新宿西教会主日礼拝説教「あなたはわたしを愛するか?」ヨハネ21:15~17深谷春男牧師

説教「汝、我を愛するか」

聖書:ヨハネ21:」15~19

説教者:深谷春男牧師 

 先週はわたしたちはイースター礼拝を守り、主の復活をお祝いし、恵みの一日を過ごしました。そこでは、ベタニアのマルタに問うた言葉を学びました。主イエスは、彼女に対して「あなたはこれを信じるか?」マルタは答えました。「主よ、信じます。あなたがこの世に来たるべきお方、キリスト、神の御子であると信じております」との信仰の告白に学びました。今日は、わたしはあなたを愛します!」との信仰告白を学びましょう!

【今日の聖書箇所の概略】

今日は、ヨハネ福音書の最後の章を皆さんで読んでみたいと思います。

20章では主イエスの復活のできごとが記されておりました。

21章に入ると、場面は急展開。ペテロと7人の弟子が、ガリラヤ湖で漁師に戻っている場面です。漁は不振。主イエスが網を右に降ろせと海岸から指示する。言われたとおりにすると、153匹の大きな魚が捕れた。岸に戻ると、パンと魚の朝食を主イエスが用意しておられ、復活の主を中心にして、静かな朝食の時を持つ。15 節から17節はほとんど同じことが三回繰り返されます。

【メッセ-ジのポイント】

1)、15 彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。

                            (15節)

⇒ ヨハネの子シモンよ!   -復活の主はあなたを呼ばれる!-

ここで、主イエスは、復活してペテロを中心とした7人の弟子に現われなさいました。時は静かなガリラヤ湖の岸辺。爽やかな黄金の朝日が、湖の表面や、岸に生えている草や流木などが厳かな光で包み、波が静かに岸辺を照らす。その岸辺で、主イエスの用意された朝食を頂き、静かな時を持っておりました。

その時、主イエスはペテロに言われました「ヨハネの子、シモンよ」。これは改まった呼び名です。「ヨハネの子」という呼び名は、ヨハネという父親の名を引き合いに出しての呼び掛けです。家系を重んじるユダヤの社会では父の名を引き合いに出すのは特別の意味がありました。前には「バルヨナ・シモン」いうことばもあります。ですからここは、「ヨハネの子シモンよ、わたしは改めてあなたに問います。あなたの全存在を掛けて、わたしに答えてほしい」という主イエスの思いがにじんでいるといってよいでしょう。今、復活の主は、あなたに、「全人格をもって」語りかけておられます。

聖書の信仰と言うときに、わたしたちに語られる内容は、非常に個人的な、魂に対する語りかけなのだろうと思います。振り返ってみるとわたしの場合は1969年12月21日。19歳の時でした。この時、わたしは洗礼を受ける決意をしました。今、考えると中学1年生の時から導かれたキリスト教信仰の世界に生涯従うならイエス様しかしない。中学校の図書館にあった「世界の偉人伝」を片っ端から読んだ感想でした。偉人伝に出てくる方々の70%はクリスチャン。それから中学生風に書かれた文学全集も、ドストエフスキーやトルストイなどの小説は、聖書の世界でした。世界を導いているのはキリスト教で、僕も聖書の世界を見てみたいと思っていました。高校生の時には、ロマンロラン、や、倉田百三らの著作を通して、非常に個人的な救いへの期待を持ちました。そして、美術系の大学を目指しつつ、浪人生活の中で、内村鑑三、矢内原忠雄、藤井武、等の先生方のものを読みはじめていました。

この洗礼式の時の感激は、今までに体験したことのないような、罪の悔い改めの涙、主イエスの贖いの恵みに感動して涙で、新生の喜びで満ちていました。

ちょうど初代教会の弟子たちの、主イエスの十字架と復活の恵み体験と同じような歩みでした。でも、この間、蓮見和夫という先生の御本を読んでいたら、蓮見先生も、洗礼を受けたときは天も昇るような体験でしたが、しばらくしたら、そのほとぼりも冷めて、信仰が消えて行くような経験をしたというのです。ここの記事は、主イエスの人格への呼びかけと信仰の原点に返れ!と語ります。

2)、16 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。

                       (16節)

⇒ あなたはわたしを愛するか? -主イエスは愛の告白を求めたもう!- 主はペテロに言われました。「あなたはわたしを愛するか?この人たちが愛する以上にわたしを愛するか?」。

 ペテロは「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することはあなたがご存じです」と答えましたた。すると主はまた同じ問いを発せられました。そしてペトロがまた答えるという具合に、3回も主はペトロに問われました。

 じつはここには日本語では出て来ない微妙な内容が隠されているのです。ギリシャ語には「愛する」という言葉は、いくつもあるのです。ここで使われているのは2つ。1つは「アガパオー」。もう一つは「フィレオー」。

「フィレオーは、道徳的の努力もなく、親子、夫婦の間にある極めて自然的な愛、むしろ好愛とでも言うべき情愛を示す。また、アガパオーは、愛せねばならぬ時に愛する道徳的の愛を意味する。アガパオーは価値判断に基づく選択的の愛であり、フェレオーは、自然的な心の傾きである。従ってアガパオーせよと命じることはできるが、フィレオーせよと命じることはできない。フィレオーはせざらんと欲するも能わず、せんとしてもすることができないからである。」と塚本虎二は解説しています。この解説を大切にして読んでみること、このようになります。

「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛(アガパオー)するか」。彼はイエスに言った、「主よ。わたしがあなたを愛(フィレオー)することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。

第1回目に主イエスはそのように、問い、ペテロはそのように答えました。

2回目の主イエスの問と、ペテロの答えも同じでした。

3回目は、違います。「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛(フィレオーー)するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛(フィレオー)することは、あなたがご存じです」。

これは、非常に微妙ですね。第1回目の問答は、ペテロ、あなたはわたしを、あなたの師として、キリストとして、わたしを愛しますか?

主よ、あなたは、わたしが三度あなたを拒んだ弱いものである事をご存じです。わたしは、ヘリくだり、謙遜な思いでいます。あなたが好きですしあなたを愛しています。あなたのご存じのような破れ多き者です。

第2回目の問答は、ペテロよ、あなたに問いたい。これからの働きは大きい。わたしを、あなたの師として、キリストとして、愛し仕え続けますか?

主よ、あなたは、わたしが三度あなたを拒んだ弱いものである事をご存じです。わたしは、まったく自信を失っています。ただ、ヘリくだり、謙遜な思いで、答えます。わたしは、あなたが好きですし、あなたをこころから愛しています。あなたのご存じのような破れ多き者です。ご存じの通りです。

第3回目の問答は、このような内容となりますか?

「ペテロ、分かりました。あなたは自分の弱さを知り、真実の限りを尽くし、命をかけて、わたしを慕い、わたしを愛して、世界宣教のために、最後まで従ってくれるのだね?

主よ、あなたは、三度も、あなたを拒んだ弱いものである事をご存じで、三度も問うてくださいました。わたしは、実に愚かで、どうしようも無い存在です。砕かれ、己の弱さを知っています。今、ヘリくだり、謙遜な思いで、聞いています。わたしはあなたが好きですし、あなた以外に救い主はありません。あなたを心から敬い、愛しています。破れ多き者ですが、命を賭して、愛し従います。どうぞ、この愚かな者をお支えくださり用いて下さい。

わたしはこの三回の質問と答えを通して、ペテロは、自己嫌悪から癒やされ、深いへりくだりを持った、教会の基礎となった献身の瞬間なのであろうと感じました。ここには主イエスの愛と祈りが、不安と失意の中にあった弟子のペテロに、勇気と信仰を与えたすばらしい記事と思いました。

 

3)、17 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。            (17節)

⇒ わが羊を養え  -主の恵みの業への参与を!-

 「主よ、そうです。わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。そう答えるペトロに、主は静かに「わたしの羊を養いなさい」と3度お命じになられました。このできごとはペテロにとって生涯忘れることのできない、再召命の言葉となりました。主はわたしどもの全人格をかけた信仰の応答を求めておられます。主は主ご自身を見上げ、主ご自身を愛する愛を求めておられます。主はわたしどもの献身と他者への奉仕に生きる人生へとわたしどもを招いておられます。あらゆる不信仰と困難をも越えた、愛と充実の生涯がヘとわたしたちを導いて下さいます。信仰は主イエスとの全人格的な出会いであり、十字架の贖いを体験し、復活の主イエスとの出会うすばらしい生涯です。主との出会いの中で歩もう。勝利は主イエスとの出会いの中にある!主への愛と人への愛に生きる。最高の人生が始まるのです。ハレルヤ

 

【祈り】 主イエスよ。あなたの十字架に、すべて罪と咎を赦され、神の平和の中に、復活の命の中に歩み行く人生を感謝します。あんなに恵まれ、救いを経験したのに、いつの間にか信仰を失なってしまった弟子たちに、復活の主が現われ、やさしく、静かに、癒しの恵みを注いでくださり、弟子たちを世界宣教へと遣わせて下さいました。この日、主よ、ここで信仰の告白をします。

「主よ、あなたは生ける神の子キリストです」「主よ、あなたを信じ告白します!」「主よ、わたしはあなたを愛します!主の御名によって。アーメン