新宿西教会主日礼拝説教「腿のつがいと神の顔」創世記32:23~33 深谷春男牧師

 9月3日の礼拝でわたしたちはヘブル書の連続の学びの中でヘブル11:21から、イスラエル民族の先祖、「ヤコブの信仰と祝福」という題で、ヤコブの信仰生涯を学びました。彼は二度、決定的な神との出会いを体験したと語りました。一回目は「べテルの体験」です。そして二度目は「ぺニエルの体験」です。一度目の体験は、前回見ましたように、神との出会いの体験であり、それは「石の枕と逆さはしごの物語」というべき、絶望のただ中で神に出会い、天の門が開け、霊の目が開かれたという「新生の体験」でした。そして、二度目の出会いは「ぺニエルでの体験」です。それは「聖化の体験」と言うべきものであり、今回の説教題「もものつがいと神の顔」に表現される、自我の砕きと神ご自身の御顔を見るような深い祈りの体験でした。

【旧約聖書の解説】

   創世記32章は、イスラエル民族にとって忘れる事の出来ない章です。なぜなら、先祖ヤコブがイスラエルという名前をつけられた、いわばイスラエル民族の原点のような箇所だからです。前回学んだ創世記28章が「新生の体験」とするなら、32章は「聖化の体験」と見ることができるでしょう。ここには、神と相撲をとり、砕かれ、大きな転機を経験したヤコブの姿が語られています。今日は「神と相撲を取った男の物語」を共に学びたいと思います。

【メッセ-ジのポイント】

1)23 すなわち彼らを導いて川を渡らせ、また彼の持ち物を渡らせた。24 ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。

(23、24節)  

   ⇒ 独りあとに残ったヤコブ!

  ヤコブは自分の故郷を離れて遠くラバン叔父さんの家で働いて、20年を過ごしました。そこで二人の姉妹(レアとラケル)を奥さんに頂き、11人の子供を与えられ、叔父さんとの取り引きのなかで彼は仕事に成功し、億万長者となって生まれ故郷のベエルシバへ帰ってきたのでした。その途上でヤコブは立往生してしまいました。なぜなら、お兄さんのエサウが、ならず者400人も引きつれてヤコブを襲ってくるというのです。ヤコブは多くの家畜と、一緒にいた約50名ぐらいの家族とその一行を連れてヤボク川にさしかかりました。ヤコブは皆をわたらせた後、ひとり川のこちら側に残りました。20年前の相続権と祝福をめぐるあの憎しみが、今も消える事なく、400人の暴力団の襲撃となって、自分を襲ってくるのです。それも、自分のみか、愛する家族たちをも害するかもしれない危険にさらされました。前にも行けない、後にも引けない。彼は立ち往生し、ひとり、裸になり神の前に立たざるを得ないところまで追い詰められてしまったのです。

 20年前も、お兄さんに殺されそうになって、ヤコブはハランの町まで逃げて行き、途中、ベテルで野宿をして「逆さはしごの夢」を見ました。あの時も、四方八方ふさがりで、天を仰ぎ、神ご自身の本質、人間の罪を共に負ってくださる神、「地獄の一丁目まで出張する神」の啓示をいただいたのでした。この彼が60歳となり体験した「ぺニエルの体験」でも、彼は人生の転機を迎えるのですが、それは、「ヤコブは独り後に残った。そのとき」に起きた出来事でした。神の前に一人立つとき、絶対者の前に裸になって自分の罪と自分の恥に直面するとき、神の深い恵みの業ははじまるのです。

2)24 ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。(24節)

   ⇒ 神と相撲を取るヤコブ!

  悶々とした思いの中で彼は、川へりを歩いていました。兄や父をだました過去の罪の数々、また、これから起ころうとしている憎悪と争いへの不安。彼は休む事も出来なかったのであろうと想像できます。途方にくれてとぼとぼ川辺を歩んでいました。ところがその時、彼の目の前にひとりの人があらわれ、彼に相撲をいどんできたのです。彼はその人と一晩中、闘い続けることになりました。これは実に不思議な物語です。ある学者は「この人」は、ヤボク川の川の精、カッパのような化け物であると言います。実際、この川の名ヤボクは「格闘」を表す語で、この川の渡しには格闘をいどむ、川の精の伝説があったというのです。日本でも大井川のような川には、渡る途中で足を滑らして溺れ死ぬ人があり、それが河童に足を引っ張られたからだ、というような川の化け物の話があるものです。この時、ヤコブと格闘したのは一体誰だったのでしょうか?河童のような化け物でしょうか?ヤコブは渡るに渡れないヤボク川で、まさに、深い流れに足が立たず、自分の暗い、深い、罪の流れに押し流され、化け物のような過去の罪の現実と格闘したのではないかと思うのです。彼は「自分の過去の罪という化け物」と格闘していたのです。

3)25 ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。                    (25節)

  ⇒  砕かれた人ヤコブ!

  ヤコブは、実にすばらしい人でした。彼はずるいところもありましたが、どんな困難でも乗り越える不屈の精神力を持っていました。叔父さんのラバンと知恵比べをして、14年間もただ働きをさせられましたが、最終的にはこのおじさんに勝ちました。彼は20年でこつこつと働いて、ゼロから山のような財産を作り出す実業家だったのです。彼は自分に自信を持っていました。彼は化け物のような過去の罪、今迫っている危険、将来への不安と格闘しつつ、実は、なんと、「天使(!)」と相撲を取っていたのでした。これはふしぎな「祈り」の姿だと思います。彼は徹夜で祈っておりました。彼は男三人でしか持ち上げることのできないほどの大きな石の蓋を一人で持ち上げるような力持ちでもありました。非常に強い筋肉と頑健な身体を持っていました。しかし、天使が彼の「もものつがい」に触れると、彼の腰の筋は外されてしまったのです。彼の体は腰の骨を痛めて歩くことさえできなくなってしまったのでした。これはよく自我の砕きにたとえられます。彼はここで自分の自信を完全に砕かれ、ただ神にのみより頼む信仰の人となったのです。神の用いたもう人は「砕けた魂、悔いた心をもつ人」だからです。

 この「自我の砕き」のことを、「聖化」と呼びます。人間のうちに深く潜む自己中心性。主の御前に出て、この自我の砕きを経験することを「潔(きよ)め」と呼ぶのです。新生の後に起こる、深い霊的体験、第二の転機です。

4)26 その人は言った、「夜が明けるからわたしを去らせてください」。ヤコブは答えた、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。27 その人は彼に言った、「あなたの名はなんと言いますか」。彼は答えた、「ヤコブです」。28 その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。(26~28節)

   ⇒ 本当の勝利を得たヤコブ!

ヤコブは、もものつがいをはずされても、この御使いと格闘し、その強い腕力で、がっちりと御使いをつかんで離しません。26節でこの人が「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言いましたが、ヤコブは答えました。「いいえ、祝福して下さるまでは去らせません。」自分の力を越えたお方に「祝福してください。祝福してくださらねば放しません」と食い下がりました。ついに、み使いはヤコブの熱意に負けて、祝福しました。聖書は、ヤコブの本当の祝福と勝利はここから始まったことを告げています。彼は「ヤコブ(人をおしのける者)」から「イスラエル(神の支配、神の皇太子)」へと名前を変えるように言われました。彼の肉体は傷を受けました。しかし、魂は新しい業が始まり、主と共に歩む「砕かれた魂の人生」が始まったのでした。

5)29 ヤコブは尋ねて言った、「どうかわたしにあなたの名を知らせてください」。するとその人は、「なぜあなたはわたしの名をきくのですか」と言ったが、その所で彼を祝福した。30 そこでヤコブはその所の名をペニエルと名づけて言った、「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」。31 こうして彼がペニエルを過ぎる時、日は彼の上にのぼったが、彼はそのもものゆえに歩くのが不自由になっていた。(30、31節)

  ⇒ 神の顔を見たヤコブ!

  名前をイスラエルと変える経験をしたヤコブは「どうか、あなたのお名前を教えてください」とその人に尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福しました。名前を明かしませんでした。 実はこの物語の主題は、「顔」にあります。この話は「ぺニエル」(ヘブライ語では「ペン(顔)+エル(神)」)という地名と深い結びつくのです。ここには「顔」という語が実に10回も用いられています(18,21,21,21,21,22,31,31,31,32節)。ユダヤ人が読むとここは「顔」「顔」「顔」…・という箇所になるのです。神の顔を見た者は死ぬとさえ言われました。それは聖い神ご自身に、罪あるわたしどもが触れたら、神の怒りの前に滅んでしまうという意味です。しかし、ここで「彼の上に太陽が昇った」と記されます。義の太陽なるお方が彼の心に昇ったのです。彼は義の太陽なるお方を宿しつつ人生を歩むことになるのです。神の温顔の栄光を仰ぎつつ、歌いつつ歩む者と変えられたのでした。

【祈り】 主よ、今日は「ぺニエルの体験」を学ばせてくださいました。感謝します。ヤコブは「行き詰まり」に直面し、「神と相撲をとり」、「自我の砕き」を経験し、「神の祝福」を獲得し、「神の顔を見る」霊的な取り扱いの恩寵体験をしました。自我のツッパリをあなたに明け渡して、本当の勝利を得ました。義の太陽が心に照り、神の民の歴史が始まりました。わたしどもの生涯にも、ヤコブの体験のような深い臨在の体験をしつつ、揺るがない勝利の日々を歩み行かせてください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン

敬老の日礼拝説教「神の言葉と共に歩む」イザヤ46:1~4 深谷春男牧師

今年は9月11日が敬老の日となり、今日、10日が敬老礼拝となります。

聖書にはしばしば「白髪」という言葉が出てきます。

「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる。」箴言16:31
「力は若者の栄光。白髪は老人の尊厳。」箴言20:29
「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。」レビ  

19:32   (ある方は言いました「白髪は神の栄光、はげは世の光!」

【テキスト位置と区分】

今日、皆様と共のお読みします聖書は、イサヤ書40~55章にあり、この箇所は歴史的には、「第ニイザヤ」とか「イザヤ書第2部」とか「第5福音書」と科呼ばれる聖書箇所なのです。そして、この箇所は初めの部分に40:8節に、また終わりの部分55章11節に「神の言葉への信仰」が記されます。

さあ、今日の聖書箇所の詳細は次の通りです。

  1. バビロンの偶像は空しい。それは人を救い得ない。
  2. 「わたしに聞け、イスラエル!」 との真の神の語りかけ。
  3. わたしが救う!わたしが背負う、白髪となるまで持ち運ぶとの宣言。

【メッセージのポイント】

1)1 ベルは伏し、ネボはかがみ、

彼らの像は獣と家畜との上にある。

あなたがたが持ち歩いたものは荷となり、

疲れた獣の重荷となった。

2 彼らはかがみ、彼らは共に伏し、

重荷となった者を救うことができず

かえって、自分は捕われて行く。(1-2節)
    ⇒ 偶像はかがみこみ、倒れ伏す!

 「ベル」というのは、バビロニア大帝国の神様の名前です。バビロニアの主神はマルドゥクという神様で、ベルとも呼ばれていました。へブル語のバアルに相当する「主」と言う意味です。そして、「ネボ」はこのベル、すなわち、マルドゥク神の使者あるいは子どもの名前です。ネボはアッカド語の「ナブー(告知者の意味)」から来ており、学問の神とあがめられて来ました。楔形文字の体系はネボの発明とされておりました。彼らの礼拝はボルシッパという町の神殿で行われました。このボルシッパからバビロンのマルドゥク神殿まで、新年ごとに聖なる行進が行われ、ネボの像は立派な船に乗せて運ばれたといわれます。ネボは新バビロニアの守護神で、王の名前は、ナボポラッサル、ネブカデネザル、ナボニドスなどとネボの名前を冠とした。矢内原先生の解説では、日本の八幡様から八幡太郎とか多聞天から多聞丸の如しとありました。

 当時、イスラエルの民はバビロンに捕囚となっていました。紀元前586年、バビロニアのネブカデネザルの軍隊により、エルサレムの神殿は破壊され、主だったものたちはバビロンに連れてゆかれて、ユダヤの国は事実上崩壊しました。捕囚となって厳しい生活を強いられていたバビロニア帝国には、マルドゥク神をまつる荘厳な神殿があり、勇壮な華々しいお祭りが繰り広げられていました。ちょうど日本でも「ねぶたまつり」などは、かなり念入りの勇壮な武者像がつくられ、あの大きなちょうちんに火が入って、多くの青年たちが叫び声を挙げてそれを引く姿は、一種の感動と言いますか、民族の血が沸き返るような興奮があります。当時は、他国との戦争などが相次ぎ、国威高揚が必要でありましたから、バビロニアの祭儀は、大帝国あげての壮麗なものだったのでしょう。川に流れる極彩色の舟。その上にそびえるネボの像。世界の中心としての勝利の勢いに乗るバビロニアの人々は、笛や太鼓の音楽をならし、家族そろって花火を見に行く日本の夏の風物のように、皆でご馳走を食べ、にぎやかな、喜びと勝利感に満ちた民族のお祭りの時だったのでしょう。

 しかし、そのとき、イスラエルはどうだったのでしょう。彼らはこのときには惨めな捕囚の民でした。バビロン軍に家族を殺され、家族が離れ離れにされ、自分の土地も仕事も奪われ、民族の誇りも文化も何も持っていない、惨めな囚われの難民だったのです。生きて行く気力もなかったのです。それと比べて、バビロンの民はまさに「世界の中心」そのもの。イスラエルの民は、傷心の中でこのバビロンの勝ち組の祭りを遠くから眺めるみじめな「難民」そのもの。

 しかし、この46章でイザヤは驚くべきメッセージをいたします。この壮麗な神々の像。巨大な、人間を圧する神々の像。一説によれば5メートルの高さがあったとも言われますが、驚きと恐れをもって見上げたそれらの巨大なバビロンの神々の像に対して、預言者は厳しい批判の預言を始めるのです。ここでは二回同じ言葉が使われています。「かがみ込み、倒れ伏す」という言葉です。それは、どんなに驚くべきものに見えたとしても、それは生ける神ではない。所詮人間の作った偶像です。それは「かがみ込み、倒れ伏す」のです。リビングバイブル訳では「バビロンの偶像ベルとネボは、牛のひく荷車に載せられ、遠くへ運ばれます。ところが牛はよろめき、荷車はひっくり返り、神々は地面に放り出されます。自分が転げ落ちることさえ防げないのに、彼らを拝んでいるものをクロスの手から救い出すことなどできない相談です」となっています。

 わたしどもは偶像を信じているとは思わないでしょう。しかし、「人間の心は偶像を作る工場である」とのカルヴァンの言葉を待つまでもなく、わたしどもは主なる神により頼むのではなく、この世の何かに信頼を寄せるものです。それはお金であったり、地位であったり、才能であったり、美貌であったりします。でも、人生の究極の出来事に出会ったときに、それらはわたしどもを救うのでしょうか?最終的には健康だって損なわれてゆきます。偶像は「かがみ込み、倒れ伏す」のです。やがて人間に重荷となり、動物に重荷となるのです。

2)3 「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、

生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、

わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。(3節)

   ⇒ わたしに聞け、ヤコブの家よ!

  3節で新しいメッセージが始まります。バビロンの壮大な偶像に圧倒されている人々に神ご自身が語りかけます。「わたしに聞け、ヤコブの家よ」と。

この地上の様々な関心、特に、地上の支配者となっているバビロンの神々の巨大な偶像、永遠絶対のように見える偶像に心奪われそうになって、それらを見上げている人々の心に、天地の造り主なる神が語りかけられるのです。「わたしに聞け、ヤコブの家よ」。そうです、人間の手で作った偶像がどんなに大きくても、どんなに立派に見えたとしても、この世界を創造されたまことの神の偉大さの前には、チリのような存在に過ぎません。それはやがて崩れてゆく、土くれに過ぎないのです。

そこには、「イスラエルの家の残りの者よ」と続いています。「残りのもの」とは旧約聖書の中でしばしば出てくる大事な言葉です。神様は、神の民が裁きにあって滅んでしまうように見える存亡の危機の時に、「残りの者」を残しておかれるのです。イザヤ6章の切り株のように。そしてそれらはやがて、深い悔い改めをもって、神に立ち返り、神の民を新たに形成してゆきます。新しい業は、神のみ声を聞くこと、神の言葉を聞くことから始まるのです。

今日は、説教の後に「讃美歌284番」を讃美します。この讃美はいいですね。お気づきの方もおられるかも知れませんが、この讃美は先週も歌いました。

主の尊き御言葉は我が命の基なり         イザヤ40:8

頼るわれは安けしや世にまたなき御言葉よ     神の言葉こそ命の基

ただ我のみ汝が神ぞ恐れず行けためらわで     イザヤ41:10

 力強きわが腕(かいな)汝に添いて離れじな   神御自身こそ汝の神

悩みの火は燃え上がり嘆きの川あふるとも     イザヤ43:2

 恵みの手に縋りなば 常に勝ちて余りあらん   試練の時、火の中水の中

老いの坂を上りゆき 頭の雪積もるとも      イザヤ46:3,4 

変わらぬわが愛におり 安けくあれ我が民よ    老い坂、白髪の時も平安

3) わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず

白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。

わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。(4節)

   ⇒ わたしが、わたしが、背負う!

この4節には「わたし(アニー)」という言葉が、5回繰り返されています。偶像が救うのではない。破れだらけの人間の努力でもない。この世界の造り主が、救い主が、「わたしが救う!」と5回も強調して語っておられるのです。しかも動詞の変化まで入れると、なんと10回も「わたしが!救うのだ」、「救うのはこのわたしだ!」と語られます。聖書の中でもこのような箇所はほかにありません。分かりやすく直訳するとこうなります。

わたしは それ(変わらない)   (あなたが)年老いるまで

わたしが (わたしが)背負う  (あなたが)白髪になるまで

わたしが  (わたしが)造った

わたしが (わたしが)担う

わたしが  (わたしが)背負う

        (わたしが)救う

ここは中沢冾樹が「旧約の中で最も感動的な一段」と言い、浅野順一が「宗教の本質に対する深き洞察」と言っておられる最も感銘の深い箇所です。

また、この短い3節・4節の中に「担う」とか、「背負う」という言葉が、三度も四度も繰り返されています。特に「背負う」という言葉は、口語訳では「持ち運ばれる」と訳されている言葉です。聖書はこの「背負う」あるいは「持ち運ぶ」という言葉によって、救いを明らかに示しています。聖書学院長の小林和夫先生は、小さい時におじいちゃん子だったそうです。風邪をひくとこのおじいちゃんは来て裸になり、赤ちゃんの和夫を裸にして紐でくくり半纏を着て「俺の体温で暖めればすぐに治る!」とその裸の体温で風邪を直したそうです。主イエスは十字架の上にわたしたちをあがない、人生の苦難を乗り越えさせ、最後は死の川も超えて永遠の天国まで、背負ってくださるのです。「わたしが背負い、わたしが救う!」 ハレルヤ

【 祈り 】  主よ。人生の長い旅路を歩んでこられた方々と共に礼拝する時を感謝します。今日、わたしどもはこの世の偶像ではなく、造り主であり、救い主である、あなた御自身に聞きます。一人一人を「背負って」「持ち運んで」、御国にまで連れ帰ってください。「白髪となるまで」わたしどもを、「わたしが担い、背負い、救い出す」と語られるあなたに信頼します。十字架と復活において罪と死を贖い、永遠の命に導いて下さるあなたに深く信頼して、従う者としてください。主イエスの聖名によって。アーメン!

  

主日礼拝説教「ヤコブの信仰と祝福」ヘブル11:21 深谷春男牧師

 去る9月1日は「関東大震災の100年記念の日」でした。今から100年前に起こったこの大震災を心に思い起こし、防災の心、地震への備えをすることを改めて大切だと示されました。◇関東大震災は19231923年(大正12年)9月1日11時58分発生。東京から南東100キロの相模灘海底が震源地で、マグニチュード7.9の烈震。南関東および隣接地で大きな被害をもたらし、死者・行方不明者は推定10万5,000人。明治以降の日本の地震被害としては最大規模でした。いろんな資料で調べました。地震と火災で震源地に近い横浜では全家屋の3分の1が全半壊。本所の陸軍被服廠跡の空き地に逃げ込んだ人々は、家財道具なども持って逃げたため、ぎゅうぎゅう詰めとなり、火災などで大旋風が波状的に襲い、布団やトタン、家財、人間、馬までも空高く舞い上がり、そこから落下して、阿鼻叫喚の地獄となり、3万8000人の方々が犠牲となった記事などを読み、その激しさに恐怖を覚えました。◇更にこのような大惨事と共に、朝鮮半島の人が放火したとか井戸に毒を流したとの流言飛語が飛び、自警団が形成され、7000人の朝鮮の人々、600人の中国の人々が虐殺されたという歴史を明確に読むと、何とも唖然として言葉を失います。当時の日本人の深層心理にアジアの政治状況からくる妄想がこのような恐ろしい悲劇を生みました。このような悲劇は絶対に繰り返さないと熱く主に誓いたいと思いました。

【今日の聖書の概説】

 さて、わたしたちは今年の1月から、「ヘブル人への手紙」を読み始め、この「コロナの災い」の過ぎ去った後には、また、自由に集会が持たれ、福音を大胆に語ることが許されるとの希望から「イエスを仰ぎつつ走ろう!」の聖句が与えられ、主イエスを仰ぎつつ歩み始めました。

ヘブライ書11章  「偉大な信仰者の肖像画の掛かった画廊」です。

 1ー 3節 信仰とは何か。その定義と世界創造、その根幹の理解。

 4ー 6節 アベル(優れた礼拝)、エノク(臨在信仰)、

   7節 ノア (み言葉への信頼と家族の救い) 

 8ー10節 アブラハム①(召命、約束の地での居住、神の都への待望)

11ー12節 サラの信仰(子を宿す力、約束の神の真実、多くの子孫)

13ー16節 アブラハム②(信仰を抱き死ぬ、地上の旅人、天の故郷熱望)

17ー19節 アブラハム③(神第一の信仰、復活の信仰、摂理の信仰)

   20節 イサクの信仰(祭壇を築き、天幕を張り、井戸を深く掘る)

   21節 ヤコブの信仰(石の枕と逆さはしご・腿のつがいと神の顔)

今日は、ヤコブの信仰を皆で見て行きたいと思います。

個人的なことを語るの許していただければ、「わたしは聖書の中で、このイスラエルの先祖となったヤコブ」が、一番好きな聖書の人の人物なのです。特に、この8月は、夏の特別集会や伝道会で、この「ヤコブの物語」を何回も語りました。わたしは牧師になって、特別集会で等で、一番、多く語ったのは、この「ヤコブ」の物語でした。

ヤコブと言う人物はとてもおもしろいと思うのですね。「ヤコブ」は「かかと」と言う意味で、イサクとリベカの間から生まれた双子の兄弟でした。お兄さんは「エサウ」弟が「ヤコブ」なのですね。彼は、とても「我の強い人」だったようですね。その生涯は波瀾万丈、多くの苦難や戦いがつきものだったようです。創世記27章から35章の中に、人生の荒波を泳ぎ切るヤコブの人生が記されます。彼は、相続権をめぐってお兄さんのエサウと戦って勝ち、相続権の証書に印を押すようなお父さんからの「祝福の祈り」の儀式の時には、目が弱くなっているお父さんのイサクを欺して、神様からの祝福を奪い取って行った。

さて、今日は、まず、ヘブル書の記す「ヤコブの信仰と祝福」を見、その後に、創世記28章と創世記32章の、ヤコブの信仰と祝福を、三つのポイントから、見ることに致しましょう。

【メッセージのポイント】

1)信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。(21節)

 ⇒ 死のまぎわになっても礼拝第一を貫け!

 ヘブル人への手紙の著者はヤコブの生涯を一節にまとめました。そこにはヤコブの信仰とその生涯は「信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。」と記してあります。死のまぎわになっても礼拝第一を貫け!

死のまぎわになっても礼拝第一を貫け!

ここにもヘブル人への手紙の著者の信仰が反映しているように見えます。すなわち「ヤコブは死のまぎわに」という。死に直面しても臆することなく、永遠の神を見上げつつ、神を礼拝する姿勢。われらは死をもって人生の終わりとしない。否、死は永遠の命への跳躍台である!百メートル疾走の選手がゴールに飛び込むときのように、永遠の命の世界にわれらは飛び込むのである。人生の最後の最高の時を完全燃焼、輝ける夕日のように生きるのです!

息子、娘、孫、家族の救いを祈れ!

イサクの場合もそうであったがヤコブの場合も「家族、子供、孫、家系」という課題が出て来ます。子供たち一人一人の祝福のために彼は祈った。聖書の人物の場合、子供たち、孫たちのために祈り、信仰を継承することは人生最大の課題でした。特にヤコブの場合は孫のために祈ったと記されます。わたしどもクリスチャンにとって残す遺産は信仰のみ!

「そのつえのかしらによりかかって礼拝した」人物であるとの要約。

年老いて、死に臨んでも、彼は、ふらふらしながらも神第一を貫く人だった。人間的には問題の多かったヤコブであるが「神第一」「礼拝第一の徹底」によって彼は変えられた。

2)ベテルの体験を持て!

  ⇒ 石の枕と逆さはしご

   自分の罪の深さに絶望

   神の絶対恩寵・愛の深さヘの希望

創世記28章10節、11節によれば、石を枕にした人間世界の絶望と、神の絶対恩寵の十字架の贖いの神の愛!

最後に、この大震災を経験した一人の人物と牧師先生の言葉を読みたい。

 東京教区の墓前礼拝説教集「ヤコブの階段の前で」という本があります。そこに中渋谷教会の山田松苗さんという方の証しが載っております。大正12年9月1日に起こった関東大震災の時に、山田さんは命かながら麻布に逃れました。。

「・・・全てがひっくり返ったような不安。この暗黒と混乱と不安の中にあって、すべての人は常の心を失った。わたしもその一人でした。教会の礼拝のことも友人のことも一時脳裏から遠ざかり、このような非常事態に礼拝を欠席するのは常識的に当然のことと片付けていました。

2日は日曜日でした。全てを忘れて走り回っておりました。その日の午後、中渋谷教会の森牧師が避難所に訪問してくださいました。森先生には恐怖も驚きも、周章狼狽したところが少しもなく、むしろ憂いと怒りに似た表情で一言   

「天地が崩れるようなことがあっても礼拝はやめません」

とのわずかな言葉を残して立ち去られた。・・先生の一言と、巷の人々の中に見出されない厳然たる態度とは、現実に埋没しきっていたわたしを神の言葉の世界に引き戻した。・・こうして私はようやくにして、わたしの心の中の不安が取り去られ、勇気が湧いてきた。自己の安全、それが何なのか。「エホバ与え、エホバ取り給う」。全ては神の御手にあるではないか。ようやく立ちあがることのできた私は、翌日から深川方面にいた友人を訪ねた・・・。」

関東大震災の中にも、永遠の神を見上げる森先生のような信仰者でありたい。

3)ペニエルの体験を持て!

  ⇒ 「腿のつがいと神の顔」、「砕きと神の顔」

  彼の体験した信仰の体験は創世記32章22~31節の、20年後のヤコブの「ヤボクの 渡しでの天使との相撲を取ったの物語にあります。「ここにはヤコブの信仰の姿」があります。天使と相撲を取って腰の骨を折られる、ヤコブの深い霊的な体験。強き自我への執念と執着が神様によって砕かれる。神の顔を見る、祈りの中で決定的神の臨在に触れるのです。

 関東大震災に出会って、人生が変えられた人物に塚本虎二先生がおられる。「大正12年の関東大震災がわたしにも神に激しい鞭であった。神は無残にも、理不尽にも、わたしから最愛のものをもぎ取りたもうた。わたしには神がわからなくなった。世の終わりかと思われたあの凄惨な、無慈悲な神の仕打ちを見て、誰が神を信じ得よう、神の愛を信じ得よう。わたしは天を呪うた。神は愛ではない。残酷である。没義道であると思った。しかし炎々たる紅焔、濛々たる黒煙を仰ぎ見ながら、ぺちゃんこになった家の前に座って思い悩みつつあった時、たちまち一つの静かな、細い、しかし、つよい声が響いた ー 神は愛なり! 目からうろこのようなものが落ちた。両肩から大きな重荷が、地響きして地上に落ちるのを感じた。わたしに始めて神がわかった。神の愛がわかった。神が愛でありたもうのは、人が彼を愛と認めるからではない。神が愛でありたもうからである。人にはいかに残酷に見えても、没義道に感じられても彼自身は常に愛でありたもう。神が人を審判したもうのであって人が神を審判するのではない。物差しは彼にあるのであってわたしたちにはない。このことが分かった。私は始めて顔をあわせて神と語った。  「キリスト教十講」から

【祈祷】全能の父なる神!わたしどもはこの朝、100年前に起こった「関東大震災」この出来事を顧み、また信仰の原点をヘブル書から学ばせて頂きました。特に、イスラエル民族の先祖、ヤコブの生涯から、あなたの救いの御手に捕らえられて信仰の恵みに入った出来事を深く覚えると同時に、信仰の原点と祝福の生涯を学ばせて頂きました。石を枕にするような人生の絶望の中でも天から下る「逆さはしご」を主の十字架の贖いをしっかり見上げる人生。「わたしはあなたと共にいると語られる」御自身の臨在の恵みを見つめつつ、また、自我のきよめと神の顔を見るような臨在の中を歩む祝福の生涯でありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン

  

主日礼拝説教「心はみ言葉の格納庫」詩篇119:9~16 深谷春男牧師

説教  「こころはみ言葉の格納庫」

聖書   詩篇119:9~16

説教者  深谷春男牧師  

 わたしは牧師として与えられた神様からの宿題は「勝利に満ちた信仰生涯」ということです。わたしたちの聖書の信仰は2000年のキリスト教会の命をかけた証し人の歴史を踏まえて歩むべきで、信仰の告白の中心からずれてはなりません。それと共に、その信仰が、生き生きとし、どのような試練や問題に直面してもゆるがない勝利的な信仰でなければ、信じるに価値なきものとなってしまうと思います。救いの確信と勝利的信仰生涯を模索し、聖書から語り続けてきました。次の場合は次の15項目です。

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主日礼拝説教「神に聞く生き方」使徒行伝10:1~16 深谷美歌子牧師

説教  「神に聞く生き方」

聖書   使徒行伝10:1~16

説教者  深谷 美歌子牧師  

 本日の礼拝は、深谷牧師が大和カルバリーチャペルの御用に招かれて、わたくしが新宿西の礼拝メッセージをさせていただくことになりました。大和市の大川従道先生とは、40年来の同労者です。深谷牧師が29歳ぐらいの時、「青年宣教大会」と銘打って若い牧師をピックアップし、「なかよし会」という名で祈祷会や交わりを持って、伝道のビジョンを掲げ、毎年「青年宣教大会」を御殿場で開いてきました。昨年サキソフォンコンサートをして下さった岸義紘先生もその仲間です。80歳を迎えて、青年とは普通言わない年齢ですが、それぞれの導きに従って歩んでこられ、今も導きに従って歩んでいます。大和カルバリー教会は、日本でも有数の大教会に成長しました。岸先生や、中野雄一郎先生は「どこでも誰でも献身を」と掲げて「JTJ神学校」を建て上げました。多くの献身者がユニークな伝道をしています。

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