新宿西教会礼拝説教「起きよ、光を放て」イザヤ60:1~9 深谷春男牧師

4月3日(日)主日礼拝説教「起きよ、光を放て!」

聖書箇所:イザヤ60:1~9 

説教者:深谷春男牧師

 今日は新しい年度の初めの主日礼拝です。時は、ウクライナ戦争の時です。また、コロナ感染第7波の時でもあります。このようなときにこそ、主の救いの御光を受けて、証し人として立ちゆく一年としたいと思います。 

【テキストの位置と概略】                                                          

 さて、今日の聖句はイザヤ書60章です。一般にイザヤ書は大きく三部に分けられます。

第一部はイザヤ1-39章、

第二部はイザヤ40-55章、

第三部はイザヤ56‐66章

 という具合に三つに分けることができます。

 今日の聖書箇所である60章は第三部の一こまです。

第一部は、紀元前8世紀のエルサレムが舞台となって描かれます。

第二部はバビロン捕囚の時代(BC.586~538年ごろ)で、背景はバビロンの様です。

 そして第三部の背景は捕囚が終わって、エルサレムの神殿が再建される時代のものと言われ、それぞれ微妙にその預言に特徴があります。しかし、イザヤ書全体としては「神の義」という主題に貫かれており、神の救いの御業が堂々と語られています。

60-62章は「主の救い」と言う主題で、第三部の中心部となっており、二つの「民の嘆きの歌」に挟まれています(59:1-14と63:7-64:11)。そこには神の栄光の現れるさまが感動的に描写されます。

60章の内容としては、以下のようです。

1―9節  救いの告知

1- 3節 起きよ、光を放て、主なる神がシオンに来られる。

4- 9節 神臨在のシオンに諸国民がやってくる。

10-22節 救いの描写

    10-11節  シオンの再建

    12-22節  宇宙をも包み込むシオンの栄光

メッセージ・ポイント】                                                    

 1  起きよ、光を放て。

 あなたの光が臨み、

 主の栄光があなたの上にのぼったから。 (1節)

  ⇒ 起きよ、光を放て!

 今日、わたしどもに語られる第一の御言葉は、「起きよ、光を放て!」です。わたしどもに「起きよ、光を放て!」と語ります。「起きよ」(クーミー)は、「娘よ、起きなさい(タリタ・クーミー)」と主イエスが語られた言葉と同じです。これは打ちひしがれた者が、あるいは死にかかっているものが、目覚め、起き上がることを意味しています。また、「光を放て」(オーリ―)は光(オール)と関係があり、輝くことを意味しています。多くの英語の翻訳は shine (輝け)となっています。これは「喜びへの呼びかけがあい響きあっている言葉」と言われます。続いて、「あなたの光」と「主の栄光(カーボード)」が言及されます。これは第三部の中心的なテーマ「主なる神の栄光」を指し示していると言われます。そしてこの光が「輝く」「のぼる」「現れる」と表現されます。少し前の59:19では「主が激しい流れのように臨み、主の霊がその上を吹く。主は贖う者として、シオンに来られる」とあります。これらのことを要約すれば「主がシオンに来られた、あなたの光として。それゆえに起きよ、光り輝け!」となります。主の臨在による輝き。それがこの部分の中心のテーマです。

 しかし、あらためて考えてみると、一体わたしどもは輝けるのでしょうか?愚かな、罪に染みやすい、土の器であるわたしどもが、ダイヤモンドのように、あるいは太陽や月のように輝くことができるのでしょうか?

 今、わたしたちには主イエスの福音が示されています。「世の光なる主イエスが来られた。あなたの光として来られた。その受肉、十字架、復活、聖霊の満たし、癒し、再臨、永遠の命の神の愛、永遠の救いを携えて来られた。その救いの光を受けて輝き、多くの人に証ししなさい」と語られています。光は主です。光は主ご自身です。ですから光なる主イエスに心のうちに、教会の真中に来ていただくこと、これがクリスチャンの輝きです。

 以前、わたしの尊敬する友人の清瀬先生が、就任式の挨拶で語られました。北国で奥様が病を得、本当に苦労して来られました。彼はこう言われました。「わたしの牧会の基本は『栄光の主を仰ぐことです』。『栄光の主を仰げ!』とは母教会の池袋西教会の金井為一郎先生の口癖でした。わたしはいつでも主の臨在、栄光の臨在と共に歩みます!」

 愛する兄弟姉妹!起きよ!光を放て!と主は語られます。

「なぜなら、あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」からです。主の十字架の究極的救いと、聖霊の輝く臨在が全てを輝かすからです。

 

2)2  見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。

しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、

主の栄光があなたの上にあらわれる。

3 もろもろの国は、あなたの光に来、

もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る。 (2-3節)

  ⇒ 世界は暗黒の中にある! 

 2節では、光の世界に対抗するかのように「暗き」(ホーシェク)と「やみ」(アラーヘル)について語られます。「見よ、暗きは地をおおい、やみが国々を包んでいる」と語られています。「見よ」とは、注意を喚起する言葉です。「目を開けて御覧なさい」とわたしたちの注意を喚起しています。何を見るのですか?「暗きは地を覆い、やみが国々を包んでいる」ということをです。地は人間の世界です。国々は全世界の民のことです。全世界、暗きが覆い、やみが覆っていると言うのです。

 これはイザヤ9:1でも「暗やみの中を歩んでいた民は、大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に、光が照った。」と記されています。よくクリスマスに読まれるところです。クリスマスには闇と暗黒の世界、罪と死の支配の中に、死の地、死の陰に、主イエスの愛と命の光が差し込んだと語られます。この聖書箇所では、まだ、世界は光が照っていません。暗闇の中にあります。その中でシオンに光が輝きます。3節では、国々が、あなたの照らす光に向かい、その輝きに向かって歩みだすと記されます。世界の暗黒。救いのなさ。その中で光を求める者たちは、シオンの丘に輝く神の救いの光を見て、そこに歩み寄るのだと言います。

 現在の世界と日本はまさに暗闇が覆っているとしか表現できません。

 あの2月24日のウクライナ戦争、コロナ感染第7波、頻発する地震、先日はニュースで富士山噴火の被害訓練等をしていました。東日本の大震災の復興も未だに、思うようには行きません。

 しかし、人間の世界の暗闇は本当は「罪と死」から来るものです。神様との断絶からくる、本能的な不安と言ってもいいでしょうか。創世記の3章から11章の原歴史と言われるところから、人間の絶望的な暗闇が語られています。人間の世界にはどんなに白いペンキで塗っても白くならない暗黒、どんなに強いサーチライトで照らしても明るくならない闇があるのです。

 異次元から、天から差し込む光が必要なのです。主の十字架と復活、聖霊の圧倒的な愛と臨在が必要なのです。

3)4 あなたの目をあげて見まわせ、

彼らはみな集まってあなたに来る。

あなたの子らは遠くから来、

あなたの娘らは、かいなにいだかれて来る。   (4節)

    ⇒ 目を上げて見渡せ!

 預言者は、「目を上げて見渡せ」と語ります。世界中が暗闇に覆われている。罪と死の支配が全世界を覆っている。しかし、今や、シオンの丘にいます神の栄光が輝き始めた。人々の目は、この「ヤハウェの栄光」「あな

たの光」に気づき、その輝きに向かって歩み始める。ちょうど、クリスマスの星に導かれて、暗い砂漠を旅する博士たちのように、「王たち」(3節)はシオンに向かってやってくる。4節では「あなたの息子、娘たちが遠くからやってくる」と記されます。これはバビロン捕囚でとりこになったイスラエルの子孫たちの帰還が記されています。更に6節からは、「6 らくだの大群、ミディアンとエファの若いらくだが、あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。・・・7 ・・わたしはわが家の輝きに、輝きを加える。」

諸国民が、イスラエルにやってくるのです。これはもう、あのクリスマスの博士たちの描写のようです。らくだが砂漠を越えてやってくる。「黄金と乳香を携えて」シェバの人々がやってくる。シリヤやアラブの砂漠のケダル、ネバヨテからは羊が犠牲の供え物として送られてくる。そして、すべてが神の家の栄光として輝かすのです。

 8、9節からは、海路を西からやってくる海沿いの国々からの船隊のことも詩情豊かに描かれます。真っ青な空のはるか水平線上に浮かぶ船体の白いマストを、空を飛ぶ白い雲のように、巣に帰る白い鳩のように描かれます。タルシシュの船が代表として語られますが、そこは南スペインのフェニキアの植民都市で、豪華な船団をもって知られていました(列王上10:22)。「金銀をもたせ、あなたの子らを遠くから運んで来る。あなたの神、主の御名のため、あなたに輝きを与えるイスラエルの聖なる神のために。」(9節)。

 今や、すべての国々は神の栄光のゆえにシオンへと馳せ参ずるのです。

 これらは新しい神の民、教会のリバイバルの姿です。主イエスの受肉、十字架、復活、再臨という「福音そのもの」が光です。暗きの力が増し加わる時に、まことの光のみが、光り輝き人々を導くのです。まずわたしたちが生かされ、家族に遣わされ、新宿のリバイバルを共に祈り合いましょう!

 そのために、今なすべきことは、福音にしっかり立つこと、全能の神様がおられることを信じ、主イエスの十字架の贖いをはっきりと覚えることです。神様に主権を返して、神第一の信仰に立つことです。

 

【祈り】

 主よ、今朝は、2022年度の劈頭に当たってイザヤの預言を共に聞きました。「起きよ、光を放て!」。わたしどもに救いの光を高く掲げさせて下さい。「闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいます」。今、信仰の目を上げて、世界は、はや、色づいて、収穫を待つ畑のような存在であること、主の大いなるリバイバルが、真近いことを悟る力を与えて下さい!暗闇を照らす真の光、われらの救い主、主イエスの御名によって祈ります。アーメン