新宿西教会礼拝説教「信じる者になりなさい」ヨハネ20:24~29深谷春男牧師 2026年4月15日

   

ハレルヤ!勝利の主に感謝をささげます。

過ぐる一週間は年度の初めで、恵みのあふれる一週間でした。イースター礼拝では、ネパールからの留学生ラムチャンドラ兄が洗礼の恵みに与り、神の子どもとして、新しい歩みを始めました。午後は小平霊園にての墓前礼拝の恵みの時を持ちました。月曜日から火曜日はホーリネスの群年会。埼玉県の越谷シティ・ホールで持たれました。全国から約100名の方が集いました。なつかしい牧師先生方、役員の代表者が一年間の初め、共に集い、新しく勝利の一年の計画を練り、2日目の派遣式では、新任地へと派遣されました。そして更に8日は東京聖書学校の入学式と教師会。翌日はガイダンス。家庭集会もありました。あわただしい一週間!けれども、復活の主が共に歩んでくださる復活節の一週間です。先週の説教で、「今、希望が来た!」との説教が語られ、罪と死の悲しみの世界で失意の中にある、全人類へ救いの宣言、ロマ7:24-8:2が語られました。「命の御霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放した!」。愛する兄弟、姉妹!この週も、エマオ途上の弟子たちのように復活の主イエスを共に進み行きましょう!今日はトマスに焦点を当てて学びましょう。

【聖書箇所の概説と区分】 トマスは「ディディモ」とも呼ばれました。これは「双子」という意味です。実際に彼は双子であったのだという説と、彼の中に二重の人格があったのだという説があります。彼は主イエスのためなら死んでもいいという熱烈な信仰者という一面と、どこまでも理性を越えた出来事を信じられないという陰欝な懐疑者の一面を持っています。しかし、福音記者のヨハネは、そのような彼がもっとも深い信仰告白に達したのだと告げます。         

【メッセージのポイント】

1)、24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」  (24、25節)

  ⇒ 恵みの集会を逃すな!                

 24節に「トマスはイエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」とあります。疑い深かったトマスは多分、主イエスの復活を信じ切れなかったのでしょう。「主イエスが復活した!」と騒いでいる弟子たちと女たちの会話を聞いて、何となく馬鹿々々しくなり、そうっと弟子たちの集団から抜け出し、暗い顔でエルサレムのちまたを歩いていたのではないでしょうか。       主イエスは「二人三人わたしの名によって集まっているところにはわたしも共にいる」と仰せられました。主の名によってもたれる集会には主イエスが臨在されるのです。特にすばらしく主イエスの臨在をありありと感じられるような恵まれた集会を逃さないようにしたいものです。トマスも、もしも、最初の主イエスの復活の時にそこにいたら信じることができたのでしょう。

  わたしどもは日常生活でいろんなことを体験いたします。時には人の言葉に傷ついたり、なすべきことがうまく行かないで失敗したりと言うことがしばしばあります。そのようなマイナス要因が何回か繰り返されると、とても嫌になってしまいます。生きる力や喜びを失ってしまいます。でも、主イエスの恵みに満たされて、生きる勇気と力をいただきたいと思います。

  しばらく前ですが、ある日の祈り会でも、すばらしい証しを聞きました。ある兄弟が悪魔の誘惑に遭ったというのです。

「ある朝、きれいな花のある公園を散歩していました。ふと見ると、カメラの望遠レンズがそこに落ちていました。手にとって見るとそれは大変高価なもので、20万円ぐらいするのではないかと思われるものでした。自分の持っていたカメラにつけてみるとピッタリと合う。そのときに、悪魔がわたしにささやきました。「もらっておきなよ。ほしいと思っていたんだろう。」でも、そのときにすぐ御言葉が浮かびました。「自分にして欲しいと思うことを他人にもしてやりなさい」。これを落としてしまった人はきっと、がっかりしているに違いない。交番に届けよう!そして交番に届けました。そしたら、すぐに連絡があり、落とした方が届けを出しており、わたしの方へとお礼の電話がありました。その方は、もう、あのレンズが出てくることはないと思っていたそうです。でも話していて、心に大きな喜びが湧いてくるのを感じました。」

  この兄弟はいつも集会に出て、主イエスに出会い、御言葉に励まされて歩んでいる方です。恵みの集会を逃さないでいつも勝利の中を歩みましょう。

2)、26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(26、27節)

  ⇒信じる者となりなさい。   

 ここには「さて八日の後」と記されています。今日はこのところから説教題をつけさせていただきました。八日と言うのは、一週間後を意味しています。つまりイースターの朝から一週間後のことです。今年の暦で言えば、今日、4月12日、今日のことです。

主イエスはイースターの朝に復活して、弟子たちに現れました。弟子たちは主を見て驚き、また、喜びました。しかし、12弟子の中のトマスだけはそこにおりませんでした。彼はどこか別の場所にいたのです。どこであったかは解かりません。25節を読みますと、イースターの後の弟子たちの喜びと共に、その恵みの場にいなかったトマスの戸惑いと強い反感をそこに見ることができます。そこにはこう記されます。

「そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』」

ここにはトマスの不信表明と、弟子たちの困惑も記されているのではないでしょうか?

トマスとそのほかの弟子たちの間には、なんとも言えない緊張があったのではないでしょうか?弟子たちは「主は復活した!」と言い、トマスは「わたしは信じない!」と言い張ったのですから。そして、今日の聖書では、その一週間後の日曜日のできごとが記されています。やはり、日曜日の朝でした。「さて八日の後、弟子たちはまた家の中に」おりました。そしてそのときには、イースターの朝にいなかった「トマスも一緒にいた」のでした。「戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われ」ました。そして、27節を見ると、主イエスは「それから、トマスに言われた」と記されています。主イエスはこの1週間後の顕現の際には、特に不信の中にいたトマスが気になっていたに違いないのです。主イエスはトマスに静かに言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。特に27節の言葉に心を留めましょう。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」なんとすばらしい主の御言葉!不信のトマスへの主イエスのやさしい、率直な言葉。そして、わたしたちにも、主イエスは今日、この言葉を語られるのです。    

 愛する兄弟姉妹! 主イエスの十字架と復活を信じられないで苦しんでおられる方はいらっしゃらないでしょうか?現代のトマスであるわたしたちに今、語られる。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と。

3)、28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

   ⇒ わが主よ、わが神よ。

 28節にはトマスの信仰告白が記されています。彼は主イエスが現れ、彼の前に立たれたときに、深い畏れと圧倒的な主の真実に触れて、「わが主よ、わが神よ」と告白したのでした。トマスは、主イエスご自身が彼の前に現れ、その手の傷と脇の傷を見せて、「見なさい、触ってごらんなさい」という主イエスの臨在の前に跪き「わが主よ、わが神よ」と告白したのでした。「キリスト教の2千年の歴史のなかで告白された信仰告白は、このトマスの短い驚きの叫びに源がある」と竹森満佐一は語っています。この短い言葉、「わが主よ、わが神よ」という短い言葉ですけれども、これは、われらのために十字架にかかり、われらの罪を贖い、われらのために陰府にまで降って死を砕いてよみがえりたもうたまことの主イエスへの驚きと信仰に満ちた信仰告白なのです。わたしたちは今日も使徒信条を礼拝の中で告白しました。また先週は、日本基督教団の信仰告白を告白いたしました。この告白の源泉はまさに、復活の主イエスに出会い、その手に釘跡を見、そのわき腹に槍で受けた傷を見た者の、驚きと感謝とその愛の深さへの感動を我らに伝えています。

こうして、ヨハネ福音書は「言(キリスト)は神であった」という聖句から説き起こしましたが、今この福音書を閉じるのにあたって「主イエスこそわが主、わが神!」との聖句で終わるのです。

「主イエスこそまことの神であった。人間のどうしようもない深い罪をあがない、死の支配の中でうごめいていた人間に永遠の命を与え、よみがえりの恵みを注ぐのは主イエスである。彼は神なのだ。神のふところにいる独り子なる神なのだ!」と。ハレルヤ!

【祈り】 よみがえりの主よ。今日は、トマスの信仰告白を学ばせていただきました。神の恵みの集いからはなれて、不信仰に陥り、苦しみ惑うトマスに御傷を示してやさしく「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と語られました。主イエス様の恵みに現実に触れて、「わが主よ、わが神よ」と告白する者とならせてください。この新しく迎えた一週間も、あなたへの信仰の告白と共に歩み行かせてください。われらのために傷を受け、われらの罪と死を身代わりにおいたまい、わたしどものエマオの旅路を伴いたもう、復活の主イエスの聖名によって祈ります。アーメン。

新宿西教会イースター礼拝説教「今、希望が来た!」ロマ人への手紙7:24~8深谷春男牧師 2026年4月5日

   

ハレルヤ!主イエスはよみがえられた!

聖書は創世記3章のはじめから、人間の悩みの源は「罪と死」にあると語ります。アダムとエバの禁断の実を食べて、神と断絶し、おそろしい不信と死の世界を来たらせてしまいました。3章は神と人との断絶、4章は人と人との断絶、5章は死の到来です。ここからすべての悲惨は来ました。イースターのメッセージは、救い主、主イエスは十字架にかかり、人間の罪を身代わりに負ってくださり、死を打ち砕いて復活された。主イエスキリストの十字架と復活を信じ受け入れる者は救いを得るのです。

キリスト教の象徴は十字架です。しかも、それは、主イエスがかかっておられるままの十字架ではなく、主イエスがそこから降ろされ、葬られ、復活された、エンプティ・クロス、「主イエスが復活されたあとの、空となった十字架」が、まさにその象徴なのです。

イースターは人間の一番深い要請である、罪と死の解決メッセージです。それこそ、わたしどもにとって「決定的な喜びのメッセージ」なのです。

 

今日の聖書箇所の概略   

ロマ書の第一の主題は、「個人の魂の救い」です。これが1-8章の主題です。概略的に言えば個人の魂の救いは2つに分けられています。1-5章が「信仰義認」です。そして、

6-8章が「聖化」という主題になります。

8章は「聖霊による勝利の生涯」という主題です。8章の特徴は「聖霊」と言う言葉が急に増加することです。1-7章では5回しか出てこなかった「聖霊」「霊」という語が、8章では20回以上使用されます。松木治三郎は8章を「聖霊による救い」と読んでいます。全体は、以下のように区分できます(松木治三郎による)。

 1-11節  キリストへの信仰により、罪と死の法則から解放されて 

12-17節  聖霊に助けられて「アバ父よ」と神様呼ぶ人生を生きる

18-30節  今は苦難と試練の時(3つのうめき)将来の栄光を待望 

31-39節  最後は神の愛、十字架の愛を悟った信仰者の勝利の歌。

ロマ書の第一の主題は、「個人の魂の救い」です。これが1-8章の主題です。概略的に言えば個人の魂の救いは2つに分けられています。1-5章が「信仰義認」です。そして、6-8章が「聖化」という主題になります。6章は「罪からの解放」、7章は「律法からの解放」,8章は「聖霊により圧倒的勝利者として生きる」という内容が語られています。イースターのメッセージが語られています。

【メッセージのポイント】

1)24わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。 25わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。

(24,25節)

   ああ、わたしは何というみじめな人間なのか!                          

ここで言われている「律法」とは、倫理的な内容、即ち、「神を愛し人を愛する生き方」を指しています。造り主である神を愛し神に従う生涯。そして神の形に作られた人格として人間。神を愛し、人を愛して生きてゆくこと、これは、人生最高の生き方でしょう。そしてここに人間の姿があり、愛があり、命があり、喜びがあるのです。ある方々はキリスト教とは、このような生き方であるというでしょう。

律法は霊的(プネュマティコス)であり、清いのです。「しかし」とパウロは言います。「しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています」と。これは強烈なパウロの自己理解であり、自分の内面を厳しく直視する正直な告白です。

人生は「神を愛し、人を愛して歩む教え」である律法を守れば豊かな祝福ができるのです。でも、現実はそうではない。なぜなら、「内在する罪」があるからです。人間の内在する罪の現実。この厳然たる事実を直視するところから、救済への願望が始まるのです。神を愛し、人を愛し得ないと言う現実に直面しなければ、救いと言うことがわかりません。「自分が肉的(サルケノス)で、罪に売り渡されている」と言う告白が、十字架のあがないによる救いを確信する基礎になるのです。

ここにみじめな人間の現実への嘆きがあります。これは死のからだであり、何者をもってしても救うことができないのです。ただ主イエスの十字架のあがないのみが、聖霊の内住によって勝利へと導くことができるのです。

「個人の魂の救い」です。これが1-8章の主題です。概略的に言えば個人の魂の救いは2つに分けられています。1-5章が「信仰義認」です。そして、6-8章が「聖化」という主題になります。6章は「罪からの解放」7章は「律法からの解放」8章は「聖霊による勝利の生涯」という主題です。8章の特徴は「聖霊」と言う言葉が急減に増加することです。8章全体は、以下のように区分できます(松木祐三による)。

2)1こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。(1節)

   キリスト・イエスにあるものは罪に定められない                          

「従って、今や」、と言う言葉で、パウロは1章から論じてきた主題に、1つの決断を下しています。

「キリスト・イエスにある者は、罪に定められることがない。」。これがひとつの結論です。ロマ書の主題は、人間の罪を一体どのようにして解決しうるのか、罪に定められ、神の前に不義を宣言された人間が、どのように生きうるのか、という主題でしたが、ようやく、ここでひとつの方向を指し示しています。即ち、「イエス・キリストに結ばれている者」は、もはや罪に定められないと言うのです。「イエス・キリストに結ばれている者」とは、「イエスキリストの贖いを受け入れ、主イエスの臨在の恵みのうちにあるもの」を意味していると見ることができます。キリストイエスを信じた最大の課題は罪の許しを受けることです。

3) 2なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。(2節)

   御霊の法則が、罪と死の法則から、我らを解放した!

ここでは「キリストイエスによって命をもたらす命の御霊の法則は、罪と死の法則からあなたを解放した」と語られています。

人間の最大の問題は「罪と死」です。人間の中にある深い自己中心の思い、神なしにすべての事を行うおろかな人間は、罪と死の法則に捉えられて身動きの取れない状態になっていました。この罪と死の法則に捕らえられた状態から、真の自由と救いを得ていることが語られています。それは「いのちの御霊の法則による」と語られております。罪と死の法則から、いのちの御霊の法則へとわたしどもの生きてゆく原理が変わったのです。

われらの大先輩に、車田秋次先生がおられるが、先生の説教集「いのちの御霊の法則」にはこの聖句が記され、説教集の書名となっています。

この節は、わたし自身にとっても忘れえない聖句で、神学生時代から暗証してきたものです。聖霊の満たしを受けた生涯は、罪と死の呪いの世界から祝福の世界へと移されて行くのです。

パウロはここで、もう一度、律法ではなし得なかったこと、罪に勝利することが宣言されます。そこには主イエスの十字架のことが、「肉において罪を罪として処断された」と表現されています。

 ロマ書8章の学びにはいって、を思うことは、聖霊の満たしによるところの勝利の生涯のことです。十字架の血潮の贖いによって人は罪に定められることのない身分へと導かれました。さらに、命の御霊の法則に罪と死の法則から解放されました。そして罪と死に勝利する人生への導かれていることをわたしどもは宣言されていることです。

2025年8月29日の「アパルーム」の証し人であるアントニオ・シニアさん(米国・メリーランド)の証しは強烈でした。彼は、アメリカの軍隊を体験し、生活があれて、薬物に手を染め、ボルチモアで路上生活者、何度も投獄され、しかし、今はクリスチャンになって、作家となり、人生が恵みの循環に入った!!驚きですね。ハレルヤ!

【祈り】

主よ、命の御霊の法則によって、わたしどもの生涯を、罪と死の支配から解き放ってくださり、豊かな命と勝利の中に歩み行かせてください。今日は聖書の中で最も深い嘆きの箇所を学ばせていただきました。主よ、律法の義によっては、到底、義とされないわたしどもです。神を愛し人を愛する歩みの中に素晴しさがあることをわたしどもは知っています。しかし、罪と死のとりことなっているわたしどもは、その行いによっては救われない、深い罪の現実にあることを学びました。どうぞ、主イエスの十字架の贖いにより義とし、復活の主イエスの内住によって勝利へと導いてください。そして、主イエスの救いを土台として、神の律法の指し示す神への愛と人への愛の歩みの上に救いを完成してくださいますように。主の御名によって、アーメン!

新宿西教会主日礼拝説教「われを贖う方は生きておられる!」ヨブ記19:25~27深谷春男牧師 2026年3月22日

  • 先日、3月20日の日に、「日本基督教団東京教区北支区」の総会が西片町教会で開催されました。教会から総会議員として、わたしたち二人の牧師と西川穂伝道師、そして中野美和役員の4人が出席しました。北支区には、教会が48ありますがその代表が集って、共に礼拝をし、主にある交わりを保ちつつ、2025年度の活動と決算、そして2026年度の活動と予算案を承認し、北支区の教会を、同じ信仰の共同体として、共に証し人として歩もうという大切な総会の時でした。その中でも、総会の最後の方で一人の牧師が立って、一つの提案がなされました。「今年の12月に、教団総会があるのですが、400人以上の代表者の集まる大事な総会なのですが、今年は、池袋のメトロポリタンホテルの予約が取れず、親しい交わりの中にある方が交渉したら、立正佼成会の広間を貸していただけるということになり、そこで開催するかどうかという議論がなされていると聞いています。わたしはそれはあまりよくないことだと思う。それで、この総会で、今回は話が進んでいて、そうなるならしょうがないとしても、次の年度からは、他の宗教団体の場所を借りるようなことはしないでほしいという意思表示ができないか?考えています。」という意見でした。時間の制限もある中での何人かの議論がありましたが、議案としてまとまりませんでしたが、いろんなことを考えるきっかけとなりました。
  •  
  • 【今日の聖書箇所の概略】                                                
  •   さて、明治、大正、昭和にかけて、日本のキリスト教界に、そして、日本社会そのものに大きな影響を与えたクリスチャンに内村鑑三(1861~1930)がいます。彼は、1920年(大正9年、ちょうど、今から106年前ですが、60歳の時に東京丸の内の聖書講演会で、ほぼ一年、4月から12月までヨブ記の連続講解説教を行いました。その中でのヨブ記19章25節に至った時についに心熱して病に倒れ、数回の休講を余儀なくされました。そして、10月11日の日記にこのように記しました。
  • 「眩暈(めまい)いまだ去らず、頭を冷やし終日、床にあった。床中に彼女(妻)に看護せられて言った。『ヨブ記19章を講じてこんなくらいのことは当たり前である。床につくくらゐに一生懸命にならざれば、ヨブ記がわかったということはできない』と。しかし、これで峠を越えてあとはらくである、一先づ大安心である、こんな力の要る部分は聖書の中にも多くはないのである」(「ヨブ記の研究」『あとがき』内村美代子より)。
  • 翌、大正10年からは「ロマ書講演」に入りました。
  • ヨブ記は「聖書の中で最も深い書物」「人間の苦難と神の義について深淵なる真理を示す書」などと呼ばれております。
  • ヨブは、信仰深い、真実な、豊かな人でした。しかし、サタンの攻撃に会い、家族、親族、仕事、財産に問題が生じて全てを失うに至りました。更に、ハンセン病のような恐ろしい病気にあって、健康とあらゆる人間関係に破綻をきたしてしまいました。彼は「人生の苦難の問題」を友人たちとの議論し、自分の無罪を主張し、神の歴史支配に異議申し立てをします。しかし、因果応報の思想に立つ友人たちに責められて、孤立無援、絶望のただ中で、「贖い主(=ゴーエール))を待ち望む信仰に至りました。法廷における弁護者というイメージを主張する者もいます。とにかく、ヨブは人間としての全てを失う中で、自分を弁護し、失われたものを取り戻し、自分の人生を救い、回復する、まさに「贖い主(=ゴーエール)」を待ち望んだのです。人生はまず、「贖い主」なるお方に待望の目を注ぐところから始まると言って良いでしょう。
  • さて、ヨブ記19章の概略は次の通りです。
  • 1-4節 ビルダデへのヨブの二回目の答えで、友に捨てられた絶望の叫び
  • 5-21節 自分には恥ずべき行為はない、わが身の病は神の不正の暴虐の結果
  • 22-24節 彼は自分の潔白を、鉄の筆で岩に刻むように熱望する
  • 25―27節 失望の最中で啓示される「天における贖うお方」への信仰の飛躍
  • メッセージ・ポイント
  • 25 わたしは知る、
  • わたしをあがなう者は生きておられる、 (25節)
  •   ⇒ われを贖う者は生きておられる!
  •    「贖う者」という言葉は、ヘブル語では「ゴーエール」という語であり、この言葉は独特の響きを持っています。キリスト教の中心的なメッセージはこの「贖う」というこの一語にかかります。
  •  「贖う方」(ゴーエール)とは 次ぎのような場合に使用された言葉である。
  • 親族中の助力者「親族が血を流した場合その復讐をする」(申命19:6-12)
  • 親戚が捕虜になった場合、身代金を払って自由の身とする(レビ25:48)
  • 親戚が破産をした時は賠償金を払ってその財産を買い戻す(レビ25:25)
  • やもめや幼児の保護者、非圧迫者の解放者(箴言23:10-11)
  • ⑤ エジプトからイスラエルを解放した主ヤーウェ(出6:6、15:13)
  • ⑥ バビロンから民を解放したヤーウェ(イザ43:14、44:6,24,エレ50:34)
  • ⑦ メシヤ(=救い主)への適用、「最後の方」(イザヤ44:6、48:12)
  • (フランシスコ会「ヨブ記」その他による)。
  • 日本キリスト教団の信仰告白があります。わたしどもは、聖餐式のある月の第一主日に読みます。これは、大切な信仰告白の基本的な内容が記されます。週報の裏面に印刷されていますので確認してみましょう。4つの告白です。
  • 第一項目は、「聖書信仰」です。聖書が基本なのです。
  • 第二項目は、「救いとは贖い」。人間の罪は主イエスの十字架の贖いによる。
  • 第三項目は、救いの業は「信仰による義認」と「聖霊による潔め」。
  • 第四項目は、教会。教会は神の言葉の説教と聖礼典(洗礼・聖餐)を行う。
  •  ここでは特に、第二の主題、主イエスの十字架の贖いが強調されています。
  • 2)後の日に彼は必ず地の上に立たれる。(25節b)
  • ⇒ 後の日に、彼は必ず地の上に立たれる!
  • ここでヨブはこの「贖い主」なるお方が、地の上に立つと告白します。ここでは二つの理解の違いがあります。①地の上は、文字通りには、「塵(=オーファール)の上として、死人の行く、塵の積もった場所、死者の国、陰府(よみ)の国を指すという理解の仕方があります。そうすると「贖う者」は、陰府の世界に立つことになる。また②「塵」という言葉は、「土(=アダマー)7:21、14:8参照」や「地(エレツ)8:19、41:25参照」と同義語として使われている。アダムも「土の塵」から造られているが、実質的に同じ。この場合も、陰府よりも、地上と取ったほうが妥当と考えられます。教会の伝統でも70人訳以来、この「地の上に立つ」を、地上に来られるキリスト、肉体をとってこられる「受肉の神のことば」と理解してきました。更にこの「贖い主」は再臨のキリストを指すと内村は言います。「贖う者」は最後に、地上に立たれる。その時、彼の義が、正しさが証明される時となるのです。
  • 有限の被造物の世界に、無限の造物主、神ご自身が訪問され、永遠が時間の世界に突入されるのは、二回あります。一回はクリスマス。神ご自身が肉体をまとってベツレヘムの馬小屋に栄光を表わし、ゴルゴダの上に人間の罪をすべてご自身の血潮で贖い取ってくださったのです。第二回目は再臨の時です。主イエスが、この世界の歴史の終わりに再び来たりたもうという信仰です。この再臨信仰は聖書の至る所で告白されています。Ⅰテサロニケの手紙などは、各章の終わりに再臨と再臨への備えが記されます。パウロの手紙などは至る所に再臨の希望が語られます。ロマ8章や、ピリピ3:20,21など。マタイ福音書25章には「十人の乙女」「タラントの譬え」「羊と山羊のさばき」など。黙示録の最後の部分などがあります。
  • 26わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、
  • わたしは肉を離れて神を見るであろう。
  • 27しかもわたしの味方として見るであろう。
  • わたしの見る者はこれ以外のものではない。
  • たしの心はこれを望んでこがれる。 (26、27節)
  •      ⇒ わたしの目が、贖いの神を仰ぎ見る!
  • ここでは、「見る」という言葉が3回も記されます。
  • 厳密に調べると「仰ぎ見る(=ハーザー「幻を見る時に使われる」)」と
  • 「見る(=ラーアー「一般的な見る」)という言葉が使用されています。
  • また、「わたし」も3回使われます。「仰せん(ぎょうせん)」の信仰!
  • 「わたしは仰ぎ見る」、「このわたしが仰ぎ見る」、「わたしの目をもって見る」。ヨブは、神に会うことを唯一の望みとしています。伝統的には復活のことを指し示していると見ています。
  •   この最後の部分でヨブは歌います。「その時には、神は厳しい裁きの神としてではなく、わたしの味方として、わたしの弁護者として、神を見る」と。
  • 内村鑑三は、25~27節の個所から、3つの大きな「思想」があるとして次のように指摘しました。
  • 贖う者は神であるとの思想である。⇒これはキリストの神性を示すもの。
  • 「贖うお方」が地上に現れるという思想。⇒これはキリスト再臨を指す。
  •  ある時において人が神を見る目を与えられて、明らかに神を直視し得るにいたるとの思想である。 ⇒これは信者の復活および復活後に神を見たてまつることを示すのである。
  • 「絶望の極、この三思想、心に起こる時、― いな、この三啓示、心に臨むとき ー 絶望の人は一変して希望の人、歓喜の人となるのである。」 
  • ヨブは、この世の悲しみ、病い、挫折、矛盾、不条理、愛する者との死別、人生の空虚さ、醜悪さ、究極における自己の死・・・・に直面し、絶望の極みに陥り、その最も暗い絶望の闇の中において、自分のどうしようもないこの現実を贖うお方にお会いする啓示を頂き、主の贖いに、復活に、再臨に、永遠の命の世界の出現に、真の救いを見いだしたのでした。わたしどもも同じです。主の十字架に、復活に、再臨に、永遠の命の出現に、救いの光を見るのです!
  • 【祈祷】天の父よ。ヨブ記19章を学び得たことを感謝します。ヨブが肉体的な苦痛、人間世界の冷たい批判、友人たちの攻撃的な言葉に傷つき、自分の自身の内なる世界や、この世界の不条理に心奪われ、真っ暗闇のどん底で、「我をあがなう方は生きておられる!」との告白に至りました。われらの罪と死の世界を贖うために来られ、あのベツレヘムの馬小屋の飼い葉桶の中に身を横たえ、カルバリの十字架の上で身代わりの死を遂げ、しかも罪と死を打ち砕いて復活され、再臨の朝には、顔と顔をあわせてお会いする!そこまで示されて、ヨブが「内臓が焼けるような思い」であなたに焦がれたように、わたしどもの魂をも、贖い主であり、救い主であるあなたを慕う者として下さい。聖霊よ、我らの霊の目を開いてください。贖い主、主イエスの御名によって。アーメン

   

《新宿西礼拝説教》     「運命の逆転」     2026.03 .15           

イザヤ53:8,11、12   運命の逆転が起こる所 代贖    深谷 牧師 

主イエス様の救いを受けるということは、わたしたちの人生に「運命の逆転」が起こることだと思います。数週館前にパウロの体験、ペテロの体験、ヨハネの体験、サマリヤの女の体験、ザアカイの体験。「運命の逆転!」

【今日の聖書箇所の概説と内容区分】

そもそも、イザヤ書という書物は不思議な書物です。イザヤ書は聖書の縮図だと言われます。

旧新約聖書は66巻。      イザヤ書は66章。

旧約聖書は39巻。       第1部は1-39章、

新約聖書は27巻。       第2部40-66章(27章)、

内容から見ても第1部は聖なる神の召されつつも選民失格となる姿

第2部ではバビロン捕囚の絶望から「慰めよ、慰めよ」との福音の宣言。

まさにイザヤ書は聖書の縮図、旧約聖書と新約聖書を含んだ神の言葉!

今日見ます、イザヤ書53章の背景はイスラエルの歴史の中では最も苦しい時代でした。紀元前586年、小国イスラエルはバビロン軍によって滅ぼされてしまいました。エルサレムは焼かれ、神殿は崩壊し、人々は虐殺され、生き残った人々は奴隷として売られ、おもだった人々は遠くバビロンの捕囚となったのです。

イザヤ書全体としては「神の義」という主題に貫かれており、神の救いの業が堂々と語られています。このイザヤ第二部は「第五福音書」とも呼ばれ、旧約聖書中最も大事な書物のひとつです。その中でも、今日の「苦難の僕(第4の歌)」(イザヤ52:13-53:12)はイザヤ書の中で重要な位置を占めるばかりか、旧約聖書中、最も大切な箇所です。ここには一人の人が多くの人の犠牲として苦しみを受ける内容が記されています。それは「主の十字架のもとでその事実を見た人の報告のよう」でもあります。教会ではこれを主イエスの預言として理解してきました。

中沢洽樹師の解説(左側)に従ってまず、全体を見渡してみましょう。

52:13-15  運命の逆転        わが僕は高く上げられる

53:1-12  僕の受難

1- 3 僕の生い立ち、性情。  貧しさに育つメシア

4- 6 僕と民ら        傷ついた癒し人

7- 10 代 贖         運命の逆転

11- 12 報 償         義認とリバイバル

 今日は時間の関係で、8,11,12節を中心に見て行きたいと思います。その主題は、代理贖罪、信仰義認、リバイバル ということになります。

メッセージ・ポイント】                                                    

1)、8 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。

その代の人のうち、だれが思ったであろうか、

彼はわが民のとがのために打たれて、

生けるものの地から断たれたのだと。

(8 節 左近淑訳) 

拘留も 裁判も受けずに 彼は処刑された。

しかもその運命を誰一人思ってみようともしない。

(8節 関根正雄訳)

   過酷な裁きによって彼は取り去られた。

   その運命の転換を誰が思ったのか。

   彼が生ける者の地から断たれ

   わが民の罪過のために死に渡された時  

  ⇒ 聖書の中心 キリストの十字架!(代贖による個人の運命の逆転)

ここには、イスラエルの民の身代わりとして、その罪の重荷を担う一人の僕の姿があります。彼は「苦役を黙々と担い、かがみこみ、口を開かない。そして、やがて捕らえられ、裁きを受けて、死刑となる。彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、ついに葬られてしまったのでした。

これはもう、主イエスの十字架の贖いのできごとそのものです。

8節の「彼の時代」は、「ドール」と言う言葉で、新共同訳では「時代」と訳されており、新改訳も「彼の時代の者で」なっています。しかし、いろいろな方々の翻訳を参考にしますととても刺激的な内容となります。

(左近淑訳 8 節 ) 

拘留も 裁判も受けずに 彼は処刑された。

しかもその運命を誰一人思ってみようともしない。

(関根正雄訳 8節 )

   過酷な裁きによって彼は取り去られた。

   その運命の転換を誰が思ったのか。

   彼が生ける者の地から断たれ

   わが民の罪過のために死に渡された時  

    関根正雄の岩波文庫の「イザヤ書下」の170頁にはこう説明がある。「運命」最近の多くの人の解釈に従う。ただし、言語の意味に従い、「転換」を加えた。

左近淑と、関根正雄、小林和夫、ヴェスターマン、マイレンバーグや現代の注解者はこれを「運命」と訳して、「苦難の僕の運命を誰も理解しない」と訳すのが多いようです。

小林和夫先生の解説によれば

「この世の人のうち」という「代(generation)」は、それは「その代」とも訳されますが、ヘブル語ではもともと「くじを引く」という意味、あるいは「運命」という意味をもあります。聖書では「運命」という語は使いませんがあるいは「計画」とも訳される言葉です。ですからその「計画」「くじ」「運命」というべきですが、NEBを訳したドライバーが「運命」と訳しました。それからユダヤ系のマイレンバーグがこれを「運命」とだけ訳さないで「運命の逆転」と訳しました。それは「誰がこの人の運命が逆転されるということを思った人があるだろうか」と訳されるべきであるというのです。関根正雄はそこから「運命の転換」と訳した。ヴェスターマンは「これは神の僕に対する神の介入である」と言っています。・・・

苦難の僕の運命は、イスラエルの人々の贖いをなす事。そして「彼の運命」の意味が分かる時に、全ての人々の運命の逆転が起こることを告げています。苦難の僕=主イエス御自身、のあがないの業に触れるときに、人々に「運命の逆転」が起こるのです。ハレルヤ!

内村鑑三は、この十字架の贖いの業への信仰を告白し続けたひとりです。

 「終(つい)に彼を捨てる」          内村鑑三 

国のためにキリストを信じたる者は終(つい)に彼を捨てる。

社会人類のためにキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。

教勢拡張を思い立ちてキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。

キリストの人格にあこがれてキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。

美(よ)き思想を得んとてキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。

患難苦痛を慰められんためにキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。

 されども、おのが罪を示され、その苦痛に耐えずして、「ああわれ、悩める人なるかな」の声を発し、キリストの十字架において神の前に義とせらるるの唯一の道を発見し、その喜びに耐えずして彼を信じた者は、かかる者は、よし宇宙は消え失(う)するとも、永遠より永遠まで彼を捨てない。                     (1916年3月『聖書の研究』、著作集第12巻)

2)、11 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。

義なるわがしもべはその知識によって、

多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。(11節)

報償1 義なる僕によって義とされる!(個人の内的逆転・信仰義認)

ここには、この苦難の僕の苦しみが、主のみ旨であり、それを確信して、この僕は「自らを償いの献げ物とした」と記されます。そして、その苦しみの代価によって「多くの人が正しいものとされるために 彼らの罪を自ら負った」。この「正しい者とされるため」は、岩波版の関根清三訳では「義なる僕は多くの者を義とし」と訳されます。「義(ツァディク)が二つ繋がる不思議な個所」でもある。主イエスの十字架の死が無駄になることなく民が自己中心から神に立ち返る、悔い改めが起こってゆくさまを見ることができます。

3)、12 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。

彼は強い者と共に獲物を分かち取る。

これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、

とがある者と共に数えられたからである。

しかも彼は多くの人の罪を負い、

とがある者のためにとりなしをした。

 ⇒報償2 多くの人々を得る。(人類の運命の逆転!リバイバル!)

苦難の僕の歌の最後(12節)は、語り手が神になっています。主なる神が宣言されます。「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とする」(新共同訳)と。そして、その苦難の闘いのゆえに「彼は分捕りものとしておびただしい人を受けることになる」(新共同訳)と。神ご自身が、それを宣言されます。なぜなら、この苦難の僕が、「彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ」と。彼は「多くの人の過ちを担い背いた者のために執り成しをした」からである、と聖書は告げます。

 こうしてメシヤなる苦難の僕の贖いの恵みによって、人々は義とされるのです。この福音は、全世界へと語り告げられます。ここに個人の人生の運命に大いなる逆転が起こり、人類の全体の運命にも逆転が起こるのです。新約聖書はまさに、この主なる神の僕、苦難の僕、主イエスキリストの十字架の贖いによって、個人の生涯に運命の逆転が起こり、人類全体に逆転が起こると語ることを告げ示すことになります。

  

【祈祷】 天の御父。この朝は「旧約信仰の頂点・イザヤ53章の主の僕の贖いの業」について学びました。まさに人間は弱く愚かで、自分で自分を救うことができません。苦難の僕の贖いの業を通して、わたしどもは義とされ救いを受けます。この日、主イエスの十字架の贖いの驚くべき恵みを悟り、聖霊に助けられて、運命の逆転を体験し、全人類に運命の逆転を祈る者とならせて下さい。主イエスの御名によって祈ります。アーメン

新宿西教会主日礼拝説教「運命の逆転!」イザヤ53:8,11,12深谷春男牧師 2026年3月15日

   

《新宿西礼拝説教》     「運命の逆転」     2026.03 .15           

イザヤ53:8,11、12   運命の逆転が起こる所 代贖    深谷 牧師 

主イエス様の救いを受けるということは、わたしたちの人生に「運命の逆転」が起こることだと思います。数週館前にパウロの体験、ペテロの体験、ヨハネの体験、サマリヤの女の体験、ザアカイの体験。「運命の逆転!」

【今日の聖書箇所の概説と内容区分】

そもそも、イザヤ書という書物は不思議な書物です。イザヤ書は聖書の縮図だと言われます。

旧新約聖書は66巻。      イザヤ書は66章。

旧約聖書は39巻。       第1部は1-39章、

新約聖書は27巻。       第2部40-66章(27章)、

内容から見ても第1部は聖なる神の召されつつも選民失格となる姿

第2部ではバビロン捕囚の絶望から「慰めよ、慰めよ」との福音の宣言。

まさにイザヤ書は聖書の縮図、旧約聖書と新約聖書を含んだ神の言葉!

今日見ます、イザヤ書53章の背景はイスラエルの歴史の中では最も苦しい時代でした。紀元前586年、小国イスラエルはバビロン軍によって滅ぼされてしまいました。エルサレムは焼かれ、神殿は崩壊し、人々は虐殺され、生き残った人々は奴隷として売られ、おもだった人々は遠くバビロンの捕囚となったのです。

イザヤ書全体としては「神の義」という主題に貫かれており、神の救いの業が堂々と語られています。このイザヤ第二部は「第五福音書」とも呼ばれ、旧約聖書中最も大事な書物のひとつです。その中でも、今日の「苦難の僕(第4の歌)」(イザヤ52:13-53:12)はイザヤ書の中で重要な位置を占めるばかりか、旧約聖書中、最も大切な箇所です。ここには一人の人が多くの人の犠牲として苦しみを受ける内容が記されています。それは「主の十字架のもとでその事実を見た人の報告のよう」でもあります。教会ではこれを主イエスの預言として理解してきました。

中沢洽樹師の解説(左側)に従ってまず、全体を見渡してみましょう。

52:13-15  運命の逆転        わが僕は高く上げられる

53:1-12  僕の受難

1- 3 僕の生い立ち、性情。  貧しさに育つメシア

4- 6 僕と民ら        傷ついた癒し人

7- 10 代 贖         運命の逆転

11- 12 報 償         義認とリバイバル

 今日は時間の関係で、8,11,12節を中心に見て行きたいと思います。その主題は、代理贖罪、信仰義認、リバイバル ということになります。

メッセージ・ポイント】                                                    

1)、8 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。

その代の人のうち、だれが思ったであろうか、

彼はわが民のとがのために打たれて、

生けるものの地から断たれたのだと。

(8 節 左近淑訳) 

拘留も 裁判も受けずに 彼は処刑された。

しかもその運命を誰一人思ってみようともしない。

(8節 関根正雄訳)

   過酷な裁きによって彼は取り去られた。

   その運命の転換を誰が思ったのか。

   彼が生ける者の地から断たれ

   わが民の罪過のために死に渡された時  

  ⇒ 聖書の中心 キリストの十字架!(代贖による個人の運命の逆転)

ここには、イスラエルの民の身代わりとして、その罪の重荷を担う一人の僕の姿があります。彼は「苦役を黙々と担い、かがみこみ、口を開かない。そして、やがて捕らえられ、裁きを受けて、死刑となる。彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、ついに葬られてしまったのでした。

これはもう、主イエスの十字架の贖いのできごとそのものです。

8節の「彼の時代」は、「ドール」と言う言葉で、新共同訳では「時代」と訳されており、新改訳も「彼の時代の者で」なっています。しかし、いろいろな方々の翻訳を参考にしますととても刺激的な内容となります。

(左近淑訳 8 節 ) 

拘留も 裁判も受けずに 彼は処刑された。

しかもその運命を誰一人思ってみようともしない。

(関根正雄訳 8節 )

   過酷な裁きによって彼は取り去られた。

   その運命の転換を誰が思ったのか。

   彼が生ける者の地から断たれ

   わが民の罪過のために死に渡された時  

    関根正雄の岩波文庫の「イザヤ書下」の170頁にはこう説明がある。「運命」最近の多くの人の解釈に従う。ただし、言語の意味に従い、「転換」を加えた。

左近淑と、関根正雄、小林和夫、ヴェスターマン、マイレンバーグや現代の注解者はこれを「運命」と訳して、「苦難の僕の運命を誰も理解しない」と訳すのが多いようです。

小林和夫先生の解説によれば

「この世の人のうち」という「代(generation)」は、それは「その代」とも訳されますが、ヘブル語ではもともと「くじを引く」という意味、あるいは「運命」という意味をもあります。聖書では「運命」という語は使いませんがあるいは「計画」とも訳される言葉です。ですからその「計画」「くじ」「運命」というべきですが、NEBを訳したドライバーが「運命」と訳しました。それからユダヤ系のマイレンバーグがこれを「運命」とだけ訳さないで「運命の逆転」と訳しました。それは「誰がこの人の運命が逆転されるということを思った人があるだろうか」と訳されるべきであるというのです。関根正雄はそこから「運命の転換」と訳した。ヴェスターマンは「これは神の僕に対する神の介入である」と言っています。・・・

苦難の僕の運命は、イスラエルの人々の贖いをなす事。そして「彼の運命」の意味が分かる時に、全ての人々の運命の逆転が起こることを告げています。苦難の僕=主イエス御自身、のあがないの業に触れるときに、人々に「運命の逆転」が起こるのです。ハレルヤ!

内村鑑三は、この十字架の贖いの業への信仰を告白し続けたひとりです。

 「終(つい)に彼を捨てる」          内村鑑三 

国のためにキリストを信じたる者は終(つい)に彼を捨てる。

社会人類のためにキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。

教勢拡張を思い立ちてキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。

キリストの人格にあこがれてキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。

美(よ)き思想を得んとてキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。

患難苦痛を慰められんためにキリストを信じたる者は終に彼を捨てる。

 されども、おのが罪を示され、その苦痛に耐えずして、「ああわれ、悩める人なるかな」の声を発し、キリストの十字架において神の前に義とせらるるの唯一の道を発見し、その喜びに耐えずして彼を信じた者は、かかる者は、よし宇宙は消え失(う)するとも、永遠より永遠まで彼を捨てない。                     (1916年3月『聖書の研究』、著作集第12巻)

2)、11 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。

義なるわがしもべはその知識によって、

多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。(11節)

報償1 義なる僕によって義とされる!(個人の内的逆転・信仰義認)

ここには、この苦難の僕の苦しみが、主のみ旨であり、それを確信して、この僕は「自らを償いの献げ物とした」と記されます。そして、その苦しみの代価によって「多くの人が正しいものとされるために 彼らの罪を自ら負った」。この「正しい者とされるため」は、岩波版の関根清三訳では「義なる僕は多くの者を義とし」と訳されます。「義(ツァディク)が二つ繋がる不思議な個所」でもある。主イエスの十字架の死が無駄になることなく民が自己中心から神に立ち返る、悔い改めが起こってゆくさまを見ることができます。

3)、12 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。

彼は強い者と共に獲物を分かち取る。

これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、

とがある者と共に数えられたからである。

しかも彼は多くの人の罪を負い、

とがある者のためにとりなしをした。

 ⇒報償2 多くの人々を得る。(人類の運命の逆転!リバイバル!)

苦難の僕の歌の最後(12節)は、語り手が神になっています。主なる神が宣言されます。「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とする」(新共同訳)と。そして、その苦難の闘いのゆえに「彼は分捕りものとしておびただしい人を受けることになる」(新共同訳)と。神ご自身が、それを宣言されます。なぜなら、この苦難の僕が、「彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ」と。彼は「多くの人の過ちを担い背いた者のために執り成しをした」からである、と聖書は告げます。

 こうしてメシヤなる苦難の僕の贖いの恵みによって、人々は義とされるのです。この福音は、全世界へと語り告げられます。ここに個人の人生の運命に大いなる逆転が起こり、人類の全体の運命にも逆転が起こるのです。新約聖書はまさに、この主なる神の僕、苦難の僕、主イエスキリストの十字架の贖いによって、個人の生涯に運命の逆転が起こり、人類全体に逆転が起こると語ることを告げ示すことになります。

  

【祈祷】 天の御父。この朝は「旧約信仰の頂点・イザヤ53章の主の僕の贖いの業」について学びました。まさに人間は弱く愚かで、自分で自分を救うことができません。苦難の僕の贖いの業を通して、わたしどもは義とされ救いを受けます。この日、主イエスの十字架の贖いの驚くべき恵みを悟り、聖霊に助けられて、運命の逆転を体験し、全人類に運命の逆転を祈る者とならせて下さい。主イエスの御名によって祈ります。アーメン

新宿西教会創立71周年記念礼拝説教「神の臨在の場」出エジプト25:10~22 深谷春男牧師 2026年3月8日

出エジプト25:10-22  ― 神の箱:蓋か中身か本体か ―  深谷牧師

今日は、新宿西教会の71回目の「創立記念礼拝」です。71年前、1955年3月13日、この日、教会設立式、岡田實牧師就任式。司式は東京教区議長・島村亀鶴牧師。続いて、献堂式は教団総会議長・武藤健牧師、祝辞は東京教区副議長・藤田昌直牧師等。出席者は約80名と「創立50周年記念誌」に記されています。なつかしい先生方のお名前を聞き、感激ひとしおです。

【今日の聖書個所の概略】

「神の箱」や「幕屋」のおもな設備とその特徴については、別図が必要となります。幕屋建造の命令の中で用いられる長さの単位は、口語訳などでは「キュビト」(ギリシャ語) で、新共同訳ではアンマ(ヘブライ語)が使用されています。これは腕のひじから中指の先までの長さをあらわす単位で、約44,5センチ。2キュビトは約90センチ、1キュビト半は約60センチの長さです。

        幕屋を製作する命令は、最も神聖な「神の箱」とその上の「あがないの座」から始まります。「神の箱」は「契約のしるし」としての十戒の石版をおさめるためにつくられ、「あがないの座」は地上における主の玉座としてつくられました(21―22節、なおサムエル上4:4、サムエル下6:2、詩80〔79〕において、神の箱に関連して出る句「ケルビムの上に座す」参照)。

10~16節 契約の板を入れる箱の造り方の指示。

17~22節 あがないの座の造り方とそこで主が出会うことが語られる。

【メッセージポイント】

1)10彼らはアカシヤ材で箱を造らなければならない。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半、高さは一キュビト半。 11あなたは純金でこれをおおわなければならない。すなわち内外ともにこれをおおい、その上の周囲に金の飾り縁を造らなければならない。 16そしてその箱に、わたしがあなたに与えるあかしの板を納めなければならない。

     中身か? そこに十戒の板を納めよ。

  まず、最初に造り方が示されるのは、「箱」でした。これは「契約の板」を入れるためのもので、実際にはまず入れ物の幕屋から造られました(36:8以下)。一番大切なものがまず指示されたことが解ります。「掟の板」が律法あるいは契約のしるしを形づくっていました。ここで用いられているヘブル語(エードゥト)は、「契約」か、それに近い意味を持っており、「契約」を意味する普通の語(ベリート)を、特にアブラハムへの神の約束に対して用いようとしているように思われます。

  このように見てくると、契約の箱の重要さは、旧約聖書の礼拝の重要な信仰内容を指し示していますが、そのまず第一は、契約の箱に収められた、「十戒」の大切さを教えているように見えます。それは神のみ教え、み言葉への従順を要求しているものとして見ることができるでしょう。

  へブル書9:4には以下のようにあります。

「4 そこには金の香壇と、すっかり金で覆われた契約の箱とがあって、この中には、マナの入っている金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板があり・・」

 ここにも契約の箱には、契約の石板が入っていたことが言及されています。神を礼拝に来た民は神の箱の中にあった、神の戒め、神の教えに心を配る事を求められていた事を思います。

「僕は聞きます。主よ、語りたまえ」とサムエルの如く御言葉に従う礼拝をしたいと思います。

2) 17また純金の贖罪所を造らなければならない。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半、高さは一キュビト半。(17節)  

 ⇒ 蓋か? 贖いの座を純金で作れ

   多くの英訳は「恵みの座」(mercy seat)となっていました。ヘブル語の「カッポーレト」は「おおう」を意味する動詞キッペールと関係し、「あがなう、許す」の意味となるからです。しかし、ここでは事物について記しているのであるから、より具体的な「おおい、ふた」(cover)の方が適切であるように思えます。ギリシャ語で「ヒラステ-リオン(ιλαστηριον)」。パウロはこの述語をローマ3:25でキリストに適用しました。

「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために『罪を償う供え物』となさいました」。ここで使用される、『罪を償う供え物』が「ヒラステーリオン」の訳語で、フランシスコ会訳では「あがないの蓋」と翻訳しています。(ヘブル9:5も参照)。

もしも、神の箱の安置された礼拝の場に、贖罪所である「神の箱の蓋」(ヒラステーリオン)に重要性を置くなら、礼拝は、「罪の赦し」ということが非常に重要なできごととなります。罪のための贖いの業は、ローマ信徒への手紙に現されるように、主イエスの十字架の贖いと言うできごとへのつながって行くことになります。

3) 22その所でわたしはあなたに会い、贖罪所の上から、あかしの箱の上にある二つのケルビムの間から、イスラエルの人々のために、わたしが命じようとするもろもろの事を、あなたに語るであろう。(22節)

  ⇒ 本体か? 主ご自身が、臨みたもう!

 ここで、主は大変重要な宣言をなされました。主は「わたしは掟の箱の上の一対のケルビムの間、すなわち贖いの座の上からあなたに臨み、・・あなたに語る」と。神ご自身が、わたしどもにお会いするのは、あがないの蓋の前であることをはっきりと語っています。   

 「神のシェキーナー」が「贖いのふた」の上、二つのケルビムの間にあり、そこで神が人と会見されると言うことは大切な意味をもつ。なぜなら、その場所こそ、神と人とが和解する場所、人の罪が赦され、人が神の前に立つことのできる場所だからである。しかしその和解、罪の赦しは飽くまでも暫定的なものであって、真の和解と赦しはイエスキリストの贖罪において初めて確立される。」(西満)

   この神の至聖所の神の箱のメッセージは、非常に興味深いと思います。重要な内容が入り組んで語られているからです。それは、わたしどもは神の箱のメッセージが、「中身か、蓋か、本体か」という内容を持っているのです。

【祈祷】 天の父よ。教会創立71周年目の礼拝を感謝します。聖書信仰の内容を、この箇所、神の箱の記述の中に現れています。それは第一に十戒に代表される「神の言葉」であり、第二に覆いの蓋(ヒラステリオン)に代表される「罪の赦し」であり、第三に神ご自身の顕現に代表される「栄光の臨在」です。キリスト教信仰は、その三つの展開の中にあります。すなわち、「聖書信仰」、「贖罪信仰」、「臨在信仰」です。この教会創立記念の時に、主の恵みの奥義を魂に刻んでください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン!

   

 

臨在の幕屋(想像図) フランシスコ聖書注解より

契約の箱(想像図) フランシスコ聖書注解より