新宿西教会主日礼拝説教「神様に従いましょう」使徒行伝5:17~32深谷美歌子牧師

説教「神様に従いましょう」ーホーリネス弾圧記念礼拝ー

聖書:使徒行伝5:17~32

説教者:深谷美歌子牧師 

  本日は私達(深谷)の所属している「ホーリネスの群」(日本基督教団の中にあります信仰グループ)が、1942年6月26日に当時の日本の治安維持法によって、多くの教職が捕えられ、教会解散をさせられた日に直近の聖日です。終戦後、国が免訴という形で取り下げられましたが、信仰ゆえの弾圧が日本にもありました。最近のクリスチャン新聞にも、400年前の、キリスト教禁令によって執行された殉教の跡をたどる祈りのツアーの企画が行われたことが載っていました。現在も信仰ゆえの迫害は世界に起こっています。キリスト教の歴史は迫害の歴史でした。本日のテキストも、新共同訳では、「使徒たちに対する迫害」というタイトルがついている個所です。

 初代教会から教会は為政者によって弾圧されてきました。この記事を通して、私達の信仰生活を導かれ、真の命のバトンを喜びで渡す者とされますように。

【聖書箇所の概観】

17-18節 大祭司たちが、ねたみに燃えて使徒たちを捕らえ、投獄した。

19-21a節 使徒達を天使が助け出し、そのあとすぐみ言葉を語った。

21b-28節 牢に弟子達がいなくなり、大祭司達がとまどい、もう一度使徒たちを連れて来て、大祭司が尋問した。

29―31節 「人間に従うより神に従う。神がイエスを復活させ救主とされた」

32節   私達と聖霊はこの事実の証言者である。

【メッセージのポイント】

  1. ねたみに捕らわれた大祭司たち

17 そこで、大祭司とその仲間の者、すなわち、サドカイ派の人たちが、みな嫉妬の念に満たされて立ちあがり、18 使徒たちに手をかけて捕え、公共の留置場に入れた。17ー18節、・・・26 そこで宮守がしらが、下役どもと一緒に出かけて行って、使徒たちを連れてきた。しかし、人々に石で打ち殺されるのを恐れて、手荒なことはせず、27 彼らを連れてきて、議会の中に立たせた。すると、大祭司が問うて28 言った、「あの名を使って教えてはならないと、きびしく命じておいたではないか。それだのに、なんという事だ。エルサレム中にあなたがたの教を、はんらんさせている。あなたがたは確かに、あの人の血の責任をわたしたちに負わせようと、たくらんでいるのだ」。26-28節

 サンへドリンの人々の姿をまず見ておきましょう。17節に大祭司とサドカイ派の人々が「ねたみに燃えて」使徒たちを捕え牢に入れたとあります。サドカイ派の人々は奇跡を否定する人々でした。このすぐ前は、使徒達によって奇跡が次々起こされ、民衆が使徒たちについて行くようになりました。このことで、大祭司たちと一緒になって使徒達を捕えました。根底にあるのは、この国でいちばん上にあるべき権威が否定された事への「ねたみ」でした。

大祭司達の尋問の第一は「あの名によって教えてはならない」と国の最高権威である、最高法院の命令を守らなかったことでした。

第二はあの名によって教えることによって「あの人の血の責任を我々に負わせようとしている」でした。マタイ27章25節には、イエス様を十字架につけるとき「その血の責任は我々と子孫にかかっても良い」と群集が答えています。それを扇動したのは祭司達やこの議会でした。にも関わらず、弟子達が群衆を扇動して自分達にその責任の矛先を向けさせようとしていると責めました。

イエス様こそメシヤ(約束の救い主)であったと、弟子達が教え、イエス様がしていた、大いなる業を、弟子達がしていて、それは誰にも否定することのできない事実でした。それを見て信じる人々が続々と起こされました。彼らは弟子達の宣べ伝えているイエス様こそ約束のメシヤであると認めたのでした。

 裁かれているのは弟子達でしたが、大祭司達こそ民衆の責めが自分たちに向くのではと恐れに捕われていました。26節にも人々に石で打ち殺されるのを恐れて手荒なことはせず、とあります。

 大祭司達は自分達から民衆の心が離れ、敵意を向けられることを恐れていました。国を治める権威の失墜を恐れたのです。人々に権威を振るう立場の彼らは、民衆の離反は恐れでした。真に恐れたのは神様ではなくて民衆でした。

 2)命の言葉を述べ伝えるため

19 ところが夜、主の使が獄の戸を開き、彼らを連れ出して言った、

20 「さあ行きなさい。そして、宮の庭に立ち、この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい」。21 彼らはこれを聞き、夜明けごろ宮にはいって教えはじめた。                  19-21a節

 捕らわれた弟子達はどうだったでしょう。夜、主の使が獄の戸を開き、彼らを連れ出して言った、20 「さあ行きなさい。そして、宮の庭に立ち、この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい」と天使が獄の戸を開き連れ出されたのでした。今回の捕縛は、使徒達全員でした。今使徒たちが捕まえられて福音を語る人がいなくなっては大変なので、神様の非常手段だったと言う方があります。確かに天使の言葉は「さあ行きなさい。そして、宮の庭に立ち、この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい」でした。彼らはこれを聞き、夜明けごろ宮にはいって教えはじめた。のでした。一刻の猶予もなく導き出されるとすぐに命の言葉を語り始めました。

夜明けごろに人がいたというのは、使徒達が捕えられたとき、信徒の兄姉が祈っていたに違いないと言っている方があります。確かにこのあと、12章でペテロが獄に捕らわれた時も、大勢の人が集まって祈っていた12節とありますから、それは有り得ました。救出は祈りの答えであったでしょう。そして、この後また捕らえられましたが、命の言葉は一刻を惜しんで語られました。4章でペテロたちが議会から解放され報告した時も使4:29 主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。と祈っています。この時も御言葉を伝えるために祈っていたことでしょう。

 私達は使徒ではありませんが、この命の言葉を聞いて、この命を頂いたものです。横山義孝先生が「クリスチャンの本業は伝道。仕事は副業!」とユースキャンプで語ったことがありましたが「この命の言葉」を語るのは全てのクリスチャンの使命です。

3)人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。

29 これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、「人間に従うよりは、神に従うべきである。30 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスをよみがえらせ、31 そして、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救主として、ご自身の右に上げられたのである。   29-31節

4章19節にも 「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。と同じ言葉が語られています。繰り返し、この信仰の戦いがあったことが解ります。

私達の信仰生活も、日常同じような試みが繰り返されます。その度に人間に従うか、神に従うかを問われます。神様に従う道を選び取る決断を。

サンヒドリンの議会は当時の最高権力の行使される所でした。その当時の人はだれもこの権力に逆らうことはできない力でした。その議会で、「あの名によって語ってはならないと命じておいた」とおどされたのでした。

しかし弟子達は、真に従う方は神様で、あなた方より権威ある方であると、はっきり答弁しました。

イエス様も弟子達と一緒に過ごされた時、また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。―マタ10:28 と語られました。でもその時は、弟子たちはそこに立つことはできない人々でした。主が十字架に附けられた時は、クモの子を散らすように逃げた弟子達でした。今は堂々と全員で同じ信仰に立

っています。何故でしょう?その答えは聖霊様です。

 4)聖霊による事実の証人

32 わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である」。     32節

 証言は二つです。弟子達はまずイエス様は復活されたと証言します。イースターの朝の出来事は、弟子たちの、生涯忘れることのできない鮮明な記憶でした。早朝、姉妹たちが香油を持って行ったとき、墓は空で、よみがえったとの天使の告知、そのあと声をかけられた。疑う弟子達に現れ、傷を見せられた。エマオへの途上でパンを割いた時イエス様と解ったこと。命じられた通りにした時の魚の大漁とそれを食されたこと。「わたしの羊を飼いなさい」との再度の信任。宣教命令をされた後、昇天されたその場に居合わせたこと。聖霊を送る約束と、聖霊降臨。これらの経験の証人でした。

二番目はこの聖霊様の御臨在の証言です。聖霊降臨以後、弟子たちはイエス様がもたらした国は、罪の赦しと永遠の命の神の国だったと解りました。ヨハネ15章26-27節に、26 わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのであるから、あかしをするのである。と語られていたことを、弟子たちは聖霊様の導きをいただいて、解りました。しかも聖霊様が働かれて、大いなる業が起こされるのを経験してきました。

これらは疑いのない事実でした。だから3章で足の不自由な男が、癒されたときも、「イスラエルの人たちよ、なぜこの事を不思議に思うのか。また、わ

たしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのように、なぜわたしたちを見つめているのか。」と、このことが聖霊様の業であると証言しました。

わたしたちの内にお住い下さる聖霊様は、人に従うより神に従うと決めたクリスチャンに、語る言葉を導き、祈りを導き、癒しとか、愛の業をなさせてくださるので心配しないでおゆだねしましょう!

「たといそうでなくとも」の著者、安利淑姉も、日本の統治のとき神社参拝を強要されましたが、決心して拝みませんでした。つらいこともありましたが、獄の中で次々救われる方が起こされました、終戦を迎え解放された、闘いの記録でありますが、従った勝利の証しです。聖霊様に寄り頼み、喜びの証しを!

【祈り】 父なる神様。この世界で、力で迫害しても、人を恐れる生涯は、恐れと不安の生涯です。十字架の贖いを受け、罪と死の世界から、赦され解放され、聖霊様に聞き従い「本当の自由、永遠の神の国の命」に生き続けられますように。主の御名によって。アーメン