新宿西教会主日礼拝説教「優れたいけにえを献げ」ヘブル書11:3~4 深谷春男牧師

説教「優れたいけにえを献げ」ー 祝福された礼拝について ー

聖書:ヘブル書11:3~4

説教者:深谷春男牧師 

今日は、先週の説教に続き、ヘブル書11章の特に有名な箇所、「信仰者列伝」であり、「偉大な信仰者の肖像画の掛かったギャラリー(画廊)」(FBマイヤー)と言われるところを読みます、そして、ここに記される信仰者の姿から、「信仰とは何か?」を共に学びたいと思います。

 1~ 3節 信仰とは何か。その定義と世界創造、その根幹の理解。

    4節 アベル(優れた礼拝)、

    5節 エノク(臨在信仰)

 6~ 7節 ノ ア(御言葉への信頼と服従、箱舟建造) 

 ・・・・・ 後は略・・・・・・

さて、今日のヘブル書の11:3,4節は以下の通りです。

3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。4 信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。

 

特に、4節では「信仰によって」という言葉が3回記されます。

「信仰によって」、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、

「信仰によって」義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされた。

彼は死んだが、「信仰によって」今もなお語っている。

 

 アベルの信仰とその出来事は創世記4章に記されていますので、今日は創世記4章の記事を中心に、見てゆきたいと思います。アベルから学ぶ、信仰の主題は「まさったいけにえを神にささげげ」た、礼拝の姿勢です。いつもと違って、創世記4:1~10節の方をご覧になってください。

 

以下の説教の内容は「創世記4:1-9」からになります。(旧約4ページ)

さて、創世記4章7節には、「正しいこと」という言葉が2回出てきます。人間にとって「正しいこと」はまず、「真実な礼拝」です。キリストの花嫁として選ばれた教会は、地上でなす最高の業は、真実な礼拝です。真実な礼拝は罪の中に落ちた人間が神の顔を仰ぐことが赦される時なのです。それは天の窓が開くときなのです。神の風が吹いてくるときなのです。それは人間の本性が回復する恵みのときなのであります。それは人生の祝福の源泉なのです。

 

【聖書箇所の概略と区分】

創世記3-11章は人間の「原歴史」と呼ばれます。3章では神と人の断絶(失楽園)が記されています。4章は人と人との断絶(兄弟殺し)という主題をわれらは考えさせられます。

  •   アダムは妻エバを知り、カイン(「得る」の意味)を生む。

2節  弟アベルが生まれる。(アベル=息、すぐに消え行く者の意味)

3-5節  カインとアベルはそれぞれ農夫、牧羊者となり、神に礼拝を捧げる(堕落後の最初の礼拝である)。神はアベルの献げ物を受けられたが、 カインの献げ物は受けられなかった。

6-7節   神の警告。正しいことをしているなら顔を上げよ、と言われた。

8-9節  カインは弟アベルを野原に誘い殺害する。神様の「アベルはどこにいる。」との質問に、「わたし弟の番人でしょうか?」。

 

【メッセージのポイント】 

1)2 彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。3 日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。・・・・・5 しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って顔を伏せた。(2-5節)

 ⇒  罪の問題の解決。(神からの愛を受けよ)

 カインとアベルの物語は「人と人との断絶」という主題と、堕落した人間が初めて神を礼拝することの「礼拝の本質」という二重の構造を持っています。今日は礼拝の姿に焦点を絞ります。農夫のカインが献げた農作物が神様に受け入れられず、牧羊業のアベルの献げた羊の犠牲が神様に受け入れられたのはわたしども日本人には、とても不公平に見えます。

しかし、ユダヤ人にとってこれは理解に難しくないことだそうです。何故なら、レビ記などを読みますならば、すぐに分かることです。旧約の時代には、礼拝は動物犠牲が礼拝の中心でした。穀物等のささげ物は素祭といい、それは二次的なものでした。礼拝のときには、動物をささげ、自分の罪のために身代わりにほふられる動物を見つめつつ、罪の悔い改めをしたのです。礼拝規定を定めたレビ記の主題は「罪ある人間が聖なる神の御前にどの様に近づき得るのか」ということでした。動物の血を流さない礼拝は受け入れられないことをユダヤ人はよく知っていたのです(黒崎幸吉、パゼット・ウィルクス)。羊や牛が身代わりになって血を流すということは、礼拝者に「罪の恐ろしさ」を教えているのです。血を流すことなくして罪のゆるしはありません。罪の中に落ちてしまった人間が、聖なる神の御前に行くとき、まず第一に必要なことはあがないの血潮なのです。そこには「罪のゆるし」があり、「神の受け入れられる礼拝」の基本があります。新約聖書は、動物ではなく、神の子が十字架にわたしどもの身代わりになって死なれたことを語っています。自分の罪を認め、「十字架の贖い」を信じる信仰なくしては、真実の礼拝にはなりません。

パゼット・ウィルクス先生は、この世には二種類の礼拝があると語っています。ひとつの礼拝はささげる礼拝です。自分の収穫を感謝して神にささげる。金銭等を捧げて、神様の守りを願う宗教、礼拝です。そこには罪に意識はありません。むしろ誇らしげに、自分の得たものをささげるのです。でも、もう一種類の礼拝は、わたしどもは罪に汚れており、聖なる神様にささげるなどはおこがましい、聖なる神様の御許には、近づくことさえもできないと考える宗教の礼拝です。その場合神の側から礼拝者を赦し招くことが先決になるのです。キリスト教の礼拝はもちろん後者です。礼拝の中心は、主イエスの十字架であり復活であるのです。

 

2)。4 アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。(4節)

 神第一の礼拝生涯。(神への愛に生きよ)

 更に第二にこの記事の教えている内容は、アベルの献げた礼拝の供えものについてです。彼は『ういご』を捧げました。しかも『肥えたもの』をもって礼拝を献げたと記されております。アベルにとって献げものとは最良のものを献げることであったということが分かります。ここに神第一に生きるクリスチャンの姿があります。人生の優先順位をきめて、礼拝を第一にして歩む姿です。わたしどもは神様から良いものをたくさんゆだねられました。時間、労力、財宝、健康、能力、人脈、人柄、豊かな体験・・・・・等々。それを正しく有意義に管理して行きたいものです。いつも、神の御旨に従い、神第一の生涯を歩むこと、「神の国とその義を第一にする」ことはまことの礼拝とは何かを教えている大切な言葉です。

 

3)8 カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。9 主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」 (8,9節)

 ねたみと憎しみの克服。(他者への愛に生きよ)     

 第三の課題は兄弟間のねたみと憎しみの問題です。ある意味で、この主題が一番、ここでは強調されています。この箇所には「弟」という言葉が7回も繰り返されています。それは実に象徴的なのです。神様が、弟アベルを特別な祝福を与えているという思いに捕らわれた兄のカインは、ねたみのために平安を失い、ついに礼拝の最中に兄弟殺しを決意するのです。何と恐ろしい人間の罪性でしょうか?昔、旧約神学の授業で船水衛司教授が、人間の罪の現実を強調されたのを思い起こします。ねたみや憎しみに身をゆだねてはなりません。

 

4)6 そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。7 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。

正しい礼拝は勝利の人生を約束する。(顔を上げて歩め!) (6~7節)

 主はカインに言われました。もしも、正しいことをしているのなら、顔を上げなさい。神との「正しくない」関係にあるなら、気をつけなさい。罪が野獣のように門口で待ち伏せているのです。彼はお前を慕い求める。人が通るのを知っている豹や狼やピューマは、人間の出口でわたしどもにバッと跳びかかってくるのです。わたしどもはそれを治めねばなりません。

  神の愛を受け、神の愛に生き、他者への愛に生きるという出来事が起こる、正しい礼拝は、わたしどもをまっすぐな人生に導いてくれるのです。そこでは、神の愛がいつも示され、魂に深い喜びと生きてゆく価値が示されます。サタンの攻撃に対する、いわば霊的なレーダーを持って、備えをして、勝利の道を知らねばなりません。

以前、戦艦大和の話しを聞きました。当時、最高の技術を結集した世界最高の戦艦でした。しかし、一番の弱点はレーダーの弱さだったそうです。B29やグラマンが、海のかなたからやってきて、大和を襲いました。彼らは戦艦大和の弱さを熟知しておりまして、集中的な猛攻撃、世界最高の軍艦も、約二時間の戦闘で敗北して、波間に沈んでしまったというのです。

 

【 祈 り 】 恵みの主よ。今日は、「アベルの信仰」を学びました。それは人類最初の礼拝の記事を通して、罪の中に落ちた人間が祝福の中を歩み行く道の学びでもありました。礼拝は天国の恵みの回復の時です。礼拝は「神からの愛を受け、神への愛に生き、他者への愛に生きる」、人間本来の姿の回復の時であると学びました。試練と誘惑の多いこの地上の歩みの中で、いつも顔を上げて大胆に勝利する道は、大祭司なる主イエスがおられることであり、十字架の贖いの血潮を深く覚える信仰によってなされる礼拝です。信仰によって真実な礼拝を守り続けて行けますように。主の御名によって祈ります。アーメン!