2024年4月21日(日)新宿西教会主日礼拝説教「わたしだ。恐れることはない」マルコ6:45~56 西川穂伝道師

 

 6章48節には、「ところが逆風が吹いていたために、弟子たちがこぎ悩んでいるのをごらんになって」と記されております。
弟子の中には、漁師もいて、ガリラヤの湖の天気を予測して、突風の中で、舟を操ることも得意だった人もいたはずです。
この弟子たちのように、私たちも、今までの人生経験がまるで役に立たないような、また、学んできたことが吹き飛ぶような突風に、揺らいでしまうということが人生にはあるかと思います。
 
【メッセージのポイント】
1)信仰の確かさは、イエス様の御言葉から聴くことから始まります。
6章48節後半には、「夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らに近づき、そのそばを通り過ぎようとされた。」とあります。
弟子たちが、一生懸命に舟を操っているうちに、もうすぐ夜が明けそうな時間になりました。イエス様が湖の上を歩いておられるのを見て、弟子たちは、「幽霊だ。」と言っておびえ、弟子たちはもう大人でしたが、恐ろしさに悲鳴を上げました。そして、弟子たちは、幽霊だと思ったその存在が、実はイエス様だ、と判りました。イエス様は、ご自分の姿を見て恐怖におびえている弟子たちにすぐに言われました。
50節では、「しかし、イエスはすぐ彼らに声をかけ、『しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない』と言われた。」とあります。
新共同訳では、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と記されております。行く手を阻む逆風の中で、弟子たちのなすべきことは、何とかしようと、右にこぎ、左にこぐような、あたふたとすることではありません。
大切なのは、イエス様の声を聴いて話し始めることから、根本的な解決があります。
根本的な解決になるというのは、神様は、私たちがしなければならない、本当の課題を示してくださるからです。だから、神様の御声を聴かないといけないのだと思います。神様の御声を聴いて、私たちがしなければならない課題が明確になる、ということです。
マルコ4章35節~41節にも、ガリラヤ湖で強風によって、弟子達が苦しむ場面が描かれております。問題が起こるたびに、まず私たちに必要なのは、イエス様の御言葉を聴くことであるということを意味しております。
 
2)「逆風」という場所でしか経験できない、イエス様の御言葉があります。
風に悩む姿は、人生の逆風で苦しむ私たちの姿と重なります。私たちも、荒波の中で、戦い、苦闘して、人生と言う舟が沈んでしまうに違いない、と思ったことはないでしょうか。私たち誰もが人生の逆風のただなかに立たなければなりません。
私たちの人生は、いつも順調に進んでいくとは限りません。時には、弟子達の体験のように人生の逆風が吹きます。それが病気だったり、仕事や家族の問題であったりします。
誰もそばに立って励ましてくれるということはできないかも知れません。しかし、その時、イエス様が私たち一人一人に、「しっかりするのだ。私だ。恐れることはない」と呼びかけてくださるのです。絶対に避けることのできない逆巻く波の中に、私たちのために立ってくださるイエス様がおられるのです。 
神様の働きは、逆風の中で行われます。もしかしたら、神様の良い働きが順風満帆の時に行われるということは、少ないのかも知れません。
逆風という試練の中で苦しんでいる所に、イエス様は、私たち一人一人に近づいてくださいます。逆風だからといって逃げ出したら、神様の御声を聴くことはできません。言い換えるならば、逆風という試練の中でこそ、聴こえる、「しっかりするのだ」というイエス様の希望の御言葉が聴こえるのです。苦しい時に、慰めと希望の御言葉が聴こえてくるのです。
逆風の中に私たちがいる時に、弟子たちを、また、多くの信仰の先輩を導いた所の御言葉が、今も私たちを導いて運んでくださるということに気がつくのです。逆風と言う場所でしか経験できない、イエス様のご臨在、イエス様の御言葉があるのです。
 
3)イエス様の確かさ、御言葉の確かさが私たちの確かさになっていきます。
51節に、「そして、彼らの舟に乗り込まれると、風はやんだ。彼らは心の中で、非常に驚いた。」と記されております。
イエス様には、風や自然を治める権威があります。イエス様は、救い主だけではなく、この被造物を造られた方でもあります。
私たちを造られたイエス様は、環境を新たにして、私たちの生涯を全く新しく創造されます。逆風や荒波を怖がる弟子の姿は、私たちの姿でもあると言えます。私たちも、逆風が起きる時に、「イエス様、どこにおられるのです」か、と悲鳴をあげることがあるかも知れません。
6章51節 、「そして、彼らの舟に乗り込まれると、風はやんだ。」と記されております。イエス様は、そのまま行ってしまうのではなく、すぐ弟子たちに語りかけて、舟に乗りこまれたのです。
旧約聖書では、神様を見ると死んでしまうといわれています。出エジプト記3章5節では、神は言われた、「ここに近づいてはいけない」と記されております。ここで神様は、モーセを招いてお姿をあらわしたので、「ここに近づいてはいけない」という意味は、本当は近づけさせるためなのだと考えられます。神様と人とをつないで、和解を実現させたのは、イエス・キリストです。
新約聖書では、イエス様は、人と出会うために、人となってくださいました。言葉が肉となられ、地べたに座って、私たちの中で住まわれたのです。イエス様は、共に生きる神として、私たちと一緒に、嘆き、苦しんで、共に生きてくださいました。今日の聖書箇所にある通り、イエス様は、通り過ぎようとされましたが、目の前に来てくださり人生という舟に乗り込み、先を導いてくださる神様です。そのように、神の言である、イエス様は、肉体をとって、罪人である、私たちのもとへ来られました。
ところで、神様が人々の前にお姿を現して、「わたしが神である」と一言おっしゃってくだされば、多くの人々が救いへと導かれるのに違いないと思ったことはないでしょうか。神様はなぜ私たちを抜きにして伝道をしないのでしょうか。全ての答えは、イエス・キリストがまことの神であり、まことの人でおられる、という所にあります。キリストは人間性を置いておいて、神性だけのキリストである時、純粋にイエス・キリストであるのではありません。人間性をもってイエス・キリストであるのです。教会を抜きにして、私たちを切り捨てることによって、神様は、人を救うというご計画を進めようとはされませんでした。そこに、私たちの慰めがあり、希望があります。
イエス・キリストにおいて神様の臨在は、人を裁くためではなく、神様の愛により、罪人を赦し、守りつつむものとなったのです。父なる神様のもとにおられた御子が肉体をもって、罪と死を打ち破って私たちに救いをもたらすために十字架につけられ、よみがえられました。そして、父なる神様の愛をあらわす為に、私たちに来て共におられるのです。
しかし、イエス様が共にいてくださる、と私たちがいつも思わなければいけないというのは、その発想は時として、律法主義になってしまいます。それは、人間が作り出す信仰になってしまう、おそれがあるのです。
イエス様の確かさ、御言葉の確かさが私たちの確かさになります。今日でいうなら、心の中で、聖霊様が働いているのです。心の中で、生きるイエス様が共にいるということです。
聖霊様が共にいてくださる、また、イエス様がいらっしゃるから、私たちに信仰の確かさが与えられていきます。私たちは信じていても動揺する時があるかも知れませんが、それ以上に、神様の愛がつつんでくださるのは、心の中に聖霊様が生きていてくださるからです。御言葉と共に聖霊なる神様が私たちを信仰者として成長させて、新たに導いてくださるのです。
救いの確かさは、信じきれない者をイエス様はあわれみによって受け入れてくださるという所にあるのです。イエス様から、見捨てられも仕方がないようなものを、あわれみにより、イエス様がいつもそばにいて、私たちを生かしてくださるのです。イエス様はいてくださるから、「安心だ、安心だ」と私たちが思っている以上に、イエス様は、わたしたちをしっかりと受け止めてくださるお方です。イエス様に全てお委ねする所に私たちの望みと力があるのです。
 
【結論】 イエス様は強風の中でも慌てず、弟子たちに近づき、御言葉を語りました。それは、私たちが、今でも経験する嵐のような人生の中に立ってくださる、イエス様のお姿でもあります。私たちは、神様が御言葉を語られて、その御言葉が迫ってくるという経験をします。それは、疑う余地もない確信となって、私たちの中に突然、進入してくる御言葉に圧倒される経験です。また、入ってきた希望の御言葉が何度も何度も聴こえて、真実な御言葉が私たちを支えているという経験です。イエス様は、私たちの人生の中で起こる、どのような激しい強風や嵐さえものともせず、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と、今でも、私たち一人一人に力強く語ってくださるのです。
 
【祈り】「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と語ってくださる、イエス様は、今日も私たちに希望の御言葉を力強く語ってくださることを本当に感謝いたします。試練や病気で苦しんでいる方がたに希望の御言葉が語られて、主の平安と励ましと新たなる導きをお与えてください。愛する主イエス・キリストの尊きお名前によりお祈りいたします。アーメン。