新宿西聖書研究祈祷会奨励「人に従うか、神に従うか」 マタイ福音書16:21~28   深谷美歌子牧師

8月11日(木)聖研祈祷会奨励「人に従うか、神に従うか」

聖書箇所:マタイ福音書16:21~28 

説教者:深谷美歌子牧師

 

 わたしたちは16節で、ペテロが「あなたこそ生ける神の子キリストです」という信仰告白したことを見てきました。「この信仰告白の上に、教会を建てる」とイエス様が喜ばれました。

 今日の個所からは、イエス様が新たな方向を指し示し示されたことが記されています。イエス様の宣教の第二段階に入ったと見ることができます。

リストです」という信仰告白がされた事を見てきました。「この信仰告白の上に、教会を建てる」とイエス様が喜ばれました。

 今日の個所からは、イエス様が新たな方向を指し示し示されたことが記されています。イエス様の宣教の第二段階に入ったと見ることができます。

【本日の個所の区分】

21-23節 エルサレムで殺されると語り、ペテロがいさめ「サタン引き下がれ」としかられる。

24-26節 イエス様について来たいものは、自分の十字架を負って従え。

27-28節 やがて再臨する。御国が来るまで死を見ない者がいる。

 

【メッセージのポイント】

1)サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。

この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。22 すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。23 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。    21-23節

  ペテロの信仰告白を聞いたイエス様は、この時からと書かれてあり、確かに新しい段階に入ったことが、この言葉でわかります。そして、エルサレムに向かっていくことを語り始めました。その内容は、「長老、祭司長、律法学者から多くの苦しみを受け殺され、三日目によみがえる」ということでした。信仰告白をしたペテロでしたが、このイエス様の言葉は、受けいれ難いものでした。ユダヤでは、木にかけられるというのは、奴隷とか、呪われた者でした。ペテロはメシヤと信じましたが、ユダヤ人の王となってこの国を建てるお方と信じたのでした。「そんなことがあるはずはございません。」という言葉はイエス様にとってもそれは辛い定めでした。「べきこと」という言葉は、「ねばならない」という意味の言葉です。十字架の死は、この世界で、考えられる最高の残酷な死でした。呪われた者、しかも飢えで死ぬ、気が変になるほどの苦しみでした。これが父なる神様との人間を救うための定めでした。この時イエス様は、荒野の誘惑を退けられた時のように、サタンの誘惑を受けられたのでした。けれども「サタンよ、引きさがれ」は「引っ込んでろサタン!」というほど強い言葉で、退けました。この誘惑にも勝利されたのでした。

2)人に従うか神に従うか

24 それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。25 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。26 たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。24-26節

 ペテロはィエス様に「後ろに回れ」としかられました。弟子として従おうと思う者は、「自分を捨て、自分の十字架を負うて従ってきなさい」と語られています。この時は全ての弟子達、民衆も、メシヤは、現実のユダヤ人の王として来られると思っていました。しかし、神様の思いは、全人類の救いでした。そして、イエス様に従う者は、その後に従うことでした。ペテロも人間の世界での価値ではなく、主と同じ方向を向くことが求められたのでした。

「自分の十字架を負うて」とは、何を指しているのでしょうか?禁欲的な生活と考える人もいます。イエス様以上の十字架は、誰も負えません。ご自分の民から排斥される苦しみもありましたが、父なる神様からも罪として、見捨てられるものでした。しかしこれ以外に全人類を救う道はなかったのです。イエス様は、誘惑を受けながらー誘惑はゲッセマネの園で祈られた時もありました。37 そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。

 38 そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。

 39 そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。26:37―39弟子達にも、誘惑に陥らないように目をさましていなさい。と要請されましたが、共に祈り切れなかった弟子達でした。 

お独りで、十字架の道を選び取ってくださったのでした。重ねて言いますが、イエス様の十字架は誰も負えません。でも、イエス様に赦していただいたものは、イエス様に聞いて、従って生きる事が望まれています。そして、この自分を捨てる、と十字架を負うと言うのは、不定過去形のことばで、ある時期の明確な決断による体験を現す内容です。この生き方を選び取ったということです。神様に王座を明け渡す決断ですね。めいめいの置かれた場所は違いますが、そこで、神様に聞いて導かれた所に進むことです。時には自分の時間を割いて、奉仕にあたるかもしれません。救援活動に参加することかもしれません。財を捧げて教会を立ち上げることかもしれません。よく母親が言ったことは、「二つの道があったら狭い方の道を選びなさいって救われた教会の先生に言われた」でした。

ルカには、日々自分の十字架を取ってとあります。ルカ9:23

この選択は、新しい命を得た結果です。永遠の命のすばらしさを味わう日々でありますように。

全世界を儲けても自分の命を損するとは、この世の全ての栄誉を得たとしても、永遠の命を得ていなければ無に帰すということです。

 

3)人の子が御国の力をもって来る

27 人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。

28 よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。

 この個所は、イエス様の再臨の記事で、この聖書が記された当時は、クリスチャンは御再臨がすぐにも来ると信じて、迫害も耐え忍んだ希望であったでしょう。しかし、死を味わわないものがここに立っている者の中にいる。というのは、そういう意味では、実現しませんでした。

 今、この記事を読み、確かに言えることは、弟子達が聖霊を待ち望んでいた時に、10日目に聖霊が注がれたという事実です。弟子達全員が生きている時でした。その時弟子達はイエス様がメシヤであったこと、この方による以外に人間の救いは無いことを大胆に語り、3000人もの人々が信じたのでした。そこに教会が生まれました。「あなたこそ生ける神の子キリストです」という信仰告白する者が起こされ、それぞれの置かれた所で、主を証ししました。主もまた共に働いて下さってきました。

 翻っていま私達も、「あなたこそ生ける神の子キリストです」と自分の罪の身代わりとして死を受け、死を打ち破って復活された主を信じ救われました。そして、聖霊様により頼む時、共にいて下さっていることを経験してきました。イエス様も、神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。21 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。ルカ17:20、21とおしゃっておられます。その意味では、すでにこの世界に神の国が来ていると言えましょう。互いに愛し合い天国の前味を味わう新宿西教会を立ち上げてまいりましょう。

 それにしても、世の終わりにはこのような事が起こる。と言われた出来事が、地球規模で起っています。目を覚ましていましょう。証して愛する家族、同胞が主の命をいただけますように。

祈り

 父なる神様、イエス様は、ただ一人で十字架の道を選び取ってくださいました。私達も、主の十字架の後に、自分のちいさな十字架を選び取って、この命の恵みを証しする者としてください。

 御名によってアーメン