し人となっている。彼女の信仰は、いつも神さまに感謝すること。彼女はどんなに忙しくて5つの感謝を日記につけるのだそうだ。難しくなくてよい。

1)今日は気持ちよく目覚めた。

2)まぶしい、青い空、感謝します。

3)ランチのスパゲッティがおいしかった!

4)腹立たしいことをした同僚に怒らなかった忍耐に感謝。

5)今日、よい本を読みました。著者に感謝。

 人生には悲しみが多い!しかし、イエス様の愛、イエス様の平安。そして教会の交わり。その中で、感謝を捧げつつ歩みなさいと聖書は語ります。

2)16 キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。        (16節)

⇒ 感謝せよ。     キリストの御言葉と賛美の中で感謝する!

 ここには更に感謝の内容が深まっています。キリストの言葉があなた方の内で豊かに宿るようにしなさい、と教えられています。

クリスチャン生涯は、主イエス様と共に歩む生涯です。それは、「臨在と御言葉」に生かされて歩み始める生涯です。この言葉は、元、ホーリネスの群の委員長だった八束潤一先生の最後の説教題でした。先生の危篤の報を聞き、鳥取県の米子まで飛行機で行きましたが、到着した時には、先生はすでに召されておりました。その玄関口に、日曜日の案内看板があり、「キリストの言葉を豊かに宿す」という説教題が書いてありました。忘れることができません。

キングスガーデンの説教で「オイダメン(ぼく知ってるもん)」の説教をしてきました。神御自身の「救いの計画」を知っている事が救いですね。「わたしは知っている」は、ヨブ記19:25やエレミヤ29:11でも告白されています。

「わたしたちの心は御言葉の格納庫」(詩篇119:11)が、最近教会の早天祈祷会や聖書研究祈祷会の、「はやりの言葉」ですね。

3)17 そして、あなたのすることはすべて言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。

⇒ 感謝せよ。   人生全般・その生活の中で感謝せよ!  (17節)

 わたしどもクリスチャンは、「主イエスの名のもとに」すべてのことを成してゆきます。何を話すにしても、何を行うにしても、主イエスの名によって、

父なる神に感謝しなさいと勧められています。今日の、第三の主題は、「感謝せよ!愛の言葉と行いの中で!」です。

11月の終わりになると、「バックストン記念聖会」が渋谷教会で開催されます。先生の言葉に「憂いしめざる臨在」という言葉があります。これは「聖霊を悲しませてはいけない」という、霊的な恵みの生涯を示す言葉です。

1890年11月24日、英国から主イエスの恵みの福音を携えてきた30歳の青年宣教師、B.F.バックストン。彼は神戸港に着いた時に、深い感動を受け、日本のために熱き祈りをささげられました。先生の働きは島根県の松江を中心になされ、バックストンの影響を受けた人々は「松江バンド」と呼ばれます。宣教師嫌いの内村鑑三が、BFバックストンに関しては「彼は聖霊の器、人類の花だ」とまで絶賛した恵みの器です。若枝教会の飯塚俊雄牧師はある年の聖化大会で、バックストン先生の信仰を次のように紹介されました。「バックストン先生の信仰は、十字架による罪のあがないと聖霊によるきよめの信仰です。3つのポイントがあります。第1は主への絶対信頼。すべてにおいて我が意は十字架につけられ、主のみ旨のみが最優先。第2は聖霊を憂えしめざる臨在の中に生きる生涯。主との交わりにおいて聖霊を憂いさせない細やかな心づかいを持って生きる。第3は常に毅然として生きる。4人の御子息は世界大戦で3人まで戦死。晩年は奥様も脳軟化を病んだ。しかし、悲痛な試練の中にも一貫して“I am so happy”と告白した。」1メートル96センチの長身だった彼が、「聖霊を受けよ!」と迫るさまは聖なる畏れ(ヌミノーゼ)を感じるほどのものであったと渡辺善太先生はその思い出を語りました。わたしは特に20代の終わり青年宣教大会の際に、「憂えしめざる臨在」という内容を大川牧師から聞いて深い感動をしたことを思い起こしつつ、バックストン先生のように歩みたいと切に思いました。

さあ愛する皆様!この礼拝から、「感謝の一週間を始めましょう!」

【祈り】 天の父なる神よ!今朝は、オープンチャーチ礼拝を感謝します。今日は、信仰の先輩方の生涯を覚えつつ、「今が、一番しあわせ」という事をついて」学びました。わたしたちの人生を深く感謝する者として下さい。今日の御言葉のように、われらの心にキリストの平和と臨在による感謝を与えてください。心に聖書の御言葉を豊かに蓄え、賛美の中で感謝する者とならせてください。人生そのものが、深い感謝の中にあるように歩ませてください。今日初めて教会にいらして下さった方々に、「最高のしあわせ」を実感できるような祝福を与えてください。「今は恵みの時、今は救いの日です。」今日、はすべての感謝の源なる主イエスの御名によって祈ります。アーメン

新宿西教会主日礼拝説教「神の御前にまかり出る」使徒行伝10:17~33 深谷美歌子牧師

 

8月に使徒行伝10章に入らせていただいた時、異邦人コルネリオが救われた記事に2章も使っていて、教会の歴史に、大きな意味のあるでき事だと言うことが分かります、とお伝えしました。

本日の箇所もこの記事が続きます。世界宣教が開始されるに当たっての出来事を見てまいりましょう。

テキストの概観】

17-23節 ペテロが思い巡らしていると使いの者が到着し、出発した。

24-26節 ペテロをコルネリオが拝そうとし「同じ人間」と止めた。

27-33節 大勢の人が、神の前に御言葉を求めてまかり出ていた。

【メッセージのポイント】

  • み心を思い巡らし、導きに従った。

17 ペテロが、いま見た幻はなんの事だろうかと、ひとり思案にくれていると、ちょうどその時、コルネリオから送られた人たちが、シモンの家を尋ね当てて、その門口に立っていた。 18 そして声をかけて、「ペテロと呼ばれるシモンというかたが、こちらにお泊まりではございませんか」と尋ねた。19 ペテロはなおも幻について、思いめぐらしていると、御霊が言った、「ごらんなさい、三人の人たちが、あなたを尋ねてきている。 20 さあ、立って下に降り、ためらわないで、彼らと一緒に出かけるがよい。わたしが彼らをよこしたのである」。 21 そこでペテロは、その人たちのところに降りて行って言った、「わたしがお尋ねのペテロです。どんなご用でおいでになったのですか」。 22 彼らは答えた、「正しい人で、神を敬い、ユダヤの全国民に好感を持たれている百卒長コルネリオが、あなたを家に招いてお話を伺うようにとのお告げを、聖なる御使から受けましたので、参りました」。 23 そこで、ペテロは、彼らを迎えて泊まらせた。翌日、ペテロは立って、彼らと連れだって出発した。ヨッパの兄弟たち数人も一緒に行った。             17-23節

 ペテロは不思議な幻を3回も見た後で、いったいこのことはどん意味があるのか、17節では「思案にくれていた」、19節では「思いめぐらし」ていたと記されています。きっと神様のご計画があると思いつつも、まだ明らかにならないので、思案にくれ、(汚れた動物を食べよ?しかしきっと意味があるに違いない)と思い巡らしていました。

神様が何か起こされているが、その意味がまだ明らかにされていなかったのでした。ペテロはそれを受け止める心はありましたが、まだ全容は分からなかったのでした。

わたしたちの生活にも「これらのことは神様どんな意味があるのですか」という思いがすることがあります。赤羽で90歳を超えた奥国治先生がメッセージに来てくださったことがありました。 たくさんの子供を残して奥様が召されたとき、「なぜですか?」と祈っていたとき「汝今は分からず後にて知るべし」ヨハネ13:7という御言葉が響いてきた、とお証しを伺いました。

ペテロも、きっと神様のご計画があると言うことは確かだったので、それが何か思い巡らしていたのでした。その時聖霊「ごらんなさい、三人の人たちが、あなたを尋ねてきている。 20 さあ、立って下に降り、ためらわないで、彼らと一緒に出かけるがよい。わたしが彼らをよこしたのである」。と声を掛けられました。

前回は祈っていたとき、幻が与えられたことを見ました。聖霊様を心の王座に迎えて従う用意をしていたとき、(これを明け渡し、サレンダーと言います。長谷川賛平さんがアシュラムで、このことがよく分かるようになって来ましたと語られました)具体的な導きが起こされました。

常に祈り、聖霊の導きを聞き取りましょう。それで、コルネリオの使いが来て、話を聞いたとき、はたと分かったのでした。それで、当時は異邦人もユダヤ人も考えられない事でしたが、異邦人の兵卒を家に迎え入れ、食事を共にし、泊まらせて一緒に出かけたのでした。

  • 神の前に同じ人間

24 その次の日に、一行はカイザリヤに着いた。コルネリオは親族や親しい友人たちを呼び集めて、待っていた。25 ペテロがいよいよ到着すると、コルネリオは出迎えて、彼の足もとにひれ伏して拝した。26 するとペテロは、彼を引き起して言った、「お立ちなさい。わたしも同じ人間です」。      

24-26

一方コルネリオは、ペテロが到着するのを待ちかねていました。そして到着すると彼の足もとにひれ伏して拝した。のでした。この言葉は「礼拝した」という言葉です。ローマの百人隊長が一介のユダ人の前にひれ伏すとは普通考えられない事でした。家族や兵卒たちもそれを見てどんなに大切な人なのか悟ったことでしょう。しかし、ペテロは彼を引き起して言った、「お立ちなさい。わたしも同じ人間です」。とやめさせ共に話しながら部屋に入りました。

マタイ4:8-10に次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて9 言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。10 するとイエスは彼に言われた、「サタンよ退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」と悪魔の誘惑を退けたことが書いてあります。神の言葉を語る器を尊ぶことは良いと思いますが、礼拝する対象ではありません。ペテロも一介の漁師でしたが、臆することなく対等にコルネリオと話しています。心からこの世界を導く神様を信じる時、お互いにへりくだります。ここに平和があります。

 ここを学びつつ、このことは当然、と思っていましたが、しかしこのことは、信仰の根幹であると改めて思っています。

 アシュラムに18-20日と行かせて頂きました。今年の主講師は島隆三先生でした。「イエスは主である」これがアシュラムのキャッチフレーズです。当たり前のことをいつも横山先生が最後の祝福の時皆で唱和します。あまり意味が分かりませんでしたが、今回この言葉を島先生ががっぷり取次いで下さり、解りました!今の日本では「イエスは主なり」と言ってもだれもとがめません。しかし、キリシタン禁制の時代、「イエスは主なり」と公言することは、死を意味しました。この告白は命がけのものです。現代でもこの告白によって迫害される国もあります。山本師のメッセージ。

3)お告げを残らず伺おうと、神の前にまかり出る。

27 それから共に話しながら、へやにはいって行くと、そこには、すでに大ぜいの人が集まっていた。28 ペテロは彼らに言った、「あなたがたが知っているとおり、ユダヤ人が他国の人と交際したり、出入りしたりすることは、禁じられています。ところが、神は、どんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、わたしにお示しになりました。

29 お招きにあずかった時、少しもためらわずに参ったのは、そのためなのです。そこで伺いますが、どういうわけで、わたしを招いてくださったのですか」。30 これに対してコルネリオが答えた、「四日前、ちょうどこの時刻に、わたしが自宅で午後三時の祈をしていますと、突然、輝いた衣を着た人が、前に立って申しました、31 『コルネリオよ、あなたの祈は聞きいれられ、あなたの施しは神のみ前におぼえられている。32 そこでヨッパに人を送ってペテロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は皮なめしシモンの海沿いの家に泊まっている』。33 それで、早速あなたをお呼びしたのです。ようこそおいで下さいました。今わたしたちは、主があなたにお告げになったことを残らず伺おうとして、みな神のみ前にまかり出ているのです」。      27-33節

招かれたいきさつがここでまた、繰り返されています。ペテロの事情も、コルネリオの事情もです。対面でお互いにこのことを聞いて、「やっぱりこのことは神様のご計画だった」と確信を持ったに違いありません。

人間は造り主なる神様を知り、生き方を導かれてこそ、本当に生きるのだと前回ここを学んで知らされました。コルネリオが本当に神様を信じ、導きを求めていたこと、そして今も、告げられた神の言葉を残らず聞こうとして神のみ前にまかり出ている姿、がここに記されています。

これこそ、神様がわたしたちに求めておられる姿です。天国で一番偉くなりたい者は自分を低くするものだとイエス様も語られました。

聞き取ろうと神様の御前に待ち望んでいるとき、本当に生きる、命の御言葉が語られます。このあと、固唾をのんで聞いていた人々にこの命が臨みました。

そしてここを学んでいて、このことは、求道者だけがするのではなく、信仰者全てが、この姿勢で神様の言葉を聞くのが、命の経験をし続けるために必要だということを教えられました。

最近、歌舞伎町に「東横キッズ」という若者が集まっています。彼らが生きるために、使命を与えられて立ち上がった兄弟姉妹がいます。そのために歌舞伎町にある新宿西教会に協力してくれませんかと、声が掛けられました。今、神様のご計画を思い巡らしています。

若者が教会にいないと言われます。世界に若者がいないのか?少子化とはいえ、いないわけではありません。歌舞伎町にいるのです。しかし彼らは命のことばを知りません。出会ったその日に、ホテルから2人で飛び降りた子たちがいました。命を得て欲しいと彼らに愛を注いでいる方々です。

何が必要か?思い巡らして得た結論は、命の御言葉だという事です。まず教会は御言葉を語り続けましょう!しかし、まだひざまずいて御言葉を求める気もない彼らに、まず何をせよと語られているのか、聖霊様の導きを求めている所です。神様が創めようとされていることを。

祈り:神様、あなたのみを礼拝し、従います。コルネリオ一族のように、御言葉を残らず聞こうと御前に集っています。異邦人伝道の元になったカイザリアのように、歌舞伎町から命が広がりますように。御名によって。