新宿西教会宗教改革記念礼拝説教「神の作品として生きる」エペソ書2:1~10 深谷春男牧師 2023月11月5日

エペソ2:1-10   ― 聖書のみ 信仰のみ 恩寵のみ -牧師 深谷春男

                    

【今日の聖書箇所の概略と区分】

 さて、この聖書箇所は、わたしどもクリスチャンの生涯と信仰を非常によく示しています。ウェスレーもここから、記録されただけでも100回以上説教しています。標準説教53の冒頭もここからの説教です。ここにはわたしたちクリスチャンの生涯 ー 過去・現在・未来 ― が記されています。第一にわたしどもの過去の姿、第二に神の恵みに触れた体験、そして第三に新しい創造物として、善い業へと導かれていることが記されます。いわば「クリスチャン生涯の、過去、現在、未来」が記されています。以下の通りです。

1、過去:死んだ状態-悪しき霊に支配され、この世に倣う生活 1-3節       2、現在:救いの体験-キリストの十字架と復活による救済   4-7節           3、未来:善い業への招きー新創造の神の作品として生きる   8-10節

【メッセージのポイント】

1)1 さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、2 かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。3 また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。(1-3節)  

⇒ 過去:死んだ状態-悪しき霊に支配され、この世に倣う生活

ここで聖書はわたしどもはかつて「自分の過ちと罪のために死んでいたのです」と指摘しています。生きているというのは実は名ばかりで実は、霊的には死んでいたと表現しています。そして、その実態は、わたしたちが従っていたもの、支配されていたものが何であるかが明言されています。それは「悪の霊」であり、「この世を支配する者」、「かの空中に勢力を持つ者」、すなわち、「不従順な者たちの内に今も働く霊」であると表現しています。そして、そのような生涯は、「肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動してい」ることとなります。パウロはここで、過去の罪の生活を言っていますが、その背景に、この世を支配する悪しき霊の存在、サタンの存在を指摘しています。全く自己中心の生涯はやがて破局を迎えます。それは生まれながらの「怒りの子」、「神の怒りを受けるべき罪びと」であると説明しています。

ちょうど、糸の切れた凧のような存在です。悪の風に身を任せて空高く飛んだとしても、ぷっつりと糸が切れて、くるくると風に舞いながら、地上へと転落する。もしも、生まれながらの罪の生活を続けているならば、それは恐ろしい「神の怒り」を恐れつつ生きる、惨めな敗北の生涯になってしまうのです。

2)4 しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、5 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである―― 6 キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。7 それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。 (4-7節)

  ⇒ 現在:救いの体験-キリストの十字架と復活の恵みに触れて

4節で「しかし」とあります。この「しかし」は重要です。罪の現実があります。過去の傷つけ、傷つけられた現実があります。そこには「怒りの子」と言われる事実がなまなましく続いているかもしれません。しかし、わたしどもは、その罪の支配の現実から目を転ずるのです。        

「しかし、憐れに富む神は」とパウロは語り始めます。憐れみ豊かな神に目を止めるのです。4節には神様がわたしどもを、「この上なく愛し、その愛によって」、死んでいたわたしどもをキリストと共に生かしてくださったと語っています。この4節には「アガペー」が2回使用されます。神の驚くべき愛、この上なき愛が、イエスキリストの十字架と復活という恵みを通して、わたしどもの現されたのです。この「神の愛」に触れた者は、死んでいたところから復活し、キリストと共に天の王座に着き、新しい生涯へと生まれ変わるのです。

 ある方はこの箇所には4つの神様の姿が記されていると語っています。「神の愛」、そして「神のあわれみ」。これらは何の価値もないわたしどもにそそがれれる特別なる恩寵を言います。そして「神の恵み」。これは神様の豊かな世界、われらを包み、反逆するものを受け入れ、罪と死の世界を、愛と命の世界に作り変えて行く。そして最後は「神の力」です。神の天地創造の力は、キリストの十字架と復活と言うかたちで現れ、全てを作り変えて行くのです。

3)9 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。10 わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。(8-10節) 

⇒ 未来:善い業への招きー新創造の神の作品として生きる                               

 ここには大変重要なことが語られます。わたしどもの生涯は、「恵みにより、信仰によって救われた」というのです。それはわたしどもの自分の力によるのではありません。それは神の賜物だというのです。神様はわたしどものために前もって準備して、キリスト・イエスにあって造って下さったと告白しています。わたしたちは、「神の作品」「キリストにあって善い業をするようにと造られた神の作品」であると言うのです。 

 今日の週報には、《コラム》の中に山田彰先生の証しも入れさせて頂きました。映画俳優で、加山雄三主演の「若大将シリーズ」に出て、若大将役。大金が入って、ついつい、お酒におぼれる日々・・。ついにアル中となった。職を失い、競輪競馬でも大失敗、持参金10円!路上で電話をした。近くの淀橋教会に紹介され、門を叩くと伝道師が出られた。彼の窮状を聞いた伝道師が「あなたに救われる道がある。」「ハア、どのような道ですか。」ロマ書10:9,10を読みましょう。」「読んでください。」と言われて読むと「心で信じて義とせられ、口で告白して救われる!」。ここから始まって、彼は求道生活、しばらくして洗礼を受け、クリスチャンになった。その後、小原十三司師に導かれて献身し伝道者として働かれた。今、彼は天国だが、御子息も立派な牧師となっている。「御言葉には魂を救う力がある。」ハレルヤ

 さて、今日は「宗教改革記念礼拝」と銘打っての礼拝です。すなわち、1517年10月31日に起こったマルチン・ルッターによる宗教改革の記念礼拝です。説教題は「神の作品として生きる」。副題は「聖書のみ・信仰のみ・恩寵のみ」。この副題は、プロテスタント教会の「三大原理」とも呼ばれます。

― 聖書のみ・信仰のみ・恩寵のみ ―   

  • 聖書のみ:プロテスタント教会は66巻の聖書だけを正典とします。

  正典が定まった後の外典等は正典(カノン)に入れない。

  • 信仰のみ:自分の功績や律法の行為によって救われるのではなく、

  主イエスを信じる信仰によって救われる。ロマ3:21~26

  • 恩寵のみ:救いは、人間の業によるのではなく、神の恩寵(恵み)に  

よる。実は、②と③は同じ性質のものです。エペソ2:8。

Sola scriptura : 形式原理。これらはラテン語の表記。聖書のみ

Sora fide :内容原理。第三の「恩寵のみ」と同じ。主体的表現。

Sola gratia :内容原理。第二の「信仰のみ」と同じ。客観的表現。

マルチン・ルターの生涯:

 プロテスタント(新教)教会はマルチン・ルッター(1483-1546)の宗教改革から始まりました。彼の原点は「神の義の発見」であり、それは「福音の再発見」と呼ばれました。わたしどもの信仰の原点であるマルティン・ルッターの生涯とその信仰について共に学んでみましょう。

 彼はドイツの宗教改革者です。彼の父はハンス・ルッタ-といい坑夫から身を起した坑山の所有者で、息子のマルティンにだけは最高の教育を授けたいと願い、まず、マンスフェルトのラテン語学校に入れ、続いてマグデブルクの学校、エルフルト大学の文学部に入れました。専門の法学部に入学し、エリートコースをまっしぐらに歩いていました。

 しかし、入学直後、丘を歩いているときに雷雨に逢い、死の危険にさらされました。思わず、そこで「もし命を助けてくれるならば修道士になります!」と誓約。嵐は無事に去ってしまいました。彼は誓約通り、名門大学入学をやめて、エルフルトのアウグスチヌス修道院に入ります。

 当時の修道院生活は、とてもきびしいものだったようです。起床は深夜2時。そこから修道僧は祈りの時を持ち、粗末な食事と厳しい訓練とで、必死になって訓練を受けました。アウグスチヌスの修道院は特に、祈りの時に詩篇の朗読日課。毎日詩篇を50篇づつ読み、3日で150篇を読み終えたそうです。真面目なルターは、自分の内側に起こる様々は罪と格闘しながら、霊的に成長。1507年に24歳で司祭となり、初めて礼典を司式。その時など、緊張と罪意識で倒れる寸前のような御用だったようです。

 しかし、翌年はヴィッテンベルク大学の講師となり、哲学と聖書の講義をし、アウグスチヌスの研究を始める。自分自身の罪との戦いで、ギリギリの状態で、自分を保っていたようです。それでも1512年神学博士、 ヴィテンベルク大学神学部の教授となり、このころに有名な《塔の体験》をしました。《塔の体験》とはルッターの研究室でもあった塔の中で与えられた霊的な一大転換のことです。それは『聖書の再発見』とも『福音の再発見』『神の義の再発見』とも言われています。この体験が歴史を覆すような宗教改革へとつながって行きます。

 ルッターは、詩編、ロマ書、ガラテヤ書、ヘブル書と大学での講義を続けながら聖書の教えている『救い』を再発見していったのでした。

 学びの結論は、『人は主イエスキリストを信じる信仰によって救われる。』という信仰義認の教えでした。

 自分自身の内面を厳格に観察することを教えていたルッターは、自分の内にある罪があることを見出して、深く悩みました。彼は何とかしてこの罪から逃れようと努力しましたが、断食も徹夜祈祷も彼の心を満足させ得なかった。ロマ書へと研究が進むにつれて彼の『神の義』の理解が深まり、神の義とは人を裁き罪人を罪あるものとする『義』ではなく、むしろ、罪あるどうしようもない人間を『義と認めてくれる』という神の与える『恵みの業』であることが分かったのです。この『神の義の発見』が世界の精神界に与えた影響は実に測りがたいものです。この発見は、更にガラテヤ書、ヘブル書の研究を通して確信へと導かれました。そして、1517年10月31日万聖節(聖徒の日)の直前、ヴィッテンベルク城教会に行き「95箇条の提題」を貼り出し、免罪符を攻撃し、宗教改革の火蓋を切ったのでした。そこには深い罪の認識と、そのような自分への神の恩寵認識。まさに「聖書的福音信仰」の出発でした。 

【祈祷】 父なる神様。宗教改革記念礼拝を感謝します。わたしどもも、この朝、代々の先輩たちにならい、プロテスタント教会の基本である、「聖書のみ、信仰のみ、恩寵のみ」の福音に立って、あなたの十字架の贖い、復活の恵み、聖霊による愛と喜びの生涯を歩んで、福音を証ししたいと考えています。この一週間も、あなたの恵みの中を導いて下さい。主イエス様の御名によって祈ります。   アーメン