2024年2月11日(日)新宿西教会主日礼拝説教「神の言葉はとこしえに立つ」イザヤ40:1~8 深谷春男牧師

 

【聖書箇所概説】 

 イザヤ書40章から55章はイザヤ書第二部と呼ばれる預言です。この箇所で神は預言者を通してバビロン捕囚から帰還するイスラエルの民を励まし、新しい時代を切り開いてゆきます。主は語られます。バビロンに囚われ、絶望の中にいるイスラエルの民に。「もう神の裁きの時は終わった、今は『慰めの時』となった。神ご自身が来られる、新しい時代が来る!」この預言の言葉が語られます。今日のところはその預言の序曲に当たる場面です。

1-2節 天上での会議 天的な存在の一人が他に呼びかけている。

      「わが民を慰めよ」との神の言葉を聞いている。

3-5節 天上での会議 1-2節と同じ。神の栄光の現れるために荒野に道を備えよと  

       命じている。

6-8節 天的存在(天使)から預言者へ 「呼びかけよ」と命じられ「何と呼びかけてよ 

       いのやら」と戸惑う預言者の姿。

      「人間の世界のはかなさと神の言葉の永遠性!」を語れ。

【メッセージのポイント】

1)、1 あなたがたの神は言われる、

「慰めよ、わが民を慰めよ、

2 ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、

その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、

そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を

主の手から受けた」。(1、2節)

    ⇒ 慰めの時が来た!        

 この有名なイザヤ書の第二部は序曲は「慰めよ(ナホムー)、慰めよ(ナホムー)、わが民をとあなたがたの神は言われる」という言葉から始まります。天上での会話からこの慰めの福音書は語られ始められます。この「慰め」と言う言葉はイザヤ書では10回使用され、福音の本質を示しています。

 「福音―それは聞くことに始まる(ロマ10:17)。すでに生起した神の出来事に耳を傾けることであって、これから何かを引き起こすために力をふりしぼって行動することではない。それはくりかえし語っている神のみ声に耳をすますことから始まる」(左近淑)。

 この時代の状況は「エルサレムのこころに語りかける」ことによく表現されます。「こころに語りかける」とは旧約で8回使用されています。創世記34:3、士師19:3、ホセア2:14では、女性に愛を告白するときの姿として描かれています。ある訳では「心にしみいるまで」と訳され、誠意の限りをつくして語ることを意味しています。実に50年以上の長きにわたって、バビロンに捕囚となった民は、自分の罪に対して深い絶望と、神の沈黙に対して疲れを覚えて、霊的にすさんだ「荒れ野」のような状態であったことが想像されます。繰り返し繰り返し、心にしみるまで、預言者はイスラエルの心に語ります。

イスラエルの民は「苦役の時はいまや満ち」「二倍の刑罰」(口語訳)を受けたと宣言されています。不信仰のゆえにバビロンに捕囚となったイスラエルの民の罪の赦しと神の慰めの時が宣言されています。

2)、3 呼ばわる者の声がする、

「荒野に主の道を備え、

さばくに、われわれの神のために、

大路をまっすぐにせよ。

      4 もろもろの谷は高くせられ、

もろもろの山と丘とは低くせられ、

高低のある地は平らになり、

険しい所は平地となる。(3、4節)

⇒  荒れ野に道を備えよ!   

バビロンからエルサレムへの帰還の道のりは、厳しい砂漠の荒れ野を通らねばなりません。ここは天上での会議であろうと言われますが、この厳しい荒野に道を設け、起伏のある地は平らにされ、谷が埋められ、山と丘は削られて平地とせられて、イスラエルの民の帰還の備えとされると語られました。第二イザヤは、この時に、かつてモーセに導かれてなした出エジプトの偉業を心に描いていたようです。荒野と砂漠に一筋の道が作られます。これは人間の手では不可能でありました。神ご自身が奇跡的な働きで備えてくださるというのです。神の民はその備えられた道を歩むことになります。

 現在、わたしどもは主イエスのなしてくださった救いの道を知っております。バプテスマのヨハネに語られた「道を備えよとの荒れ野の声」は主イエスの御救いの道を語る序曲でもありました。

3)、6 声が聞える、「呼ばわれ」。

わたしは言った、「なんと呼ばわりましょうか」。

「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。

7 主の息がその上に吹けば、

草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。

8 草は枯れ、花はしぼむ。

しかし、われわれの神の言葉は

とこしえに変ることはない」。(6-8節)

    ⇒ とこしえに立つ神の言葉!  

6節からは預言者自身が登場してきます。天上の会議での天使の声が預言者に働きかけてきます。「呼ばわれ!」。神の民にこの救いの新しい時代の夜明けを告げよ、と語りかけられた預言者は、自問自答しています。「何と呼びかけたらいいのやら・・」。これは預言者エレミヤの召命の時と同じようです。また、モーセの召命の時のようです。「何と呼びかけたら、民は聞くのでしょう?わたしのような者が・・・?」

バビロンで人間のみじめな現実を見つめ続けた第二イザヤにとって、肉なるものである人間は草のよう、またすぐにしおれる花のように見えたのでしょう。左近淑は7節までを預言者の告白と理解しています。「草は枯れ、花はしぼむ」という表現は、詩編の「民族の嘆きの歌」に出てくる表象だと説明しています。預言者は語るべき言葉を見つけることができません。人間の存在は、草のよう。皆、枯れ果ててしまう。その栄光や美しさは花のようにしおれてしまう。一体、確かなものは何なのか?力あるエジプトのファラオもバビロンのネブカデネザルも皆、神の裁きの前では枯れた草のようではないか。かつての大国アッスリアもバビロンも、それらの権勢も栄華も皆、しおれる花のようではないか?自分たちも例外ではない。本当に確かな物は何なのか?

しかし、そのとき天からの預言の声が響きます。        

草は枯れ、花はしぼむが

わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ(新共同訳)」(8節)。

ここで預言者に与えられたのは「神の言葉!」への信仰でした。「わたしたちの神の言葉こそ、とこしえに立つ!」。

永遠にわれらを支える「神の言葉」!

揺れ動く時代に生きた預言者達の信仰の確信でした。イザヤ第二部の最後、55章11節も「わが口から出るの言葉も、むなしくはわたしに帰らない」と言う信仰告白で締めくくられています。

2012年10月教団総会の最後の日、聖餐礼拝で井ノ川勝師が説教をされた。

「今回の教団総会のはじめ、教会員の葬儀をしておりました。40年間幼稚園の教諭をしてこられたT姉妹でした。わたしどもの教会の幼稚園は1913年、大正3年の創立です。ライカー宣教師は、伊勢神宮の前に教会を造りました。そして、まず自分の墓を作りました。そこに骨をうずめる告白の表れでした。彼女は幼稚園と教会のために生涯をささげたのです。然し、太平洋戦争が始まりました。彼女は敵国人ということで、ついにアメリカに強制送還されてしまいました。写真一枚持ってゆくことも許されませんでした。ライカー宣教師にとってそれはどんなに辛く、悲しいことだったことでしょう。戦後、老齢のために、彼女はついに日本に帰ることができなかったのです。

 40年間の日本伝道の時でした。戦後、ライカー宣教師から手紙がきました。「あの厳しい戦争をくくり抜けて、伊勢神宮の前にある私どもの教会が建ち続けているのは何という恵みでしょう。」そして彼女の手紙にはこの言葉が記されておりました。「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は変わることがない」。これはペテロの語った言葉です。ローマ帝国の迫害の中にある人々に彼は語りました。今回T姉妹の遺骨を見ながら、私たちも草のように消えてゆく。そのことを実感いたしました。そうです。みな草のように消えてゆくのです。残るものは何なのでしょうか?「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉はとこしえに残る」のです。当時はローマ帝国の迫害の中です。また、これは第二イザヤの預言の言葉です。バビロン捕囚のできごと。国家も神殿も、すべて、主の熱風によって消えてゆきました。倒れず、しおれず、とこしえに立ち続けてゆくものは何なのでしょうか。T姉は、太平洋戦争中、洗礼をうけました。伊勢神宮の前にある小さな群の教会です。男性は戦争へと狩り出され、老人と女性だけが残されました。戦争中です。お伊勢さんのお膝元です、人々の冷たい目が光っています。毎回、特高が礼拝に来て、見張っています。その中で、小さな群は礼拝を守り続けました。福音は聞くだけでなく味わうものです。聖餐において、福音は味わうものです。ローマの地下のカタコンべの棺の上にパンとぶどう酒をおいて彼らは礼拝を捧げました。主はおいしい。主の恵み深さ、おいしさを味わうのです。そこで聖書は実は私たちの洗礼のことを語るのです。洗礼において、私はあのとき死んだ。神の変わることのない御言葉によって生まれ変わった。骨と化した姉妹を見ながら、厳しい戦いをされたライカー宣教師たちのことを考えておりました。敗戦後、ライカー宣教師から手紙がきました。「年老いた私が、再び、なつかしい伊勢に帰ることはないでしょう。わたしたちの地上の生涯は草のように花のように消えてゆくのです。しかし、わたしたちの住む国は日本でも米国でもどちらであろうと、わたしどもは共に礼拝を守り、主の体と血にあずかる時、わたしどもはひとつです。また天国で共に聖餐にあずかりましょう。」

【祈祷】 全能の父なる御神。今日はイザヤ書40章より「神の言葉」のメッセージを受けました。今は「慰めの時」です。人間ははかなく、皆、野の草のような存在です。しかし、神の言葉だけがとこしえに立つのです。われらの霊の目を開き、御言葉に立つ者としてください。御名によって。アーメン!