2024年3月17日(日)新宿西教会主日礼拝説教「イエスキリストの福音を信じるだけで救われる」ローマ人への手紙3:21~26西川穂神学生

 本日の聖書箇所は、ローマ人への手紙3章21~26節までを中心としています。この聖書箇所から、二つのポイントでメッセージをいたします。第一に、「イエス・キリストの福音の恵み」と第二に、「イエス・キリストの復活の恵み」という二つです。本日は、イエス様を信じて守られてきた感謝とイエス様を信じるだけで、本当に罪が赦されて救われて、感謝の生活を送り、天国に行ける素晴らしい世界があるという内容を、私の救いと両親の救いとの証を交えてメッセージをいたします。神様は、本当に真実なお方です。

【聖書箇所の概略】

23節 全ての人は罪人である。

24節 神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。

25節 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物

とされた。それは神の義を示すためであった。

1)第一に、イエス・キリストの福音の恵みです。            

ローマ人への手紙3章24節には、「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」とございます。

イエス様が十字架で私の身代りに命をかけて死んで、三日目に復活してくださった、と信じる時、神様は救ってくださるのです。神様の愛をわかりやすく教えている聖書箇所が、ローマ人への手紙5章8節にございます。「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」。ここで、愛の神様が明らかにされております。私たちは、神様に敵対する罪人なのに、神様の憐れみで、キリストが十字架につけられることによって、神様と和解させていただいたのです。

神様は、ただ信じる者を救ってくださるのです。たとえ、どんな問題をもっていても、何か持っていなくても、信じる者を救うのです。この聖書には、どんな状況でも、どんなに小さくても、単純に信じる者を救う力がございます。

イエス様が十字架で私たちの身代りに命をかけてくださって死んで、三日目に復活してくださった、と信じる時、神様は、私たちの罪を赦してくださいます。

神様は、イエス様を十字架につけ、イエス様を通し、御自分が神様であることをあらわされ、イエス様を通して私たちをご覧になっております。ただ恵みにより、イエス・キリストにある贖いにより、イエス・キリストの福音を信じて救われた、私と両親の証をしたいと思います。

私の父は、植民地時代の台北市生まれで、早稲田大学で国際経済学を教えていました。ゼミ生には、台湾人の留学生が何人かいました。私の父は、スパルタ教育のように厳しかったので、私は、思いやり、いたわり、愛を分かち合う家庭になりたい、と切に思っていました。

1999年、父は、喉頭がんで死を覚悟する生活を病院で送っておりました。その頃、私は、父の教え子の台湾人の女性によって教会に導かれました。その後、2000年1月に私は、洗礼を受ける恵みにあずかりました。私の洗礼式には、その台湾人の女性と宣教師、そして、喉頭がんから癒された父が出席してくれました。父は手を挙げて神様を賛美していたので、私は、心から主イエス様への感謝と喜びで一杯でした。世界最高の幸せの日でした。私は救われて、その後、一歩ずつ、神学校入学へと導かれていきましたが、父と母が救われていませんでした。ですが、福音の種はまかれて、周囲の方がたに祈られてきましたので、2015年、家族が救われるという祈りの課題に愛と真実な神様が応えてくださいました。

2015年の夏ですが、私と父との間で、私も悪かったのですが、行き違いがあって、父が、私の大切なものを処分したということがありましたので、私は、悲しい思いをしました。

その時、父がイエス様を信じるように、神様に執り成しの祈りをしました。不思議な事ですが、神様が祈りに応えて下さり、翌日、父と行ったレストランで和解の時が与えられたのです。私は、尊敬と信頼を言葉で言い表しました。今まで育ててもらったことや父の配慮に対して、真心を持って父に感謝を言い表したのです。

その直後、イエス様は、私に、父へ伝道する機会を与えて下さいました。コリント人への第一の手紙15章3、4節の、「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと」、という御言葉を私の後について、父も信仰告白して祈り、イエス様を信じました。私が、父に、「イエス様を信じる?」と尋ねると、「もちろん、信じるよ」、と父が笑顔で 答えました。その時に、父なる神様から伝道の書3章11節の、「神様のなされることは皆その時にかなって美しい。」という御言葉が私の心の奥深くに届きました。

父が言った、「もちろん、イエス様を信じるよ。」という言葉を神様が聞いた証拠でもありました。最高の時でした。ただ父は、イエス様の恵みによって救われたのです。イエス様が、私の罪のために十字架に架かって死んで下さり、三日目に死を打ち破り甦ってくださった、それにより、私たち一人ひとりに永遠の命を与えてくださった」と父はただ信じたのでした。イエス様を信じて祝福されたことにより、父と母に対する関係も祝福されていったのです。その後に、母もイエス様を信じて救われました。

2)第二に、イエス・キリストの復活の恵みです。

イエス様が命を与えたので(ローマ3:25)、私達はその復活の命に生きる喜びを味わうようになります(ローマ5:2)。ローマ人への手紙3章25節には、「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。」とございます。

ここに、私たちの信仰と感謝のみなもとである、イエス・キリストが描かれています。

イエス様は、父なる神様からも見捨てられ、無限大の恐怖を味わい、「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。」(詩篇22:1)と、私たちの為にお祈りされました。これから、よくなるから嘆いて、ハレルヤといって解決するのも神様の大きな祝福ですが、神様に嘆いて祈ることができるということ自体、神様への深い信仰のあらわれであり、大きな恵みであるといえます。嘆き、涙、呻き、痛み、どうしてですか、という神様に向かって祈る、そのような嘆きの祈りが、深い所ですべてイエス様の十字架につながっているというのは、なんと幸いなことでしょう。私たちは、暗闇に沈むような時でも、イエス様は、私たちの苦しみ、嘆き、重荷を全て背負って、イエス様のみ跡のあとへとついていくようにせてくださるのです。

そして、幸いなことは、私たちの大きな希望は、私たちの死後、天国に住むことがゆるされているという約束です。父がイエス様を信じた、2015年の大晦日、久しぶりに家族で夕食を共にして、その時、父が 笑顔で手を差し伸べて、「ありがとう」と言ってくれました。本当にあたたかい喜びが胸をよぎりました。

2016年に、クリスマスの特別集会を持った時ですが、ある説教者が伝道メッセージをされた最後に、招きをして下さいました。「神様に自分を捧げる人はいませんか」、と説教者は促して、私の父は招きに答え、そっと手を挙げて、再びイエス様に従う決心をしました。うしろから見ていましたが、私はとても感動しました。

2018年10月2日、父は、スペインで学会のような所に仕事で行ったのですが、そのスペインで父が急死したという連絡が私にありました。

その後、私は、スペインに渡り、スペインの遺体安置場で父の遺体を見て、私は、父が 平安そのものの顔しているのを見ました。イエス・キリストの福音によって救われて、本当に、父は、天のお父様の所にいったのであると実感しました。

今まで見たこのない、父のやすらかな顔は、父の救われた大きな証であり、今でも、私にとっては、大きな慰めとして受け止めております。

スペインの遺体安置場で、父の遺体を見ていた私は、父なる神様に次の様に祈りました。「イエス様、私にとって、父は、本当に、最高の父であったことを天国にいる、父に伝えてほしい」。と涙ながらに祈り、私にとって、最高の父を与えてくださった、愛なる神様に感謝を捧げました。父なる神様に祈った後、次のような希望の御言葉が何度も聴こえて私を支えました。それは、「あなたはきょう、わたしと共にパラダイスにいます」 。言い換えるならば、「私の父は、きょう、イエス様と共にパラダイスにいます」。

父は、今や天国で、イエス様にしっかりと 受け止められているのが体験できて、涙が溢れて、愛の神様に感謝で一杯でした。

父が死ぬ前の僅か3年間でしたが、イエス様の十字架と復活によって父が救われ、母もイエス様を信じて、お互いが思いやりを持ち、そして、教会で礼拝を捧げる中で、父、母、私との間で感謝の実を結ぶという、真実なイエス様が共に生きている体験をしました。

先週、母と出会いました。金沢アシュラムのメンバーたちと、母のいる部屋で一緒に祈り合い、讃美歌『わが身の望みは』を賛美して、心を合わせてイエス様に母を委ねて、将来、イエス様が母をしっかりと受け止めてくださることを信じてお祈りいたしました。

信仰によって義とされるというのは、どんな状況であっても希望をもって生きていけるようになるということです。死の陰の谷を行くときも、最後は必ずイエス様に受け止めていただける、との約束だからです。私たちも、いつかこの体が死ぬ時を迎えます。しかし、その死は、もはや死んでそれで終わりではないのです。イエス様は死から復活への道を備えております。それがイエス・キリストを信じる道です。

イエス・キリストを信じると、生きるにも死ぬにも、わたしたちは、真実な救い主、イエス・キリストのものであるのです。愛する家族、友人が天国に呼ばれた時には、生きている時間だけではなく、死ぬにもイエス・キリストのものだ、本当にそうだ、と実感することができるのです。生きることと死ぬこと、その境界線をも超えてくださる、主イエス・キリストの大きな慰めの中に、今、私たちはこうして生きているのです。イエス様、そのイエス様を信じるだけで、本当に罪が赦されて、父なる神様に感謝をする生活を送り、天国に行ける、その唯一の希望である、イエス様を一人でも多くの人に、共にこれから宣べ伝えていきましょう。

【祈り】 父なる神様、生きるにも死ぬにも、私達は真実な救い主イエス・キリストのものである、本当にそうだと神様に感謝できる幸いを心より感謝を申し上げます。イエス様の十字架と復活の救い、希望を一人でも多くの人に宣べ伝えることができる様に導いて下さい。主イエス様の尊い御名によって祈ります。アーメン