主日礼拝説教「わたしたちは神の家族」エペソ2:11~19  深谷美歌子牧師

 

 本日の礼拝は、信徒研修養会の中での礼拝で、「神の家族」がテーマです。それで、その事がはっきり語られている、エペソ人への手紙からみ言葉を取り次がせていただくことにしました。

 今日の聖書箇所は、エペソ人への手紙の本論部分です。選民イスラエルと異邦人と言われていた人々がが、イエスキリストによって一つの神の家族になった、という恵みを伝えています。

 ユダヤ人と異邦人とをひとつにした。それは一人の新しい人が作られたことで、キリストの体なる教会のことですと語っています。

 そしてこの教会のことを「神の家族」と呼んでいます。 私達がどのようなものとされたのか、み言葉から聞いてまいりましょう。

【今日の聖書箇所の概略と区分】                                             

11-13節 異邦人キリスト者はキリストの血によって近いものとなった

14-17節  キリストは私たちの平和 、一人の人(教会)を造り上げた。

18節    一つ御霊によって、父なる神様に近づける。                                      

19節     異邦人どころか、神の家族として教会に招かれたのです。

 

【メッセージのポイント】

1)記憶しておきなさい。

 11 だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、12 またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。13 ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。(11~13節)

          

この「記憶しておきなさい」を「思い出してください」と訳されている聖書があります。この言葉で、この手紙の相手は異邦人クリスチャンだったことが分かります。

神の民として歩んでいたユダヤ人への神様の約束には縁がなかったということ。何よりも、キリストを知らず、まことの神を知らず、この世の中で希望もなく神もない者であった。ことを「記憶しておきなさい」「思い出してください」といっています。

今日の聖書箇所の背景には、異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンの間のさまざまな理解の違いが教会に緊張をもたらしていたことが見受けられます。旧約聖書の背景を持つユダヤ人は、神の民としての長い伝統とアブラハムの子孫としての選民意識、1000年以上にわたる律法を中心とした歩みの中で培われたものは、独特の生き方を持っていました。

また、異邦人からクリスチャンになった人々はイエス様の十字架の贖いを信じて新しい生涯に入りましたが、それぞれの民族の伝統や長い間にはぐくまれた文化はみな違うものでした。それらの違いはお互いに違和感を生み、対立感情を生み、時には敵意を生み出したのでしょう。ここでは14節と16節に「敵意」と言う言葉が2回記されています。

現代の私達も、キリストに結び付けられる前の命のむなしさを繰り返さないために「記憶しておきましょう」。内にあった罪意識、人々と思うように行かなかった人間関係、傷つき、傷つけられ、憎み、憎まれていたものであった。そのような中で、主イエスの恵みにたどり着いたのでした。

ともすると私たちは、イエス様に結びつけられたものであるのに、古い生き方に戻っていないか、吟味し新しい命になったことを常に「思い出してください」と言っています。

 

2)キリストは二つのものを一つのからだにした。

14 キリストはわたしたちの平和であって二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、15 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、16 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。     14-16節 

ここで聖書は宣言します。「実にキリストはわたしたちの平和であります!イエス様は、わたしたちに平和をもたらせました!。

二つのもの、それぞれに違いを持つ二つのグループ、それぞれが特性や誇りを持っていたもの同志、それらの違いが、「敵意と言う隔ての中垣」を形成していました。

しかしここでは、イエス様の十字架の福音は、それらの二つのものを一つにしたのだと記されています。16節では「十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」と宣言されています。

律法に生きていたユダヤ人は自分たちこそ聖い神の民と自認していました。一方異邦人も、自分たちこそ文化人で、他を野蛮人として軽蔑していました。

イエス様は異邦人をユダヤ人にしようとしたのではありません。

またユダヤ人もそのままでいいよといわれたのでもありません。決してユダヤ人は律法を全うしていませんでした。ガリガリのパリサイ人だったパウロも吐露しています。ロマ書7章18節 わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。7:24 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。25 わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。キリストの十字架のみが人を罪から解放したのです。

異邦人もキリストの十字架によって新しい命にいれられました。

そして、一人一人を新しく別々の人間を造ったのではなく、キリストの身体の一部として体につながった命でした。一人の人に組み入れられ造られたのです。造られたとありますが、全く別なものとして創造されたという意味です。新創造です。それが新しい神の国、教会です。

 

 3)教会は、キリストにある神の家族である

 そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。 19節

 さて、ここでは、異邦人だった、エペソの人達も、長い間、律法によって導かれたユダヤ人も、それどころか、これまで論じられていませんでしたが、

ガラ 3:27 キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。28 もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。とありますように、全ての違いを越えて、つまり、全人類が神の家族、愛の共同体に加わり得るようになったというのです。ここに神の救いの計画が実現しています。

家族というのは、血のつながった関係です。会社や政治、芸術などと、それぞれの目的によって、集まっている集りではありません。

誰も、この家に生まれようと決めて生まれて来た人はいません。しかし、この世の家族は不完全ですね。自分の子供を殺してしまう家族もあります。

 しかし、イエス様によって頂く命は、それぞれの生まれた場所は違いますが間違いはありません。男でも女でも、奴隷でも、いいのです。相模原市の施設で入所者を生きてる価値がないと次々殺した事件がありましたが、神様から見たら皆大事な愛する命です。主の命を頂いた人は皆、父なる神様の子供にされたのです。具体的には、ピアニストであってもいいし、人に頼らなければ生きて行かれない重症な命であってもいいのです。星野富弘さんの詩。

 教会はその神の家族です。そして教会の姿をパウロは記しています。

一コリ 12:18 そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。 19 もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。 20 ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。

 21 目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。 22 そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、23 からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、 24 麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。 25 それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。

イエス様の身体、神の家族として、愛し合い、いたわり合いましょう。

 

4)わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって

18 というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。ですから愛し合い、いたわり合おうではありませんか?   18節

「記憶しておきなさい」と言われて、そのようにパーフェクトにできるのなら、イエス様に頼らなくても理想の教会ができるでしょう。しかし実際は忍び込んでくる誘惑がありました。それで、イエス様は天に帰られるとき、弟子達に「聖霊を送るから待っていなさい」と約束し、聖霊様をお送りくださいました。イメージは体と脳の関係です。身体は一つですが、脳の意志によって動きます。互いに聖霊様に心を開くとは脳に従うと言うことでしょう。 家族であれば、一人が病めば、思い煩わないで心合わせてイエス様に祈れます。全ての事感謝できます。神様に信頼し、礼拝で心合わせて神様を讃美し、互いに信頼し合い、愛し合い、教会で生きようではありませんか。

【祈り】イエス様はわたしたちに平和の命、身体をお与えくださいました。生活慣習の違いや対立感情を超えて、「一つの御霊の中にあって」互いにいたわり合い、神の家族が大きくされていきますように。主の御名によって