新宿西教会オープンチャーチ第4主日礼拝説教「人生最高の幸福」詩篇32篇 深谷春男牧師

10月23日「人生最高の幸福」

聖書:詩篇32篇

説教者:深谷春男牧師 

 牧師であり茶道の師匠でもありました藤尾英二郎先生をお招きしたことがありました。先生はよく説教題に「人生最高の幸福」という題をお付けになりました。若い時に結核初期の病気を経験し、お腹が2メートル近く膨れ上がり、天井がぐるぐる回る苦しい体験の中で、主の恵みの世界へと導かれた証しをされました。茶道の師匠でもあり、人生の達人のような深い感謝と恵みにあふれたその生涯はまさに「人生最高の幸福」を生き続ける生涯でした。

 

【 詩篇第32篇の概略と区分 】 

 本詩はオリゲネス以来、「7つの悔い改めの詩」(6、32、38、51、102、130、143篇)の中の第2番目の詩として有名。主題は罪の赦しとその祝福。文学類型としては1―7節は「感謝の歌」8―11節は「教訓詩」。ロマ書4章でパウロもこの詩篇を取り上げています。

      1―   5節  新生のさいわい(罪の告白とその許し)           

      6-  7節 恩寵充満のさいわい(救いと慈しみに囲まれた生涯)

8― 11節  献身のさいわい(駿馬として主に仕える充実の人生)

 

【メッセージのポイント】           

1)1 そのとががゆるされ、

その罪がおおい消される者はさいわいである。

2 主によって不義を負わされず、

その霊に偽りのない人はさいわいである。  (1、2節)

     ⇒ 新生のさいわい:「罪の告白と赦しを経験せよ!」

「幸いなるかな!」と詩人は冒頭で語り始めます。これは「アシュレー!」という言葉で、詩篇1篇や119篇の冒頭で告白される感嘆の言葉です。マタイ5章での山上の説教でも「幸いなるかな!」の叫びから始まります。「幸いなるかな!罪の赦しを得し人は!」です。わたしたち人間は神に創造されたがゆえに、神に立ち帰らねば、本当の平安がありません。宇宙の根源なる方と和解し、一つとなって歩まねばなりません。しかし、罪が、自己中心がそれを妨げます。罪の赦しと聖霊による潔めが人生の幸福の源なのです。

3種類の「罪」に関する言葉。(心の袋の中にある三つの黒い癌の塊の如し)。

「ペシャ」=「とが(口語)」「背き(新共)」と訳されます。これは神の権威に対する反逆を意味しています。

「ハッター」=「罪(口語・新共同)」的をはずすの意味です。神にある人生の正規の目的から外れることを示している言葉です。

「アオーン」=「不義(口語)」「咎(新共)」邪悪な性質、ひねくれた心。

この3種類の罪が「赦され」、「覆われ」、「数えられない」者は幸いであると歌われます。神を信じるというのは、罪の問題と直面しつつ信じるのです。

「われわれのわずかな経験を考えてみても罪の赦しに至った第一歩はむしろこのような具体的な人格としての神の発見にあったと思うのである。もっと正確に言えば罪の告白をする時、神がわれわれに具体的人格的に迫るのである。それまでは神と言っても一つの抽象的な理念であることが多い。ところが自己の罪に苦しんで涙の中に神にすがり、丁度人に物言うように神に訴える時、神はその慈顔をわれわれに向け給うのである。人格としての神に対するわれわれの最も正しいあり方は告白(Confessio)ということにつきる。これは罪の告白に始り、恩恵の賛美に終わる」(関根正雄)。

内村鑑三は、この十字架の贖いの業への信仰を告白し続けたひとりです。

 「終(つい)に彼を捨てる」          内村鑑三 

国のためにキリストを信じたる者は終(つい)に彼を捨てる。

社会人類のためにキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。

教勢拡張を思い立ちてキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。

キリストの人格にあこがれてキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。

美(よ)き思想を得んとてキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。

患難苦痛を慰められんためにキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。

 されども、おのが罪を示され、その苦痛に耐えずして、「ああわれ、悩める人なるかな」の声を発し、キリストの十字架において神の前に義とせらるるの唯一の道を発見し、その喜びに耐えずして彼を信じた者は、かかる者は、よし宇宙は消え失(う)するとも、永遠より永遠まで彼を捨てない。                       

1916年(大正5年)3月『聖書の研究』、著作集第12巻

 

2)6 このゆえに、すべて神を敬う者はあなたに祈る。

大水の押し寄せる悩みの時にも

その身に及ぶことはない。

7 あなたはわたしの隠れ場であって、

わたしを守って悩みを免れさせ、

救をもってわたしを囲まれる。〔セラ   (6、7節)

⇒ 恩寵充満のさいわい:「救いをもって囲まれ・慈しみで囲まれる人!」

    神と和解した者は人生の根本問題を解決したのです。そこからロマ書8章にあるような圧倒的な勝利の人生が始まって行くのです。その秘訣は「あなたの慈しみに生きる人」(新共同訳)「神を敬う者」(口語訳)という一句です。これは実はもともと一句でできており「ハシディーム」と言う言葉です。これは「神の慈愛(ヘセド)」から派生した言葉です。詩人は、罪を赦され、神の大きな慈愛に触れた人を「ハシディーム」「主の慈しみに生きる人」、「神の恩寵に生かされた人」と呼ぶのです。それは神の慈愛に一杯に生かされることであり、新約聖書風に言えば、主イエスの十字架の血潮に贖われ、聖霊に満たされた人、と言うことができると思います。いつでも、神の愛、神の命、神の息吹、神の霊に満たされ、勝利の中を歩む信仰者のことです。心の内にキリストの御内住、聖霊の御内住をいただければ、わたしどもはいつも満たされた勝利の歩みがなしうるのです。

たとい、試練の大水の押し寄せる時にも、死の危険が押し寄せる時にも、主が隠れ家となってくださるのです。何たる幸いでしょうか。

この詩には「取り囲む」と言う言葉が2回出てきます。7節に「救いをもってわたしを囲まれる」、また、10節でも、主に信頼するものは「いつくしみに囲まれる」と告白されています。「救いの歓声(ロネー ファレット)」と「いつくしみ(ヘセド)」をもって囲まれる生涯が美しく歌われます。

赤羽教会の高山慶喜先生はしばしばこのところを語られるときに、江戸の三奇人、蜀山人の歌「この家を 貧乏神が取り囲み 七福神の出る隙間なし」を取り上げて笑わせました。聖霊様がご内住くださり、救いの喜びと神の慈愛をもって取り囲んでくださるのです。どんなに貧乏神や厄病神が、包囲攻撃しようとも、わたしどもは勝利の生涯を全うするのです。

聖霊なる神様に主権を明け渡すことを聖化と言います。「主よ、あなたの贖いの業を感謝します。わたしは救われました。これからは、あなたがわたしの主人となってください」と聖霊様に心の主権を明け渡すことです。主イエスの十字架の贖いを信じて救われることを第一の転機、聖霊なる神へ主権を明け渡して聖化の恵みを受けることを「第二の転機」と言います。

ある時、ケズィック・コンベンションの集会で講師が語られました。英国の救世軍の集会で、英語がよく分からない人が救われました。彼はあるとき、セーターに大きな文字を縫い付けてやってきました。お店に貼ってあった格好のいい文字だったのでそれをそのまま使ったと言うのです。その文字は「オーナーが変わりました!」という文字でした。

 「救い」は新生の恵みと聖化の恵みを受けることです。「ローマ人への手紙」を学んで改めて発見しました。個人の救いは、「新生と聖化」と言うことです。  

「新生の恵み」は、今まで罪と汚れの中で歩み続けた腐った悪臭のする食べ物を入れた丼をひっくり返して(悔い改めて)、キリストの血潮と言うクレンザーできれいに洗い消毒してもらうことです。

「聖化の恵み」はそのきれいになった丼に輝く神の命を満たして頂くこと。神の命、恵みと愛に満ちた恩寵充満の新しい命です。コロサイ1:27!

3)9 あなたはさとりのない馬のようであってはならない。

また騾馬のようであってはならない。

彼らはくつわ、たづなをもっておさえられなければ、

あなたに従わないであろう。  (9節)

⇒  献身のさいわい:「駿馬として主に仕える充実の生涯!」

この詩の締めくくりは、わたしどもへの教訓です。これは献身の道です。ある方が、中国の言葉、「良馬鞭影に躍る」と言われます。駄馬やらばのようにではなく、良に馬として主に仕えたいものです。駄馬は叩かれても動かないが、良馬は主人の鞭の影が少し動いただけでも、その意志を察知して即座に、自発的に行動するという意味です。

  わたしも1971年2月12日。21才の時、北区神谷のアパートで、矢内原忠雄先生の「嘉信」を読んで献身の決断をしました。その時は人生最大の試練の時、お先真っ暗の時でした。でもその朝に与えられた聖句は「わが心定まれり、神よ、わが心定まれり。われ、歌いまつらん、たたえまつらん。わが魂よ、醒めよ。筝よ、琴よ、醒むべし。われ、東雲(しののめ)を呼び覚まさん」   (詩編108:1,2節 文語訳)でした。

到底、駿馬とは程遠い、駄馬(文語訳は「うさぎうま」)のような、「ちいロバ」ですが、主にある最高の道を、今日も、主イエス様をお乗せして、よたよたしながらも、喜んで歩んでゆきたいと願っています。

山室軍平先生の解説によると、この詩は神の忠実な僕アウグスチヌスの特別に愛した詩であると言われます。彼は「この詩こそわたしの新生の救いだ」と言って、死の床にあってベッドの傍らの壁に書き付けて、繰り返し暗唱しつつ召天したと伝えられます。早熟で優秀な頭脳を持ったこの青年が、自分の罪と汚れに傷つき、母モニカの涙の祈りと、聖霊の器アンブロシウスとの出会いの中に、ついに古代教会の最大の教父となりました。その恵みの生涯の秘訣はこの詩のうちに隠されているのです。

 

【 祈 り 】  父なる神よ、詩篇32篇を感謝します。今日はオープン・チャーチ3日目です。どうぞ、初めて教会に来られた方も、もう洗礼を受けられた兄弟姉妹も、もう一度、主イエスの十字架の贖いによる「新生の生涯」へ。聖霊の導きの中に神への救いの歓声と慈愛に囲まれた「聖化の生涯」へ。そして賢く、鋭く主の御旨を悟り、それに従う「献身の生涯」へと導きたまえ。ここにこそ、信仰者の生涯の縮図があります。罪の赦し、聖化の恵み、献身の勝利の生涯へとわたしどもを導いてください。わたしどもの内側に、信仰の応答を起こし、わたしどもの教会に、家庭に、そして、日本中にリバイバルのうねりを起こしたまえ!主の御名によって祈ります。アーメン!