2024年3月31日(日)新宿西教会イースター礼拝説教「安かれ」ヨハネ福音者20:19~29 深谷美歌子牧師

 

 

イースターおめでとうございます!

教会の暦には、いくつかの記念すべき祝日がありますが、その中でもイースターは最も大事なすばらしい記念日です。この日の恵みを今日、皆様と共に頂き、立ち上がる時とされますように。

本日は復活の主に出会った弟子たちのこと。

一回目、そこに居合わせなかった弟子トマスが生かされた記事から学びます。

【聖書箇所の概観】

19-20節 弟子達に顕現されたイエス様が「安かれ」と語りかけられたこと。

21-23節 弟子達に傷を見せて証明し「安かれ、わたしが父から遣わされたようにあなた方を遣わす。」と語られたこと。

24-29節 トマスに特に臨まれ、トマスが確信を持つに至ったこと。

【メッセージ・ポイント】

1)恐れから平安へ

19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。

 この日の朝は、女たちが墓に行き、復活の主に出会っています。その報告も聞いています。ですが、それは信じられない出来事だったのでしょう。彼らは、ユダヤ人を恐れて戸をしめていました。

 イエス様に従って来た弟子達は、主が十字架に附けられるとは思ってもいない出来事でした。何度もイエス様が十字架と復活を語っていても、エルサレムに上っていくときも、ぜんぜん解っていませんでした。マタイ20:20にゼベダイの息子の母が「王座におつきになる時、二人の息子を右と左につけてください」と願い出ています。他の弟子達もこの行為を聞いて、憤慨したとあり、大同小異だったことが解ります。ことにエルサレム入場の時は、子供も大人も棕櫚の葉を振ったり上着を道に敷いたりして、王様を迎える歓迎ぶりでした。弟子達は鼻高々でした。ところが一転してイエス様は十字架に付いて死んでしまわれたのでした。それで、従って来た弟子達は、今度は自分たちが主と同じ十字架に附けられるかもしれない、との恐れに捕らわれたのでしょう。息をひそめるようにして戸を閉めた部屋に集まっていました。

 今もこの世界には恐れが満ちています。地球温暖化、それに伴う火災や豪雨による災害、大型台風、いつ起こるとも知れない東海巨大地震、津波。能登の比ではありませんね。戦争、飢餓、家庭崩壊、それらを見ないようにして、今を楽しむとしても、経済や健康といったどうしようもないことが起こります。

 弟子達の恐れの中にイエス様が入って来て「安かれ」と言われたのでした。他の訳では「平和があるように」です。これは、14:27でわたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。と語られたことが成就したできごとでした。信仰者にも同じように恐れが臨みますが、その中に「安かれ」とイエス様が立たれたのでした。

  イエス様がもたらされた「安かれ」は、世の不安、恐れすべてを越えるものです。弟子達もイエス様に出会い、この「平安」を頂きました。

 婦人会連合の機関誌「教会婦人」の冒頭説教に栁沼赦羊子(さよこ)先生が、東日本大震災のその後のことを書いておらます。地域での活動、寄り添いもしていますが、「本当の慰めは、神を仰ぎ安心を得ることです。神以外に本当の慰めをあたえることはできません」。と書かれています。逆に言うとイエス様はどのような恐れに囲まれようとも、そこに平安をもたらすことがおできになるのです。主を見上げましょう。

わたしも長い事、自分(この世の価値)に捕らわれていました。伝道も性格が良くて頭が良い人が用いられるのではないか、などです。しかし、無条件で愛されていること、赦されている事、全てご存知の神様が共いて、ことをなさるのは神様、と気付かされた時、平安と喜びに満たされました。

2)聖霊を受けよ

21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。

22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。

 復活のイエス様は「安かれ」と語られた後すぐに父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわすと語られました。その後すぐに「聖霊を受けよ」。と語られました。聖霊が求めて集まっていた全ての人に注がれたのは、使徒行伝の2章ですね。あの時から、弟子達は喜びにあふれて、隠れていた部屋の窓を開け放ち、使2:16 そうではなく、これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。すなわち、17 『神がこう仰せになる。終りの時には、/わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、/若者たちは幻を見、/老人たちは夢を見るであろう。18 その時には、わたしの男女の僕たちにも/わたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう。とある、このことですと語りだしたのでした。聖霊様が心に来てくださったとき、イエス様のことを大胆に語りはじめたのでした。

イエス様の平安は、聖霊様を心の王座に迎えるところから来ます。その喜びに満たされる時、「遣わす」と言われなくても語り始めるでしょう。

3)信じないトマス 

  25 ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。

 26 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。27 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。  25-27節

復活の最初の日曜日、トマスは皆と一緒にいませんでした。弟子たちにイエス様の顕現があったことは、大ニュースでした。「私たちは主を見た。」と勢い込んでトマスに語ったにちがいありません。「言う」と訳された言葉は、「繰り返して言い続ける」という表現だそうです。しかし聞いた段階ではトマスは信じられませんでした。そのことを「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言葉に出しました。正直であったのでしょう。11章16節では、ラザロが死にそうで、そこに「行く」と主が言われたとき、他の弟子たちは「殺されそうになったところにまたいくのですか?」と反対しました。しかしトマスは「私たちも行って、一緒に死のうではないか」と言っています。きっとその時も、真直ぐな気持だったのでしょう。自分の気持ちをごまかさない、このトマスの発言は、現¥代に生きる私たちのためにも、復活のできごとが、事実はどうだったのかを知る手がかりとなるものです。ただ鵜呑みで信ずるのでなく、疑問は素直に表し、何が真実かを探求したトマスの発言は、後代の私達に確かさを与えてくれる手がかりになりました。

疑問は課題として持ちつつも、真実を求め続けてください。

4)見ないで信じて知った幸い  

28 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。 29 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。 29節

一週間後、トマスもいるときに、主は現れました。トマスは出会った弟子たちの言葉を疑いながらも、一緒にいたことが解ります。『疑問は課題として持ちつつも、求め続けてください。』と先に言いました。すぐに離れてしまわないでトマスを引き止めたのは、何度も語る弟子たちの確信に満ちた証言でした。

真実を求めていたトマスに、主が出会ってくださったのでした。28節にはトマスの信仰告白が記されています。彼はイエス様が現れ、彼の前に立たれたときに、その手の傷と脇の傷を見せて、「見なさい、触ってごらんなさい」との主の迫りを受けました。疑いようもない復活の主に出会い、臨在の前に膝まづき「わが主よ、わが神よ」と告白しました。

トマスはその時代に生きていて、主が直接出会ってくださいました。その後の時代の人々は、出会った人々の証言を聞いて信じるのです。「見ないで信じる人は幸い」と主は言われました。今日までの歴史を生きた人々は、マグダラのマリアが出会った記事、弟子達に聖霊様が来られた記事、トマスの出会いに至るまでの記事、それらを頼りに信じてきました。

ヨハネによる福音書が書かれた目的は、31節にあります。「これらのことが書かれたのは、あなたがたがイエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」 主と行動を共にしたヨハネがもう高齢になり、他の弟子たちも召されるようになってきた時、証言者の言葉を書き留めて、伝える必要を覚えて、書き記したにちがいありません。

こうして、ヨハネ福音書は1:1言(キリスト)は神であった」という聖句から説き起こしましたが、今この福音書を閉じるのにあたって「主イエスこそわが主、わが神!」との確信の聖句で終わるのです。

トマスが生ける主と出会って、生きはじめたように、聞くことから始まった私達の信仰も、人格的応答をもって聖霊様を心に迎えて歩み始めるとき「今主は生きておられる。わが内に居られる」と証言するものとされるでしょう。怒涛のような恐れに囲まれても主が立っておられる平安に生かされましょう!

祈り 恐れに囲まれた弟子達の真ん中に立ち「安かれ」「聖霊を受けよ」と語りかけてくださった、復活の主の出来事を聞きました。今も心を開き聖霊様を迎えるものに平安と喜びの命に生かされることを感謝いたします。この命を証言を聞いて頂く方が周りから起こされましょうに。主の御名によって。アーメン