2024年1月28日(日)新宿西教会主日礼拝説教「神がお与えになったとすれば」使徒行伝11:1~18 深谷美歌子牧師

久しぶりの使徒行伝を今日はご一緒に学びます。前回の個所の復習から。

 ペテロがシモンの家にいて、昼頃、祈りをするために屋上にのぼり、夢心地になりました。天から四隅をつるされた大きな布のような入れ物が降りてくるのを見、その中には律法で食することを許されていない動物が入っていましたが、ペテロに「それらをほふって食べなさい」と語りかけられました。「それはできないです。清くないものは食べたことがありません」「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない。」 そのことが3度もあったすぐ後に、異邦人コルネリオからの使いが来ました。「ためらわずに行け、私が彼らをよこしたのである」と主は語られ、ペテロは彼らと一緒に出かけました。そこで、イエスさまの福音を語ると、聖霊が一同に降り、彼らにバプテスマを授けました。

 その後の出来事が記されている所が本日の個所です。

【聖書箇所の概説】

1-3節ペテロがエルサレムに上った時、無割礼者と一緒に食事したと非難された。

4-17節 ペテロの証言。イエス様の福音を語った結果のできごとを順々と語る。

18節 聞いた一同は静まり、神を讃美し、異邦人にも命を与えられたと認めた。

【メッセージのポイント】

1)割礼のない人たちと食事を共にした。 

1 さて、異邦人たちも神の言を受けいれたということが、使徒たちやユダヤにいる兄弟たちに聞えてきた。2 そこでペテロがエルサレムに上ったとき、割礼を重んじる者たちが彼をとがめて言った、3 「あなたは、割礼のない人たちのところに行って、食事を共にしたということだが」。1-3節

 ペテロがコルネリオのところから帰ると、エルサレムの割礼を重んじる兄弟たちがペテロをとがめました。内容はペテロが割礼を受けていない人たちと食事したというものでした。彼らはクリスチャンでしたが、ユダヤ人でした。彼らは割礼は、神の民として、当然受けていました。

ここで、割礼の意味を考えておきましよう。ユダヤ人は選民として、世界に置かれていました。これまでは、世界に神様が聖なる方であることを現わす存在として、割礼を受け、清い動物しか食べない。それが聖別された民のしるしでした。そして、イエス様による命をいただいても、これは正しい事だから守るべきだと考えて居たのです。ペテロたちもついこの間まではそれが正しいと考えていました。前回の動物をほふって食べよという神様の言葉にも「それはできません、清くないものは何一つ食べたことがありません」と答えています。ですが、今やイエス様がおいでくださり、律法によらない命が与えられる道が開かれたのでした。 

以前にも言いましたが、この異邦人コルネリオと、その家族、親しい友人の救いの記事は2章に渡って取り上げられています。この事が今後の教会にとって、決定的に重要であったことの現れでこれだけのスペースを取ったのです。

ペテロは、ついこの間までの自分と同じ考えのユダヤ人クリスチャンに非難されても、無理からぬことと受け止めたことでしょう。

2)事実の証言

4 そこでペテロは口を開いて、順序正しく説明して言った、5 「わたしがヨッパの町で祈っていると、夢心地になって幻を見た。大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、天から降りてきて、わたしのところにとどいた。6 注意して見つめていると、地上の四つ足、野の獣、這うもの、空の鳥などが、はいっていた。7 それから声がして、『ペテロよ、立って、それらをほふって食べなさい』と、わたしに言うのが聞えた。8 わたしは言った、『主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないものや汚れたものを口に入れたことが一度もございません』。9 すると、二度目に天から声がかかってきた、①『神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない』。10 こんなことが三度もあってから、全部のものがまた天に引き上げられてしまった。

② 11 ちょうどその時、カイザリヤからつかわされてきた三人の人が、わたしたちの泊まっていた家に着いた。12 御霊がわたしに、ためらわずに彼らと共に行けと言ったので、ここにいる六人の兄弟たちも、わたしと一緒に出かけて行き、一同がその人の家にはいった。

 ③13 すると彼はわたしたちに、御使が彼の家に現れて、『ヨッパに人をやって、ペテロと呼ばれるシモンを招きなさい。14 この人は、あなたとあなたの全家族とが救われる言葉を語って下さるであろう』と告げた次第を、話してくれた。

⑤15 そこでわたしが語り出したところ、聖霊が、ちょうど最初わたしたちの上にくだったと同じように、彼らの上にくだった。

 16 その時わたしは、主が『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは聖霊によってバプテスマを受けるであろう』と仰せになった言葉を思い出した。

⑥17 このように、わたしたちが主イエス・キリストを信じた時に下さったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったとすれば、わたしのような者が、どうして神を妨げることができようか」。

ペテロは順々と自分が経験したことを語り始めました。経験したことといいうのは、教理とか、論理ではなく事実の証言です。同行者も、彼らは本当にその場に居合わせたので、ペテロの言葉を証人として認めました。

  • まずは、夢うつつの中で、四隅をつるされた布の中に汚れた動物も入っ

ていたのに「それをほふって食べなさい」との声がし「食べたことはありません」というと「神が清めたものを清くないと言ってはならない」と、同じ事が三度も起こったことを語りました。この事は決定的に大事なことでした。それまでは、ユダヤ人は神の選民で、割礼を受け、食物は聖なるものしか食べない、清い民と思ってきました。しかしペテロに語りかけられた時「神が清めたものを清くないと言ってはならない」と神様から三度も宣言されたのでした。

  • その経験の後、コルネリオの使いが到着しました。そのとき聖霊から

「ためらわずに(何の差別もつけずにの意)行きなさい」と語られたとき、ペテロは「神が清めたものを清くないと言ってはならない」の意味を瞬時に悟ったことでしょう。

  • カイザリアに到着したペテロに、コルネリオが招くに至った経緯を話し

ました。その内容は「あなたとあなたの全家族とが救われる言葉を語って下さるであろう」でした。「福音の言葉を聞かせる」ため神様が遣わされたのが分かりました。割礼を施せとか聖い食物を教えよとはおっしゃらなかったのでした。

  • すぐに10:36-43にあるように救われる言葉を語りました。10:36 あなたが

たは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、イスラエルの子らにお送り下さった御言(福音)をご存じでしょう。37 それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。38 神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、巡回されました。39 わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。40 しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、41 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。42 それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。と、ペテロは自分がイエス様と共に3年間歩んだ者として証言し、この方を信じる者はだれでも救われることを語りました。これが救われる言葉でした。

  • その時聞いていた人々の上に聖霊が降りました。それは、割礼などする暇も

なかったのに起ったできごとでした。そして、同行した6人もその場に居合わせて証人でした。ペテロも合わせると七人で完全な証人でした。

 3)神がお与えなるならどうして妨げることができましょう。

17 このように、わたしたちが主イエス・キリストを信じた時に下さったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったとすれば、わたしのような者が、どうして神を妨げることができようか」。18 人々はこれを聞いて黙ってしまった。それから神をさんびして、「それでは神は、異邦人にも命にいたる悔改めをお与えになったのだ」と言った。    17-18節

16節まで、順々と起こった出来事を語ってきたペテロは、異邦人の救いがこのように起こったのは、自分が何かしたのではなく、「神がなさった」と締めくくりました。 コルネリオの所に出かけて行ったのも、自分が思いついて行ったのでなく、神様の働きかけがあったからでした。一部始終を聞いていた一同は、しばらく沈黙しました。このところを榊原康夫先生は、『教会にディスカッションの仕方があるように、その終わり方にも、教会なりの終わり方があります。神のみ旨が解った時は、それまでの行き掛かりもメンツも自分の主義主張も全てを沈黙させるべきです。しかし、それだけでは気づまりを生みかねません。積極的に「神をほめたたえなければなりません」「それから神をさんびして、「それでは神は、異邦人にも命にいたる悔改めをお与えになったのだ」と。

こうして、初代教会のクリスチャン達は、イエス様のお与え下さった救いは、どこまでも恵みと、信仰によってのみ救われることを受け入れました。

そして、「この事は、それまでの生活習慣や、ものの考え方も違って生きて来た兄弟たちを受け入れる事です」と榊原先生は伝えます。民族の違いほどではなくても、全く環境の違った世界から、イエス様、聖霊様につながったお互いは、その後は、み言葉に聞きながらそこで一致して、生きるのです。このことを可能にするのは聖霊様にみんなが満たされることです。

先週の早天で内村鑑三先生の言葉が紹介されました。46才のとき、26歳で聖霊を受けた時の経験です。「聖霊を受けし時の感はこれである。すなわちこんな良いものは全世界にない。これさえあれば余はなんにもいらない。金はもちろん、位も名誉もなんにもいらない。家庭もいらない(もし神の聖意ならば)なんにもいらない。成功もほしくはない(もし神の聖意ならば)伝道に従事できなくともよい(もし神の聖意ならば)。なんにもいらない。ただこれ(聖霊)を永久にもっておりたい。・・これであるしかり、これである。これがキリスト教が人類に与えんとする最大の賜物である。これを受くるための手段とならずして、バプテスマの式も、聖晩餐の式も神学の研究も、日曜ごとの礼拝も、何の用にも立たない。これを得て、われは初めて満足するのである。これを得るまでは、われに何らかの不満は絶えない。・・これを我らに賜わんために、神はその一人子を世に遣わし、またキリストは我らのために十字架の上に血を流したもうたのである。ルカ11:13天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。

祈り。神様、律法によらず、信ずるだけで救われたことを感謝します。聖霊様に満たされ、このように一致していますという証しを持たせてください。