新宿西教会成長感謝礼拝説教「今の自分として」ヨハネ21:1~9,15~19 キャサリン・ポーター宣教師 2023月11月12日

  今⽇⼀緒に考えていきたいのは、ペテロの信仰の歩みです。皆さんはペテロのことを想像したら、どんな⼈を想像しますか。⾃分と似ているような性格だと思いますか。それとも、違うタイプだと思いますか。時によっては、ペテロは素晴らしい信仰を持っているような発⾔をする⼀⽅、時によっては何もわかっていなかったかのような⾏動や⾔葉も記録されています。

「あなたは⽣ける神の⼦キリストです」とよみがえりのみわざを⾒る前に信仰告⽩をしたのはペテロだったのですが、イエス様が⼗字架のことを弟⼦たちに説明した時、ペテロがそれに対して「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずはありません」 とイエス様を正そうとしました。イエス様以上に⾃分がわかっているようなつもりでした。というのは、イエス様がキリストだという信仰告⽩をした後でも、ペテロは⾃分⾃⾝に⾃信を持っていました。すぐにイエス様を信じきれることはなくて、イエス様が⾃分に何を求めておられるのか、悟るのに時間が必要でした。

ゲツセマネの園で⼤祭司のしもべの⽿を切り落としたのもペテロでした。助けになりたい気持ちは確かに彼にありました。イエス様を救いたい!守りたい!イエス様 のために何かをやりたい!そのような思いをペテロが持っていたようですが、悪く⾔えば、考える前に、⾏動してしまうタイプだったかもしれません。 皆さんにはペテロと共感できるところはありますか。熱⼼にイエス様についていきたいですが、時によってはイエス様のおっしゃることを理解できなかったり、イエス様の道から離れたり、⼗分神様に⽿を傾けなくて間違いを起こして不信仰になってしまったりする、そのようなことは私たちにないでしょうか。誰にもありますよね。これが信仰の歩みです。すぐに全てがわかるということはなくて、イエス様と 前進しながら、イエス様と時間を過ごしながら、私たちは変えられていきます。 3年間イエス様のそばにいたペテロの信仰がどんなものだったでしょうか。その信仰がどのように成熟に向かっていたのか、イエス様はどのようにペテロの成⻑を導いていたのか、ペテロにくだされた使命とはどんなものだったのか、ペテロの⽣涯を振り返りながら、ヨハネの21章を中⼼として⼀緒に考えていきたいと思います。

ペテロは3年間イエス様と⼀緒に⽣活をして、⾒たことがない奇跡を⾒て、⼼にイエス様の教えがどんどん⼊っていたことでしょう。その3年間がペテロの⼈⽣を変える経験だったのです。ペテロが弟⼦として呼ばれて、⼈⽣初めての働きに関わるようになって、イエス様を通して⽣きておられる神様と関係を持つようになりました。すると、いつまでも、どこまでもイエス様についていきたいとペテロが固く思 っていました。イエス様が死ぬなら、⾃分も⼀緒に死ぬとペテロが熱い信仰を持って宣⾔したのです。 「たとえ、あなたと⼀緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」。 ペテロがこれを⾔ったのは、⼗字架の前でした。何が起こるのか、まだまだ知らない時でした。本当にそうするつもりだったのです。イエス様が死ぬなら、⼀緒に死のうとペテロが思っていました。ペテロの間違いはこれを⾔ったことではなくて、 ⾃分に死ねる勇気があると思っていたことです。イエス様と親しくしていても、まだイエス様について、また⾃分についてわからないことがペテロにありました。当たり前ですが、ペテロが未成熟でした。時によってペテロが素晴らしい信仰を持っ て、素晴らしい⾏動や⾔葉を発していたのですが、まだ彼の中にプライドもあったり、恐れもあったり、⾃分と周りの⼈を⽐べながら歩んでいるところがありました。成熟するのに、時間が必要です。神様のみわざが必要です。私たちには聖霊の働きかけが必要です。

このペテロが⼤きな試練にあって、砕かれていくのです。このペテロにとって、⼗字架がものすごいショックをもたらされました。イエス様がそのように⾏動すると ペテロが想像してはいなかったのです。⼦⽺のようにイエス様が殺されていくとペテロが想像していなかったでしょう。王様となるイエス様、勝利をもたらすイエス様、奇跡を起こすイエス様にペテロが従っていましたが、⼗字架の死を迎えるイエ ス様なんて、理解し難い存在だったでしょう。イエス様がこういうお⽅だというイメージをペテロが⾃分の中に持っていたのですが、そのイメージが事実から少し離 れていました。⼗字架という出来事があって、イエス様のことをどう理解したらいいのか、ペテロには考え直す必要がありました。ペテロにも、私たちにも⾃分が思ったイエス様、⾃分が勝⼿に想像したイエス様と本当に存在されているイエス様に 違いが出てくると、信仰が揺れたりします。そういうことが起こった時、すぐに受け⽌めきれなくて、⼀緒に死ぬと⾔っていたペテロが恐れて、逃げてしまったのです。⼀時的に信仰から離れてしまったのです。私たちにもこのようなことが起こりうるのです。たとえば、神様が優しいお⽅だと信じて、⾃分を試練から守ってくださると信じたところで試練が与えられると⾃分の神様に対する思いが揺れます。間 違った神感を考え直す必要があります。これは成熟に向かって、必要とされているプロセスです。 ペテロに試練が来ることをイエス様がわかって、それを耐えるように助けを与えて、「私のために命を捨てると⾔うのか。鶏が鳴く前に、あなたは私を3度知らないと⾔うであろう。」と注意しました。それでも親しい友であったイエス様を知らないとペテロが3度も⾔いました。この話はヨハネの18章 17 節と 18 節にあります。「すると、この⾨番の⼥がペテロに⾔った、『あなたも、あの⼈の弟⼦の 1 ⼈ではありませんか』。ペテロは『いや、そうではない』と答えた。僕(しもべ)や下役どもは、寒い時であったので、炭⽕を起こし、そこに⽴ってあたっていた。ペテロもまた彼らにまじり、⽴ってあたっていた。」 ペテロが「違う」と⾔っていたのです。「イエス様を知らない」「⾃分が弟⼦ではな い」と⾔っていました。ペテロの信仰は⾃分が思ったほど、強いものではなかった のです。イエス様に従いたい思いがあっても、⾃分の⼒で従いきれないことをここでわかったのです。⾃分の弱さをペテロがここで知ります。⾃分に⾃信が持てなくなるような経験だったでしょう。炭⽕で⾃分を暖めながらペテロがこのような経験をしました。炭⽕があったこと、この詳細(しょうさい)が書いてあるのはヨハネ の福⾳書だけです。今、意味がわからなくても、炭⽕があったことを覚えておいてください。後でこの炭⽕に戻ってきたいと思います。  

この後に、イエス様が⼗字架で死なれました。ペテロはイエス様を知らないと⾔って、⼗字架のことを知って、どれほどの後悔を持ったでしょうか。友達を裏切ったのです。信仰から出た⾔葉ではなくて、ペテロが恐れにコントロールされました。イエス様の真理から⽬を離していました。逮捕されたイエス様がペテロの⾔葉を聞こえたようです。ペテロが何を⾔っていたのか、イエス様がご存じでした。イエス 様が苦しい死刑になる前の⾃分の最後の⾔葉が愛の⾔葉ではなかった、不信仰な⾔葉だとペテロが深く後悔したに違いないです。お別れの⾔葉を選ぶことができたとしたら、「あなたを知らない」と選ぶ⼈はいないでしょう。でも、後悔してもどうしようもなかった。イエス様が殺されて、ペテロが謝りたくても、それができなかったのです。⾃分の⾏動を直したくても、それができなかったのです。後悔と共に、 ペテロがイエス様の死そのものを悲しんでいました。イエス様と⾔う⼤切な友達、 ⾃分を導いてくださった先⽣、将来の希望をもたらしてくださった主、急にペテロのそばからこの存在がいなくなりました。メシヤだと信じた⽅の死をどう受け⽌めたらいいのか、ペテロがわからなかったのです。彼の中で⼤混乱が起こったでしょう。どこに⾏ったらいいのか、何をしたらいいのか、明⽇をどうしようかではなく て、今⽇どうしたらいいのか、それもわからない状態だったでしょう。ペテロが何も考えられなくなっていたでしょう。

このペテロ、⼤混乱にあったペテロにイエス様が表されます。第1回⽬はペテロと弟⼦たちが部屋の中に閉じ籠もって、弟⼦たちに「平安があるように」「安かれ」と イエス様が⾔いました。第2回⽬の時に、イエス様がトマスに寄り添って、トマス の不信仰が信仰に変えられるのです。第3回⽬が今⽇⼀緒に読んだヨハネの21章 です。最初の2回と違って、イエス様がここでゆっくり弟⼦たちと⼀緒に時間を過ごしているような印象を受けます。21章の 1 節を⾒てください。1 節にこう書いてあります。 「その後、イエスはテベリヤの海辺で、ご⾃⾝をまた弟⼦たちに表された。」 場所がティベリアの海辺です。ティベリアの海辺という場所の呼び⽅が聖書の中で 2回だけ出てきて、2回ともヨハネの福⾳書にあります。⼀回⽬はヨハネの6章ですが、ティベリアの海辺で⼆匹の⿂と五つのパンの奇跡が起こされました。弟⼦たちにとってこの海辺は思い出深い場所です。イエス様は今回、どこで弟⼦たちに⾃分を表すのか、たまたまこの場所を選んだと私は思えません。以前の思い出を思い起こすために、弟⼦たちを強めたくて信仰に導きたくて、イエス様がこの場所を選 んだのだと私は思います。イエス様の⼿に五つのパンと⼆匹⿂を渡したら、それが5000⼈を満腹にする、イエス様と⼀緒にいるなら、⾜りないことはない、このことを弟⼦たちが学んだ場所をイエス様が選ばれました。

21章 3 節を読んだら、これはどこかで聞いたことがある話だと皆さんは気づくかもしれません。3 節を読みます。「シモン・ペテロは彼らに『私は漁に⾏こう』と⾔った。彼らは出ていって船に乗った。しかし、その夜は何の獲物(えもの)もなかった。」 漁師であるペテロたちは夜、ずっと働いても⿂を⼀匹とも捕ることができませんでした。これと似ているような話が以前にもあったのですよね。皆さんは思い出せますか。イエス様が3年前に、ペテロを弟⼦として呼んだ時のことです。ルカの5章に詳しく書かれていますが、イエス様が岸辺で群衆を教え終わったところ、ペテロたちに深みに漕ぎ出すように頼んで、「網を下ろして⿂を取りなさい」とイエス様が⾔ったのです。するとペテロが⽂句を⾔って、「私たちは夜通しずっと働きましたが、何⼀つも取れなかった」と⾔って、それでもイエス様の⾔葉に従って網を下ろしたのです。すると、おびただしい数の⿂が網に⼊って、船が沈みそうになり、弟⼦たちがイエス様のことを恐れます。ペテロが⾃分の罪を告⽩した後に、イエス様 は「今からあなたは⼈間を捕る漁師になるのだ」という新しい使命を弟⼦たちに与えてくださいます。これがペテロの弟⼦としての⽣活の始まりでした。⾃分が罪⼈であることを悟って、イエス様が聖なる救い主だと告⽩して、その⽇から以前の⽣ 活からペテロが離れました。ペテロがその⽇から全てを捨ててイエス様に従っていったのです。

その後3年が経ちました。ヨハネ21章にイエス様がペテロを⾃分のスタートラインに戻しているような、はじめの愛、はじめの思いと献⾝をリバイバルさせているようなことがここで起こっています。不思議なほど、ルカの5章とヨハネの21章で起こっていることが似ています。ペテロが⿂を取ろうとして、夜ずっと働いても、⿂を取れませんでした。そんな時にイエス様が来て、「網を下ろして」と⾔って、たくさんの⿂を捕るようになります。 9 節を⾒てください。9 節にこう書いてあります。「彼らが陸に上ってみると、炭⽕が起こしてあって、その上に⿂(うお)がのせてあり、またそこにパンがあった。」 炭⽕に戻ると私は⾔っていましたが、ここに炭⽕があるのです。

炭⽕という⾔葉が 新約聖書で2回だけ出てきます。ペテロがイエス様を知らないと⾔った時と今回です。福⾳書を書いたヨハネがこの詳細を⼊れた意味はあると思うのです。私たちは以前⾏った環境や場所に戻るとその時の思い出が⾃分の中で甦ってきます。これは⼼理⼠が研究されたことです。たとえば、⾃分が通っていた⼩学校に戻ったら、⼩学⽣の思い出が浮かんできます。私は交通事故を起こした後にしばらく運転中の横の⾵が苦⼿でした。交通事故を起こした時、横の⾵があって、それが事故を起こす⼀つの原因だったから、数年が経っても横⾵が吹くと私は横転するじゃないかというメモリーが強かったです。ペテロが炭⽕で体を暖めながらイエス様を知らないと⾔って、今回も炭⽕の前にいます。あの時のことをペテロが考えていたはずです。あの時の気持ちが戻っていたはずです。⼼がいろんな感情でいっぱいになったことでしょう。悲しみ、後悔、申し訳なさ。それと同時に、⿂の奇跡をも⾒て、イエス様に従いたい思いがペテロにありました。最初の献⾝の思いがペテロの中に思い起こされていました。献⾝したい、イエス様に従いたい、この思いと共にあったのは試練を通らされた後の知恵です。従いたくても⾃分が弱いとペテロがわかってきました。献⾝したくても、⾃分の⼒だけならまた失敗することをわかっていました。⾃分にイエス様が必要だ。救い主が必要だ。船から岸辺に⽴っているのはイエス様だとペテロがわかったら、少しでも待つことができなくて、すぐにペテロが湖に⾶び込んだのです。 弟⼦として召された時のことを思い出して、イエス様が全ての必要を満たしてくださる5000⼈を⾷べさせた奇跡のことを覚えて、そして⾃分がイエス様を知らないと⾔ってしまった弱さも知って、ペテロとイエス様がここで対⾯します。

まるで これが癒やしの場所として、イエス様がペテロのために⽤意してくださった時です。ペテロに⽴ち直って欲しいという思いをイエス様が持ってくださったために、 この会話があるのです。ペテロに使命が残っているために、ペテロが神様の愛する⼦どもだから、この会話があるのです。イエス様がペテロを愛しているために、この会話があるのです。3年前のペテロ以上に今のペテロには神様の愛を知る⼼の余裕が出てきました。表⾯的にその愛を受け⽌めるではなくて、⾃分の⼼の底、傷つけられたところまでペテロがその愛を受け⽌められるようになりました。3年前と違う器になってきました。

クリスチャンの⽣涯は失敗で終わるということはありません。失敗して、もう神様に⽤いられないということはありません。失敗して、悔い改めて、神様に赦されて、成⻑して以前以上に⽤いられるとは神様の国で起こることです。イエス様はペテロにやり直す、⾔い直すチャンスを与えてくださいます。15 節にイエス様がペテロにこのように聞きます:「ヨハネの⼦シモンよ。あなたは、この⼈たちが愛する以 上に、私を愛するか。」以前、「たとい、皆の者があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」と⾔ったペテロに対する質問です。イエス様が聞いています、 ペテロ、あなたは本当に他の弟⼦たちが愛する以上に、私を愛していますか。つまずかないのは本当にあなたなのか。あなたは周りと⾃分の信仰の強さを⽐べて本当にいいのか。イエス様がペテロの本⼼を問いています。ペテロに⾃分の⼼の思いを知って欲しい、演じている⾃分ではなくて、本当の弱い⾃分を知って欲しいとイエス様が思っています。そして⾃分を知っているために、神様の愛の⼤きさをも受け⽌めて欲しい、いただいて欲しいとイエス様が願っています。「ヨハネの⼦シモン。 私を愛するか。」イエス様とペテロの会話が親密的な内容になっていますよね。知識 を与えている、指⽰を与えているではなくて、イエス様がペテロの⼼の中⾝を⾒ておられます。⽴ち直るために、神様の本当の愛を知るために、何が必要かをイエス様がわかって、ペテロを導いています。あなたは私を愛していますか。 イエス様を知らないと⾔っていたことがこの会話の中で整理された後に、ペテロが 新しい使命をいただくのです。⽴ち直って、以前⽴っていた場所に戻るということではなくて、⼀歩下がって学び直すではなくて、以前以上に責任を持つような役割がペテロに与えられます。「私の⼩⽺を養いなさい」、「私の⽺を飼いなさい」、「私の⽺を養いなさい」とイエス様がペテロに願っています。⼦⽺の世話、成⻑された⽺の世話をイエス様がペテロに託しています。イエス様の模範から学びながら、牧会の働き、牧師、⽺飼いとしての働きがペテロの働きになります。

3年前にこの働きがペテロに与えられませんでした。その時は⼈間を捕る漁師という使命があったのですが、今回の使命が伝道だけではなくて、宣教だけではないです。3年前のペテロだったら、もしかしてできない働きです。考える前に⾏動してしまうペテロには牧会が難しかったかもしれません。⾃分に⾃信を持って、⾃分につまずくことがないと思い込んだペテロに牧会的な働きが難しかったかもしれません。でも、⾃分の弱さを知って、深い後悔をしたペテロにこの使命が与えられます。変えられたペテロに新しい使命が与えられます。

 皆さんは⾃分の信仰の歩みを振り返ったら、今は昔と同じように神様を仕えていると思いますか。救われた頃の⾃分が今の⾃分より熱⼼だったと思うことはありますか。以前やっていたことをやらなくなったということはないですか。あるいは、救われてから20年がたって、いろんな⼈⽣経験や成⻑が与えられたはずですが、新しく与えられた経験を神様のために⽤いていないということはありますか。考えずにずっとやっていたことを⾃動的にやっていて、今の⾃分に与えられているものを神様のために⽤いていないということはないですかね。神様が私たちにたくさんのものを与えてくださっています。⾃分の⼿にどんなプレゼントが与えられているのか、ぜひ⾒て欲しいです。ペテロの失敗が教会のために⽤いられました。その失敗を通して与えられた信仰や成⻑が⼤いに⽤いられて、福⾳が広がっていきました。 新しく⽣まれた教会に寄り添ったのはこの経験をしたペテロでした。変えられたペテロでした。時間がある時にぜひ⾃分の信仰の歩みを振り替えてみてください。今 の⾃分に神様が何をくださっているでしょうか。どんな経験を神様が⾃分にくださったでしょうか。これから教会のために⽤いられる失敗は⾃分にあるでしょうか。⾃分の失敗を神様に委ねてみてください。その経験はどのように神様の⽺の世話を するために⽤いられるのか、祈りながら期待していけるのです。

私たちは⾃分が⾃信を持っているところで⽤いられるというよりは、⼼が砕かれたその部分が⽤いら れます。⾃分はこれが得意というところで⽤いられるではなくて、弱さを知って神 様に変えられたその部分が⽤いられます。⾃信を持っているところではなくて、失敗された経験が⽤いられます。私たちに失敗した経験があるなら、神様がそれを福⾳の前進のためにお使いになれます。

イエス様がペテロに⼆つのことを話していました。⼀つ⽬は神様を愛しているかどうか。⼆つ⽬は隣⼈を愛するような使命でした。神様を愛していたら、次のステップが周りの⼈を愛することです。私の⽺を飼いなさい。これは牧師という職業をする使命、私たちと関係ないような使命だと誤解しないで欲しいです。イエス様の愛する⽺たちを愛するように私たち⼀⼈ひとりが召されています。神様を愛し、救わ れている兄弟姉妹を愛して、福⾳を必要とされている⼀⼈⼀⼈を愛するように私たちが召されています。私たちに託されている経験がこのために⽤いられるのです。 新しい使命が与えられた、今のペテロに以前できなかったことができるようになったからと⾔って、変わりがないイエス様からの命令もありました。19 節にイエス様 はペテロに「私に従って来なさい」と⾔います。すべてがこの⾔葉に含まれていま す。変えられたものがいくつあっても、いつまでも変わらないのはこの使命です。

 イエス様に従うなら、イエス様についていくなら、ペテロも私たちもイエス様の愛する⼈たちを愛することになるに違いないです。イエス様が⽣きたように⽣きようとすると全ての⼈を愛する、愛を学ぶ⼈⽣になります。ペテロがイエス様を知らないと⾔っていた時、それは⾃分を守るためでした。あの時、⾃分がイエス様の弟⼦だとペテロが⾔ったとしたら、イエス様と⼀緒に殺される危険がありました。ペテロはその時、殉教から逃げていました。ヨハネ21章にペテロがイエス様を愛していることを3回も⾔うのですが、イエス様に従い続けたら、愛し続けたら、ペテロの⼈⽣が殉教に終わるとイエス様ははっきりペテロに教えています。18 節 19 節です。 「『よくよくあなたに⾔っておく。あなたが若かった時には、⾃分で帯をしめて、思 いのままに歩き回っていた。しかし年をとってからは、⾃分の⼿を伸ばすことになろう。そして、他の⼈があなたに帯を結びつけ、⾏きたくないところへ連れていくであろう。』これは、ペテロがどんな死に⽅で、神の栄光を表すかを⽰すために、お話になったのである。」 歴史によると、イエス様の⾔葉の通りにペテロが殉教されました。イエス様への愛の上。イエス様に従った上、ペテロが殉教されます。以前のペテロが逃げていた死に⽅です。その将来が、⾃分を待っているとペテロがこの時からわかったのですが、この死が神様の栄光を表すためだと書かれています。死ぬために死ぬではなくて、迫害されているために死ぬではなくて、殉教を通してペテロに神様の栄光を表す機 会が与えられました。ペテロの死そのものが神様の栄光を表したように、私たちの死に⽅も神様の愛する⽺たちのために⽤いられることはあります。 私に従ってきなさい、イエス様がこの変わらない使命を私たちにもくださっています。⾃分に与えられた道が⼤変に⾒えても、周りと⽐べないでついてきなさいとイエス様が私たちに⾔っています。その道を歩みながら、周りにいる⽺を愛するよう にしていきたいと思います。