新宿西教会主日礼拝説教「アブラハムの最大の試練」ヘブル11:17~19深谷春男牧師

説教「アブラハムの最大の試練」

聖書:ヘブル11:17~19

説教者:深谷春男牧師 

 ある兄弟がわたしに言いました。「深谷先生。クリスチャンの友人が、おもしろいことを言っていました。彼の教会の牧師先生が人生には三つの坂がある。人生のすべてがトントンと調子よく行き、希望した大学に合格し、運動部で活躍し、立派に卒業し、素晴らしい仕事へと導かれた・・という人生の『上り坂』、それから、すべてがうまくゆかなくなるような、体に不調が来たり、家族に中に問題が生じ、会社でも人間関係がうまくゆかないというような『下り坂』。それだけでも大変ですが、もう一つの坂は、『まさか?』、そんなことある?と言いたいような『まさか』という坂があるんですって。そのような時こそ、クリスチャンはしっかりと信仰に立たねばならない・・・。」語ってくれた友人の笑顔と共に思い起こします。人生の「まさか?」という時こそ、神様の出番ですね。

【今日の聖書の概説】

 さて、ヘブル書11章の学びが、先週から再び始まりました。わたしたちの先輩たちの人生に思いをはせて、創世記4章のアベルから始まり、信仰とは、「優れた礼拝」をすることの大切さが語られ、自分の罪とそこから贖われ、顔を主の方に向けて雄々しく生きることや、5章に出てくるエノクからは、深く霊的な、神の臨在と共に生きる生涯、また、創世記6章のノアからは家族を救うため箱舟を造り、信仰による義を受け継ぐ者となったなどを学びました。

 このへブル書11章8節から19節は、信仰の父アブラハムの信仰について、情熱を込めて記しています。彼はわたしたちの信仰の模範で、「神様から、召命の声を聴くと、すぐに御言葉に従い、行く先を知らないで出発し、行くところ行くところで、神様を第一に歩み、祭壇を築いて、礼拝を大切にして歩み、奥さんのサラと共に、約束された通り、100歳で子供を与えられた。彼は、地上生涯を終えるときまで、信仰を抱きつつ歩み、地上では旅人であり寄留者として、天のふるさとを目指しつつ歩みました。今日の聖書個所、17~19節は、アブラハムの人生の最大の試練、「イサク奉献」という出来事。今日は、アブラハムが、大きな試練を乗り越え、信仰によって勝利した内容を学びます。

17節で、  「神第一の信仰」、

18,19a節で、「復活の信仰」

19b節で、  「摂理の信仰」を教えています。信仰の人アブラハムの最大の試練を乗り越えた、信仰の極意を今日は学びましょう。ハレルヤ!

 

【メッセージのポイント】

1)17 信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。

   すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。(17節) 

 ⇒ 試練の時こそ「神第一」をつらぬけ!

 信仰者の真の価値はその人の試練の時に明らかになると言って良いでしょうか?信仰の父アブラハムの人生最大の危機は、創世記22章にある「イサク奉献」(息子イサクをいけにえとして献げよと言われて実行する内容の記事)の示すところです。アブラハムは信仰の人で、「信仰第一」の人生を貫いた方でした。しかし、彼は100歳で生まれたイサクを愛し、ある意味で、神様以上に、イサクを愛してしまったようなところが記されます。この22章では3回にわたって、2,12,16節で、次のように語られました。

2節 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

12節 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

16節 御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかった。

                                                  

   ここには「お前の息子、お前の独り子」という言葉が、2,12,16節と3回も使用されて強調されます。特に2節の言葉は直訳をすると          「連れてゆけ 

さあ    お前の息子 を 

     おまえの独り子 を 

     お前が愛してしまったところの イサク を」

 となっています。ここでは目的語を示す 「を」 が三回も繰り返されて強調されています。つまり、三重ないし四重の折りたたむような文章でアブラハムのイサクへの愛の強調があります。アブラハムは子煩悩で、息子のイサクを可愛がり、ついにイサクに心が惹かれて、神様よりもイサク第一に生きるようになってしまったのでしょう。アブラハムにとって最大の危機は愛する息子イサクへの思い入れだった。神第一に撤して生きてきたアブラハムが、愛する、かわいいイサクに心捕らえられ、信仰の歩みに翳りが表れたのでしょう。その時、アブラハムは、その「イサクを献げた(!)」のです。

 「神第一」という言葉には、思い出でがあります。以前、早稲田朝祷会で、、更生教会の、杉本潔兄が「神第一」と書かれた紙をもってきてこのように証しされました。「母は戦争中、中国大陸に住んでいました。戦後、日本が戦争に負けて日本に帰ってきました。日本に帰る船はごった返しで、死に物狂いで、子どもの手を引いて帰ってきました。その時、クリスチャンだった母は神に「信仰第一」と自分に言い聞かせながら、この人生の最大の試練を勝利して帰ってきたのでした。やがて兄は牧師になり、上野ホーリネス教会の牧師となりました。わたしも戦後、熱心なクリスチャンでしたが、戦後、激しい労働問題に直面し、信仰を失ってしまいました。ある時、母の夢を見て、夢の中で母に諭され、悔い改めて、信仰に立ち返りました。」この杉本春尾さんは、杉本泉先生のおばあちゃんにあたります。「信仰第一!」「神第一」の信仰者でした。

 

2)18 この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれる

であろう」と言われていたのであった。19 彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。(18、19節a)

  ⇒ 神の全能、「復活」の信仰を持て!

 このモリヤの山で起こった「イサク奉献のできごと」は、まさに聖書の中心的なメッセージを語ることになります。それはキリストの「十字架のできごと」の雛型としてよく引き合いに出されます。アブラハムのイサクをささげたモリヤ山は、父なる神がその独り子イエスをささげたゴルゴダの丘だったというのです。アブラハムの時には御使いが「アブラハム、殺してはならない!」とイサクの燔祭は取りやめられ、代わりに近くにいた雄羊が捧げられました。しかし、主イエスの場合は、十字架の上に捧げられわたしたちの身代わりとなりました。イサク奉献は、主イエスの十字架の贖いのメッセージとして受け入れられ、いうまでもなく「十字架の贖いの出来事」を指し示す聖書の中心的主題を語ることになりました。へブル書の方でも、大祭司メルキゼデクの贖いの血潮はへブル書の語る中心的メッセージです。しかし、この11章では、十字架よりも復活の信仰が強調されます。「アブラハムのイサク奉献」はアブラハムの「復活信仰」のあらわれであったと語られます。アブラハムの信仰は、神様は、全能者にして、創造者なる神への信仰であり、それは死者を復活させ、無から有を呼び起こすお方として、信じる信仰です。アブラハムは大試練の中で、神は「イサクを復活させる力あり!」と信じていたというのです。

 今朝は会堂で「人生の最大の試練」は何のだろうと考えておりました。そして、「人生最大の試練の時に、最終的な信仰の慰めは復活だ!」と示されました。死の最大の試練の中でも平安の中で、輝いて天を見上げる信仰!それは永遠の命をいただいている、最高の勝利なのですね。従容として、主イエスを見上げつつ天に帰った人が心に浮かびました。 

 一人はジョン・ウェスレーです。彼は88歳の時に天に凱旋しました。その最後は「人生で最も良きことは、神われらと共にいますことである。」と三回語られたと言われます。  

 また、尊敬する淀橋教会の小原十三司先生の最後の言葉は「リバイバル(=信仰復興)」「リバイバル」と三回語られと聞いております。

 また、内村鑑三の最後の言葉はすごいですね。1930年(昭和5年) 3月28日、70歳で召されました。数日前の、3月26日、古希の誕生日に、聖書研究会員による古希祝賀感謝会開かれた時、内村は、心臓衰弱の発作による苦しみの中で、集会には出ることができず、集まった方々に最後の言葉を伝えました。「万歳、感謝、満足、希望、進歩、正義、すべての善きこと」という短い言葉にその時の心持ちを託した。付け加えて言うには、「聖旨にかなわば生き延びて更に働く。しかし、いかなる時にも悪しきことはわれわれおよび諸君の上には未来永久に決して来ない。宇宙万物人生ことごとく可なり。言わんと欲すること尽きず。人類の幸福と日本国の隆盛と宇宙の完成を祈る」との語を参会者に送る。藤井武はこの祈りについて次のように書いている。「宇宙の完成!多くの人はそれが何を意味するのかさえ、解しません。・・・・・」。アブラハムの信仰は「復活信仰」であり、聖書は、復活の信仰、キリスト再臨の信仰であると語りますね。ハレルヤ

3)だから彼はいわばイサクを生きかえして渡されたわけである。(19節b)。

  ⇒ 神の最善、「摂理の信仰」を持て!

 アブラハムの信仰は徹底して神の真実への信頼でした。彼は神の言葉に深い信頼を寄せていました。善にして善をなされる神に信頼して、愛する息子、イサクを献げました。「愛なる神がなぜ、イサクの犠牲のというような理不尽なことを命じられたのか?」彼は分からなかったでしょう。でも、彼は従いました。そこに彼の信仰があります。そして、新約聖書の主の十字架と復活を知った時に、彼は「神の救いの歴史経綸」がわかり、「神の救いの計画」がすべてクリアに分かったのでした。一言で表現するならそれは「神の摂理への開眼」であったことが明瞭となります。これは、ロマ書8:28の信仰ですね。

主よ、人生最大の試練に遇ったときに、「神第一の信仰!」初代の弟子たちと同じく「復活の信仰!」そして「摂理の信仰!」へと導きたまえ。ハレルヤ

 【祈り】 主イエスよ。今日はアブラハムが人生最大の試練の時に、どのような信仰の勝利を与えられ、勝利していったかを学びました。信仰の父アブラハムのように、「神第一の信仰」に立てますように。また、人生最大の課題である死のただ中であっても、死を越えて歩む私たちの「復活の信仰」を頂いて、あなたのリバイバルを最後まで祈りつつ、歩めますように。全能神への、最善となされる「摂理の信仰」により勝利を与え給え!御名によって祈ります。アーメン