主日礼拝説教「ヤコブの信仰と祝福」ヘブル11:21 深谷春男牧師

 去る9月1日は「関東大震災の100年記念の日」でした。今から100年前に起こったこの大震災を心に思い起こし、防災の心、地震への備えをすることを改めて大切だと示されました。◇関東大震災は19231923年(大正12年)9月1日11時58分発生。東京から南東100キロの相模灘海底が震源地で、マグニチュード7.9の烈震。南関東および隣接地で大きな被害をもたらし、死者・行方不明者は推定10万5,000人。明治以降の日本の地震被害としては最大規模でした。いろんな資料で調べました。地震と火災で震源地に近い横浜では全家屋の3分の1が全半壊。本所の陸軍被服廠跡の空き地に逃げ込んだ人々は、家財道具なども持って逃げたため、ぎゅうぎゅう詰めとなり、火災などで大旋風が波状的に襲い、布団やトタン、家財、人間、馬までも空高く舞い上がり、そこから落下して、阿鼻叫喚の地獄となり、3万8000人の方々が犠牲となった記事などを読み、その激しさに恐怖を覚えました。◇更にこのような大惨事と共に、朝鮮半島の人が放火したとか井戸に毒を流したとの流言飛語が飛び、自警団が形成され、7000人の朝鮮の人々、600人の中国の人々が虐殺されたという歴史を明確に読むと、何とも唖然として言葉を失います。当時の日本人の深層心理にアジアの政治状況からくる妄想がこのような恐ろしい悲劇を生みました。このような悲劇は絶対に繰り返さないと熱く主に誓いたいと思いました。

【今日の聖書の概説】

 さて、わたしたちは今年の1月から、「ヘブル人への手紙」を読み始め、この「コロナの災い」の過ぎ去った後には、また、自由に集会が持たれ、福音を大胆に語ることが許されるとの希望から「イエスを仰ぎつつ走ろう!」の聖句が与えられ、主イエスを仰ぎつつ歩み始めました。

ヘブライ書11章  「偉大な信仰者の肖像画の掛かった画廊」です。

 1ー 3節 信仰とは何か。その定義と世界創造、その根幹の理解。

 4ー 6節 アベル(優れた礼拝)、エノク(臨在信仰)、

   7節 ノア (み言葉への信頼と家族の救い) 

 8ー10節 アブラハム①(召命、約束の地での居住、神の都への待望)

11ー12節 サラの信仰(子を宿す力、約束の神の真実、多くの子孫)

13ー16節 アブラハム②(信仰を抱き死ぬ、地上の旅人、天の故郷熱望)

17ー19節 アブラハム③(神第一の信仰、復活の信仰、摂理の信仰)

   20節 イサクの信仰(祭壇を築き、天幕を張り、井戸を深く掘る)

   21節 ヤコブの信仰(石の枕と逆さはしご・腿のつがいと神の顔)

今日は、ヤコブの信仰を皆で見て行きたいと思います。

個人的なことを語るの許していただければ、「わたしは聖書の中で、このイスラエルの先祖となったヤコブ」が、一番好きな聖書の人の人物なのです。特に、この8月は、夏の特別集会や伝道会で、この「ヤコブの物語」を何回も語りました。わたしは牧師になって、特別集会で等で、一番、多く語ったのは、この「ヤコブ」の物語でした。

ヤコブと言う人物はとてもおもしろいと思うのですね。「ヤコブ」は「かかと」と言う意味で、イサクとリベカの間から生まれた双子の兄弟でした。お兄さんは「エサウ」弟が「ヤコブ」なのですね。彼は、とても「我の強い人」だったようですね。その生涯は波瀾万丈、多くの苦難や戦いがつきものだったようです。創世記27章から35章の中に、人生の荒波を泳ぎ切るヤコブの人生が記されます。彼は、相続権をめぐってお兄さんのエサウと戦って勝ち、相続権の証書に印を押すようなお父さんからの「祝福の祈り」の儀式の時には、目が弱くなっているお父さんのイサクを欺して、神様からの祝福を奪い取って行った。

さて、今日は、まず、ヘブル書の記す「ヤコブの信仰と祝福」を見、その後に、創世記28章と創世記32章の、ヤコブの信仰と祝福を、三つのポイントから、見ることに致しましょう。

【メッセージのポイント】

1)信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。(21節)

 ⇒ 死のまぎわになっても礼拝第一を貫け!

 ヘブル人への手紙の著者はヤコブの生涯を一節にまとめました。そこにはヤコブの信仰とその生涯は「信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。」と記してあります。死のまぎわになっても礼拝第一を貫け!

死のまぎわになっても礼拝第一を貫け!

ここにもヘブル人への手紙の著者の信仰が反映しているように見えます。すなわち「ヤコブは死のまぎわに」という。死に直面しても臆することなく、永遠の神を見上げつつ、神を礼拝する姿勢。われらは死をもって人生の終わりとしない。否、死は永遠の命への跳躍台である!百メートル疾走の選手がゴールに飛び込むときのように、永遠の命の世界にわれらは飛び込むのである。人生の最後の最高の時を完全燃焼、輝ける夕日のように生きるのです!

息子、娘、孫、家族の救いを祈れ!

イサクの場合もそうであったがヤコブの場合も「家族、子供、孫、家系」という課題が出て来ます。子供たち一人一人の祝福のために彼は祈った。聖書の人物の場合、子供たち、孫たちのために祈り、信仰を継承することは人生最大の課題でした。特にヤコブの場合は孫のために祈ったと記されます。わたしどもクリスチャンにとって残す遺産は信仰のみ!

「そのつえのかしらによりかかって礼拝した」人物であるとの要約。

年老いて、死に臨んでも、彼は、ふらふらしながらも神第一を貫く人だった。人間的には問題の多かったヤコブであるが「神第一」「礼拝第一の徹底」によって彼は変えられた。

2)ベテルの体験を持て!

  ⇒ 石の枕と逆さはしご

   自分の罪の深さに絶望

   神の絶対恩寵・愛の深さヘの希望

創世記28章10節、11節によれば、石を枕にした人間世界の絶望と、神の絶対恩寵の十字架の贖いの神の愛!

最後に、この大震災を経験した一人の人物と牧師先生の言葉を読みたい。

 東京教区の墓前礼拝説教集「ヤコブの階段の前で」という本があります。そこに中渋谷教会の山田松苗さんという方の証しが載っております。大正12年9月1日に起こった関東大震災の時に、山田さんは命かながら麻布に逃れました。。

「・・・全てがひっくり返ったような不安。この暗黒と混乱と不安の中にあって、すべての人は常の心を失った。わたしもその一人でした。教会の礼拝のことも友人のことも一時脳裏から遠ざかり、このような非常事態に礼拝を欠席するのは常識的に当然のことと片付けていました。

2日は日曜日でした。全てを忘れて走り回っておりました。その日の午後、中渋谷教会の森牧師が避難所に訪問してくださいました。森先生には恐怖も驚きも、周章狼狽したところが少しもなく、むしろ憂いと怒りに似た表情で一言   

「天地が崩れるようなことがあっても礼拝はやめません」

とのわずかな言葉を残して立ち去られた。・・先生の一言と、巷の人々の中に見出されない厳然たる態度とは、現実に埋没しきっていたわたしを神の言葉の世界に引き戻した。・・こうして私はようやくにして、わたしの心の中の不安が取り去られ、勇気が湧いてきた。自己の安全、それが何なのか。「エホバ与え、エホバ取り給う」。全ては神の御手にあるではないか。ようやく立ちあがることのできた私は、翌日から深川方面にいた友人を訪ねた・・・。」

関東大震災の中にも、永遠の神を見上げる森先生のような信仰者でありたい。

3)ペニエルの体験を持て!

  ⇒ 「腿のつがいと神の顔」、「砕きと神の顔」

  彼の体験した信仰の体験は創世記32章22~31節の、20年後のヤコブの「ヤボクの 渡しでの天使との相撲を取ったの物語にあります。「ここにはヤコブの信仰の姿」があります。天使と相撲を取って腰の骨を折られる、ヤコブの深い霊的な体験。強き自我への執念と執着が神様によって砕かれる。神の顔を見る、祈りの中で決定的神の臨在に触れるのです。

 関東大震災に出会って、人生が変えられた人物に塚本虎二先生がおられる。「大正12年の関東大震災がわたしにも神に激しい鞭であった。神は無残にも、理不尽にも、わたしから最愛のものをもぎ取りたもうた。わたしには神がわからなくなった。世の終わりかと思われたあの凄惨な、無慈悲な神の仕打ちを見て、誰が神を信じ得よう、神の愛を信じ得よう。わたしは天を呪うた。神は愛ではない。残酷である。没義道であると思った。しかし炎々たる紅焔、濛々たる黒煙を仰ぎ見ながら、ぺちゃんこになった家の前に座って思い悩みつつあった時、たちまち一つの静かな、細い、しかし、つよい声が響いた ー 神は愛なり! 目からうろこのようなものが落ちた。両肩から大きな重荷が、地響きして地上に落ちるのを感じた。わたしに始めて神がわかった。神の愛がわかった。神が愛でありたもうのは、人が彼を愛と認めるからではない。神が愛でありたもうからである。人にはいかに残酷に見えても、没義道に感じられても彼自身は常に愛でありたもう。神が人を審判したもうのであって人が神を審判するのではない。物差しは彼にあるのであってわたしたちにはない。このことが分かった。私は始めて顔をあわせて神と語った。  「キリスト教十講」から

【祈祷】全能の父なる神!わたしどもはこの朝、100年前に起こった「関東大震災」この出来事を顧み、また信仰の原点をヘブル書から学ばせて頂きました。特に、イスラエル民族の先祖、ヤコブの生涯から、あなたの救いの御手に捕らえられて信仰の恵みに入った出来事を深く覚えると同時に、信仰の原点と祝福の生涯を学ばせて頂きました。石を枕にするような人生の絶望の中でも天から下る「逆さはしご」を主の十字架の贖いをしっかり見上げる人生。「わたしはあなたと共にいると語られる」御自身の臨在の恵みを見つめつつ、また、自我のきよめと神の顔を見るような臨在の中を歩む祝福の生涯でありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン