2024年6月2日(日)新宿西教会主日礼拝説教「信仰によってモーセは」ー拒絶・選択・達観・仰瞻ー ヘブル書11;23~26 深谷春男牧師 (西川穂伝道師就任式 有)

 

この世界を創造し、主イエスの十字架と贖いを通してわたしたちを罪と死の世界からわたしたちを救い出してくださり、その事を深く悟るために聖霊を降し、わたしたちを導きたもう、全能の神様に、今ここで、礼拝を捧げ、神様の臨在に触れ、御言葉を頂いて、この新しい一週間の旅路を皆様と共に歩めますことを感謝します。ハレルヤ!
さて、今日の礼拝は、わたしたちの伝道師、この4月から新宿西教会の伝道師として働いていてくださる、愛する、西川穂(みのる)先生の伝道師就任式の記念すべき礼拝です。すばらしい恵みにあふれた新宿西教会を形成して参りましょう。
この、西川穂先生の伝道師就任式のこの日、神様はわたしたちに、ヘブル書11章23~26節を与えてくださいました。心から感謝します。その中でも、24~26節の聖書箇所は、聖書の中でも、とても美しい表現で、旧約聖書の最もすばらしい神の器、モーセの信仰を言いあらわした言葉です。日本語でもすばらし言葉ですが、もともとギリシャ語で、新約聖書は書かれていますが、このギリシャ語でも、この言葉は、すばらしい表現で語られている聖書箇所です。出来れば暗唱してしまいたい聖書箇所です。この新しい伝道師就任の時に、わたしたちは、伝道師として就任してくださる、西川先生と共に、心の碑に刻みたいと思います。
ご一緒に、声を合わせて、この24~26節をお読みしてみましょう。
 
 24 信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、25 罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、26 キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。                (ヘブル11:24ー26)
 
 今日はこの言葉を中心に、神様を礼拝し、一週間の出発をしたいと思います。
 
【今日の聖書の概説】
 さて、昨年からわたしたちは、ヘブル書を学んできました。このヘブル書は、使徒パウロの影響を受けた著者が、パウロ先生のロマ書やガラテヤ書で語られた内容を、更に深めて、「信仰」について教えてくださっています。その信仰は、旧約聖書の深い理解から、特に二つのことに強調点を持った、すばらしいメッセージとなっています。
①  わたしたちには、主イエスが大祭司としておられるがゆえに、メルキデレクに等しい大祭司に深い信頼を持って歩め。
②  特に、旧約の大祭司は、動物の血によってイスラエルの民の罪を贖ったけれども、真の大祭司主なる主イエスは、ご自分の血をもってわれらの罪をすべて贖い取ってくさった。この一度だけの十字架の血潮によって、人は神の天国に入ることが出来る。
と教えています。これは実に強烈な、救いの確信に迫る内容です。
 
特に、ヘブル書11章は、「偉大な信仰者の肖像画の掛かった画廊」であると、表現されますが、す。
 
1ー 3節 信仰とは何か。その定義と世界創造、その根幹の理解。
4ー 6節 アベルの信仰(優れた礼拝)、エノクの信仰(主の臨在)
7節 ノアの信仰 (み言葉への信頼と家族の救い) 
8ー10節 アブラハム①(召命、約束の地での居住、神の都への待望)
11ー12節 サラの信仰(子を宿す力、約束の神の真実、多くの子孫)
13ー16節 アブラハム②(信仰を抱き死ぬ、地上の旅人、天の故郷熱望
17ー19節 アブラハム③(神第一の信仰、復活の信仰、摂理の信仰)
   20節 イサクの信仰(祭壇を築き、天幕を張り、井戸を深く掘る)
   21節 ヤコブの信仰(石の枕と逆さ梯子・腿のつがいと神の顔)
   22節 ヨセフの信仰(臨在信仰、神の摂理、王者の魂愛と赦し)
23ー28節 モーセの信仰(この世の王位を捨て神の民として生きる)
 と続けて、学んできました。
 
【メッセージのポイント】
さあ、今日は「モーセの信仰」について、学んでみたいと思います。モーセに関しては、皆さんご存じの通り、旧約聖書で語られる、最も偉大な信仰者であり、聖書の初めの5つの書物は、「モーセ五書」と呼ばれ、聖書信仰の一番基礎を築いてくださった神の僕です。彼が、イスラエルの民を、エジプトのパロ王の奴隷から解放し,紅海を渡り、シナイ山で「十戒」を神様から受け、それを民に授け、イスラエルの民と神様の「シナイ契約」を結ばせ、その後荒野を40年の長きにわたって導き、最後は、モアブのホレブ山のピスガの頂きで120歳の生涯を終えられた神の器ですね。そのモーセの生涯の要約です。
 ここではモーセの信仰とその生涯を4つの動詞にその特徴を見ることができますので、その四点を見てまいりましょう。
 
1)24 信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、(24節)
  ⇒ 信仰によって、拒め!    《拒絶》
 モーセは信仰によって、神の民イスラエルを奴隷として迫者した、エジプトのパロ王の娘の子であることを拒んだと言うのです。たといそれがどんなにこの世で「価値があり」「名誉であり」「人々の尊敬と見られるもの」であっても、神の御心にかなわないものであるなら、神の民は、はっきりと拒むベきものである、と聖書は語ります。
 マタイ19:17に、「富める青年」の話があります。「先生、永遠の生命を得るために,どんなよいことをしたらいいのでしょうか」と問う話があります。そしてこの青年と「律法についての話」をし、主イエスは最後に、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に宝を持つことになろう。そしてわたしに従ってきなさい。」青年はこの言葉を聞いて悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたから」と人記されております。
 
2)25 罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、(25節)
  ⇒ 信仰によって、選べ!   《選択》       節)
 信仰とは「選択」なのですね。基本的には、自由意志による「選択」なのです。キリストにつくのか、ファラオにつくのか。神の民として生きるのか、エジプトの民として生きるのか。
 典型的な例は,パウロですね。彼は,ダマスコ途上でキリストに会い、今までのパリサイ人の生き方から、キリストに従い、キリストの贖いを受け、キリストの内住をいただき、人生がすべて変わりました。
ピリピ3:4~9。「キリストを知る知識の絶大な勝ちののゆえに,一切の物を損と思っている。キリストのゆえにわたしたすべてを失ったTが,それらの物をふん土のように思っている。
 信仰によって、キリストを選べ、神の民を選べ!と聖書は語ります。
 
3)26 キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。(26節a)
  ⇒ 信仰によって、達観せよ! 《達観》
信仰は「達観(=ヘゲオマイ・・と見なすこと)」です。キリストのゆえに受けるあざけり(NEBでは「焼印」と訳す)をエジプトの財宝にまさる富と「見做す」,「達観」するのです。ここには大きな価値観の転換があります。
モーセの信仰は「キリストのゆえに受けるそしり」を、「エジプトの宝にまさる富」と達観した!
まさに、パウロ先生の言葉ですと、「内住のキリスト栄光の望み」(コロサイ1:27)、「土の器に『宝』を持つ」(Ⅱコリント4:7)。
 信仰のゆえに受ける「そしり」を、「エジプトの宝にまさる富」と達観する、という。
 
4)それは、彼が報いを望み見ていたからである。(26節b)
  ⇒ 信仰によって、天国の『報い』を凝視せよ! 《仰瞻》
 信仰は「凝視」であると語りますね。神の国をじっと見つめることです。モーセはこの永遠の神の都を望んで、人生が大きく変わった。エジプト帝国の王位を捨てて、神の国の一員となり、苦難を喜んで負う人となり、天国に、まことの神の栄冠を望み見ていた。ヘブル書では、この「地上の価値を捨てる!」所を強調するのでなく、天において必ず報いを与えてくださる、「天の賞与」を確信して歩めと言われる。これは11:6や、12:2でも語られる。
 
【祈祷】 ハレルヤ!天の父なる神よ。今日は、西川先生の就任感謝礼拝をありがとうございます。この就任の時に、モーセの信仰と霊的祝福の世界を見ることができて感謝します。信仰とは、《エジプトの国籍の拒絶》であり、《神の民の一員たる選択》であり、《信仰のゆえに受ける苦難をエジプトの宝にまさる富と見做すこと》であり、《神の国を霊の目を開いて凝視すること、仰瞻すること》である。と学びました。モーセの如き達観的信仰ヘとわれらを導き給え!御名によって、アーメン