新宿西教会父の日主日礼拝説教「聖書に学ぶ父親像」ルカ福音書15:20~24 深谷春男牧師

説教「聖書に学ぶ父親像」

聖書:ルカ福音書15:20~24

説教者:深谷春男牧師 

 ハレルヤ。父の日、感謝します!

家庭を大切にし、両親を敬い、夫婦相和し、兄弟姉妹を愛し、子供たちをやさしさと愛情をもって、しっかりと導かれることは、素晴らしいことですね。「父の日」と言うことで、わたしは、三人の子供からすでにプレゼントを受けました。わたしは三人の子どもが与えられましたが、この三人が一緒になって「父の日」のプレゼントを送ってくれました。お父さん、プレゼントに何がいいですか?とか言われて、「ランニング用のシューズがいいね」とか言ったら、三人で相談して、とてもステキなシューズを送ってくれました。先週の月曜日、末の娘が付き合ってくれて、新宿の靴屋さんに一緒に行って、細かく店員さんに見せてもらって、なかなか良い物を選んで頂きましたね。子どもたちの愛を感じ、小さいときの子どもたちの思い出と一緒に、チラチラと昔の写真等を見て、深い感慨にふけったりしています。

【今日の聖書個所の概説】                                                          

 さて、わたしは、「父の日に何を説教するか?」と考えたときに、いろんな場面が浮かびました。今日の結論は、旧約聖書の中に出てくる人物を2人取り上げました。アブラハムとダビデです。そして、新約聖書の中からは、主イエス様の話に出てくる放蕩息子の父親です。聖書の示す父親像を、ご一緒に考え、そして、信仰を更に深めて頂きましょう。ハレルヤ。

1)信仰の父、アブラハムの姿です。

「アブラハムは信仰の父」と呼ばれています。

旧約聖書の中で、創世記12章から、アブラハムの物語が始まりますね。旧約聖書の信仰の基礎はどこから始まるのか?それはアブラハムからですね。彼はまさに、「聖書信仰の父です」ね。

創世記12章には、このように記されます。

時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしように。あなたは祝福の基となる。」彼は75歳で、天地創造の神、全能の唯一の神を信じて、歩み始めました。わたしどもがアブラハムから学ぶのは、「信仰」です。アブラハムの信仰は「神の言葉を信じて、行く先を知らないで出てゆく信仰」であり、「無から有を呼び出す神を信じる信仰」です。また、「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」(創世記15:6)と言われる信仰です。「われは全能の神なり。汝、わが前に歩み、全ったかれ!」この創世記の17章の言葉は、わたしにとっては神学生の時代に再献身した思い出の言葉です。

また、創世記22章では、「イサク奉献」の出来事があります。ここは、「信仰の高嶺で起こる最後のテスト」とも言われます。深い、確信ある、信仰の内容に、人生最大の試練、「イサク奉献」の劇的な場面が語られます。100歳にして与えられた愛するイサクを、「ささげよ」と命じられ、その言葉通りに従います。

ここには3回ずつ使われる「典型的な信仰の言葉」が3つあります。 

  • 「今わたしはここに!」(1711節) 主の臨在の前に歩む

主権を明け渡した心の状態なのです。わたしどももいつでも、主の臨在とその御前に、心の備えをなし続けたいものです。100歳をはるかに超えたアブラハムは、深い恵みの世界を歩み続けておりました。それは「主の臨在」と共に歩む生活です。

  • お前の息子、独り子!(21216節)独り子を給う神の愛を知る。                                                    

   第2の言葉は「お前の息子、お前の独り子」という言葉。3回使用されます。百才にしてイサクが生まれました。ご存知のように、神ご自身がその独り子を十字架にかけて、われらの罪のあがないとなしてくださいました。イサクの歩んだモリヤの山は、やがて神の独り子、主イエスの歩んだゴルゴタの丘は同じ場所です。イサクは自分を犠牲とする薪を背負いましたが、主イエスは自分を犠牲とする十字架を負って歩まれました。ある方が「神様はその友であるアブラハムに、独り子を犠牲とする御自分の心の痛みを知ってもらいたかった」と語りましたが深い洞察であろうと思います。

  • 主の山に備えあり! 8、14、14節) 神の摂理(救いの計画)を知る。                                                          

第3の言葉は「備えあり」という言葉です。これは「見る(ラーアー)」という言葉から変化したもので、「見ていてくださる」「神ご自身が見通していてくださる」という信仰は、当然のこととして、神ご自身が、「面倒を見てくださること」「備えをしていてくださること」を意味しています。この物語の構造は明らかに8節の「神備えたもう」を中心に構成されています。また、14節には「アドナイ・イルエ (=エホバ・エレ)」という有名な聖句が出てきます。神は、わたしたちの服従する心の姿勢を見ていてくださり、救いの御手を注いでくださるのです。

2)ダビデの生涯に見る、聖書の父親像

ダビデの生涯はサムエル記上16章から始まります。ベツレヘムのエッサイの息子、末っ子のダビデは預言者サムエルに導かれ、油注がれて、神の霊がこの少年の心を貫き、彼はすばらしいリーダーとして成長しました。多くの労苦を経験しながら、サウル王のギルボア山での戦死の後、30歳で、南ユダの王となり、後、北イスラエルの長老たちの依頼を受けて、全イスラエルの王となりました。彼は、天才的な戦略家で、小さなユダヤの国を導きつつ、ついに周りの民族をすべて従えるエジプトに匹敵するようなイスラエル王国を築いたのです。ダビデの信仰とその真実は詩篇18篇やサムエル記下22章の詩篇に記されます。詩篇18篇などは最高傑作ですね。「わが力よ。わたしはあなたを愛します!」から始まるこの詩篇などはダビデの信仰そのもので、荒削りながら、その輝きや、ユダヤの歴史を通しても、詩篇は皆、ダビデの作のものと考えられるほどに、神への愛と信仰に満ちています。

しかしながら、聖書の記述は驚くべく真実で鋭い批判力に満ちています。特に、サムエル記下11章以降のダビデとダビデ王家の姿は、恐るべき、自己中心と、異母兄弟同士の恋愛と暴行事件、更に長兄アムノン殺害事件、その事件の後のアブサロムのクーデター事件。ダビデ王位継承をめぐる殺害事件等の暗闘が記されます。ああ、なんたる神の国の王家の歴史!

11~12章はバテセバ事件。ダビデ王による浮気事件とバテセバの夫、忠実なウリヤの謀殺。その現実を預言者ナタンに暴露され、罪の告白をするダビデ。詩篇51篇と32篇等はこの時の、罪の赦しと新生の体験を歌う。

神に受け入れる魂は、「砕けた悔いた魂であること」を示します。これはダビデだけの罪の告白ではありません。信仰者は、主イエスの十字架の前におのれの罪深さに、涙することなくして、義とされる道はありません!

13~19章は息子アブサロムの反乱事件。

 アブサロムの反乱の記事とゲッセマネの祈りは聖書の記述中で最も長い一夜であると言われる。ここには父と子の愛と悲劇がある。アブサロムの反乱の最後の部分18章。ダビデの軍勢はマハナイムを出てアブサロムの軍隊に当たる。体制を整えたダビデの軍は、アブサロムの反乱軍を撃破。ダビデは三人の長にアブサロムを殺さないようにと頼む。

18:6ー17節 エフライムの森における激闘とアブサロムの死。彼の墓碑。

「頭髪がその木にひっかかり、彼は天と地の間に宙づりになった」(9節)19:1~4節 ダビデの嘆き「アブサロム、アブサロム!!」

    ダビデに学ぶ 「父の愛!」「父の愛!」

3)最後に、放蕩息子の迎える父の姿!ここにわれらの希望がある。

ルカ15章は「福音中の福音」とか「主イエスの教えの蒸留したエッセンス」と言われます。ここには「迷子の羊」「なくした銀貨」「放蕩息子」の三つの物語があります。全ての喩えに「失われたもの」「回復」「喜び」という主題が共通しています。「父のなみだ」と言う内容で、聖書の示す神様の愛と救いの喜びを見たいと思います。

 放蕩息子は、おとうさんから頂いた財産を、湯水のように使い果たし、一銭もなくなりました。そこにやってきたのが飢饉。金の切れ目が縁の切れ目。彼は最後は豚飼いになりましたが、食べ物もなく、豚の食べるイナゴ豆で腹を満たすしまつ。ここに至って彼はようやく「我に返り」ました。口語訳聖書は「本心に立ちかえった!」と訳しています。「人の行き詰まりは神のチャンス」といいますが、彼は落ちるところまで落ちて、ようやく、お父さまを思い起こしたのです。「お父さんのところに帰ろう!」と決意します。落ちる所まで落ちて、父の素晴らしさが分かったのでした。信仰はまさに、このまことの天のお父様のもとに帰ろうと決意するところから始まります。これを悔い改め、メタノイアと呼びます。ヘブル語では「シューブ(父の許に帰る!)」です。人間は愚かなところがあり、自分が食べるにも窮して、ぎりぎりのところに落ちないと天のお父様のもとに立ち返る決心ができないところがあります。「父のところに帰ろう!」 この決心が人生を変えます。

20節には「そこで立って父の所へ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼を認め、哀れに思って走り寄り、首をいだいて接吻した。」

  放蕩息子が帰って来るのを父は今か今かと待っていました。変わりはてた息子の姿が遠くに見えはじめると、父は自分の息子を認めて、走り始めました。普通ユダヤの老人は走らないといわれます。しかし、彼は、いなくなっていた息子が帰って来たと走らずにおれなかった。白髪を風になびかせながら彼は走る。目からは涙が流れ、白髪は父の心のように、喜びに踊るように、風に舞う。このなりふりかまわず走る父の姿が、実に聖書の神様の姿なのです。神様は、天の高みから十字架のもとにまで走り下る御姿となって、今、われらにご自身を示されるのです。

 天の高みから十字架の許にまで走り下る父の姿。ここに希望がある!

【祈祷】主よ、父の日を感謝します。わたしどもはこの日、信仰の父アブラハムからの信仰!を学び、涙ながら反逆する息子の最後の姿に「アブサロム、アブサロム!」と叫ぶ父親の愛!を学び、自分の罪と愚かさのゆえにボロボロになって父の許に帰る人間、それを叱るどころか、なりふり構わず走り寄って、わたしどもの首をいだいて接吻される父の愛!天の高みから十字架にまで走り下る天のお父様の愛の中に、信仰と愛と希望を見いだして歩みます!父の愛、神の愛!!ハレルヤ。御名によって祈ります。アーメン