説教「いのちの道」

2019年4月28日 主日礼拝
聖書箇所:使徒行伝2:25~36
説教:深谷美歌子牧師

 「命の水」計画というのをご存知でしょうか?2003年から6年の歳月をかけてアフガンの荒野に数十人の日本人と、60万のアフガンの人々の協力によって水道を引いたというDVDをいただきました。同じようなプロジェクトが日本でもありました。息子が京都にいますが、琵琶湖から、京都まで、京都の人々の水道をまかなっている疏水が教会の坂の上の方を流れています。京都の人と、滋賀の人が喧嘩をすると、「琵琶湖の水止めるぞ」が殺し文句だそうです。水は命にとってなくてならぬものです。ですが人間にとって更に最も大事なものがあります。それが「いのちの道」です。今日はそれを皆さんと共に考えて行きましょう。今日の聖書概観は以下の通りです。【聖書の概観】

25-28節  ヨエルの預言の成就の続きで、ダビデの詩第16篇の紹介。

29-31節  ダビデの詩が指し示していたものを他の詩篇110篇も引用して説明。

32-33節  私たちは、イエス様の復活、召天 、聖霊の授与の証人であるとの告白。

34-36節  天に上げられたイエス様こそ、キリストとして立てられた方との宣言。

【メッセージのポイント】  

1)詩篇16篇の背景

25 ダビデはイエスについてこう言っている、/『わたしは常に目の前に主を見た。主は、わたしが動かされないため、/わたしの右にいて下さるからである。26 それゆえ、わたしの心は楽しみ、わたしの舌はよろこび歌った。わたしの肉体もまた、望みに生きるであろう。27 あなたは、わたしの魂を黄泉に捨ておくことをせず、あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならないであろう。28 あなたは、いのちの道をわたしに示し、み前にあって、わたしを喜びで満たして下さるであろう。(25~28節)

この詩は、常に神様と親しい交わりを持ち、いつも神様が右に居て支えてくれているのを経験しながら、歩んでいたダビデの言葉です。

ある死に直面したときがあり、そこから生還した経験を、黄泉に捨て置かれないと表現したのではないか、と推測します。そして、神と共に歩む平安と喜びに満ちた「いのちの道」を歩むさいわいをうたったのでしょう。

2)最終的に、イエス様を指し示すことでした。

 29 兄弟たちよ、族長ダビデについては、わたしはあなたがたにむかって大胆に言うことができる。彼は死んで葬られ、現にその墓が今日に至るまで、わたしたちの間に残っている。 30 彼は預言者であって、『その子孫のひとりを王位につかせよう』と、神が堅く彼に誓われたことを認めていたので、 31 キリストの復活をあらかじめ知って、『彼は黄泉に捨ておかれることがなく、またその肉体が朽ち果てることもない』と語ったのである。(29~31節)

ここで、詩編の解釈が、ペテロによってされています。黄泉に捨て置かれることはないとあるが、ダビデは、現実に黄泉に捨て置かれず、生き続けたのではない。その証拠に、ダビデの墓がありますねと言います。

ダビデは、今起こった出来事を、預言したのだ、それは彼の子孫の一人を王位につかせようというⅡサムエル7:12のことばを信じていたから、イエス様の復活を預言したのだ、と言うのです。

ダビデがこの詩を詠んだとき、イエス様の復活まで見ていたかというと、疑問です。しかし、今、イエス様の復活という確かな現実に出会っているペテロが、このダビデの言葉を読んだ時、彼は、このことを預言していたのだと理解したのでした。

きっと当時、サムエル記の、一人の偉大な王が現れる、という預言を知っていた人々は多くいたと思います。しかし現実にはどう現れるのかは、解らなかったのです。バプテスマのヨハネが清廉潔白、当時のヘロデ王さえ恐れず、正しいことを叫び続けた時、人々は心を刺され、悔い改めのバプテスマを受けました。「もしかしたらこの人がメシヤ(救い主)ではないか?」と人々は思いました。しかしヨハネは「わたしはメシヤではない、道を備える者だ」と言いました。その後、イエス様が「神の国は近付いた。悔い改めて福音を信ぜよ」と権威をもって、教え、数え切れないほどの奇跡をもって、メシヤの徴を見せました。パンの奇跡を経験した群集は「王にしよう」としたことがありました。弟子たちでさえ、エルサレムに入城するときは、「今こそ王になる時」と信じて大喜びでついて行ったのでした。

しかし、当時の指導者たちの思惑に乗せられた群集は、「十字架につけろ」と叫び、実際、十字架につけて殺しました。木にかけられた者は呪われたものであると信じていました。そして、死んだとき、「見ろ、自分は神の子だとか言っていたが、人間だったじゃないか」と納得したことでしょう。

しかし、神はイエス様を復活させられました。イエス様は十字架にかかられる事も、復活することも、生前から語っておられましたが、弟子たちでさえ、想像できないことでした。ですから、ダビデが、千年も前にはっきりと、イエス様の復活を指し示すことは無理ではなかったかと思うのです。でも、ペテロは結果から見て、このことを指し示していたのだと、理解し、告げたのでした。

3)復活の証人、昇天の証人。

 32 このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。 33 それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。 34 ダビデが天に上ったのではない。彼自身こう言っている、『主はわが主に仰せになった、 35 あなたの敵をあなたの足台にするまでは、わたしの右に座していなさい』。(32~35節)

前々回、聖霊が注がれた時、全く関係なく過ごしていた人々にも、認識せざるを得ないほどの「あっけにとられる」出来事が起ったことを見ました。それは、大きな音の事実もありましたが、集まってきた人々が特に「あっけにとられた」のは、弟子達の全く変えられた姿でした。それは、他国の言葉で主の偉大な業を大胆に語っていたことでした。

神の偉大な業の内容は、「復活」と「昇天」でした。「このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。」「イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。」木にかけられ、呪われたものと思われていた、イエス様は死で終わりではなかった、死を打ち破って、復活した。しかも、昇天して、父なる神から約束の聖霊を受け、今送られたのです。昇天の記事は、わたしは今まで、カッコにくくって来たできごとでした。昇天してどこに行ったの?今どこにいるの?とかいう疑問です。その疑問は天国に行ったら解るでしょう。しかし今、はっきり理解することは、弟子たちや、120人?の人々の見ている前で、天にあげられたという事実の証言です。

その結果、約束の聖霊が送られ、今あなた方が見ている通り、私達は力と確信を与えられて、語っているのです。このことが証拠ですとペテロは大胆に語ったのでした。

4)主こそキリスト(救い主)です。

36 だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。(36)

呪われた者と思われていたイエス様は、死を打ち破り、生きたまま召天し、聖霊をお送りくださったのです。さあ、今こそ、疑いの余地なくキリスト(救い主)として、父なる神がお立てになった方と宣言します!とペテロは大胆に語りました。ダビデが「いのちの道」と詩篇で言ったときは、祈りに聞き、いつも右に居て助け、守ってくださる方を経験しながら歩いていた平安と喜びの道のことを言っていたでしょう。今も、その事は、信仰者に与えられた特権です。 多くの人々は、この世界だけで終わる命の充実を願っています。家内安全・無病息災ですね。しかし、柏手打って、それらが簡単に得られるなら、苦労はありません。しかし人間の罪は、そんなことでは、なくなりません。  イエス様をキリストと信じ、新しい命を頂きましょう。それはこの世界にいる時から始まります。しかも、この世で終わらない、「永遠の命の道」です。まだこの世界に生きている私達は、それがどんな状態になるか、見えないところもあります。ご再臨の約束も、おぼろの所もあります。きっとその時が来たら、びっくりするようなことを経験するでしょう。

金曜日に、早稲田朝祷会に行ってきました。遠藤高示先生がメッセージされました。2才から、言葉が出なくなってしまった。17才9か月まで、そんな状態だった。もう、死んでしまおうと思った。宣教師がしていた?本場の英語を聞いてから死のうと、教会に来、次の朝ドアを開けた時、「おはようございます」の言葉が出た、それから、一から、三室泰平さん(早稲田教会で戦争時の罪の呵責からイエス様に出会い、救われて熱心に伝道していた方)にお世話になって、(幾度も神様に助けられて、ある時は12億円もの借金をかかえ、破産宣言せよという声もあったが、ほとんどを返すことができた)。58歳で献身し63歳で開拓伝道を始めた。というお証でした。神様は、罪に染んだ人間を回復するために、完全な人となり、犠牲のいけにえとなって、罪の責めを負ってくださいました。そして、死で終わるいのちから、「永遠のいのちの道」を備えてくださったのでした。

【祈り】 神様、弟子たちの経験した事実の証言を感謝します。現代に生きるわたしたちも「永遠のいのちの道」を歩む者としてください。主の聖名によって祈ります。アーメン