新宿西教会主日礼拝説教「平和の道」ローマ人への手紙3:9~18   深谷春男牧師

8月14日(日)主日礼拝説教「平和の道」

聖書:ローマ人への手紙3:9~18 ロマ書講解⑱ 

説教者:深谷春男牧師

 明日は、8月15日、第77回目の終戦記念日を迎えます。ウクライナ戦争や香港、台湾、ミャンマー、アフガンなど、きな臭いニュースを視聴しつつ、「平和の道」はどこにあるのか?と思わせられる毎日です。

以前、国際福音伝道会の委員会の冒頭のディボーションの時に、鈴木留蔵国際会長が祈祷と説教をされました。その祈りの中で、「主の御宝血をあがめて感謝します。あなたの十字架の血潮でわたしどもの罪をあがない、天国の民としてくださったことを感謝します。このことの証しのためにわたしどもに伝道の使命を与えてくださって本当に感謝します。・・・」 十字架の血潮の贖いをまず感謝する姿に感動しました。 

【聖書箇所の概略と構造】

ロマ書3章の構造は以下の通り3部分に分割できます。

Ⅰ.1- 8節 神の真実とユダヤ人の罪。(問答形式)。

Ⅱ.9-20節 義人はいない、一人もいない。

 10-12節 人間の本性における腐敗性(本性に関し)神との関係の破れ

 13-14節 人間の言語における腐敗性(口に関し)人格の破れ   

 15-18節 人間の行為における腐敗性(足に関し)人間関係の破れ

 19-20節 律法は罪の自覚を生じさせるだけで、神の前に義とはしない。

Ⅲ.21-31節 神の救済の出現。信仰義認の宣言。1:17にある

 「義人は信仰によって生きる」の解特に特に21~26節は聖書の中心!    

 

【メッセージのポイント】

1)9 すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。

10 次のように書いてある、/「義人はいない、ひとりもいない。

11 悟りのある人はいない、/神を求める人はいない。

12 すべての人は迷い出て、/ことごとく無益なものになっている。

善を行う者はいない、/ひとりもいない。 (9~12節)

 ⇒ 全人類は罪の下にある!   

 パウロは、いよいよ、結論を下そうとしています。すなわち、1:18から、延々と続いてきた人間の罪の姿に対する描写に、ひとつの結論が下されます。異邦人も罪の中におり(1:18-31)、ユダヤ人も罪の中にいる(2:1-3:8)。そして、全人類が罪の中にいることを指摘します。

 3:9 では、「すると、どうなるのか。わたしたち(ユダヤ人)には何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。」と語っています。そして、10-18節で、パウロは、旧約聖書を引用して、「皆、罪の下にある」ということを証明しようとしています。

「皆、罪の下にある」という言葉は、印象深い言葉です。小林和夫師はこれを取り上げて罪に支配の中にあることをこのように語っています。

 「もとに」と言う言葉は「ヒュポ」と言う言葉で、英語でいう under の意味です。人間はギリシャ人もユダヤ人も罪の支配の下にあります。それはちょうどマタイ8章の百人隊長の言葉「8 ・・・主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。9 わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」。この、下にという言葉が同じ「ヒュポ」と言うギリシャ語です。人間は百人隊長の部下のように、罪の支配下にあるというのです。

罪の支配に身をゆだねると、全てが混乱に堕ちてしまうのです。

 

10節の「義人はいない、ひとりもいない」という言葉は、10-18節の総括的な内容を示しています。まず、ここでは「人間の本性における腐敗性」と言うことを考えてみましょう。この箇所の旧約聖書引用は詩篇14篇1-3節と53篇2-3節です。

詩14:1-3 1 愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。

彼らは腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない。

2 主は天から人の子らを見おろして、

賢い者、神をたずね求める者があるかないかを見られた。

3 彼らはみな迷い、みなひとしく腐れた。

善を行う者はない、ひとりもない。

詩53:2-3もほとんど同じ聖句。

これらをパウロは70人訳聖書を自由に引用しているようです。

10節の「義人はいない。ひとりもいない」はおそらく、詩篇14篇と共に、パウロは、ハバクク2:4「見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし、義人は信仰によって生きる。」という言葉を思い出して書いたものと思われます。このハバクク2:4は、ローマ1:17、ガラテヤ3:11で引用され、パウロの信仰義認の基礎となったものです。

11節 悟りのある人(スニオーン=道理を理解する人、究極的には神を知る人)はいない、神を求める人(エクゼートーン=熱心に神を探す人)はいない。

12節 すべての人は迷い出て(エクリノー=迷いでる、避ける、遠ざかる)、ことごとく無益な者(アクレイオー=ミルクが腐って役に立たなくなる、害になる、酸っぱくなる)となっている。

善を行う者はいない。ひとりもいない。

人間が神からはなれ、糸の切れた凧のように、まっさかさまに滅びに落ちてゆく姿を語っています。

 

2)13 彼らののどは、開いた墓であり、

彼らは、その舌で人を欺き、

彼らのくちびるには、まむしの毒があり、

14 彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。(13~14節)

⇒ 人間の言語における腐敗性を悟れ!

 パウロは人間の罪を指摘する時に、「のど、舌、唇、口」といった言語と関係のある部分を特に強調しました。関連の引用箇所は次の通り。

  詩 5:9 彼らの口には真実がなく、彼らの心には滅びがあり

     そののどは開いた墓、その舌はへつらいを言うのです。 

  詩140:3  彼らはへびのようにおのが舌を鋭くし

      そのくちびるの下にはまむしの毒があります。 

   詩 10:7  その口はのろいと、欺きと、しえたげとに満ち

       その舌の下には害毒と不正とがある。

 ここには人間の罪が口と深い関係があることが語られます。言葉は人を傷つけ、殺すこともできるのです。

13節 彼らののどは、開いた墓(=魂が死に、悪臭がする言葉)であり、

彼らはその舌で人を欺き、(=人をだまし、「欺く」言葉)

彼らのくちびるにはまむしの毒(かみつき、人を殺すマムシの毒)。

14 彼らの口はのろいと苦い言葉で満ち(人を呪い、苦い言葉)ている。  

聖書には罪と言葉の関係がよく語られます。

 

3)15 彼らの足は、血を流すのに速く、

  16 彼らの道には、破壊と悲惨とがある。

  17 そして、彼らは平和の道を知らない。

  18 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。(15~18節)

   ⇒ 人間の行為における腐敗性を知れ!

  ここの引用箇所は以下のようです。

 イザヤ59:7-8

  7 彼らの足は悪に走り、罪のない血を流すことに速い。

   彼らの思いは不義の思いであり、荒廃と滅亡とがその道にある。

  8 彼らは平和の道を知らず、その行く道には公平がない。

   彼らはその道を曲げた。すべてこれを歩む者は平和を知らない。

 詩 36:1 とがは悪しき者にむかい、その心のうちに言う。

   その目の前に神を恐れる恐れはない。

 ここには人間の罪が、その足と関係があると語られる。足は行為を意味する、そして足の踏むところを「道」と語ります。

 彼らの行動は、恐ろしい血で染んでいます。そして、「破壊と悲惨」と言う戦争がある。「平和の道」知らないと言われています。18節に「彼らの目には神への恐れがない」と人間の罪の本源を示しています。

 

 わたしたちは、終戦の記念の日として8月15日を迎えます。8月15日は1945年の太平洋戦争の敗戦記念日です。それと共に1549年は、九州の地で、日本の地で、初めて真の神への礼拝が献げられた日です。視点を変えれば1549年の出来事の方が、大きな意味を持つことでしょう。 

 わたしどもは人間の罪、そして自分自身の罪を深く知らねばなりません。それは我らの予想以上に深く、わたしどもを破壊の道に落としてしまうのです。神との関係を回復し、人間関係を修復するのは、主イエスの十字架の福音を受け入れ、罪の赦しを頂いて、神様との関係を修復して頂き、神の子供となるところから始めねばなりません。昔から、「神・罪・救い・信仰」と救いの四原則が語られてきました。

 神様との関係の修復が、新しい人生の始まりとなるのです。罪を赦されて神の子となり、聖霊に満たされて、神と人とを愛し、平安と喜びの中を歩む生涯です。真の平和の道を歩む、神の救いの証し人となりたいですね。

【祈祷】 

 全能の父なる神様。今日はロマ書の「全人類の罪」と言いうところを学びました。本性についての腐敗性、言葉においての腐敗性、行為における腐敗性についての聖書全体の言葉を聞きつつ、救われる前の自分の人生の悲惨さを示される思いです。救いを受けた後も、しばしば、古き人が顔を出してみじめな敗北をすることがあります。どうぞ、そのような時には、小さな破れのうちに修復していただき、恵みの中を歩ませて下さい。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン