アドベント礼拝説教「言は神であった」ヨハネ福音書1:1、2 深谷美歌子牧師

11月27日「言は神であった!」

聖書:ヨハネ福音書1:1~2

説教者:深谷美歌子牧師 

 

今年も、クリスマスに向けての備えの時、アドベント礼拝を捧げることができるお恵みを感謝します。

アドベント(待降節)は素晴らしい希望の日です。教会暦で言えば、1年の初めの日です。クリスチャンの皆さんは、すでにイエス様を迎えていますから、新たに迎える待降とは言えませんが、年を重ねるごとにますます新たに、主の御臨在と共に生きる喜びの証し人にされますように。本日のヨハネ福音書の証言のように!

 今日読んでいただいたヨハネによる福音書には、マタイやルカのように、イエス様がお生まれになったとき、羊飼いが訪れたとか、東の博士たちが訪ねてきたなどの情景は書いてありません。

福音書でも最後に書かれたというこのヨハネ福音書は、イエス様の誕生によってもたらされた命を、自分も弟子たちも長い信仰生活で経験し、感激と感謝と、讃美をこめて全ての人に伝えようとして書かれたといわれます。

しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。ヨハ20:31この目的ためにイエス様は肉を取ってこの世界に来られた。これを伝えるのが、ヨハネ福音書の目的であり、クリスマスの意味を伝えている書です。

 

【聖書の概観】

1節 イエス様は先在のロゴス。神であった。

2節 天地創造の前から神と共にあったキリスト。

  • 言と表現されたイエス様

1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。       1節

ヨハネによる福音書は、イエス様がどのような方であったかを伝えようとして書かれたと先に言いました。「言があった」と記されていますが、尾山令仁先生の訳では、「初めにキリストがおられた」と訳されています。

「言」と表現したのは、この福音書が書かれたところは、エペソで、ユダヤ人はほとんどおらず、ギリシャ人などには、ユダヤ人が待ち望んでいたメシヤ、という下地がありませんでした。そこで、たぶん祈って示されたのが、「言」ギリシャ語で「ロゴス」という表現でした。ギリシャ哲学では、「ロゴス」は宇宙の理性、神、という思想がありました。

ユダヤ人には、「言」は、人格としての働きをすることは受け入れられていました。創造の時も、神のことばが「光あれ」と発せられて、世界が造られました。エサウとヤコブの物語も、一杯のレンズマメのあつものと、長子の特権を「あげる」とエサウが言った言葉は、取り消されないものでした。

このようにどちらにも共通する「言」という表現で、ヨハネは約束のメシヤ、救い主キリストは、創造の前から存在しておられた神であったと伝えたのでした。尾山令仁先生も「初めにキリストがおられた」と訳しています。

私達の国でも、神が「ロゴス」であった。と言ってもピンとこない人が大多数ですね。最初の日本語訳の聖書は、ギュツラフという方が音吉ら、3人の素人の日本人に助けられながら、ヨハネ伝を訳しました。この部分は「ハジマリニ カシコキモノゴザル。コノカシコキモノ ゴクラクトモニゴザル」と訳されました。現在の聖書とは違いますが、これを読むと意味が伝わる気がいたします。最近では気仙語聖書というのもちゃんと製本して売り出されています。

何とか自分の事として福音を知って欲しいという思いは、ヨハネの時代に通じる思いですね。

 

  • 言は神であった

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 1節

 この福音書が書かれた頃の異邦人社会では、グノーシスという思

想がありました。これが教会にも入ってこようとしていました。こ

の教えは、神は至高で聖く、霊的な存在である。従って物質は悪で、

イエス様が神ならば、人間になるはずはない。もし神ならば、見え

たところのイエス様は、仮の姿で、実際には肉を持っていなかった。

十字架の前に体から離れた。と仮現説という説を持ち込んだ人々が

いました。

 ヨハネはそういう人々に、そうではない。イエス様は完全に人と

なり、十字架の死を、選び取り、「父よ、彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのか解らずにいるのです。」と祈って人間の罪を負ってくださった。また、イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。7 もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。ヨハ 14:6、7

と人間の救いの道をお開きくださった神であった、と告げています。

 

3)この言は初めに神と共にあった。2節

この初めにという言葉は、創造のはじまりという意味ではなくその前から存在しておられたことを現している言葉です。

神と共にあったとは、ただマイクが同じところに並んで居るような状態の言葉ではなく、向き合って交流している姿を現しているそうです。神様は、父と子と聖霊として愛の交わりをもっておられる人格的存在のお方とあらわしています。   

 このお方は神様です、とヨハネが伝えることができたのは、イエス様と3年間共に歩んだ弟子として、嵐に「静まれ、黙れ」と命じられるとそのようになり、「私の心だ。清くなれ」と言われれば重い皮膚病がいやされ「これを配りなさい」と言われてパンを配れば5千人もの人々が食べて満腹した、全能の神を経験したからでした。

虐げられていた人々の友となり、罪の赦しを宣言し、死を打ち破って復活され、昇天された時もそこにいました。

裏切った弟子たちを赦し、聖霊を送られて、まことの命の日々を経験して来たヨハネと、これを伝えられ信じた人々もこのことを経験、証言できました。ヨハネ第一の手紙もヨハネ福音書と同じ著者と言われていますが、このことを証言しています。1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について――2 このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである――3 すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。一ヨハ 1:1-3

 人間となってクリスマスにこの世界に来てくださる前には、イエス様は父と子と聖霊の愛の交わりにあった方でした。

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。創1:26、27

 神様を認め、交われる者として人間を造って下さったのでした。

土戸清先生がご自分の証しをこの聖書の箇所でしておられます。恵み教会で、最初にキリスト教に出会って、わたしは本当に驚きました。高校二年生の時でした。教会に集う老いも若きも本当に生き生きとしていたこと、明るかったこと。神様の事をイエスキリストとの関係からしか語らない宗教が、キリスト教だ、と分ったことは、わたしにとっては驚きでした。そのことは長い年月忘れることのできない、わたしにとって大きな出来事でした。この現代社会に神が存在するとまともに考えている愚かな人々がいると、当時のわたしは今少し整ったことばで言うならば、無宗教を自認する者に、共通の思い上がりと、本物の愚かさといいましょうか。それにどっぷりと浸かっていたのです。当時のわたしにとっては、神御自身が人間となられて、ご自分の意志と、救いの業をわたしたちの歴史において遂行、成就されたという、聖書の啓示宗教についての教えは本当に新鮮でした。ですから、キリスト者となる決心を、牧師先生に申出ました。教会に属する者の自由は、絶対者が誰であるか分かった時にのみ起源する自由が、真の自由であり神の救いに生きる事なのだ、と教えられたのです。(抜粋)

 

【祈り】 父なる神様。今日はアドベント礼拝を感謝します。教会暦で言えば、今日は一年の初めです。新しい年の初めに、主イエス様をしっかりと見上げ、先在の神であり、父なる神と共にこの世界を創造されたキリスト、あなたを心にお迎えし、あなたがお送りくださった聖霊様が私の心に住んで、オーナーが変わった命に歩ませてください。主イエス様のお名前によって祈ります。アーメン