2024年4月21日(日)新宿西教会主日礼拝説教「わたしだ。恐れることはない」マルコ6:45~56 西川穂伝道師

 

 6章48節には、「ところが逆風が吹いていたために、弟子たちがこぎ悩んでいるのをごらんになって」と記されております。
弟子の中には、漁師もいて、ガリラヤの湖の天気を予測して、突風の中で、舟を操ることも得意だった人もいたはずです。
この弟子たちのように、私たちも、今までの人生経験がまるで役に立たないような、また、学んできたことが吹き飛ぶような突風に、揺らいでしまうということが人生にはあるかと思います。
 
【メッセージのポイント】
1)信仰の確かさは、イエス様の御言葉から聴くことから始まります。
6章48節後半には、「夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らに近づき、そのそばを通り過ぎようとされた。」とあります。
弟子たちが、一生懸命に舟を操っているうちに、もうすぐ夜が明けそうな時間になりました。イエス様が湖の上を歩いておられるのを見て、弟子たちは、「幽霊だ。」と言っておびえ、弟子たちはもう大人でしたが、恐ろしさに悲鳴を上げました。そして、弟子たちは、幽霊だと思ったその存在が、実はイエス様だ、と判りました。イエス様は、ご自分の姿を見て恐怖におびえている弟子たちにすぐに言われました。
50節では、「しかし、イエスはすぐ彼らに声をかけ、『しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない』と言われた。」とあります。
新共同訳では、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と記されております。行く手を阻む逆風の中で、弟子たちのなすべきことは、何とかしようと、右にこぎ、左にこぐような、あたふたとすることではありません。
大切なのは、イエス様の声を聴いて話し始めることから、根本的な解決があります。
根本的な解決になるというのは、神様は、私たちがしなければならない、本当の課題を示してくださるからです。だから、神様の御声を聴かないといけないのだと思います。神様の御声を聴いて、私たちがしなければならない課題が明確になる、ということです。
マルコ4章35節~41節にも、ガリラヤ湖で強風によって、弟子達が苦しむ場面が描かれております。問題が起こるたびに、まず私たちに必要なのは、イエス様の御言葉を聴くことであるということを意味しております。
 
2)「逆風」という場所でしか経験できない、イエス様の御言葉があります。
風に悩む姿は、人生の逆風で苦しむ私たちの姿と重なります。私たちも、荒波の中で、戦い、苦闘して、人生と言う舟が沈んでしまうに違いない、と思ったことはないでしょうか。私たち誰もが人生の逆風のただなかに立たなければなりません。
私たちの人生は、いつも順調に進んでいくとは限りません。時には、弟子達の体験のように人生の逆風が吹きます。それが病気だったり、仕事や家族の問題であったりします。
誰もそばに立って励ましてくれるということはできないかも知れません。しかし、その時、イエス様が私たち一人一人に、「しっかりするのだ。私だ。恐れることはない」と呼びかけてくださるのです。絶対に避けることのできない逆巻く波の中に、私たちのために立ってくださるイエス様がおられるのです。 
神様の働きは、逆風の中で行われます。もしかしたら、神様の良い働きが順風満帆の時に行われるということは、少ないのかも知れません。
逆風という試練の中で苦しんでいる所に、イエス様は、私たち一人一人に近づいてくださいます。逆風だからといって逃げ出したら、神様の御声を聴くことはできません。言い換えるならば、逆風という試練の中でこそ、聴こえる、「しっかりするのだ」というイエス様の希望の御言葉が聴こえるのです。苦しい時に、慰めと希望の御言葉が聴こえてくるのです。
逆風の中に私たちがいる時に、弟子たちを、また、多くの信仰の先輩を導いた所の御言葉が、今も私たちを導いて運んでくださるということに気がつくのです。逆風と言う場所でしか経験できない、イエス様のご臨在、イエス様の御言葉があるのです。
 
3)イエス様の確かさ、御言葉の確かさが私たちの確かさになっていきます。
51節に、「そして、彼らの舟に乗り込まれると、風はやんだ。彼らは心の中で、非常に驚いた。」と記されております。
イエス様には、風や自然を治める権威があります。イエス様は、救い主だけではなく、この被造物を造られた方でもあります。
私たちを造られたイエス様は、環境を新たにして、私たちの生涯を全く新しく創造されます。逆風や荒波を怖がる弟子の姿は、私たちの姿でもあると言えます。私たちも、逆風が起きる時に、「イエス様、どこにおられるのです」か、と悲鳴をあげることがあるかも知れません。
6章51節 、「そして、彼らの舟に乗り込まれると、風はやんだ。」と記されております。イエス様は、そのまま行ってしまうのではなく、すぐ弟子たちに語りかけて、舟に乗りこまれたのです。
旧約聖書では、神様を見ると死んでしまうといわれています。出エジプト記3章5節では、神は言われた、「ここに近づいてはいけない」と記されております。ここで神様は、モーセを招いてお姿をあらわしたので、「ここに近づいてはいけない」という意味は、本当は近づけさせるためなのだと考えられます。神様と人とをつないで、和解を実現させたのは、イエス・キリストです。
新約聖書では、イエス様は、人と出会うために、人となってくださいました。言葉が肉となられ、地べたに座って、私たちの中で住まわれたのです。イエス様は、共に生きる神として、私たちと一緒に、嘆き、苦しんで、共に生きてくださいました。今日の聖書箇所にある通り、イエス様は、通り過ぎようとされましたが、目の前に来てくださり人生という舟に乗り込み、先を導いてくださる神様です。そのように、神の言である、イエス様は、肉体をとって、罪人である、私たちのもとへ来られました。
ところで、神様が人々の前にお姿を現して、「わたしが神である」と一言おっしゃってくだされば、多くの人々が救いへと導かれるのに違いないと思ったことはないでしょうか。神様はなぜ私たちを抜きにして伝道をしないのでしょうか。全ての答えは、イエス・キリストがまことの神であり、まことの人でおられる、という所にあります。キリストは人間性を置いておいて、神性だけのキリストである時、純粋にイエス・キリストであるのではありません。人間性をもってイエス・キリストであるのです。教会を抜きにして、私たちを切り捨てることによって、神様は、人を救うというご計画を進めようとはされませんでした。そこに、私たちの慰めがあり、希望があります。
イエス・キリストにおいて神様の臨在は、人を裁くためではなく、神様の愛により、罪人を赦し、守りつつむものとなったのです。父なる神様のもとにおられた御子が肉体をもって、罪と死を打ち破って私たちに救いをもたらすために十字架につけられ、よみがえられました。そして、父なる神様の愛をあらわす為に、私たちに来て共におられるのです。
しかし、イエス様が共にいてくださる、と私たちがいつも思わなければいけないというのは、その発想は時として、律法主義になってしまいます。それは、人間が作り出す信仰になってしまう、おそれがあるのです。
イエス様の確かさ、御言葉の確かさが私たちの確かさになります。今日でいうなら、心の中で、聖霊様が働いているのです。心の中で、生きるイエス様が共にいるということです。
聖霊様が共にいてくださる、また、イエス様がいらっしゃるから、私たちに信仰の確かさが与えられていきます。私たちは信じていても動揺する時があるかも知れませんが、それ以上に、神様の愛がつつんでくださるのは、心の中に聖霊様が生きていてくださるからです。御言葉と共に聖霊なる神様が私たちを信仰者として成長させて、新たに導いてくださるのです。
救いの確かさは、信じきれない者をイエス様はあわれみによって受け入れてくださるという所にあるのです。イエス様から、見捨てられも仕方がないようなものを、あわれみにより、イエス様がいつもそばにいて、私たちを生かしてくださるのです。イエス様はいてくださるから、「安心だ、安心だ」と私たちが思っている以上に、イエス様は、わたしたちをしっかりと受け止めてくださるお方です。イエス様に全てお委ねする所に私たちの望みと力があるのです。
 
【結論】 イエス様は強風の中でも慌てず、弟子たちに近づき、御言葉を語りました。それは、私たちが、今でも経験する嵐のような人生の中に立ってくださる、イエス様のお姿でもあります。私たちは、神様が御言葉を語られて、その御言葉が迫ってくるという経験をします。それは、疑う余地もない確信となって、私たちの中に突然、進入してくる御言葉に圧倒される経験です。また、入ってきた希望の御言葉が何度も何度も聴こえて、真実な御言葉が私たちを支えているという経験です。イエス様は、私たちの人生の中で起こる、どのような激しい強風や嵐さえものともせず、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と、今でも、私たち一人一人に力強く語ってくださるのです。
 
【祈り】「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と語ってくださる、イエス様は、今日も私たちに希望の御言葉を力強く語ってくださることを本当に感謝いたします。試練や病気で苦しんでいる方がたに希望の御言葉が語られて、主の平安と励ましと新たなる導きをお与えてください。愛する主イエス・キリストの尊きお名前によりお祈りいたします。アーメン。

 

2024年4月14日(日)新宿西教会主日礼拝説教「最も大事なこと」第一コリント15:1~10 深谷春男牧師

 

 
「最も大事なこと」、一番重要な信仰の内容を、しっかりと捉えておかないと、わたしどもは試練や困難にあったときに根底から揺らいでしまいます。そのような意味でわたしたちの生涯はしっかりした岩場に自分の生涯を築かないといけません。今日はそのような意味では、「最も大事なこと」という題で御言葉を取り次ぎたいと思います。すなわち、わたしどもの人生の家屋、諸活動の土台をしっかりと立てるべき岩山を、ご紹介しようと思います。
 
【今日の説教箇所の概説】 さて、本日の聖書は1コリント15章です。ここは一般に「復活の章」と呼ばれます。パウロはここで「復活信仰」の大切さを力説します。キリスト教の教えの中心は何か?教会は何を教え、またわたしどもは聖書から何を聞いてゆくのか?これはキリスト教が世界に福音を語るときの最大の課題でした。結論から言うと、福音とは何か?という大問題に発展します。ここでパウロは「最も大事なこと」を宣言します。
 
【メッセージのポイント】
1)  1兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受
けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。2 もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。 (1,2節)
⇒ 告げ知らされた福音からずれるな!
ここには、キリスト教信仰の一番原点が表現されています。パウロは、コリントの教会が、歴史を経、また様々な文化圏から多くの人たちが集まるに従って、主イエスの語った基本的な福音から大きく変化してゆくのを嘆いて、福音の原点にしっかりと立つようにと諭しています。
「兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。」
これはいつの間にか語られた福音が、変化して伝承されてゆく姿を語っています。ですから2節には「あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音」に立つようにと勧められます。「2 もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのです。」福音の原点をしっかりと理解して、主イエスの恵みの中に成長して欲しい。「さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう」とまで語られます。全人類を導く恵みの福音が、大きくゆがめられて、福音ではなくなってしまう嘆いているのです。
 この告げ知らされた福音の原点に立つようにというメッセージは繰り返し語られますと共に、これは非常に現代的な課題でもあります。
 3節から「最も大事なこと」として伝えたものはわたしも受けたことであって、これは変えてはいけない「神の福音」なのであると語ります。教会は「福音」を語ります。教会は福音を曲げてはなりません。いつでも「告げ知らされた福音」とは何か?を深く理解してゆかねばなりません。
 今日は「最も大事なこと」という題ですが、先日、この説教の内容の深まりということで、美歌子先生と、「鍵」のことを話し合いました。現代の生活において鍵は欠かせない。わたしたちの持っている鍵もいろんな種類がある。①金庫の鍵。②家の玄関の鍵。③車や自転車の鍵。④パソコンのインテーネットのIDパスなども鍵の一種?(これがないとインターネットも開けない)。⑤キーワード(鍵となる語)、キー・ポイント(重要な鍵となる点)、キー・パーソン(鍵を握る人物)という表現もある。
 
2)3 わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、4 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、(3-4節)
 ⇒ 十字架と復活の信仰!
さて、今日のキーワードは「主イエスの十字架と復活」という内容になります。「最も大事なこと」とパウロは語ります。これが今日の説教題でもあります。「3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」だと語ります。パウロの語るところによりますと、聖書の教えの中で一番大切な教えは、「キリストの死と復活への信仰」であると言うのです。これは、旧約聖書で預言されていたこともっとも大切なことであるというのです。それは人間の最大の問題である「罪と死」の問題の解決として、旧約時代から神様が供えておられたもので、福音とはこの「罪と死の解決」に外ならないとパウロは語ります。これは大変重要な言葉であると思います。皆さん、いかがでしょうか?
クリスチャンになるということは自分の罪を認めること。このような罪深い自分のために主イエスが身代わりとなって死んでくださったこと。そして、イエスキリストを信じて新しい人生に歩み始めることを意味しています。それはちょうど、あの放蕩息子が、人生に行き詰まり、お父さんの許に帰ろうと歩み始めることであり、また、迷子の羊が、羊飼いに見つけてもらい、羊飼いの肩に担われて帰るようなものです。
「十字架と復活」の信仰とは、自分は罪深い存在であり、死ぬべき罪人ですが、主が身代わりになって死んでくださってわたしは赦されました。今、わたしは新しい人生を、キリストの復活の命を生きています、と言う告白です。そしてそれは、神様の永遠の命の中に歩むことであり、死に支配されてむなしい中を歩んでいた者が死をも越えた復活の人生に生きると言うものです。
以前、牧会した教会に中村姉という信仰深い姉妹がおりました。彼女はお祈りをするときに必ず、はじめの言葉で「天のお父様、尊い御宝血をあがめて感謝いたします。・・」と祈り始めました。彼女のお母さまが韓国に宣教した素晴らしい姉妹で、そのお母様の訓練を受けた霊的な姉妹でした。
 
3)8 そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。9 実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。10 しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれより
も多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。                   (8-10節)
⇒ わたしではなく、神の恵み!「恩寵あふるるわが生涯!」 
パウロはここで復活の主イエスに出会った人々を語ります。ケバ(=ペテロ)に現れ、12人に現れ500人以上の兄弟たちに同時に現れた。そしてヤコブにも、すべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば月足らずに生まれたわたしのようなものにも現れた!」と語ります。あのダマスコ途上の、クリスチャン迫害の最中に、彼は復活のキリストに出会って、人生がまったく変えられてしまいました。キリストとの出会いは目からうろこが落ちる体験でした。
さらに10節では、パウロは「神の恵みによって今日を得ている。そしてわたしにたまわった神の恵みは無駄にならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである」と、3回も「神の恵み(ㇻゲ訳は、神の恩寵)=カリス」であったと深く感謝をしています。わたしたちの信仰は「神の恵み」「神の恩寵」への心からの感謝なのです。北海道の伊藤馨先生は、昭和の宗教弾圧の獄中記を描かれましたが「恩寵あふるる記」とその生涯を表現し、今年97歳になられる横山義孝先生の生涯の証しの自叙伝も「恩寵あふるる生涯」です。 
【結論】兄弟姉妹!人生で「最も大事なこと」は、「主イエスの十字架であり復活」です。そこに集約されるのです。不条理に満ちた人生、苦難に満ちた人生、生きる価値を見出せない人生。ヨハネ2章に、主イエスの最初の奇跡は、カナの結婚式で「水がぶどう酒に変化した奇跡」であることを見ました。「主イエスの十字架と復活を信じる生涯」は、何の変哲もない水が、芳醇なるぶどう酒に変わるのです。人生のカギは「主イエスの十字架と復活」にあるのです。「そこに神の恩寵の粋、神の愛と輝く救いの喜びがあるのです。」ハレルヤ。
 
【祈り】 恵みの深い父なる神様。この朝は「最も大事なこと」を学びました。「主イエスの十字架と復活」、これが人生を開くカギであることを学びました。聖書の語る福音に本質をしっかりと聞き、悟る者としてください。人生には多くの試練や困難があります。しかし、主イエスの十字架と復活の恩寵により、わたしどもは罪と死の究極的な問題の解決を得ました。主よ、わたしどもの霊の目を開き、福音信仰の原点にしっかり立つ者とならせてください。新しく迎える一週間も、「恩寵あふるる一週間」であることを教え、導いて下さい。われらの贖いの主、復活の主イエスの御名によって祈ります。アーメン!

 

2024年4月7日(日)新宿西教会2024年度初主日礼拝説教「あなたは力を受ける」使徒行伝1:8 深谷春男牧師

 

 

 2024年度の新宿西教会の標語聖句は、ゼカリヤ書4:6「権勢によらず、能力によらず、わが霊による」です。これは今日の使徒行伝1:8と同じ内容です。

【聖書テキストの概説】

主イエスが十字架にかかられた後、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて部屋に隠れておりました。主イエスを殺したローマの兵隊やユダヤ人がやってきて自分たちを殺しはしないかと戦々恐々だったのです。ところが、この不信仰と臆病の霊につかれたような弟子たちが、突然、大きく変えられました。弟子たちは、エルサレムの二階座敷でこの力を受けるべく祈っておりました。そして、彼らは大きな体験をし、人生が一変してしまいました。これがペンテコステの出来事でした。「8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒1:8)とあるように、彼らは力を受けました。「聖霊の降臨による命の力」です。弟子たちが主イエスと最後の晩餐をしていた二階座敷で、ひたすら祈っているところに、天から聖霊なる神様が降臨され、弟子たちは信仰と愛に燃えて世界宣教へと旅立ちました。救いの確信を得たのは「聖霊の降臨」からでした。聖霊に満たされて人生は変わるのです。ハレルヤ

【メッセージのポイント】

1)8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。(8節)

⇒ 聖霊が下ると力を受ける!

 復活の主イエス様の言葉を今日は頂きます。それは使徒行伝1:8の一節

です。そこにはこう書かれております。「聖霊なる神様が弟子たちに降ると弟

子たちは、力を受ける」と。信仰の内側からくる天来の力ですね。

復活の主に出会いました。彼らは人間の世界の一番深い問題が、罪と死である

と知らされておりました。そして、主イエスがその解決として十字架と復活の

福音を成就してくださったこともなんとなく分かっておりました。しかし、彼

らの「力」、「確信」とはなっていなかったのです。ルカ福音書の最後の部分

を読みますとこう記されます。

44 それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。45 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて46 言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。47 そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。48 あなたがたは、これらの事の証人である。49 見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。

ここには、復活の主イエスの言葉が記されます。旧約聖書に記された出来事はすべて実現する。それは「主イエスの十字架と復活、そして聖霊の降臨である」。この福音に立つときに、「47 そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。48 あなたがたは、これらの事の証人である。49 見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」と語られたのです。

「上からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」という言葉に、注目しましょう。十字架を知り、復活の主に出会っても、十分ではなかった。ペンテコステの出来事は「上からの力の付与」だったことが分かります。

「上から」という言葉は象徴的です。聖霊なる神様が臨まれる時、人は天

の世界が開けるのを経験するからです。かつて井上金子師から聞いたお証し。あるおじいさんがどうしても信仰がわからない。その内に危篤状態になり、クリスチャンの娘もついにサジを投げ「聖霊によらなくちゃわからないよ!」と突っ張ねた。ところがこのおじいちゃんは危篤状態になった時にず-っと「聖霊やらという方をお与え下さい、聖霊やらという方をお与え下さい」と祈り続けた。ある夜、深く眠った時に夢を見た。天国の夢。碧玉の城壁、純金の町、水晶のような川・・彼は教会に2回しか行ったことのがなかったのにはっきりと信仰がわかり、救われたとのことでした。聖霊なる神様により頼む謙遜さはは「罪と義と裁きについて、世の人の目を開く」(ヨハネ16:8)のです。

聖霊によらねば、イエスは主なりと言いうことはできません。(1コリ12:3)

  

2)、8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。(8節)

 ⇒ キリストの証人となる!

聖霊が降ると、霊的な目が開かれ十字架と復活の救いの確信がやってきます。

以前、天門教会の週報を見たことがあります。コラムがありまして、そこに、「わたしのペンテコステ」という一宮政吉先生の文章が載っておりました。一宮政吉先生は、16歳の時に、礼拝をしていた時、がぜん霊的に目覚めました。そして、主イエス様の十字架の意味、復活、再臨、永遠の命までの聖書のメッセージがはっきりとわかるようになったというのです。この霊的覚醒を「わたしのペンテコステ」と表現していました。このような、「わたしのペンテコステ」というようなものを証しできる人は幸いな人だと思います。

わたしの先輩のある兄弟もこのようなことを語られました。「自分は会社を経営していて、調子の良い時には本当にルンルン気分だったのですが、ある時、会社が不渡りを食って、大変なところに落ち込んでしまいました。厳しい日が何日も続き、わたしはある夜、帰りの車の中で涙が止まらなくなってしまいました。神様の前に泣いて、『神様、あなたがわたしたちの会社の社長です。どうか助けてください!』と祈りました。その時に魂の深いところから恵みが湧いてきて、喜びに満たされた経験を持っております。あれが、わたしのペンテコステでしたね。」彼の証しも「わたしのペンテコステ」と語っておられました。様々な試練や悲しみを通って、神を知り、信仰の確信が来るのですね。

わたしのペンテコステ

わたしが信仰に導かれたのは、中学の恩師、クリスチャンの渡邊正夫先生の体当たりの愛のお蔭でした。13歳から主イエス様を信じる思いが芽生えました。高校生のころは聖書と共に倉田百三の「愛と認識との出発」や「月刊キリスト」「信徒の友」や内村鑑三など読んでいました。上京してからは、関口のカテドラルとか、大田区千鳥町の町内会事務所での開拓伝道の集会などにも行きました。でも、心の深いところではどうしても納得ゆかないことも多かったのです。19歳のころ、ある夏の礼拝で砕かれて、涙が流れて止まらなくなってしまいました。それから、数日後、圧倒的な神様に触れられる経験をしました。それらのいくつかの経験を経て、わたしは練馬に越してきたときに、練馬開進教会で洗礼を受けました。洗礼の夜の喜びは言葉では表すことのできないほどの体験でした。わたしはその夜、献身の祈りをささげました。しかし、70年の安保闘争とか自分個人の内的葛藤、疾風怒濤の4年間を過ぎ22歳で神学校に入りました。 心を神様に向け、聖書を読み、祈り始め、深い霊的な体験を頂き、少しづつ、天の世界に霊の目の開かれ、今の聖霊に満たされた生涯へと導かれました。多くの方々の祈りと神様の忍耐に感謝します。ハレルヤ    

3)、8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。(8節)

⇒ エルサレムからはじまり、地の果てまで、主の証人となる!

ここで言われているのは、豊かな愛と命の宣教の業は、「エルサレム、ユダ

ヤ、サマリヤの全土、さらに地の果てまで」という風に、地域が述べられています。最初はエルサレム。これは弟子たちのいたユダヤの首都、中心地です。そしてユダヤ。これはエルサレムを含む更に広い地方。そしてサマリヤ。これはその時まで弟子たちは、主イエス様の十字架の出来事を見ました。また北方に広がる遠い地域。最後は地の果てまでと、世界中、人間の住むところ、世界中が福音で満たされる、そのために証し人なのだ、と語られます。これは新宿西教会で言えば、「福音は、新宿の地で語られ、東京で、関東、本州、日本全土で、更に全世界に向けて、キリストの証し人として遣わされてゆく」と言うことになります。またそれは、「あなたの身近な両親や子供達、兄弟姉妹、身近なものたちに愛と救いの最高のものを証しし伝えなさい。そして更に、おじいちゃんおばあちゃん、孫や曾孫、甥や姪や会社の同僚、学校の同級生、身近な者たちに福音を伝えなさい。」愛する身近な人たちのために「時間と感動を共有し」、「あなたも家族も救われる」ために祈り労すると言うのです。

昨年の早天祈祷会で、ルカ11章を学び天の父はわたしたちに「最も良い物=聖霊を与える」とあり、ある方が内村鑑三の「聖霊を受けし時の感覚」という文章を読んでくださいました。あの内村の原動力も聖霊の助けだった!

「聖霊を受けし時の感はこれである。すなわちこんな良いものは全世界にない。これさえあれば余はなんにもいらない。金はもちろん、位も名誉もなんにもいらない。家庭もいらない(もし神の聖意ならば)。なんにもいらない。成功もほしくない(もし神の聖意ならば)。伝道に従事できなくともよい(もし神の聖意ならば)。なんにもいらない。成功もほしくない(もし神の聖意ならば)。伝道に従事できなくともよい(もし神の聖意ならば)。なんにもいらない。ただこれ(聖霊)を永久にもっておりたい。・・・これである。しかり、これである。これがキリスト教が人類に与えんとする最大の賜物である・・。」      1906年9月「聖書之研究」より

ある集会で、韓国のエバンジェリストの話を聞きました。教会にすばらしいリバイバル(霊的復興)が起こるためには、ひとつの教会に《5人の聖霊の器・信仰に燃えた人》が必要との事でした。5人の聖霊に主権を明け渡し、祈りに献身し、聖書信仰に立って歩む聖霊の人がいると、その教会は必ずリバイバルが起こると世界中を見て来て体験したと言うのです。チャレンジを受けました。聖霊と信仰に満たされた器となって、日本中に福音を満たしましょう!【祈り】 主よ、今年、すばらしい聖句を与えてくださり、感謝します。あなたの霊=聖霊様に満たされて、歩むことを得させてください。そして、霊的な力を与え、御言葉と祈りによって、あなたの十字架と復活の証人としてください。われらの愛する家族親族、身近な愛する方々に証ししながら、地の果てに至るまでの証し人としてください。新宿西教会に、また教会の兄弟姉妹の一人一人を、信仰と愛と命に満たしてください。主の御名によって。アーメン 

2024年3月31日(日)新宿西教会イースター礼拝説教「安かれ」ヨハネ福音者20:19~29 深谷美歌子牧師

 

 

イースターおめでとうございます!

教会の暦には、いくつかの記念すべき祝日がありますが、その中でもイースターは最も大事なすばらしい記念日です。この日の恵みを今日、皆様と共に頂き、立ち上がる時とされますように。

本日は復活の主に出会った弟子たちのこと。

一回目、そこに居合わせなかった弟子トマスが生かされた記事から学びます。

【聖書箇所の概観】

19-20節 弟子達に顕現されたイエス様が「安かれ」と語りかけられたこと。

21-23節 弟子達に傷を見せて証明し「安かれ、わたしが父から遣わされたようにあなた方を遣わす。」と語られたこと。

24-29節 トマスに特に臨まれ、トマスが確信を持つに至ったこと。

【メッセージ・ポイント】

1)恐れから平安へ

19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。

 この日の朝は、女たちが墓に行き、復活の主に出会っています。その報告も聞いています。ですが、それは信じられない出来事だったのでしょう。彼らは、ユダヤ人を恐れて戸をしめていました。

 イエス様に従って来た弟子達は、主が十字架に附けられるとは思ってもいない出来事でした。何度もイエス様が十字架と復活を語っていても、エルサレムに上っていくときも、ぜんぜん解っていませんでした。マタイ20:20にゼベダイの息子の母が「王座におつきになる時、二人の息子を右と左につけてください」と願い出ています。他の弟子達もこの行為を聞いて、憤慨したとあり、大同小異だったことが解ります。ことにエルサレム入場の時は、子供も大人も棕櫚の葉を振ったり上着を道に敷いたりして、王様を迎える歓迎ぶりでした。弟子達は鼻高々でした。ところが一転してイエス様は十字架に付いて死んでしまわれたのでした。それで、従って来た弟子達は、今度は自分たちが主と同じ十字架に附けられるかもしれない、との恐れに捕らわれたのでしょう。息をひそめるようにして戸を閉めた部屋に集まっていました。

 今もこの世界には恐れが満ちています。地球温暖化、それに伴う火災や豪雨による災害、大型台風、いつ起こるとも知れない東海巨大地震、津波。能登の比ではありませんね。戦争、飢餓、家庭崩壊、それらを見ないようにして、今を楽しむとしても、経済や健康といったどうしようもないことが起こります。

 弟子達の恐れの中にイエス様が入って来て「安かれ」と言われたのでした。他の訳では「平和があるように」です。これは、14:27でわたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。と語られたことが成就したできごとでした。信仰者にも同じように恐れが臨みますが、その中に「安かれ」とイエス様が立たれたのでした。

  イエス様がもたらされた「安かれ」は、世の不安、恐れすべてを越えるものです。弟子達もイエス様に出会い、この「平安」を頂きました。

 婦人会連合の機関誌「教会婦人」の冒頭説教に栁沼赦羊子(さよこ)先生が、東日本大震災のその後のことを書いておらます。地域での活動、寄り添いもしていますが、「本当の慰めは、神を仰ぎ安心を得ることです。神以外に本当の慰めをあたえることはできません」。と書かれています。逆に言うとイエス様はどのような恐れに囲まれようとも、そこに平安をもたらすことがおできになるのです。主を見上げましょう。

わたしも長い事、自分(この世の価値)に捕らわれていました。伝道も性格が良くて頭が良い人が用いられるのではないか、などです。しかし、無条件で愛されていること、赦されている事、全てご存知の神様が共いて、ことをなさるのは神様、と気付かされた時、平安と喜びに満たされました。

2)聖霊を受けよ

21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。

22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。

 復活のイエス様は「安かれ」と語られた後すぐに父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわすと語られました。その後すぐに「聖霊を受けよ」。と語られました。聖霊が求めて集まっていた全ての人に注がれたのは、使徒行伝の2章ですね。あの時から、弟子達は喜びにあふれて、隠れていた部屋の窓を開け放ち、使2:16 そうではなく、これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。すなわち、17 『神がこう仰せになる。終りの時には、/わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、/若者たちは幻を見、/老人たちは夢を見るであろう。18 その時には、わたしの男女の僕たちにも/わたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう。とある、このことですと語りだしたのでした。聖霊様が心に来てくださったとき、イエス様のことを大胆に語りはじめたのでした。

イエス様の平安は、聖霊様を心の王座に迎えるところから来ます。その喜びに満たされる時、「遣わす」と言われなくても語り始めるでしょう。

3)信じないトマス 

  25 ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。

 26 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。27 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。  25-27節

復活の最初の日曜日、トマスは皆と一緒にいませんでした。弟子たちにイエス様の顕現があったことは、大ニュースでした。「私たちは主を見た。」と勢い込んでトマスに語ったにちがいありません。「言う」と訳された言葉は、「繰り返して言い続ける」という表現だそうです。しかし聞いた段階ではトマスは信じられませんでした。そのことを「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言葉に出しました。正直であったのでしょう。11章16節では、ラザロが死にそうで、そこに「行く」と主が言われたとき、他の弟子たちは「殺されそうになったところにまたいくのですか?」と反対しました。しかしトマスは「私たちも行って、一緒に死のうではないか」と言っています。きっとその時も、真直ぐな気持だったのでしょう。自分の気持ちをごまかさない、このトマスの発言は、現¥代に生きる私たちのためにも、復活のできごとが、事実はどうだったのかを知る手がかりとなるものです。ただ鵜呑みで信ずるのでなく、疑問は素直に表し、何が真実かを探求したトマスの発言は、後代の私達に確かさを与えてくれる手がかりになりました。

疑問は課題として持ちつつも、真実を求め続けてください。

4)見ないで信じて知った幸い  

28 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。 29 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。 29節

一週間後、トマスもいるときに、主は現れました。トマスは出会った弟子たちの言葉を疑いながらも、一緒にいたことが解ります。『疑問は課題として持ちつつも、求め続けてください。』と先に言いました。すぐに離れてしまわないでトマスを引き止めたのは、何度も語る弟子たちの確信に満ちた証言でした。

真実を求めていたトマスに、主が出会ってくださったのでした。28節にはトマスの信仰告白が記されています。彼はイエス様が現れ、彼の前に立たれたときに、その手の傷と脇の傷を見せて、「見なさい、触ってごらんなさい」との主の迫りを受けました。疑いようもない復活の主に出会い、臨在の前に膝まづき「わが主よ、わが神よ」と告白しました。

トマスはその時代に生きていて、主が直接出会ってくださいました。その後の時代の人々は、出会った人々の証言を聞いて信じるのです。「見ないで信じる人は幸い」と主は言われました。今日までの歴史を生きた人々は、マグダラのマリアが出会った記事、弟子達に聖霊様が来られた記事、トマスの出会いに至るまでの記事、それらを頼りに信じてきました。

ヨハネによる福音書が書かれた目的は、31節にあります。「これらのことが書かれたのは、あなたがたがイエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」 主と行動を共にしたヨハネがもう高齢になり、他の弟子たちも召されるようになってきた時、証言者の言葉を書き留めて、伝える必要を覚えて、書き記したにちがいありません。

こうして、ヨハネ福音書は1:1言(キリスト)は神であった」という聖句から説き起こしましたが、今この福音書を閉じるのにあたって「主イエスこそわが主、わが神!」との確信の聖句で終わるのです。

トマスが生ける主と出会って、生きはじめたように、聞くことから始まった私達の信仰も、人格的応答をもって聖霊様を心に迎えて歩み始めるとき「今主は生きておられる。わが内に居られる」と証言するものとされるでしょう。怒涛のような恐れに囲まれても主が立っておられる平安に生かされましょう!

祈り 恐れに囲まれた弟子達の真ん中に立ち「安かれ」「聖霊を受けよ」と語りかけてくださった、復活の主の出来事を聞きました。今も心を開き聖霊様を迎えるものに平安と喜びの命に生かされることを感謝いたします。この命を証言を聞いて頂く方が周りから起こされましょうに。主の御名によって。アーメン

2024年3月24日(日)新宿西教会主日礼拝説教「主イエスを心にお迎えしよう」マタイ福音者21:1~11 深谷春男牧師

 今日は教会の暦では「棕櫚の主日」という日になります。今日から始まる一週間を受難週と呼びます。3月28日が洗足の木曜日、29日が受難日、つまり、主イエスが十字架にかかられた聖金曜日となります。そして、31日の日曜日が復活の日を記念するイースターとなります。この受難週は、特に主イエスの十字架の苦難を偲び、その十字架の意味を深く心にとどめ、一足一足主イエスに従って歩みたいものです。今とくにこの受難週祈祷会は、毎日持たれ、しかも役員の愛兄姉による奨励があることで、楽しみですね。週報のプログラムを参照に毎朝10:30~11:30です。木曜日は午後5:00~6:00になりますが、皆様もぜひ、この祈祷会に出席され、示された受難週の聖書記事を読みながら、主イエス様の愛と救いを深く深く心に刻む時と致しましょう。

そのような意味で、棕櫚の主日の今日は、マタイ福音書から、主イエスのエルサレム入場の記事を共にお読みしたいと思います。

 

【今日の聖書の概説】

受難週の日曜日、主イエス様はロバの子に乗ってエルサレムに入城されました。それまでは、パレスチナ北方のガリラヤ湖の近辺で宣教活動をしてこられた主イエスが、今や、南方にある、神の都エルサレムへと入城されたのでした。人々のホザナの歓声が轟く中で、小さな子ロバに乗って入城されました。その行いは「王権主張」を意味しておりました。旧約聖書ゼカリヤ書9章9節にしたがってろばの子に乗って来られました。そこにはこのように記されています。

「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、

柔和な方で、ろばに乗り、

荷を負うろばの子、子ろばに乗って。」

それは、柔和な、平和の王としての入城でした。群衆は感激して、棕櫚の枝を取り、「ホザナ」の歓声で、主イエスを迎えました。それを記念して、今日は「棕櫚の聖日」と呼ばれます。しかし、この金曜日には、主は十字架にかかられ、わたしどもの罪の身代わりとなって死なれ、3日目に復活されたました。

【メッセージのポイント】

1)4 こうしたのは、預言者によって言われたことが、成就するためである。

5 すなわち、「シオンの娘に告げよ、見よ、あなたの王がおいでになる、柔和なおかたで、ろばに乗って、くびきを負うろばの子に乗って」。(4、5節)。

  ⇒ 主イエスこそあなたの王!  

 このエルサレム入城の主題は、「主イエスの王権主張である」と言われます。神学生になったころ、このエルサレム入城の所を学んでいた時に、神学校の先生が「これはイエスさまの王権主張です」と語られた言葉が、不思議に心に残っています。「王権主張」などという言葉はそれまで聞いたことがなかったからかもしれません。ここで主イエス様は、王であることを主張されました。でも、弟子たちも驚いたのではないでしょうか?ご自分がメシアであることを人々に話してはならないと口止めされていた主イエス様が今は、王であることを主張されて、エルサレム、神の都に入って行かれるのです。これはいったいどういうことでしょうか?しかし、そこには深い、主のお考えがあったのです。 主イエス様は「あなたの王」です。神の国の王です。また、この世界のまことの王でもあるのです。この主イエスのエルサレム入城の背景はゼカリヤ書9章9節です。そこにはこう記されます。

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。

見よ、あなたの王が来る。

彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、

ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って」。

  主イエスは「あなたの王」なのです。

そしてまた、主イエスは「平和の王」です。主は軍馬ではなくろばに乗られるのです。軍事的な指導者としてではなく、和解の使者として来たもう。和解そのものとして来られた方です。神と人との根本的な和解者として来られます。彼はそのため十字架にまでかかってわれらの罪を負われました。ちょうど先週の礼拝で西川神学生によって、ロマ3:21~26を学びましたが、主イエスは、苦難の僕となり、わたしどもの代わりに十字架を負い、わたしどもが義とされるために、彼は死にわたされたのでした。彼は王の王です。そのお方がわれらのために命を投げ出されたのです。

主イエス様を王として心に迎え入れるとき、わたしたちは、神と和解するのです。すなわち自分の内的な罪を主に告白し、罪を赦していただくからです。神と和解するとき、人は本来の自分に帰るのです。そして、赦された自分を知るときに、他者との関係も回復するのです。

今日、主イエスを心に、わたしたちの人生の中心に、王としてお迎えしましょう。「平和の王」「和解の王」「救いの君」として迎えるのです。ここからわたしたちの新しい人生が始まります。わたしたちの心に、平安と解放の喜びの花が、信仰の花が咲きます。永遠の命の光が差し込むのです。先週、西川神学生が説教で、「あなたの義は天にあり」とのジョン・バンヤンの言葉を紹介されました。これはすばらしい言葉です。天において主イエスの十字架は建てあげられた!地上の罪も死も一切を超え、天にて救い定まれり!ハレルヤ!

2)6 弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりにし、7 ろばと子ろばとを引いてきた。そしてその上に自分たちの上着をかけると、イエスはそれにお乗りになった。(6、7節)

  ⇒ 主イエスはいと小さな者を選ばれる!        

 この箇所には主イエスのご性格がよく表れています。主イエスはご自分が王としてこの世界に来られることを明確に示すために、立派な名馬(赤兎馬のような)に、またがってご入城することもできたのでした。多くの人々はむしろそれを望んだのでしょう。しかし、何と主は「不恰好なろばに乗って」入ってこられたのであります。敵対者であるローマの兵隊たちはその滑稽さをあざ笑ったに相違ありません。「ろばにまたがるドンキホーテ、イスラエルの王!」と。しかし主は「世の無学な者を選び、世の無に等しい者、身分の卑しい者や、見下げられている者を選ばれた」(Ⅰコリ1:26)のでした。

人間は皆、弱さを持っています。ハワイで伝道している中野雄一郎先生に前の教会に何度か説教に来ていただきました。その時語られた説教の中で「傷なきは人材にあらず」(荻生徂徠)という言葉が語られました。これは深い言葉だとおもいます。伝道者パウロも「傷」を持っていました。彼は自分の「肉体のとげ」を取ってほしいと三度、主に祈ったと言います。そのとげが何であるかはわたしたちにはわかりません。目の病気であったとか、過去のクリスチャンを迫害した罪責感であるとか、癲癇であったとか、いろいろな説がありますが、はっきりは分かりません。

イスラエルの救国の王ダビデも、「自分はもっとも小さなものですが、主があえて選んでくださった」と感謝をささげています(Ⅱサム7章)。勇者ギデオンももっとも小さな自分を選んでくださったと告白しています。主は小さなもの、なきに等しいものをあえて選ばれるのです。「誇る者は主を誇れ!」

 昔、「みんなで歌おう」という名称だったでしょうか、1970年のころに日本風のゴスペルがはやった事がありました。その讃美集の中に、「ロバの子なんだかさびしい」という讃美がありました。スポーツ大会の後にギターに合わせて皆で歌いました。

 ロバの子なんだかさびしい・・・♪

 この頃 何だかかなしい・・・・♪

 お父さんロバは大きな荷物を背負って働いている。

 ろばの子の僕は ちいさな麦束一個、 何にもできない ちいろば・・・  

しかし、あるとき、イエス様が近寄ってきて、

わたしを運んで欲しいと言った。

ロバの子は驚いて、主イエス様をお乗せした。

ホザナの歓声とどろき 人々イエス様迎える  ♪

がんばれロバの子 イエス様 揺れてる    ♪

がんばれロバの子 よろよろするな・・・  ♪

当時、駆け出しの伝道師だったわたしは、讃美しながら、涙が流れてきたことを思い出します。わたし達は主イエス様をお乗せするロバの子なんですね。

3)3 もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう」。(3節)。

  ⇒ 「主がお入り用なのです」と言いなさい!

 ろばの子を解いて、主が用いたもう時の合い言葉は「主がお入り用なのです」でした。こういえば持ち主も貸してくれるという事になっていました。その通りになったと記されています。主は救いをこの地上にもたらすために来られました。そしてあなたが、救われました。更に、主はこの世界に福音を満たそうとしておられます。「主がお入り用」との言葉は今、主が語っておられるみことばです。主はあなたを最高に用いたいのです。「あなたを!」です。そして主は言われる、「主がお入り用なのです」。

 人生の最終的な意味をわたしたちはここに見ることができます。神様はこの地上に救いをもたらすために、わたしたちに共働の恵みを与えてくださったのです。主は一人で十字架におかかりになって救いを成就されました。しかし、わたしたちの働く場をも提供していてくださり、「わたしは渇く!」と十字架上で語られた方なのです。大阪西野田教会の高橋順先生は、この言葉で献身を決意されました。21世紀、日本で、世界で霊的な枯渇現象が起きています。主はあなたの献身を待っておられ、主のみ身体なる教会を建て上げるのに「主があなたをお入り用」なのです。

【 祈り 】 天の父なる御神。受難週のこの朝、主イエス様のエルサレム入城の聖書箇所を共に読む事が出来て感謝します。あなたこそ「王の王、主の主」です。しかし、あなたが「いと小さなもの(チイロバ)」を選び、救いの業に参与させてくださいます。「主がお入り用」とのお声がかかった時には喜んであなたにこの身をお捧げします。あなたの御用のために用いてください。十字架の贖いの血潮のゆえに、功のないままに救い、聖霊なる神様の住まいとし、信仰と愛を満たして用いて下さい。この受難週、豊かな日々として下さい。わたしどもの贖い主、主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

の僕は ちいさな麦束一個、 何にもできない ちいろば・・・

2024年3月17日(日)新宿西教会主日礼拝説教「イエスキリストの福音を信じるだけで救われる」ローマ人への手紙3:21~26西川穂神学生

 本日の聖書箇所は、ローマ人への手紙3章21~26節までを中心としています。この聖書箇所から、二つのポイントでメッセージをいたします。第一に、「イエス・キリストの福音の恵み」と第二に、「イエス・キリストの復活の恵み」という二つです。本日は、イエス様を信じて守られてきた感謝とイエス様を信じるだけで、本当に罪が赦されて救われて、感謝の生活を送り、天国に行ける素晴らしい世界があるという内容を、私の救いと両親の救いとの証を交えてメッセージをいたします。神様は、本当に真実なお方です。

【聖書箇所の概略】

23節 全ての人は罪人である。

24節 神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。

25節 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物

とされた。それは神の義を示すためであった。

1)第一に、イエス・キリストの福音の恵みです。            

ローマ人への手紙3章24節には、「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」とございます。

イエス様が十字架で私の身代りに命をかけて死んで、三日目に復活してくださった、と信じる時、神様は救ってくださるのです。神様の愛をわかりやすく教えている聖書箇所が、ローマ人への手紙5章8節にございます。「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」。ここで、愛の神様が明らかにされております。私たちは、神様に敵対する罪人なのに、神様の憐れみで、キリストが十字架につけられることによって、神様と和解させていただいたのです。

神様は、ただ信じる者を救ってくださるのです。たとえ、どんな問題をもっていても、何か持っていなくても、信じる者を救うのです。この聖書には、どんな状況でも、どんなに小さくても、単純に信じる者を救う力がございます。

イエス様が十字架で私たちの身代りに命をかけてくださって死んで、三日目に復活してくださった、と信じる時、神様は、私たちの罪を赦してくださいます。

神様は、イエス様を十字架につけ、イエス様を通し、御自分が神様であることをあらわされ、イエス様を通して私たちをご覧になっております。ただ恵みにより、イエス・キリストにある贖いにより、イエス・キリストの福音を信じて救われた、私と両親の証をしたいと思います。

私の父は、植民地時代の台北市生まれで、早稲田大学で国際経済学を教えていました。ゼミ生には、台湾人の留学生が何人かいました。私の父は、スパルタ教育のように厳しかったので、私は、思いやり、いたわり、愛を分かち合う家庭になりたい、と切に思っていました。

1999年、父は、喉頭がんで死を覚悟する生活を病院で送っておりました。その頃、私は、父の教え子の台湾人の女性によって教会に導かれました。その後、2000年1月に私は、洗礼を受ける恵みにあずかりました。私の洗礼式には、その台湾人の女性と宣教師、そして、喉頭がんから癒された父が出席してくれました。父は手を挙げて神様を賛美していたので、私は、心から主イエス様への感謝と喜びで一杯でした。世界最高の幸せの日でした。私は救われて、その後、一歩ずつ、神学校入学へと導かれていきましたが、父と母が救われていませんでした。ですが、福音の種はまかれて、周囲の方がたに祈られてきましたので、2015年、家族が救われるという祈りの課題に愛と真実な神様が応えてくださいました。

2015年の夏ですが、私と父との間で、私も悪かったのですが、行き違いがあって、父が、私の大切なものを処分したということがありましたので、私は、悲しい思いをしました。

その時、父がイエス様を信じるように、神様に執り成しの祈りをしました。不思議な事ですが、神様が祈りに応えて下さり、翌日、父と行ったレストランで和解の時が与えられたのです。私は、尊敬と信頼を言葉で言い表しました。今まで育ててもらったことや父の配慮に対して、真心を持って父に感謝を言い表したのです。

その直後、イエス様は、私に、父へ伝道する機会を与えて下さいました。コリント人への第一の手紙15章3、4節の、「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと」、という御言葉を私の後について、父も信仰告白して祈り、イエス様を信じました。私が、父に、「イエス様を信じる?」と尋ねると、「もちろん、信じるよ」、と父が笑顔で 答えました。その時に、父なる神様から伝道の書3章11節の、「神様のなされることは皆その時にかなって美しい。」という御言葉が私の心の奥深くに届きました。

父が言った、「もちろん、イエス様を信じるよ。」という言葉を神様が聞いた証拠でもありました。最高の時でした。ただ父は、イエス様の恵みによって救われたのです。イエス様が、私の罪のために十字架に架かって死んで下さり、三日目に死を打ち破り甦ってくださった、それにより、私たち一人ひとりに永遠の命を与えてくださった」と父はただ信じたのでした。イエス様を信じて祝福されたことにより、父と母に対する関係も祝福されていったのです。その後に、母もイエス様を信じて救われました。

2)第二に、イエス・キリストの復活の恵みです。

イエス様が命を与えたので(ローマ3:25)、私達はその復活の命に生きる喜びを味わうようになります(ローマ5:2)。ローマ人への手紙3章25節には、「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。」とございます。

ここに、私たちの信仰と感謝のみなもとである、イエス・キリストが描かれています。

イエス様は、父なる神様からも見捨てられ、無限大の恐怖を味わい、「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。」(詩篇22:1)と、私たちの為にお祈りされました。これから、よくなるから嘆いて、ハレルヤといって解決するのも神様の大きな祝福ですが、神様に嘆いて祈ることができるということ自体、神様への深い信仰のあらわれであり、大きな恵みであるといえます。嘆き、涙、呻き、痛み、どうしてですか、という神様に向かって祈る、そのような嘆きの祈りが、深い所ですべてイエス様の十字架につながっているというのは、なんと幸いなことでしょう。私たちは、暗闇に沈むような時でも、イエス様は、私たちの苦しみ、嘆き、重荷を全て背負って、イエス様のみ跡のあとへとついていくようにせてくださるのです。

そして、幸いなことは、私たちの大きな希望は、私たちの死後、天国に住むことがゆるされているという約束です。父がイエス様を信じた、2015年の大晦日、久しぶりに家族で夕食を共にして、その時、父が 笑顔で手を差し伸べて、「ありがとう」と言ってくれました。本当にあたたかい喜びが胸をよぎりました。

2016年に、クリスマスの特別集会を持った時ですが、ある説教者が伝道メッセージをされた最後に、招きをして下さいました。「神様に自分を捧げる人はいませんか」、と説教者は促して、私の父は招きに答え、そっと手を挙げて、再びイエス様に従う決心をしました。うしろから見ていましたが、私はとても感動しました。

2018年10月2日、父は、スペインで学会のような所に仕事で行ったのですが、そのスペインで父が急死したという連絡が私にありました。

その後、私は、スペインに渡り、スペインの遺体安置場で父の遺体を見て、私は、父が 平安そのものの顔しているのを見ました。イエス・キリストの福音によって救われて、本当に、父は、天のお父様の所にいったのであると実感しました。

今まで見たこのない、父のやすらかな顔は、父の救われた大きな証であり、今でも、私にとっては、大きな慰めとして受け止めております。

スペインの遺体安置場で、父の遺体を見ていた私は、父なる神様に次の様に祈りました。「イエス様、私にとって、父は、本当に、最高の父であったことを天国にいる、父に伝えてほしい」。と涙ながらに祈り、私にとって、最高の父を与えてくださった、愛なる神様に感謝を捧げました。父なる神様に祈った後、次のような希望の御言葉が何度も聴こえて私を支えました。それは、「あなたはきょう、わたしと共にパラダイスにいます」 。言い換えるならば、「私の父は、きょう、イエス様と共にパラダイスにいます」。

父は、今や天国で、イエス様にしっかりと 受け止められているのが体験できて、涙が溢れて、愛の神様に感謝で一杯でした。

父が死ぬ前の僅か3年間でしたが、イエス様の十字架と復活によって父が救われ、母もイエス様を信じて、お互いが思いやりを持ち、そして、教会で礼拝を捧げる中で、父、母、私との間で感謝の実を結ぶという、真実なイエス様が共に生きている体験をしました。

先週、母と出会いました。金沢アシュラムのメンバーたちと、母のいる部屋で一緒に祈り合い、讃美歌『わが身の望みは』を賛美して、心を合わせてイエス様に母を委ねて、将来、イエス様が母をしっかりと受け止めてくださることを信じてお祈りいたしました。

信仰によって義とされるというのは、どんな状況であっても希望をもって生きていけるようになるということです。死の陰の谷を行くときも、最後は必ずイエス様に受け止めていただける、との約束だからです。私たちも、いつかこの体が死ぬ時を迎えます。しかし、その死は、もはや死んでそれで終わりではないのです。イエス様は死から復活への道を備えております。それがイエス・キリストを信じる道です。

イエス・キリストを信じると、生きるにも死ぬにも、わたしたちは、真実な救い主、イエス・キリストのものであるのです。愛する家族、友人が天国に呼ばれた時には、生きている時間だけではなく、死ぬにもイエス・キリストのものだ、本当にそうだ、と実感することができるのです。生きることと死ぬこと、その境界線をも超えてくださる、主イエス・キリストの大きな慰めの中に、今、私たちはこうして生きているのです。イエス様、そのイエス様を信じるだけで、本当に罪が赦されて、父なる神様に感謝をする生活を送り、天国に行ける、その唯一の希望である、イエス様を一人でも多くの人に、共にこれから宣べ伝えていきましょう。

【祈り】 父なる神様、生きるにも死ぬにも、私達は真実な救い主イエス・キリストのものである、本当にそうだと神様に感謝できる幸いを心より感謝を申し上げます。イエス様の十字架と復活の救い、希望を一人でも多くの人に宣べ伝えることができる様に導いて下さい。主イエス様の尊い御名によって祈ります。アーメン