新宿西主日主日礼拝説教「あなたは我を愛するか?」ヨハネ21:15~19深谷春男牧師

説教「我は復活なり、生命なり」

聖書:ヨハネ11:23~27

説教者:深谷春男牧師 

 イースター・おめでとうございます!

 今日はイースター礼拝です。主イエス様の復活を記念する礼拝です。主イエスが人間の罪を十字架の上であがない、解決し、更に、死を打ち砕いて復活されたことを心から感謝する日です。聖書が示している人間の一番大きな問題は「罪と死」です。その中でも、「罪」が問題です。      罪は神から遠く離れて存在することです。聖書は神から離れた人間が、ちょうど主イエス様の語られた「放蕩息子」のように、父から遠く離れて放蕩三昧に身を持ち崩すようなものだと教えています。放蕩息子が、本心に立ち返り、父のもとに帰り、神と和解すること、これが救いです。和解の後は、神の子としての新生が始まるのです。「死んでいた息子が甦った」のです。

先週は 受難週で、2日から8日まで、毎日、受難週祈祷会があり役員の兄弟姉妹が以下のように奉仕をしました。感激の集会でした。

皆さんが、涙ながらに奨励をされ、涙を流して祈られました・・・!

 

【聖書箇所の概説】

今日の聖書箇所は、「ラザロの復活」として、とても有名な箇所です。ヨハネはこの福音書の第一部としてまず「7つの奇跡物語」を記しています。「しるしの書」(主イエスの7つの奇跡 (1:19ー12章)

①カナの婚礼での奇蹟(2:1~11)

②役人の息子の癒し (4:43~54)

③ベテスダの池のほとりでの癒し(5:1~47)

④5千人の給食での奇蹟(6:1~15)

⑤湖上歩行の奇蹟(6:11~21)

⑥盲人の癒し(9:1~41)

⑦ラザロの復活の奇蹟(11:1~44)

このラザロの復活は、この7つの奇跡物語のなかの最後に位置しており、福音書の前半のクライマックスとなっております。ヨハネ福音書は「主イエスの十字架と復活こそが人間の救い」と語っています。死んで4日経って臭くなったラザロを主イエスはよみがえらせた!と語ります。

 

【メッセージのポイント】

1)、21 マルタはイエスに言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。(21節)

 ⇒ memento mori 死を覚えよ。

 主イエスのなさったもっとも大きな奇跡のわざは「死人をよみがえらせることだった」とヨハネは叫んでいます。言うまでもなく、「死」は人生のもっとも大きな課題です。すべての人はこの死に立ち向かわなくてはなりません。わたしどもが地上で生きてゆくには、時間的な制限があります。memento moriという言葉はラテン語で「死を覚えよ」という意味です。中世の修道院では「合い言葉」のように、この言葉が使われたというのです。

 以前、神学生の説教で、哲学者の森有正の言葉が紹介されました。

「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥があります。どうも他人には知らせることができない心の一隅というものがある。そこにしか神様にお目にかかる場所は人間にはないのです。人間が誰はばからずしゃべることのできる観念や思想や道徳や、そういうところで誰も神様に会うことはできない。人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる。また恥じている。そこでしか人間は神様に会うことはできない。」(『土の器に』p.21)

 洗足の木曜日に読まれたこの言葉が脳裏から離れませんでした。主イエスの御受難は、わたしたちの最も深い暗やみを照らします。

2)、25 イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。26 また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。                   (25-27節)

⇒ 我は復活なり、生命なり!(文語訳)         

 何という驚くべきことばなのでしょう。主イエスは「わたしは復活であり、命である」と語られました。主イエスは一度死を経験し、死を克服したよみがえりの命である、とご自身を示されました。そして、また、主イエスは命そのものだといわれるのです。そして主イエスと信仰によって、結びついていると、わたしどもは命そのものを得るのだというのです。その時、「信じる者は死んでも生きる」と言われます。「生きていて、主イエスを信じるものは死ぬことはない」とも言われました。

そして主はここで、「信じることの大切なこと」がくり返されます。「あなたはこれを信じるか?」と信仰の応答を求めたのです。信仰という電線で主イエスにつながっているようなものです。マルタに主は尋ねられました。そして今、あなたに応答を求められるのです。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。26 また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか?」。はっきりと告白しましょう。「ハレルヤ、主よ、わたしは信じます!」と。 

以前、教会であるところに出かけようといたしました。いつものように教会の車に乗り、エンジンをかけようと思ってスイッチを入れたところが、カチッと小さな音がするだけで、エンジンがかかりませんでした。何度やっても同じ。「ああ、バッテリーがあがった!」と悟りました。大沼兄にその旨を告げたら、コードを持ってきてくれて、自分の車のバッテリーと教会の車のバッテリーをつないでエンジンをかけると、「ブウウン!」と一発でエンジンがかかったのでした。運転しながら考えました。わたしどもの生涯もいろんなことが起る。魂が擦り切れてしまうような、バッテリーがあがってしまうようなことが起こる。でも、キリストの命、永遠の命に信仰によってつながると、死んだバッテリーが生き返るように、わたしどもの魂も生きる。バッテリー同士をつなぐコードが「信仰」なのだと示されました。皆さん、今日、マルタのように「主よ、信じます。あなたが来るべきキリストです!」と明確に告白しましょう。

3)27 マルタはイエスに言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」。(27節)

⇒ 主よ、信じます!

マルタの告白はすばらしいですね。 彼女の答えはこうでした。「主よ、信じます。あなたがこの世に来たるべき御方、キリスト、神の御子であると信じております」。ここに信仰の救いが明確に語られています。「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております!」。マルタと共に、この告白を致しましょう!山室軍平先生はイザヤ書25章の解説でこのように語ります。

「真の宗教は永遠の命を約束する。イエスの救いは人を、死に打ち勝たせるものである。ここに「とこしえまでも死をのみたまわん」(8節文語訳)とあるは、それを示している。有名な説教者ムーディーの言葉に「いつか一度、君は新聞紙上に、東ノースフィールドのD.L.ムーディが死んだという記事を見るであろうが、その一言半句も信じてはならない。その時こそわたくしは、これまでにかつてないほどに、生き生きしているのである。ただわたくしは高い所へ上っている。それだけである。このわたくしは土くれのような住み家を出て、崩壊する恐れのない住居に移転しただけである。つまり死も罪も触れることのできない、イエスの御姿に似た霊体に移されるだけである」とある。

 三室泰平さん、湯沢七重先生、滝元明先生、藤井武先生、小渕しず姉、朝位真士先生など天国凱旋の先輩たちの勝利の笑顔が浮かんできます。

43 こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。                         

⇒ ラザロよ!出てきなさい!           (43節)

 主イエスは今日語られます。「ラザロよ!出てきなさい!」。赤羽で牧会していたときは洗礼名をつけました。何人かは、「ラザロと付けてください」と言いました。家庭崩壊を経験した方、路上生活を経験した方、たくさんのラザロがいました。福音に触れた人はラザロの二世です。

内村鑑三の召天の記事。人と思想『内村鑑三』関根正雄 篇・著

1930年(昭和5年) 3月28日、午前8時51分永眠、70歳。

3月26日、古希の誕生日迎える。聖書研究会員による古希祝賀感謝会開かれた。内村は、心臓衰弱の発作による苦しみの中で、集まった方々に伝えるように「万歳、感謝、満足、希望、進歩、正義、すべての善きこと」という短い言葉にその時の心持ちを託した。付け加えて言うには、「聖旨にかなわば生き延びて更に働く。しかし、いかなる時にも悪しきことはわれわれおよび諸君の上には未来永久に決して来ない。宇宙万物人生ことごとく可なり。言わんと欲すること尽きず。人類の幸福と日本国の隆盛と宇宙の完成を祈る」との語を参会者に送る。」

【祈り】 天の父よ。わたしどもは、人生で悲しいこと、苦しいこと、バッテリーが上がって魂が動かなくなるような時もあります。でも、主よ、あなたを信じて、魂のコードを、神よ、あなたにつないで歩みはじめるとき、わたしどもは「生き返る」のです。復活するのです。その時、罪と死の呪いは消え去り、神の命、永遠の命がわたしどもの内側に始まるのです。「人は心で信じて義とせられ、口で告白して救われます!」。「あなたはこれを信じるか?」。わたしどもは今日喜びを持って、答えます。「主よ、信じます。あなたこそ、この世に来たるべき方、キリスト、神の御子です!」と。内村先生のように、ムーディー先生のように、復活の信仰の中を、大胆に歩ませてください。復活の主よ、共に歩んで下さい!罪と死の呪いを砕きたもう、復活の主イエスの御名によって祈ります。アーメン。