| わたしたちの教会は、三つの祝日を守ります.クリスマスと、イースターと、ペンテコステ!これは、神御自身がこの世界に来られた。神御自身がわたしたちの罪と死を贖って救いを成就された。更に聖霊なる神様がわれらの心のうちに入り、救いの恵みを内側から照らし出してくださった!詩篇16篇はまさに「黄金の詩篇」。この詩篇は、一言で言えば「主の臨在の詩篇」、「詩篇世界の圧巻」ですね。ハレルヤ 【 テキストの概略 】 詩篇16篇は「ミクタムの歌」と表題に記されております。これはさまざまな解説がありますが、一般には「黄金(ミクタム)の歌」と呼ばれてまいりました。まさに「黄金で刻まれるべき最高の信仰告白」と言われるところです。この詩は神の臨在の喜びと祝福を歌っています。この詩は「信頼の詩」に分類されます。また使徒行伝に2度引用されています(2:31、13:35)。区分は以下の通り。 1― 2節 最高善である神 3― 4節 聖徒の交わりへの賛歌(あるいは異教的神々への呪い) 5― 6節 主こそわたしの嗣業・宝 7― 9節 主の臨在の前における不動の確信と喜び 10―11節 復活の信仰と喜びの充満 【メッセージのポイント】 1)2 わたしは主に言う、 「あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸はない」と。 ⇒ 神こそ最高善。 (神の贖い!) (2節) この詩はまず、この世のすべてに対して失望し、この世においてはあなたのほかに「幸い」はないと告白する所から始めます。この一句はすばらしいものです。「ここに、この詩のもつ恵みの高さがある」(関根正雄)。ここでいう「幸い」はトーブという言葉で、通常は「善」という意味で訳されます。わたしどもの人生は「神こそ最高の善」として心にお迎えする所から、真に不動の人生は始まります。この聖句はわたし個人の献身の時に与えられた聖句でもあります。 わたしは、1969年12月21日のクリスマスに洗礼を受けました。このときの感動は言葉に尽くせない喜びの体験でした。当時、わたしは19歳。わたしは主イエス様がわたしのために死んでくださった、しかも、わたしの罪のために死なれた!と知ったときに、そのあまりにも大きな衝撃のゆえに、自分の絵描きの志望を全て投げ打って、「主イエス様!あなたがわたしのために命を捨ててくださったのですね。わたしもあなたに全てを捧げて従います!」と献身の祈りを捧げました。しかし翌年は1970年。日米安保条約をめぐる政治的な対立が教会の中でも起きて、わたしは新左翼系のヘルメット組に入ってゆき、全てがわからなくなってしまいました。 しかし、それでも山谷で、日雇いアルバイトをしながら、古本屋で高橋三郎先生の本に出会い、中学の時から導かれてきた内村鑑三、矢内原忠雄、藤井武の著作を読みつつ、信仰生涯へと帰ることができました。導かれたのですが新左翼的なイデオロギーを背景にした当時の学生の革命運動の中に飲み込まれて、混沌の中に陥ってしまいました。あんなに感激して歩み始めたクリスチャンの生涯だったのに、6月には全てが冷え切って、全てがしらけて、人生の意味を失ってしまいました。特に当時の「史的イエス」の問題などがのしかかってくる中で、主イエスの十字架の贖いの恩寵が見えなくなり、人生全般に生きる力と価値を見出せずに悶々とした日々。そこに受験の失敗や失恋や青春の大嵐。わたしは生きる力を失ってしまいました。赤羽に転居し、どうにか赤羽教会に結びつき、毎日、聖書を読む生涯へ入っていったわたしは、もう一度、献身の道へと導かれました。この地上の全てのものはむなしい。わたしは、もう、この地上に未練はない。わたしの生涯は主イエスのみだ。「道であり、真理であり、命である」主イエス、神の独り子、唯一の救い主なる主イエス以外にこの世に真理はない。当時の愛唱聖句は、 「あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸いはありません」 「天においてはあなた以外に誰を持ちえましょう。地にはあなたのほかに慕うものなし!」(詩篇73:25) そして、献身の聖句となったのが、詩篇108編、文語訳です。 「わが心定まれり、神よ、わが心定まれり。われ、歌いまつらん、たたえまつらん。わが魂よ、醒めよ。筝よ、琴よ、醒むべし。われ、東雲(しののめ)を呼び覚まさん」(詩編108:2-3) 「あなたはわたしの主、あなたのほかにわが幸いはなし!」これは、この詩篇の信仰の原点、代々の信仰者の信仰の原点の告白です。 2)5 主はわたしの嗣業、またわたしの杯にうくべきもの。 あなたはわたしの分け前を守られる。 6 測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。 まことにわたしは良い嗣業を得た。 (5、6節) ⇒ 主こそわが嗣業! (神御自身がわたしの相続財産) 出エジプトをしたイスラエルの民は、ヨシュアに導かれながら、それ ぞれ美しい土地を自分たちの受け継ぐ地として配分されました。しかし、 レビ部族だけは、それらの相続を受けませんでした。彼らは祭司の部族 であり、その相続財産は神御自身であるという信仰告白がそこにはあります。この詩人も「わたしの嗣業は主御自身!」と叫んだのでした。 新約聖書を見ると、パウロは 「キリストを得て、今までのものは糞土の如し(フィリピ3:8)」「この土の器に宝を持てり(Ⅱコリ4:7)」、 「キリストわがうちに生くるなり」と告白しています。ハレルヤ! 3)8 わたしは常に主をわたしの前に置く。 主がわたしの右にいますゆえ、 わたしは動かされることはない。 9 このゆえに、わたしの心は楽しみ、 わたしの魂は喜ぶ。 わたしの身もまた安らかである。(8、9 節) ⇒主の臨在により、心、魂、肉体の平安を得よ (臨在による平安) ここはまたすばらしい内容が語られます。神御自身を常に前におく。 主が右にいますがゆえに、動かされることはないというのです。神を嗣 業としたものは、神から「諭し」を授けられます。そして、皆が寝静 まった夜更けに主に祈り、一日の歩みを深く省みるのです。また、詩人 はいつも主の臨在の中にあるので何物にも動揺しない。「心(レー ブ)」も「魂(カーボード=栄光)」も、「からだ(バーサール)」、 つまり、信仰者の全存在が平安で満ちているのです。「我は常にわが面 前に主を透視せり」(使徒2:25の永井直治訳)。日々、主を透視す る生活でありたいですね。 朝ごとの祈り、また、独り主の御前における臨在の喜び。その喜び で内側があふれるような、満たされた信仰の歩みをしてゆきましょう。使徒行伝にはペテロの説教とパウロの説教にこの詩篇16篇が引用されます(2:31、13:35)。復活の主イエス様に出会った生涯は、罪と死の支配から贖われ、神様との親しい交わりで内側が満たされ、「心は喜び、魂は躍り、からだは安心して憩う」という歩みです。 4)10 あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、 あなたの聖者に墓を見させられないからである。 11 あなたはいのちの道をわたしに示される。 あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、 あなたの右にはとこしえにもろもろの楽しみがある。(10,11節) ⇒永遠の命の確信と喜悦充満の日々を! (天国まで開ける!) この詩は実に、永遠の命なる神の恩寵経験があまりにも鮮やかで、 「主の慈しみに生きる者は墓穴を見ない!」と歌います。神の命の中を歩む者にとって、「死」は実に恵みの現実と合わないのです。詩人は永遠の命、復活の命を歩む生涯を高らかに賛美してこの詩を閉じます。聖書の信仰は、永遠の命の確信と喜悦充満の世界です。藤井武の最後などは走るような姿だったと言います。三室泰平兄は天を指差し、最後の挨拶とされました。小松川教会の高山松枝夫人の召天直前の婦人方を集めての祈り「小松川教会にリバイバルを!」もすばらしい!ある時、「ダビデのミクタム」が56編、57編、58編、59編、60編とあるので、「そうだ!わたしも深谷のミクタム(黄金の歌)も歌おう!」と導かれ、最も大切な信仰内容を歌いました。(「ミクタム」という言葉を織り込んで、次のような歌ができました。) ① はまず、十字架の信仰(神の絶対恩寵、罪の赦しと永遠の命を!) 御恵みの蔵にぞ喩うる十字架の無限の恩寵わが命なり ② は聖霊の充満(神の内的証示、信仰と愛の勝利!) 御霊より来る確信の他にあらず無明の暗闇破るがごとし ③ は摂理信仰(歴史の不条理を信仰によって克服する) 見るにさえ苦難と不条理耐え難し向き替え仰げや摂理の御手を ④ 聖書信仰(聖書の各巻の背景、語彙研究等による深みと味わい) 御聖書(みふみ)なりくすしき味わい湛えつつ群れなす響きに天をぞ仰ぐ⑤ 大リバイバル(全ての人が主の福音を信じて、救われる) 御救いを汲みてぞ称たうる声聞こゆ無数の人々ハレルヤ叫びつ 永遠の命の確信と喜悦充満の日々を! 【 祈り 】 天の父なる神様。どうぞ詩篇16篇に記されたように、贖い主なるあなたを「主は最高善!」と告白する生涯、また「主こそわたしの嗣業!」との内住の主の喜び、そして「あなたの臨在の前における不動の確信」からくる「罪の贖いと復活の信仰、喜びの充満の日々」を全うすることができますように!ハレルヤ。この詩篇はわが魂の叫びです! 贖い主、復活の主、われらの宝、われらの命、わが嗣業なる主イエスの御名によって祈ります。アーメン。 |
