新宿西教会主日礼拝説教「わが右の手をグイッと掴み」  詩篇73篇 深谷春男牧師

説教「わが右の手をグイッと掴み」

 ー 天にも地にもわが慕うものはあなたのみ ー

聖書:詩篇73篇

説教者:深谷春男牧師 

   先週、説教の初めにこのように語りました。「わたしたちの信仰生涯は、神の臨在と御言葉に挟まれたサンドイッチの如し」。 礼拝後のコイノニアの交わりの時に、ある兄弟が「今日は、おいしいサンドイッチをありがとうございます。そのように歩みます!」と語られました。365年神と共に歩んだ「臨在の人・エノク」のメッセージでしたね。それと共に、そのコイノニアの席上、質問がありました。「先生、どうしたら、そのような神様の『臨在』の信仰を持つことができますか?」わたしはその質問の深さに躊躇しながら、「主にその臨在を祈り求め続けることでしょうね。主が必ず答えて下さいます。」と答えました。今日の詩篇はその答えかもしれません。

【 詩篇73編の概略と区分 】

  この詩篇73篇は「知恵の詩」であり、歌うための賛歌ではなく、黙想の形で記された神様の歴史支配への信仰告白です。「旧約における魂の戦いにおいて、もっとも成熟した業績のうち、73篇はその第一位をしめている」とA.ヴァイザーも絶賛しています。この詩は「アサフの歌」に所属します。「アサフ詩集」はまず、50篇があり、それから73―83篇がそのように呼ばれ、合計で12篇の詩集です。特にこの詩は、最近は非常に注目されています。72篇で一応、ダビデ詩集が終わり、この詩からは詩篇の第三巻が始まることになります。また、詩篇全体の中でも詩篇146―150篇を最後のハレルヤとすると、この詩篇73篇はちょうど詩篇の中心となります。ここで表現される信仰内容も、詩篇の中心的におかれるにふさわしい、重要な意味合いを持つというのです(W.ブルッグマン)。

 聖書の信仰に従って歩もうとするわたしどもにとって、まさに共に学ぶにふさわしい聖句と思います。全体の構造は、次のようになっています。

  1-12節  詩人は悪人の安泰を見てうらやみ、信仰の挫折寸前だった。

 13-20節  不条理に悩んでいたが、聖所で神の裁きに霊の目が開かれる。

 21-28節  霊的覚醒を経験、神の恵みに感謝し、神に近くある幸いを歌う。

 

 【メッセージのポイント】

1)2 しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、

   わたしの歩みがすべるばかりであった。

  3 これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、

   その高ぶる者をねたんだからである。 (2、3節)

     ⇒  おごり高ぶる者をうらやむな、信仰の歩みを滑らせるな!

この詩はまず、冒頭に結論が語られます。

「神はイスラエルに対して、心の清い人に対して、恵み深い(=善である)」と歌われます。神の主権者であることや、その支配の正しさは知って、その恵みのうちにまっすぐに生きて行けるのはすばらしい。最善だと宣言します。 しかし、人間の現実は、思うようには行かない。いやむしろ、わたしの現実は、「わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかりだった!」と告白しています。それは「わたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである」と理由が述べられています。

全能の神が支配しておられる世界、正義の神が支配しておられる歴史。それなのに、どうしてこの世界は問題が多く、わたしどもの歴史や人生には不条理が満ちているのか?罪深い人や神に逆らう人が豊かに栄え、神様に従い真実に生きようとしている人が病気をし、貧しく虐げられているのか。

「これはおかしい?」と詩人はつぶやいたのです。この世の不条理に心惑わせ、おごり高ぶる者を見てうらやんだのです。

その結果、すべてがばかばかしく思われ、信仰の歩みの足が滑りそうになってしまった!と自分の人生を振り返って、その体験を語り、後輩たちに警告しているのです。

もしも、その不信仰のつぶやきを語るなら、次の世代の若い人々をつまずかせ、信仰の道から遠ざけることにしてしなったであろうと回想しています。

 

2)17 わたしが神の聖所に行って、

    彼らの最後を悟り得たまではそうであった。 (17節)

      ⇒ 聖所で、礼拝の場で、神の歴史支配を悟れ!                             

 詩人はどのようにして、この人生の不条理を乗り越えたのでしょうか?

17節では「聖所に行って、彼らの最後を悟り得た時」までは混乱の中にいた」と告白します。聖所は礼拝所のことです。礼拝は神の言葉の啓示の場です。詩人は礼拝にて神の歴史支配の現実を目の当たりにしたのです。

神様なしの生涯は、どんなに栄えているように見えても

「なんと彼らはまたたくまに滅ぼされ、

恐れをもって全く、一掃されたことであろう。」(19節)。

人間の高ぶりと快楽中心主義と不信仰とは実に恐ろしい結末を歴史の中で繰り返したのでした。エジプト然り、バビロン然り、ローマ然り。日本も然りです。

更に22節では、

「わたしは愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった。」

詩人は霊的に整えられて、今、神ご自身との深い霊的な交わりへと導かれ、霊的に成長して行きました。そして自分自身の不信仰に陥りそうになった時   

 代を回想して告白します。「私は獣だった!」(22節)。これも強烈な告白です。彼は、心すさんでどうにでもなれとやけっぱちになっていたのでしょう。あちらに吠え付き、こちらに噛みつき、自分自身のいらだちを抑えることができなかったというのです。

 

3)けれどもわたしは常にあなたと共にあり、

  あなたはわたしの右の手を保たれる。   (23節)

   ⇒あなたは、わたしの右の手をぐいっとつかんだ!

 詩人は自分自身の生涯を振り返り、ある時点で、「あなたはわたしの右の手を取られた!神様がわたしの人生の決断の中心である右の手を、グイとつかんだ!」と語りました。これは非常に印象的なことばです。彼は神様にぐいっと掴まれるような体験をして、神様の恵みに捉えられ、新しい人生の中に入れられたのです。

  一体、神様に右の手をつかまれた経験とは何を意味していたのでしょう?

 それはわかりません。でも、中野雄一郎先生が、わたしにポツリと言ったことがあります。「深谷先生は若い時は、棘を刺したライオンのようでしたね・・・」。とても印象深い言葉で忘れることができません。

かつては、ヘルメットをかぶり、学生運動で、あちらでもこちらでもぶつかっていた自分が、今は神様に右の手をしっかり捕まえられ、献身の生涯へと導かれている。不思議な主の導きを感謝します。

けれども、あなたはわたしと共にあゆみ、臨在の恵みの生涯へと導かれた!

  24 あなたはさとしをもってわたしを導き、

その後わたしを受けて栄光にあずからせられる。

神様との交わりは、地上においても恵み充満、やがては永遠の栄光のうちへと導かれるでしょう、と彼は告白します。

 神様はわたしの右の手をしっかり握っていてくださる。頭を抱えるような、もだえるように悩みの中にいる時にも、獣のように暴れまわるような時にも神さまの右の手をぐっと握り、支えて、みそ場近く寄せてくださいます。神様の温かいぬくもりの手を感じつつ、与えられた馳せ場を走りたいものです。この礼拝に参加しておられる方も、それぞれ、神様に右の手をぐっとつかまえられて生きているようなところもあるのではないでしょうか。

この23節の一句は、ユダヤの哲学者マルチン・ブーバーの墓碑でもあるそうです。そしてアサフはさらに告白します。

なんじのほかに我、誰をか天にもたん。

地には汝のほかにわが慕う者なし。(25節) (文語訳)       

 天でも、地でも慕うお方は、神のみ!というのです。これは旧約最高の告白です。神様がわたしどもの右の御手を、ぐいっとつかんで、すばらしい救いの御業に参与させて下さる。わたしの献身の時の愛唱句でもありました。モーセも、ダビデも、エリヤ、イザヤ、パウロも、ルターも、ウェスレーも。

 

4)26 わが身とわが心とは衰える。

    しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。

  27 見よ、あなたに遠い者は滅びる。

    あなたは、あなたにそむく者を滅ぼされる。

  28しかし神に近くあることはわたしに良いことである。

    わたしは主なる神をわが避け所として、

    あなたのもろもろのみわざを宣べ伝えるであろう。(26~28節)

  ⇒  神はとこしえにわが心の力、わが嗣業!ハレルヤ

   この詩の締めくくりとして、詩人は、神の遠きことは滅びであり、神に近きことはまことの幸いであると宣言しています。新約聖書の中で、パウロはまた言います。「主は近い。何事も思い煩うな。」(フィリピ4:5、6)。われらのために十字架にかかり、復活してわれらを永遠の御国へと導かれる主イエスはわれらに最も近い存在なのです。

 

  わたしどもの生涯は、聖所において、礼拝の場において聖書を通して神の歴史支配の現実を啓示されるまでは、悶々として苦悩の中を生きて行きます。しかし、霊の目を開かれた後は、われらは主の恵みの深さを知らされ、神に近い生涯を歩み出す。天でも地でも、慕うお方は主のみ!みそば近くおらせ給え!とたたえつつ生きる者と変えられます。主の恵みの中を、この1年間、主に右の手を引かれつつ、歩んでまいりましょう。ハレルヤ。

 

【祈祷】

 全能の父なる御神!今日は2023年2月の第二主日を迎えました。そして詩篇の中心のような73篇を共に学ぶ事ができて感謝いたします。わたしどもの生涯には多くの悩みや不条理があります。しかし、それにとらわれて、足が滑ることのないように憐れんでください。礼拝に列席して、あなたの臨在に触れ、神の御言葉をもってわたしどもの霊の目を開いてください。活けるあなたの御手を見上げることを得させて下さい。そしてわたしどもの右の手をとって、栄光の生涯へと導いてください。「わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない」と言いうるほどに霊的な高みまで導いてください。「わが最善は神に近きこと」という告白。この1年、あなたのそば近くを歩む恵みあふるる1年としてください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン