新宿西教会主日礼拝説教「アブラハムの最大の試練」ヘブル11:17~19深谷春男牧師

説教「アブラハムの最大の試練」

聖書:ヘブル11:17~19

説教者:深谷春男牧師 

 ある兄弟がわたしに言いました。「深谷先生。クリスチャンの友人が、おもしろいことを言っていました。彼の教会の牧師先生が人生には三つの坂がある。人生のすべてがトントンと調子よく行き、希望した大学に合格し、運動部で活躍し、立派に卒業し、素晴らしい仕事へと導かれた・・という人生の『上り坂』、それから、すべてがうまくゆかなくなるような、体に不調が来たり、家族に中に問題が生じ、会社でも人間関係がうまくゆかないというような『下り坂』。それだけでも大変ですが、もう一つの坂は、『まさか?』、そんなことある?と言いたいような『まさか』という坂があるんですって。そのような時こそ、クリスチャンはしっかりと信仰に立たねばならない・・・。」語ってくれた友人の笑顔と共に思い起こします。人生の「まさか?」という時こそ、神様の出番ですね。

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新宿西教会主日礼拝説教「地上では旅人であり寄留者」ヘブル11:13,14 深谷春男牧師

説教「地上では旅人であり寄留者」

聖書:ヘブル11:13,14

説教者:深谷春男牧師 

 今日は、2023年7月2日です。この間、新しい年、2023年を迎えたと思ったら、もう、この年も半年間を過ぎたことになりました。でも、今年は、ここ数年と違って、コロナ災禍の驚くべき3年間を超えて、ほっとした感じがしているようなところがありますね。今年の5月からは、コロナの災禍表も5類に移って、マスクも自己判断に委ねられるようになりました。暑い夏の到来で、マスクなしに戸外を歩くことなどが許され、少し、開放感がありますが、ニュースなどを聞きますと、ここ、コロナ感染の数も、一時期より増えており、ちらほらと、コロナ陽性になりました・・・などの報告もあり、まだ、気をゆるめ過ぎるのは、早いとも言われていますし、「すでに第9波に入っている」等の言葉を聞きます。気をつけながら、夏の到来へと進みたいと思います。

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新宿西教会主日礼拝説教「神様に従いましょう」使徒行伝5:17~32深谷美歌子牧師

説教「神様に従いましょう」ーホーリネス弾圧記念礼拝ー

聖書:使徒行伝5:17~32

説教者:深谷美歌子牧師 

  本日は私達(深谷)の所属している「ホーリネスの群」(日本基督教団の中にあります信仰グループ)が、1942年6月26日に当時の日本の治安維持法によって、多くの教職が捕えられ、教会解散をさせられた日に直近の聖日です。終戦後、国が免訴という形で取り下げられましたが、信仰ゆえの弾圧が日本にもありました。最近のクリスチャン新聞にも、400年前の、キリスト教禁令によって執行された殉教の跡をたどる祈りのツアーの企画が行われたことが載っていました。現在も信仰ゆえの迫害は世界に起こっています。キリスト教の歴史は迫害の歴史でした。本日のテキストも、新共同訳では、「使徒たちに対する迫害」というタイトルがついている個所です。

 初代教会から教会は為政者によって弾圧されてきました。この記事を通して、私達の信仰生活を導かれ、真の命のバトンを喜びで渡す者とされますように。

【聖書箇所の概観】

17-18節 大祭司たちが、ねたみに燃えて使徒たちを捕らえ、投獄した。

19-21a節 使徒達を天使が助け出し、そのあとすぐみ言葉を語った。

21b-28節 牢に弟子達がいなくなり、大祭司達がとまどい、もう一度使徒たちを連れて来て、大祭司が尋問した。

29―31節 「人間に従うより神に従う。神がイエスを復活させ救主とされた」

32節   私達と聖霊はこの事実の証言者である。

【メッセージのポイント】

  1. ねたみに捕らわれた大祭司たち

17 そこで、大祭司とその仲間の者、すなわち、サドカイ派の人たちが、みな嫉妬の念に満たされて立ちあがり、18 使徒たちに手をかけて捕え、公共の留置場に入れた。17ー18節、・・・26 そこで宮守がしらが、下役どもと一緒に出かけて行って、使徒たちを連れてきた。しかし、人々に石で打ち殺されるのを恐れて、手荒なことはせず、27 彼らを連れてきて、議会の中に立たせた。すると、大祭司が問うて28 言った、「あの名を使って教えてはならないと、きびしく命じておいたではないか。それだのに、なんという事だ。エルサレム中にあなたがたの教を、はんらんさせている。あなたがたは確かに、あの人の血の責任をわたしたちに負わせようと、たくらんでいるのだ」。26-28節

 サンへドリンの人々の姿をまず見ておきましょう。17節に大祭司とサドカイ派の人々が「ねたみに燃えて」使徒たちを捕え牢に入れたとあります。サドカイ派の人々は奇跡を否定する人々でした。このすぐ前は、使徒達によって奇跡が次々起こされ、民衆が使徒たちについて行くようになりました。このことで、大祭司たちと一緒になって使徒達を捕えました。根底にあるのは、この国でいちばん上にあるべき権威が否定された事への「ねたみ」でした。

大祭司達の尋問の第一は「あの名によって教えてはならない」と国の最高権威である、最高法院の命令を守らなかったことでした。

第二はあの名によって教えることによって「あの人の血の責任を我々に負わせようとしている」でした。マタイ27章25節には、イエス様を十字架につけるとき「その血の責任は我々と子孫にかかっても良い」と群集が答えています。それを扇動したのは祭司達やこの議会でした。にも関わらず、弟子達が群衆を扇動して自分達にその責任の矛先を向けさせようとしていると責めました。

イエス様こそメシヤ(約束の救い主)であったと、弟子達が教え、イエス様がしていた、大いなる業を、弟子達がしていて、それは誰にも否定することのできない事実でした。それを見て信じる人々が続々と起こされました。彼らは弟子達の宣べ伝えているイエス様こそ約束のメシヤであると認めたのでした。

 裁かれているのは弟子達でしたが、大祭司達こそ民衆の責めが自分たちに向くのではと恐れに捕われていました。26節にも人々に石で打ち殺されるのを恐れて手荒なことはせず、とあります。

 大祭司達は自分達から民衆の心が離れ、敵意を向けられることを恐れていました。国を治める権威の失墜を恐れたのです。人々に権威を振るう立場の彼らは、民衆の離反は恐れでした。真に恐れたのは神様ではなくて民衆でした。

 2)命の言葉を述べ伝えるため

19 ところが夜、主の使が獄の戸を開き、彼らを連れ出して言った、

20 「さあ行きなさい。そして、宮の庭に立ち、この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい」。21 彼らはこれを聞き、夜明けごろ宮にはいって教えはじめた。                  19-21a節

 捕らわれた弟子達はどうだったでしょう。夜、主の使が獄の戸を開き、彼らを連れ出して言った、20 「さあ行きなさい。そして、宮の庭に立ち、この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい」と天使が獄の戸を開き連れ出されたのでした。今回の捕縛は、使徒達全員でした。今使徒たちが捕まえられて福音を語る人がいなくなっては大変なので、神様の非常手段だったと言う方があります。確かに天使の言葉は「さあ行きなさい。そして、宮の庭に立ち、この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい」でした。彼らはこれを聞き、夜明けごろ宮にはいって教えはじめた。のでした。一刻の猶予もなく導き出されるとすぐに命の言葉を語り始めました。

夜明けごろに人がいたというのは、使徒達が捕えられたとき、信徒の兄姉が祈っていたに違いないと言っている方があります。確かにこのあと、12章でペテロが獄に捕らわれた時も、大勢の人が集まって祈っていた12節とありますから、それは有り得ました。救出は祈りの答えであったでしょう。そして、この後また捕らえられましたが、命の言葉は一刻を惜しんで語られました。4章でペテロたちが議会から解放され報告した時も使4:29 主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。と祈っています。この時も御言葉を伝えるために祈っていたことでしょう。

 私達は使徒ではありませんが、この命の言葉を聞いて、この命を頂いたものです。横山義孝先生が「クリスチャンの本業は伝道。仕事は副業!」とユースキャンプで語ったことがありましたが「この命の言葉」を語るのは全てのクリスチャンの使命です。

3)人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。

29 これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、「人間に従うよりは、神に従うべきである。30 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスをよみがえらせ、31 そして、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救主として、ご自身の右に上げられたのである。   29-31節

4章19節にも 「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。と同じ言葉が語られています。繰り返し、この信仰の戦いがあったことが解ります。

私達の信仰生活も、日常同じような試みが繰り返されます。その度に人間に従うか、神に従うかを問われます。神様に従う道を選び取る決断を。

サンヒドリンの議会は当時の最高権力の行使される所でした。その当時の人はだれもこの権力に逆らうことはできない力でした。その議会で、「あの名によって語ってはならないと命じておいた」とおどされたのでした。

しかし弟子達は、真に従う方は神様で、あなた方より権威ある方であると、はっきり答弁しました。

イエス様も弟子達と一緒に過ごされた時、また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。―マタ10:28 と語られました。でもその時は、弟子たちはそこに立つことはできない人々でした。主が十字架に附けられた時は、クモの子を散らすように逃げた弟子達でした。今は堂々と全員で同じ信仰に立

っています。何故でしょう?その答えは聖霊様です。

 4)聖霊による事実の証人

32 わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である」。     32節

 証言は二つです。弟子達はまずイエス様は復活されたと証言します。イースターの朝の出来事は、弟子たちの、生涯忘れることのできない鮮明な記憶でした。早朝、姉妹たちが香油を持って行ったとき、墓は空で、よみがえったとの天使の告知、そのあと声をかけられた。疑う弟子達に現れ、傷を見せられた。エマオへの途上でパンを割いた時イエス様と解ったこと。命じられた通りにした時の魚の大漁とそれを食されたこと。「わたしの羊を飼いなさい」との再度の信任。宣教命令をされた後、昇天されたその場に居合わせたこと。聖霊を送る約束と、聖霊降臨。これらの経験の証人でした。

二番目はこの聖霊様の御臨在の証言です。聖霊降臨以後、弟子たちはイエス様がもたらした国は、罪の赦しと永遠の命の神の国だったと解りました。ヨハネ15章26-27節に、26 わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのであるから、あかしをするのである。と語られていたことを、弟子たちは聖霊様の導きをいただいて、解りました。しかも聖霊様が働かれて、大いなる業が起こされるのを経験してきました。

これらは疑いのない事実でした。だから3章で足の不自由な男が、癒されたときも、「イスラエルの人たちよ、なぜこの事を不思議に思うのか。また、わ

たしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのように、なぜわたしたちを見つめているのか。」と、このことが聖霊様の業であると証言しました。

わたしたちの内にお住い下さる聖霊様は、人に従うより神に従うと決めたクリスチャンに、語る言葉を導き、祈りを導き、癒しとか、愛の業をなさせてくださるので心配しないでおゆだねしましょう!

「たといそうでなくとも」の著者、安利淑姉も、日本の統治のとき神社参拝を強要されましたが、決心して拝みませんでした。つらいこともありましたが、獄の中で次々救われる方が起こされました、終戦を迎え解放された、闘いの記録でありますが、従った勝利の証しです。聖霊様に寄り頼み、喜びの証しを!

【祈り】 父なる神様。この世界で、力で迫害しても、人を恐れる生涯は、恐れと不安の生涯です。十字架の贖いを受け、罪と死の世界から、赦され解放され、聖霊様に聞き従い「本当の自由、永遠の神の国の命」に生き続けられますように。主の御名によって。アーメン

新宿西教会父の日主日礼拝説教「聖書に学ぶ父親像」ルカ福音書15:20~24 深谷春男牧師

説教「聖書に学ぶ父親像」

聖書:ルカ福音書15:20~24

説教者:深谷春男牧師 

 ハレルヤ。父の日、感謝します!

家庭を大切にし、両親を敬い、夫婦相和し、兄弟姉妹を愛し、子供たちをやさしさと愛情をもって、しっかりと導かれることは、素晴らしいことですね。「父の日」と言うことで、わたしは、三人の子供からすでにプレゼントを受けました。わたしは三人の子どもが与えられましたが、この三人が一緒になって「父の日」のプレゼントを送ってくれました。お父さん、プレゼントに何がいいですか?とか言われて、「ランニング用のシューズがいいね」とか言ったら、三人で相談して、とてもステキなシューズを送ってくれました。先週の月曜日、末の娘が付き合ってくれて、新宿の靴屋さんに一緒に行って、細かく店員さんに見せてもらって、なかなか良い物を選んで頂きましたね。子どもたちの愛を感じ、小さいときの子どもたちの思い出と一緒に、チラチラと昔の写真等を見て、深い感慨にふけったりしています。

【今日の聖書個所の概説】                                                          

 さて、わたしは、「父の日に何を説教するか?」と考えたときに、いろんな場面が浮かびました。今日の結論は、旧約聖書の中に出てくる人物を2人取り上げました。アブラハムとダビデです。そして、新約聖書の中からは、主イエス様の話に出てくる放蕩息子の父親です。聖書の示す父親像を、ご一緒に考え、そして、信仰を更に深めて頂きましょう。ハレルヤ。

1)信仰の父、アブラハムの姿です。

「アブラハムは信仰の父」と呼ばれています。

旧約聖書の中で、創世記12章から、アブラハムの物語が始まりますね。旧約聖書の信仰の基礎はどこから始まるのか?それはアブラハムからですね。彼はまさに、「聖書信仰の父です」ね。

創世記12章には、このように記されます。

時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしように。あなたは祝福の基となる。」彼は75歳で、天地創造の神、全能の唯一の神を信じて、歩み始めました。わたしどもがアブラハムから学ぶのは、「信仰」です。アブラハムの信仰は「神の言葉を信じて、行く先を知らないで出てゆく信仰」であり、「無から有を呼び出す神を信じる信仰」です。また、「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」(創世記15:6)と言われる信仰です。「われは全能の神なり。汝、わが前に歩み、全ったかれ!」この創世記の17章の言葉は、わたしにとっては神学生の時代に再献身した思い出の言葉です。

また、創世記22章では、「イサク奉献」の出来事があります。ここは、「信仰の高嶺で起こる最後のテスト」とも言われます。深い、確信ある、信仰の内容に、人生最大の試練、「イサク奉献」の劇的な場面が語られます。100歳にして与えられた愛するイサクを、「ささげよ」と命じられ、その言葉通りに従います。

ここには3回ずつ使われる「典型的な信仰の言葉」が3つあります。 

  • 「今わたしはここに!」(1711節) 主の臨在の前に歩む

主権を明け渡した心の状態なのです。わたしどももいつでも、主の臨在とその御前に、心の備えをなし続けたいものです。100歳をはるかに超えたアブラハムは、深い恵みの世界を歩み続けておりました。それは「主の臨在」と共に歩む生活です。

  • お前の息子、独り子!(21216節)独り子を給う神の愛を知る。                                                    

   第2の言葉は「お前の息子、お前の独り子」という言葉。3回使用されます。百才にしてイサクが生まれました。ご存知のように、神ご自身がその独り子を十字架にかけて、われらの罪のあがないとなしてくださいました。イサクの歩んだモリヤの山は、やがて神の独り子、主イエスの歩んだゴルゴタの丘は同じ場所です。イサクは自分を犠牲とする薪を背負いましたが、主イエスは自分を犠牲とする十字架を負って歩まれました。ある方が「神様はその友であるアブラハムに、独り子を犠牲とする御自分の心の痛みを知ってもらいたかった」と語りましたが深い洞察であろうと思います。

  • 主の山に備えあり! 8、14、14節) 神の摂理(救いの計画)を知る。                                                          

第3の言葉は「備えあり」という言葉です。これは「見る(ラーアー)」という言葉から変化したもので、「見ていてくださる」「神ご自身が見通していてくださる」という信仰は、当然のこととして、神ご自身が、「面倒を見てくださること」「備えをしていてくださること」を意味しています。この物語の構造は明らかに8節の「神備えたもう」を中心に構成されています。また、14節には「アドナイ・イルエ (=エホバ・エレ)」という有名な聖句が出てきます。神は、わたしたちの服従する心の姿勢を見ていてくださり、救いの御手を注いでくださるのです。

2)ダビデの生涯に見る、聖書の父親像

ダビデの生涯はサムエル記上16章から始まります。ベツレヘムのエッサイの息子、末っ子のダビデは預言者サムエルに導かれ、油注がれて、神の霊がこの少年の心を貫き、彼はすばらしいリーダーとして成長しました。多くの労苦を経験しながら、サウル王のギルボア山での戦死の後、30歳で、南ユダの王となり、後、北イスラエルの長老たちの依頼を受けて、全イスラエルの王となりました。彼は、天才的な戦略家で、小さなユダヤの国を導きつつ、ついに周りの民族をすべて従えるエジプトに匹敵するようなイスラエル王国を築いたのです。ダビデの信仰とその真実は詩篇18篇やサムエル記下22章の詩篇に記されます。詩篇18篇などは最高傑作ですね。「わが力よ。わたしはあなたを愛します!」から始まるこの詩篇などはダビデの信仰そのもので、荒削りながら、その輝きや、ユダヤの歴史を通しても、詩篇は皆、ダビデの作のものと考えられるほどに、神への愛と信仰に満ちています。

しかしながら、聖書の記述は驚くべく真実で鋭い批判力に満ちています。特に、サムエル記下11章以降のダビデとダビデ王家の姿は、恐るべき、自己中心と、異母兄弟同士の恋愛と暴行事件、更に長兄アムノン殺害事件、その事件の後のアブサロムのクーデター事件。ダビデ王位継承をめぐる殺害事件等の暗闘が記されます。ああ、なんたる神の国の王家の歴史!

11~12章はバテセバ事件。ダビデ王による浮気事件とバテセバの夫、忠実なウリヤの謀殺。その現実を預言者ナタンに暴露され、罪の告白をするダビデ。詩篇51篇と32篇等はこの時の、罪の赦しと新生の体験を歌う。

神に受け入れる魂は、「砕けた悔いた魂であること」を示します。これはダビデだけの罪の告白ではありません。信仰者は、主イエスの十字架の前におのれの罪深さに、涙することなくして、義とされる道はありません!

13~19章は息子アブサロムの反乱事件。

 アブサロムの反乱の記事とゲッセマネの祈りは聖書の記述中で最も長い一夜であると言われる。ここには父と子の愛と悲劇がある。アブサロムの反乱の最後の部分18章。ダビデの軍勢はマハナイムを出てアブサロムの軍隊に当たる。体制を整えたダビデの軍は、アブサロムの反乱軍を撃破。ダビデは三人の長にアブサロムを殺さないようにと頼む。

18:6ー17節 エフライムの森における激闘とアブサロムの死。彼の墓碑。

「頭髪がその木にひっかかり、彼は天と地の間に宙づりになった」(9節)19:1~4節 ダビデの嘆き「アブサロム、アブサロム!!」

    ダビデに学ぶ 「父の愛!」「父の愛!」

3)最後に、放蕩息子の迎える父の姿!ここにわれらの希望がある。

ルカ15章は「福音中の福音」とか「主イエスの教えの蒸留したエッセンス」と言われます。ここには「迷子の羊」「なくした銀貨」「放蕩息子」の三つの物語があります。全ての喩えに「失われたもの」「回復」「喜び」という主題が共通しています。「父のなみだ」と言う内容で、聖書の示す神様の愛と救いの喜びを見たいと思います。

 放蕩息子は、おとうさんから頂いた財産を、湯水のように使い果たし、一銭もなくなりました。そこにやってきたのが飢饉。金の切れ目が縁の切れ目。彼は最後は豚飼いになりましたが、食べ物もなく、豚の食べるイナゴ豆で腹を満たすしまつ。ここに至って彼はようやく「我に返り」ました。口語訳聖書は「本心に立ちかえった!」と訳しています。「人の行き詰まりは神のチャンス」といいますが、彼は落ちるところまで落ちて、ようやく、お父さまを思い起こしたのです。「お父さんのところに帰ろう!」と決意します。落ちる所まで落ちて、父の素晴らしさが分かったのでした。信仰はまさに、このまことの天のお父様のもとに帰ろうと決意するところから始まります。これを悔い改め、メタノイアと呼びます。ヘブル語では「シューブ(父の許に帰る!)」です。人間は愚かなところがあり、自分が食べるにも窮して、ぎりぎりのところに落ちないと天のお父様のもとに立ち返る決心ができないところがあります。「父のところに帰ろう!」 この決心が人生を変えます。

20節には「そこで立って父の所へ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼を認め、哀れに思って走り寄り、首をいだいて接吻した。」

  放蕩息子が帰って来るのを父は今か今かと待っていました。変わりはてた息子の姿が遠くに見えはじめると、父は自分の息子を認めて、走り始めました。普通ユダヤの老人は走らないといわれます。しかし、彼は、いなくなっていた息子が帰って来たと走らずにおれなかった。白髪を風になびかせながら彼は走る。目からは涙が流れ、白髪は父の心のように、喜びに踊るように、風に舞う。このなりふりかまわず走る父の姿が、実に聖書の神様の姿なのです。神様は、天の高みから十字架のもとにまで走り下る御姿となって、今、われらにご自身を示されるのです。

 天の高みから十字架の許にまで走り下る父の姿。ここに希望がある!

【祈祷】主よ、父の日を感謝します。わたしどもはこの日、信仰の父アブラハムからの信仰!を学び、涙ながら反逆する息子の最後の姿に「アブサロム、アブサロム!」と叫ぶ父親の愛!を学び、自分の罪と愚かさのゆえにボロボロになって父の許に帰る人間、それを叱るどころか、なりふり構わず走り寄って、わたしどもの首をいだいて接吻される父の愛!天の高みから十字架にまで走り下る天のお父様の愛の中に、信仰と愛と希望を見いだして歩みます!父の愛、神の愛!!ハレルヤ。御名によって祈ります。アーメン

新宿西教会主日礼拝説教「ペテロの変身!」使徒行伝2:37~42 深谷春男牧師

説教「ペテロの変身!」

聖書:使徒行伝2:36~42

説教者:深谷春男牧師 

 使徒行伝2章の記事はペンテコステの記事です。すなわち、主イエス様が十字架にかかられてその3日後に復活され、それから、主イエスはご自分の生きていることを示して、40日にわたって弟子たちに現われました。そして天に帰って行かれました。更に弟子たちは主イエスに命じられた通り、10日間、約束の聖霊を待ち望んで、祈りました。やがて、ペンテコステの日(五旬節)に、聖霊は激しく弟子たちに下り、弟子たちは力を受け、悔い改めて洗礼を受けたものはその日だけでも、3千人もあった、と記されています。そして教会の命の流れは始まりました。ペンテコステは教会の誕生日でもあります。そしてその中心になったペテロの変化を中心に今日は見てみたいです。 

メッセージのポイント】

1)36 だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。37 人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。   (36,37節)。 

  ⇒  兄弟たち、わたしたちはどうしたらいいのですか?

「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか?」という言葉はとても大切な言葉です。この言葉から多くの人生に新しい業が始まったからです。求道者の中に主の新しい業が始まるときには、いつでもこの言葉が発せられなければなりません。「わたしたちはどうしたらよいのですか」。

ペンテコステの大きな物音が起こったときに、たくさんの方々が集まりました。洗礼を受けた人が3000人もあったと言うのですから、5千とか1万人ぐらいの方々が集まってきたのではないでしょうか。その人々を前にしてペテロは大胆な説教をしました。しかも、そのメッセージの中心は「主イエスの十字架」でした。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った、と記されています。

 「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか?」という質問は、ペテロをはじめ使徒たちに対する信頼と、語られた内容に対する深い罪意識を読み取る事ができると思います。

  「わたしたちはどうしたらよいのですか?」と彼らは誰に問うたのでしょう。「兄弟たち」にです。ペテロや弟子たちに、教会に、そう問いかけました。そこにクリスチャン信仰の基礎があります。自分が立っていたと思っていた土台が揺れ動き、崩れてゆくように感じるとき、「わたしはいったいどうしたらよいのでしょうか?」とわたしどもは問い始めるのです。ある人はペンテコステに集まった人々のように説教を聴いて自分の罪を知ります。ある人は神の前の自分の罪だらけの現実に目が覚めて、「一体どうしよう!」とあわてるのです。ある人は愛するものの死や病気や事故に直面して、絶対的な永遠者との出会いを経験しはじめるのです。

この言葉は使徒16章のピリピの牢獄でも同じでした。大地震があって囚人が逃げた責任で、自殺しようと慌てふためいた獄吏は、パウロとシラスに「自殺してはいけない!」と止められ、二人の前に進み出て「先生方わたしは何をすべきでしょうか」と問うた事が記されています。わたしどもも今日、主の御前にそう問いましょう。

2)38 すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。39 この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」(38,39節)。     

 ⇒  悔い改めて洗礼を受けよ!         (新生の恵み)

 ペテロは人々の質問を受けてはっきりと答えました。「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。」(38節)。これはストレートな言葉です。悔い改めて洗礼を受けること、そして、罪のゆるしを頂いて、聖霊なる神様のご支配の中を歩み始めると言うのです。この38節にキリスト教の信仰生活の中心的な内容が詰まっています。

以前、ある雑誌に、イギリスで伝道している一人の女性、小島美子先生の証しが載ったことがあります。「16歳の夜の出来事」という文章でした。

お父さんから厳しく責められ続けたお母さんが、ある夜、夕食の後についに絶望し、自殺を図ろうとして夜道を出た時のことです。4歳上のお姉さんと、事の重大さを察知して、そっとお母さんについて行きました。しかし、お母さんに慰めの言葉もなく、3人でただとぼとぼと黙って歩くほかありませんでした。3時間ぐらい歩いた頃に雨が降ってきました。行き場に困った彼女達は重い心で雨宿りしました。お姉さんがついに口を開いて「お母さん本当にこれより道はないの?」と聞きました。お母さんは上娘の悲痛な声を聞いて、優しい目で答えました。「それじゃ、家に帰りましょう」。二人の将来を思うと二人を道連れにすることはできなかったようです。その時です。わたしの口から思いがけない言葉が飛び出しました。「教会に行こう!」この自分の言葉に一番驚いたのはこのわたしだった」と記しています。しかし、その時はもう、夜中の二時でした。3人は賭けをしました。一度だけベルを押そう。すると暫くして外国の宣教師が出て来られて「どういたしました」と語りかけてくださって、礼拝堂へと導いてくださり、寝室まで用意してくださいました。そこでなんと一週間、3人は寝泊りして、やがて信仰を持ち、家庭全体が変えられていったというのです。

  使徒16章でもパウロとシラスは答えています。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます」(16:31)。そして家族全員が洗礼を受けて新しい生涯が始まりました。

3)40 ペテロは、ほかになお多くの言葉であかしをなし、人々に「この曲った時代から救われよ」と言って勧めた。41 そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった。42 そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。  (40-42節)

⇒ この曲がった時代から救われよ!    (聖化の恵み)

「この曲がった時代から救われよ!」とペテロは大胆に語りました。新共同訳で、「邪悪なこの時代から救われよ。」「洗礼を受けよ。そうすれば賜物として聖霊を受けます」。今までの自己中心性を悔い改め、洗礼の恵みにあずかり、聖霊を受けるのだ。まさにペンテコステは、聖霊による人生の転機です。「キリスト教信仰は、十字架と聖霊です」。BFバックストン師の説教集2の冒頭に、同師の挨拶の文章があります。「聖霊の器」と言われたバックストン師です。宣教師嫌いの内村鑑三が「彼は聖霊の器、人類の花だ」とまで絶賛したと言われます。BFバックストンの生涯のメッセージは「聖霊を受けよ。聖霊の満たしはクリスチャンの人生の戴冠式」と語られたことは有名です。

「十字架の贖いと聖霊の満たし」。これぞ、聖書の根幹メッセージです。

4)12 「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。(4章12節) ⇒ ペテロの人生の一大転換!          (信仰の確信!)

わたしたちは、今日は、一大変身を遂げたペトロの姿を見ました。

4月23日の礼拝で、復活された主イエスにガリラヤ湖畔でお会いしたときのペテロの姿を見ました。朝のお食事の後に、主イエス様がペテロに問いました。「ペテロ、あなたわたしを愛するか(アガパオー)」この時のペテロの答え「主イエスよ、わたしはあなたを愛しています(フィレオー)。2度目に、

「ペテロ、あなたわたしを愛するか(アガパオー)」この時もペテロの答え「主イエスよ、わたしはあなたを愛しています(フィレオー)。

「ペテロ、あなたわたしを愛するか(フィレオ-)」3度目の主イエスの問の時のペテロの答え。「あなたはご存じです。わたしはあなたを愛しています(フィレオー)」。かつて、主イエス様が十字架にかかられる時に、三度も、主を知らないと言ってしまった。ペテロ。自分の愚かさと自己嫌悪で、絶望の中にいたペテロは、主イエス様に、アガペーの愛で愛するかと問われて、主よ、わたしは3度もあなたを拒んだ愚か者。神の真実な愛で、あなたを愛するなど口が裂けても言えません。でも、わたしは、言えません。でも、わたしの主はあなただけです。あなたを、人間のなしうる真実をもって仕えますという答えをしました。

しかし、このペンテコステの後のペテロはもう別人のようになっていました。彼ははっきりと言いました。「悔い改めて、洗礼を受けよ。聖霊を受けるのです。」この曲った、邪悪の時代から救われよ。その日、3000人の方が救われました。そして彼の言葉の結論は使徒4:12です。「この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。

 ペテロ!大変身! これは、人間の世界ではなく、神御自身のなせる業でした。コロナを越えて、6月、伝道の時を迎えます。聖霊に満たされた勝利の歩みを確信して歩みましょう。

【祈り】 父なる御神。礼拝の時を感謝します。罪と死の世界に住むわたし達は、聖なるあなたの前に出る時に「一体、何をすべきでしょう?」と問う以外にないものです。「悔い改めて、洗礼を受けなさい」。主よ、あなたの救いの恵みに与らせてください。そして、「聖霊の恵みを受けよ」と語ってくださいました。わたしどもに聖き神の霊を満たして、クリスチャン人生の戴冠式をなして下さい。そして、「この方以外に救いはない!」と大胆に語れるところまで導いて下さい。主イエスの御名によって祈ります。アーメン