説教「幸いなるかな君 良きかな君」 詩篇128篇 都もうでの歌⑨ 深谷春男牧師

2020年11月15日 主日礼拝説教
聖書箇所:詩篇128篇
説教者:深谷春男牧師

いよいよ11月も第三主日です。今月29日からアドベントを迎えます。アドベントは教会歴で言えば一年の初め、いわばお正月です。また来週22日は交換講壇で深沢教会に行きます。ということで、教会暦ではわたしの今年、最後の説教ですが詩篇128篇を与えられていることを感謝しています。

人間は社会的な存在です。「人」という字は人と人とがささえあう形です。かつて第二次大戦中にヒットラ-はたいへん残酷な実験をしました。赤ちゃんを母親から隔離し、栄養分は与えたが、お母さんの愛、すなわち、だっこすることや、スキンシップを与えないとどうなるかの実験でした。愛に飢えた赤ちゃんは次第に食物を受け入れなくなり、嘔吐しはじめ、衰弱し、生きる望みを失い、死んでいったというのです。もちろんこのような非人間的な実験が許されるわけではありません。現代日本はまさに空前の繁栄を誇る物質文明のただ中にあります。しかし、多くの魂は愛に飢え、傷ついています。暖かい愛の家庭、愛の共同体を築くことは、人生巡礼で最も大切なものであると語っています。

 

【この詩の解説と区分】 

この詩は宗教改革者マルチン・ルタ-が愛して「Epithalamium」(ラテン語で「結婚の歌」)と呼び、内村鑑三も「世にこれに勝る家庭歌あるなし」と絶賛しています。

人生巡礼の歌と言われる「都上りの歌」の中で、127篇と128篇の家庭を歌った歌がほぼ真ん中を占めています。それは人生の幸福とは、神を信じて、敬虔に生きること。愛し合って生きること、家庭を大切にし、あるいは神の家族としての教会を大切にし、その交わりの中に生きることであると語ります。

この詩は大きく3区分できます。

1節 幸福とは何か?主を恐れる者(敬虔な信仰者)であれ。

2-4節 敬虔なる者は「神の9つの祝福」を受ける。

5-6節 シオンから、礼拝の祭壇から祝福は流れ出る。

 

【メッセージのポイント】

1)1 すべて主をおそれ、

主の道に歩む者はさいわいである。(1節)

⇒幸いなるかな!主を畏れ、主に道に歩む者。

 この詩篇の冒頭は「幸いなるかな!」という感嘆にも似た祝福の言葉で始まります。それは詩篇1篇や山上の説教と同じです。「幸いなるかな。悪しき者の道を歩まず・・昼も夜も御言葉を口ずさむ者。このような人は流れのほとりに植えられた木の如し」

「幸いなるかな。心の貧しき者。天国は彼らのものである。」

人生巡礼の歌のほぼ中央に位置するこの詩篇128篇は、聖書的な、人生へのメッセージが込められています。長い信仰生涯を歩んだこの詩人は、「幸いなるかな!(アシュレー)」という言葉で、神から与えられる人生の豊かな祝福を、深い感謝をもって歌い始めます。深い深い、人生への肯定の言葉です。

それでは、幸いなる人生とはどのような人生なのでしょうか。それは「主をおそれる人、主の道に歩む人」です。

神をおそれる生活。箴言1章7節にあるように「主をおそれることは知識のはじめ」です。真理を侮ることは恐ろしいことです。

4節でも「見よ、主を恐れる人はこのように祝福される。」とあります。幸いな人生は「主を畏れること」です。

かつて日本が戦争で中国や韓国に攻め入った時、その地域の勇気あるクリスチャンが「わたしは神以外の者は何をも恐れない」と死を賭して戦いました。その時のある日本兵の言葉「わたしは神をも恐れない」。そして彼らは恐ろしい殺戮を行ないました。神を畏れることを忘れる時に、人は人間の尊厳を忘れるのです。

ある幼稚園の標語「神を畏れることを忘れた教育は、賢い悪魔を造る」とありました。

 

2)2 あなたは自分の手の勤労の実を食べ、

幸福で、かつ安らかであろう。

3 あなたの妻は家の奥にいて

多くの実を結ぶぶどうの木のようであり、

あなたの子供たちは食卓を囲んで

オリブの若木のようである。

4 見よ、主をおそれる人は、

このように祝福を得る。 (2-4節)

⇒主に従う者に与えられる9つの祝福。

2節の3行目で再び「幸いなるかな!」の感嘆の言葉があります。ここには、主を畏れ、信仰の恵みの中を歩む信仰者への祝福の言葉があります。今日の説教題として取らせていただいた「幸いなるかな君、良きかな君」という言葉は、2節の関根正雄訳です。私訳を説教題とするのはあまり多くはありませんが、この詩人の祝福の感動を率直に表現した名訳と感じたので用いました。

「幸いなるかな君、良きかな(トーブ)君」という祝福の言葉は、詩篇全体の指し示す信仰者への愛情のこもった表現、それは、詩篇のみならず、聖書全体の信仰者への最高の賛辞と思えてなりません。わたしども、この主の「幸い(アシュレー)と最善(トーブ)」の中を歩みましょう。

C.E.ローガン宣教師の詩篇注解がありますが、そこには、この詩篇には9つの祝福が込められていると解説しています。

  • まずは敬虔深い人。主を恐れる事は知恵の初め。信仰第一。
  • 仕事のある人です。勤労の祝福が語られます。 
  • 平安と健康。心身ともなる健やかさは安き処をもつこと。 
  • 良き妻。日本は人の妻を奥様と言います。葡萄の木の如し。
  • 食卓の団欒がクリスチャン家庭の祝福。子らはオリブの若木。
  • シオンより恵みをたもう。夫は教会の柱と用いられる。 
  • 世にあらん限りエルサレムの繁栄を見る。夫は国の指導者。
  • 信仰者に与えられる長寿。3代、4代目の子孫を見ます。
  • 信仰者の祈りが聞かれて、国全体に平安がある。「エルサレムに平和」。この9つの祝福がすべての人に実現するかどうかはわかりませんが、しかし、この詩人の語る、神への感謝と、そこから湧き起る恵みの世界。その恵みが彼の魂を一杯に潤して、彼はこう叫んだのでしょう!

「幸いなるかな、君、 良きかな 君!」

20世紀のはじめ、内村鑑三は万朝報誌に「隠士の新年」と題して文章を発表しました。それは20世紀の家庭の崩壊現象を見抜いた預言者の言葉のようでもあります。自分の戦いは政治や、評論のたぐいではなく、真に暖かい、愛情のこもった家庭を造ることであると彼は言います。真の家庭を造るには祈りと多くの労苦がいるのです。

 

3)5 主はシオンからあなたを祝福されるように。

あなたは世にあるかぎりエルサレムの繁栄を見、

6 またあなたの子らの子を見るであろう。

どうぞ、イスラエルの上に平安があるように。

⇒ 家庭の祝福はシオン(礼拝)よりきたる。

揺るぎなき家庭は「礼拝する家庭」です。週のはじめわたしたちは公同の礼拝を守り、新しい出発をします。創世記12章7節には、信仰の父アブラハムは行くところ行くところでまず祭壇を築きました。サムエル記下6章には神の箱のとどまったオベデエドムの家を主は豊かに祝福されたと記されます。家庭の祝福は真実に礼拝をささげるところから来るのです。

 この詩篇にはくり返しが多い。2回づつ使用される言葉です。

  • 「幸いなるかな!(アシュレー)」(1,2節)
  • 「良きかな。あるいは最善!(トーブ)」(2,5節)
  • 「主を恐れる者(イェレー アドナイ)」(1,4節)
  • 「見よ(レーエー)」(5、6節)。4節を入れれば3回。
  • 「祝福(バラク)」(4,5節)。神様から来る未来を開く命。

幸いなるかな!良きかな!主を恐れる者よ!この人を見よ!主

はこの人を主は祝福される!と美しい声で歌われています。

油彩画の「朝の祈り」という作品があります。林竹治郎の作品で、明治40(1907)年、文部省第1回美術展覧会に出品し、難関を突破し入選した作品です。林竹治郎は明治4(1871)年、宮城県に生まれ、仙台の師範学校へ入学、18歳の時、その地で洗礼を受けクリスチャンになりました。明治22(1889)年東京美術学校へ入学、卒業後、北海道師範学校に奉職し、信仰と教育の方面から大きな影響を与えました。この作品は、彼が35歳の時の作品。

 作品は敬虔な家族の祈りの姿が描かれています。現在は、北海道立近代美術館に所蔵されている。

主を恐れ主の道に歩みましょう!主は豊かな人生を与えられます。家庭の祝福はシオンより、礼拝の場から流れ出るからです。信仰第一、礼拝第一の幸いなる人生を!主をほめよ。ハレルヤ!

 

【祈祷】 恵みの御神。11月第3の主日礼拝感謝します。今日の詩篇128篇にあるように、主を畏れ、信仰の道を歩みつつ、「幸いなるかな君、良きかな君!」と心の底から祝福し合える者として導いてください。真実な礼拝をささげ、豊かな実りの人生としてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン