2024年1月21日(日)新宿西教会主日礼拝説教「人生の正月?」出エジプト記12:23 深谷春男牧師

今日は「お正月」の話をします。今年もお正月を迎えて、20日を過ぎようとしています。お正月はいいですね。子供の頃、「もういくつ寝るとお正月~♪~お正月には凧揚げて、コマを回して遊びましょう。~♪~早く来い、来いお正月~♪」などと歌いましたね。皆さん、お正月にはたくさんの思い出があるのではないでしょうか?わたしもお正月には、色々な思い出があります。

小学生の頃、お正月には親戚の方々が集まって、楽しいお食事会の時があり、東京の兄や、仙台の方のおじさんたちが集り、酒を飲んだり、ぼた餅や、お雑煮なども頂きました。うちの母と二番目の姉が、揃ってお餅をこねて料理をしていた時、20才ぐらい違うお二人が、同じようなお顔で、「あれ?うちの母とうちの姉はほとんど同じ顔だ。丸くてぽちゃぽちゃだ!」と感じました。

【今日の説教箇所の概説】   ロバート・リー先生の『輪郭的聖書』によれば、「出エジプト記」の理解の鍵となるのは12:23であると指摘しています。イスラエルの民が400年の奴隷生活をしいられ、あのモーセに導かれたイスラエルの何百人の奴隷たちが、大帝国エジプトを脱出する大スペクタクル。モーセを先頭に、昼は雲の柱、夜は火の柱に導かれ、「前は紅海、後は敵、進退ここに極まれり!」という中にあって、紅海は二つに分かれ、イスラエル民はその乾いた海底を通り、通り終わったとはエジプトの軍隊、戦車が波にのまれて海の藻屑となりました!空前絶後のスペクタクルですね。映画「十戒」に描かれた「出エジプト」の出来事は、一体、何を語るか?その理解のキーワードは12章23節にあると言うのです。

この12章には、イスラエルの国の一番大きな祭り、「過越の祭」の原点となった出来事が描かれています。新約聖書の中には主イエスが過ぎ越しの祭りの時に、十字架の上でほふられたことが記されます。新約聖書の「贖いの救いの業」は「過越の祭」と深い関係があるのです。

出エジプトの中心と言われる12:23には「主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである」と記されています。そして、この出来事は、新約においては神の小羊である主イエスの十字架の贖いの血潮を表現しています。

【メッセージ・ポイント】

1)1 主はエジプトの国で、モーセとアロンに告げて言われた、2 「この月をあなたがたの初めの月とし、これを年の正月としなさい。(1-2節)

   ⇒  過越の体験を、人生の正月とせよ!

  過越の祭がイスラエルの人々の生活の原点でした。この神の圧倒的な介入の事件を通して、彼らはあの強大なエジプトの力から逃れて自由を得たのです。唯一の救いの道は、「家の門と鴨居に、神の小羊の血を塗る事」だったのです。

 神様はイスラエルの民に、「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい」と命じられました。わたしたちの人生の原点、わたしたちの活動の原点はこの「過越し」の事実にあるのです。

 詩篇78篇42節を早天祈祷会で読みました。この詩編はイスラエルの民の歴史の総括の詩編です。「イスラエルの罪は贖いの日を思い起こさなかったことである」と結論付けています。「贖いの日を思い起こす」とは、この「過越しのできごと」を思い出すこと、主のあがないによって救いを得たことを思い起こすことを意味しています。イスラエルの民は、最後は選民失格として、バビロン捕囚という民族の破局に遭ったのですが、その原因は、「贖いの日を忘れ」この世の世界に埋没していったことだと語られています。

これは新約聖書では主イエスの十字架によって救われた原点を思い起こすことの大切さを語っています。信仰生涯は、救いの原点、主の贖いの原点を思い出すことです。これこそ「礼拝の場」でなされることです。礼拝の場ではいつも、主イエスの贖いの原点を見つめます。説教においても、聖餐においても、主イエスの十字架がそこには記されます。。この原点にいつも立って、自分の人生を築きましょう。「過越の祭り」こそ、わたしたちの正月なのです。

2)3 あなたがたはイスラエルの全会衆に言いなさい、『この月の十日におのおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。すなわち、一家族に小羊一頭を取らなければならない。4 もし家族が少なくて一頭の小羊を食べきれないときは、家のすぐ隣の人と共に、人数に従って一頭を取り、おのおの食べるところに応じて、小羊を見計らわなければならない。(3-4節)

  ⇒ 神の民は、家族ごとの行動であった!

   過越の祭は家族ごとの礼拝でした。これは注目に値することだと思います。現代は家族の崩壊の時代と言われます。人間関係は家族の中ではぐくまれます。父母の愛と兄弟姉妹との関係の中で人は育って行きます。特に26、27節は子供の参加が促されます。

  「26 もし、あなたがたの子供たちが『この儀式はどんな意味ですか』と問うならば、27 あなたがたは言いなさい、『これは主の過越の犠牲である。エジプトびとを撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、われわれの家を救われたのである』」。民はこのとき、伏して礼拝した。

  信仰の継承を真剣に考えたいと思います。教会では、礼拝やクリスマスやイースターなどの祝いの時があります。しかし、各家族で祝うのも大切であろうと思います。そこで福音を語り、救いの業をともに受けるのです。

 現代においては、家族で共に礼拝を守り、家族の祈りを大切にしたいと思います。子供たちは、教会でも、家庭においても、深く祈り、神を知ります。

3)23 主が行き巡ってエジプトびとを撃たれるとき、かもいと入口の二つの柱にある血を見て、主はその入口を過ぎ越し、滅ぼす者が、あなたがたの家にはいって、撃つのを許されないであろう。24 あなたがたはこの事を、あなたと子孫のための定めとして、永久に守らなければならない。

   ⇒  神の小羊の血を心の門に塗れ、また小羊を食せよ!

  ここには神様が介入され、エジプトへの最終的審判を下す姿があります。かたくななパロとエジプトの民に、10の災難があったが、最終的な審判、

長男の死という裁きが下ったと記されます。長男の死は民族の死滅を意味して

います。子孫の繁栄は、聖書の祝福の中には繰り返して言及される内容です。最終的な裁きに対する、神の唯一の救済の道は「入り口の二本の柱と鴨居に

小羊の血を塗ること」でした。これは実に象徴的なしるしです。神から遣わさ

れた「抜き身の剣を持つ裁きのみ使い」は、門と鴨居に血の塗られた家を「過

ぎ越した」のでした。外側から見たら、エジプトとイスラエルの家はそんなに

違いはありません。しかし、「塗られた血」は、神の印であり、神との契約の

しるしでもありました。我等もクリスチャンで、少しは心も清くされているかも知れないが、神の清い目からは同じ罪人なのです。主イエスの十字架の血潮

への信仰がロマ3:21-26、ガラテヤ2:16でも語られます。

それと共に、この間の礼拝説教でも、ヨハネ6章の聖餐の御言葉を学びました。。「47 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。48 わたしは命のパンである。51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。

55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。

56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。

4)14 この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り、代々、永久の定めとしてこれを守らなければならない。(14節)

  ⇒  救いの日を記念の日とせよ!

   主の救いを体験した者は、いつでも、主の救いを覚え、これを感謝し、主への献身の時とすべきです。それは「人生の正月」です。聖霊に導かれた、真実なる礼拝こそ、「人生のクライマックス」、栄光に満ちた出発なのです。日曜日ごとに、記念の日としましょう。お正月としましょう。ハレルヤ!

【祈り】 今日は聖書の語る「お正月について」、旧約聖書の中から、「過ぎ越しの祭」について学びました。この過ぎ越しの祭りこそ旧約聖書の中心でもありました。「贖いの小羊の血潮」。これはまさに、新約においては、神の小羊、主イエスの十字架の贖いの型、これは実に「人生の正月」であると学びました。いつでも、主イエスの十字架の贖いの業を思い起こす者としてください。主イエス御自身がわたしどものために贖いの供え物となってくださったこと。この主イエスの贖いを覚えて、おのが身を聖なる供え物として捧げることこそ真の礼拝であり、勝利の歩みであると、生活を通して、魂の深みまで悟らせて下さい。主イエスの御名によって祈ります。アーメン!