元旦・新年初主日礼拝説教「イエスを仰ぎ見つつ走ろう」ヘブル書12:1,2 深谷春男牧師

説教「イエスを仰ぎ見つつ走ろう」

聖書:ヘブル書12:1,2

説教者:深谷春男牧師 

 

明けましておめでとうございます!

 主にあって、この年、2023年もよろしくお願いいたします。

        

 昨年の一年間の国内外のニュースなどを見、聞きしていると、気が遠くなるような思いがします。コロナ・パンデミックももう丸3年になろうとしていますが、まだまだ、勢いを失ってはおりません。中国などで続いているコロナ感染の猛威などは想像を絶するところがあります。また、昨年の2月24日から始まったロシアのプーチン大統領によるウクライナへの軍事侵攻、これは凄惨を極めました。ロシアのミサイル攻撃で、ウクライナの首都キューイを初め、現代にこのようなことが許されるのか?と思うほどの、町々の破壊、侵攻にともなう暴行や殺戮、拷問・・・。なんともまあ、世界が平和に進んできたように見えましたが、驚くべき軍事的な破壊的な一年だったと思います。

 昨年をあらわす漢字は「戦」であったというのもなるほどと思います。核を用いる兵器の使用の可能性をちらつかせながらの脅しやポセイドンなどの海底での核爆発が引き起こされると地球上に600メートルの津波が発生するなどと情報が流れてくると、なんとも黙示録時代の到来かと思わされるところがあります。でも今回の武力侵入による被害はロシアでもウクライナでもそれぞれ10万人以上の死者を出し、インターネットやユーチューブ、ツイッターを通して、ありとあらゆる情報が飛び交っています。更にこの混乱状況を通じて、この終末的な状況は、宇宙人の人類攻撃であり、その働きは2023年には世界が終わるほどの大混乱世界をもたらし、人類は滅亡するというようなトンデモ本のような内容が語られます。マルコ13章の小黙示録には、このような混乱の時代には、まず「にせキリスト、にせ預言者の出現」があるので気をつけるようにと、二度もくり返し語られていますね。・・・まあ、言葉に尽くせない、サタンの跋扈の時代となっています。わたしの所にも、「わたしが再臨のキリストです」というような、ユーチューブ動画が、クリスチャンという方から送られてきたり、霊的怪奇現象の解説や霊媒、シャーマニズム関係の動画が送られてきたりします。申命記18:9~14にあるような「・・・占いをする者、卜者、易者、魔法使、11 呪文を唱える者、口寄せ、かんなぎ、死人に問うことをする者・・。12 主はすべてこれらの事をする者を憎まれる」。を知らねばなりません。

このような時代、礼拝を大切にし、神の御顔を仰ぎ、御言葉に整えられ、御霊に満たされて歩まねばなりません。霊的武装をしっかりして、サタンが、食いつくべきものを求めて経回っている現実を知らねばなりません。「彼らは、奇跡としるしを行い、選民をも欺そうとする。」マルコ13:22。

 

人は目標がはっきりしないと走れない。全速力で走ると言うことは、目標がはっきりし、ある程度の距離でなければできないことだそうです。

 

【今日の聖書箇所の概説】

 今日共に学ぶ「ヘブル人の手紙」は、いろんな解説書を読んでみると。新約聖書中もっとも文学的な書だと説明がなされています。ギリシャ語が非常に流暢なのだそうです。そう言われてみればたしかに、今日の聖書箇所など、日本語で読んでも印象深い名文だと思います。この書の信仰内容においては、パウロの手紙に非常に似ているので、昔はパウロが書いたのであろうと言われておりました。でも、近代になってから文体や言い回しやメルキゼデクや旧約の祭儀についての文章が多かったりするので、パウロの影響を受けたある著者が書いているようです。

 今日の聖書箇所については、前の11章の信仰者列伝を踏まえて、さまざまな試練や訓練を超えて信仰の歩みを全うするようにと教えています。

 

【メッセージのポイント】

  • 1 こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように

囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。

⇒ 多くの証人に囲まれ「指定走路」を走る!        (1節)

「指定走路」(詳訳聖書)と言う訳があります。「自分に定められている競走」という部分をそのように訳しています。その方がはっきりするのかもしれません。オリンピックの選手が自分に割り当てられた指定のトラックを懸命に走る姿を思い描くことができます。わたしどもの地上生涯は、自分に与えられた指定走路を感謝と賛美をもって走ることです。

ヘブル書の著者は11章において信仰者の列伝を書き記し、アベルやノアやアブラハム、モーセ、ヨシュア等の信仰生涯を語り終えました。そして、今、わたしどもに課せられた課題を知らせます。自分に与えられた信仰の馳せ場、「指定走路」を走ることです。ちょうど観衆で満堂の国立競技場でマラソン選手が競技場のトラックを走るようなものです。観覧席の雲のような群集はどよめいて選手に声援を送っています。わたしどもの人生の闘いは孤独の戦いではありません。多くの観衆に囲まれたトラック競技なのです。その中心に主がおられ、代々の聖徒が暖かい声援を送ってくれているのです。

ここでこの手紙の著者は走るために「かなぐり捨てるもの」について語っています。マラソンに出場するのにいろんなものを持つことはできません。ランナーは極力身軽になって走ります。ここではわたしどもが与えられた場を走るときにかなぐり捨てるべき物があることを語っています。それは「重荷」と「罪」です。重荷とはこの世のさまざまな思い煩いを語っているのでしょう。罪とは神のみ旨を妨げる誘惑を言っています。

また走ることは時に苦しく、時には棄権したくなることもあります。しかし、最期まで走らねば賞にはありつけません。わたしどもがこの「福音宣教の競争」を完走して、「善かつ忠なるしもべ、よくやった」とのお褒めの言葉を期待するなら、「忍耐」を忘れてはなりません。苦しくっても走る使命があるときには走り抜けるのです。

 

2)、2 信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。(2節)

⇒ 主イエスを仰ぎ見つつ走る!

ここでの走る姿は「主イエスを仰ぎ見つつ」走るのだと記されます。「信仰の導き手であり、完成者である主イエスを仰ぎ見つつ」走るのです。主イエスはわたしどもの信仰の模範であり、ゴールなのです。主イエスが見えなくなると走るのはつらくなりますし、力を失ってしまいます。

特にここでは主イエスの十字架と復活が語られています。わたしどもは主イエスの十字架のあがないのわざとその苦しみを覚え、走るのです。また、それは、主イエスの復活と昇天の勝利と喜びを見上げて走ることになります。主イエスの十字架と復活の恵みから目を離してはいけません、今日もこの礼拝で主イエスをしっかりと見上げて救いの確信を得、魂に恵みをいっぱいにいただいて整えの時をいただきましょう。

 

3)3 あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。(3節)

⇒  忍耐をもって走る!

 1節で、すでに著者は忍耐を持って走るということを言っておりました。すなわち「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」と。この3節で、著者はもう一度、「忍耐」ということを語ります。

ヘブル書の書かれた時代はキリスト教への迫害が起こり、ここかしこでクリスチャンのリーダーたちが投獄されたり、厳しい仕打ちにあったりというニュースが流れはじめた時代でもありました。ですからこの手紙でも「3 あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。」と勧められています。主イエスの十字架の苦しみやさまざまな戦いを忘れて、この世のことに思いを奪われてしまうと霊的に力を失い。「弱り果てて」「意気そそうしないため」主イエスの霊的な戦いを思い起こすべきだと勧められています。

 

わたしどもはこの激動の時代に生きる。十字架の主イエスをしっかりと見上げ、復活の命に満たされ、やがて主にお会いする再臨の時に「善かつ忠なる僕よくやった」「わが花嫁よ」とのお言葉を受ける時まで走り続ける。

 日曜日を、喜びの日、栄光の日と呼び、礼拝で主を仰ぎ見よう!

  「主日礼拝は1年に52回巡ってくる春である。」(コールリッジ)

朝、早天祈祷会を守ろう!

  目が醒めたら、主の臨在に満たされ、主の御言葉を戴いて一日を始める。

 神第一の信仰を!

  神に創造され、贖われたこの命、神の国と神の義を第一に生きる!

 

【祈り】主よ、今朝、2023年元旦礼拝、初主日礼拝を感謝します。どうぞ、わたしどもの霊の目を開いてください。走るべき「指定走路」がはっきりと見えますように。そして、何よりも主イエスが見えますように。その十字架と復活の福音が明確に示され、聖霊に満たされ、再臨の主イエスの到来の時に「善かつ忠なるしもべ良くやった」との終点を見続けることができますように。主よ、この年、わたしどもの魂に、わたしどもの家庭に、わたしどもの教会に、この新宿歌舞伎町に、東京に、日本に、そして全世界に、あなたの救いの御業リバイバルの業が始まりますように。御名によって。アーメン