12月25日「言は人となられた」
聖書:ヨハネ福音書1:14~18
説教者:深谷美歌子牧師
クリスマスおめでとうございます!
クリスマスは、子供のころから心躍る季節でした。父がまだ若かったのですね。山からモミの木の枝を切ってきて、芯にする木に次々下の大きな枝から、だんだんと上に小さな枝をつけて、見事なツリーの木ができ、そこに飾りをつけるのが楽しみでした。
講壇の壁に暗幕を張って、そこに三人の博士が星の下のベツレヘムを、丘の上から見ている絵などを描いて切り抜いて幕につけるなど、教会に来た皆さんが「あっ」と驚くのが楽しみでした。その上
一年間礼拝に励んだご褒美に、プレゼントが待っていました!
それらは、おまけの喜びでしたが、クリスマスこそ、世界に起こった最高の喜びの日です!今日はそのクリスマス礼拝です。皆様とこの喜びを聖書から頂けますように!
アドベント第一聖日にもお伝えしましたが、ヨハネによる福音書は、イエス様の誕生によってもたらされた命を、自分も弟子たちも長い信仰生活で経験し、感激と感謝と、讃美をこめて全ての人に伝えようとして書かれたと言われています。
しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。ヨハ20:31と目的が書かれています。すべての人がこの命をいただけますように!
【聖書の概観】
14節 ロゴス(言)、神が人間となってこの世界に住まわれた。
15-17節 バプテスマのヨハネも私達(著者)もこの方の証言者。
18節 神を見た者はいないが、ひとり子なる神が神を現した。
1)言が人となられたクリスマス。
そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたち
はその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。 14節
1節を学んだ時、初めに言があったと書き出されていましたね。そ
の「言」とは、イエスキリストのことで、神でしたと学びました。
今日のタイトルは「言は人となられた」としました。新改訳ではこ
う訳しています。神様が人間となって生まれて下さったとあります。
馬小屋とか、天使などの情景こそ書かれていませんが、ヨハネは
クリスマスは、神様が人となって住んでくださったこと、と伝えています。
2)ヨハネと弟子の証言
15 ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしの
あとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしより
も先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のこと
である」。 16 わたしたちすべての者は、その満ち満ちているもの
の中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。17 律法はモーセ
をとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをと
おしてきたのである。 15-17節
深谷牧師が、ヨハネのことを取り次いだ時、ヨハネは素晴らしい
働きをしたが、メシヤではなく救い主イエス様を指し示す指であったと伝えてくれました。
今日のところでも、15節『わたしのあとに来るかたは、わたしよ
りもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』
とわたしが言ったのは、この人のことである」。と、実際の時間で
は、ヨハネの方が半年ほど早く生まれたし、働きもヨハネの方が早
く初めていたにもかかわらず、イエス様は、私より先におられた、
つまり創造の時からおられた方で、メシヤです、と指の働きをして
います。
16節では、わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの
中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。と、この書を記して
いる弟子のヨハネをはじめ、イエス様を伝えられた「わたしたち」
もその満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加え
られた。と証言しています。
めぐみにめぐみをということばは、ギリシャ語の原典を直訳すると「恵みに代わる恵みをわたしたちは受けた」となって、恵みの上に恵みを加えたと取れるのとは内容がちがいます。古い恵みに代わった恵みが頂けたのでした。律法も恵みでしたが、新たな恵みが頂ける道が開かれ、受け取りました。そのことを「わたしたち」が証言しています。
ところで、現代に生きていて、イエス様につながった「わたしたち」も、行いによらない新しい恵みの命を受けることができました。そして受けました、と証言するヨハネや弟子達に続くことができるはずです。イエス様を指し示す指となれますように。
それぞれの生活の場は、主婦であったり、サラリーマンであったりと違いますが、そこでイエス様を証言することです。
でもどうぞ、自分で頑張らないでください。指にならなければと無理をすると、恵みでなくなります。弟子達も、死んでもイエス様を裏切らない、と決心していましたが、恐れに捕らわれた時、イエス様を捨てて逃げ出しました。この方こそ神の子と信じていたにもかかわらずです。
イエス様は「全ての権能を授けられた、私と同じ、別の助け主、聖霊を送る。するとあなたがたは力を受けて、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となる」とお約束下さり、聖霊様をお送りくださいました。
わたしたちが心の王座を明け渡し「どうぞよろしくお願いいたします。」と祈ると馬小屋のようなわたしたちの心にイエス様が来てくださり、「思い煩うな、喜びなさい、感謝しなさい、祈りなさい」と声をかけてくださるのです。「はいありがとうございます」と委ねると、聖霊様の業を拝します。
山口紀和子先生は千葉県で伝道していますが、癌の手術を受ける時、平安が心を満たしていたとお手紙を下さいました。「聖霊の業と思いました」とありました。イエス様を指し示す指にされました。
3)神様を見せてくれたイエス様
18 神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいる
ひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。18節
神様は創造者ですから、この世界の有様とは異なられます。何の形にも似せて作ってはならない。と命じられ、「あってあるもの」と宣言される方です。神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。Ⅰテモテ6:16とあります。でも、「この言は初めに神と共にあった。」(2節)という、その神様が「人となられてこの世界に宿られた」と弟子達が証言しています。
神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいる
ひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。とあります。原文には「彼こそが」という言葉がはいっています。
ふところにいるというのは、一番親しくして、心を赦した者の姿です。赤ちゃんがお母さんに抱かれて、安心している様子です。父と子と聖霊の愛の交わりのうちにあった方が、この世界に人となって来られたので、神様を現してくださったというのです。
このことが言えたのは、先回も申し上げましたが、イエス様と共に歩んだ弟子として、嵐に「静まれ、黙れ」と命じられるとそのようになり、「わたしの心だ。清くなれ」と言われれば重い皮膚病がいやされました。「これを配りなさい」と言われてパンを配れば5千人もの人々が食べて満腹しました。それらは全能の神を経験したできごとでした。虐げられていた人々の友となり、罪の赦しを宣言されました。ご自分が死を受け、死を打ち破って復活され、昇天された時もそこにいた弟子達でした。
裏切った弟子たちを赦し、愛し、聖霊を送られて、宣教を委ねられました。確信に満たされ、平安の命の日々を経験して来たヨハネと、これを伝えられた人々もこのことを経験、証言しました。
イエス様は、それまで見る事ができなかった神様を、人間となって神様がどんな方か見せてくださった方です。おとぎ話ではなく、2022年前に、この世界に実在されたかたです。
神様がいるなら見せてくださいという方には、このイエス様を紹介してください。わたしも母に「神様がどんな方か知りたかったらイエス様を見ればいいんだよ」と教えられて、信じました。
今73歳になって、神様と共に歩む平安と喜びに生かされて感謝しています。今が一番幸せです。まだ生けるイエス様の命を頂いていない方は、「どうぞ、わたしの心においでください」とお祈りしてください。今イエス様を証言するひとりとされますように。
【祈り】父なる神様。今日、主イエス様を心に迎えます。内に住んでくださる神様を指し示すあなたが、わたしの内に住んで、オーナーが変わった命に歩ませてください。御名によって。アーメン