信仰者は幻を見ます。それは神の全能の力への信頼から来ます。聖書が指し示すわたしどもへのメッセージは「若者は幻を見、老人は夢を見る」です。
【今日の説教箇所の概説】
この箇所はモーセの召命として有名な箇所です。モーセはエジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を救うために神に召し出されました。エジプトは古代の最大の武力国家です。一介の羊飼いであったモーセが取り組んでも到底太刀打ち出来る相手ではありません。実際に出エジプト記を読めば、モーセとアロンが幾度と無く絶望的な壁にぶち当たったのを見ることができます。神はこの未曾有の大事業のさせるに当って、モーセにひとつの幻を見せました。それが「燃える柴の幻」です。モーセはこの神の炎によって燃えつづける柴の幻を心に秘めつつ、奇跡的、大事業を完成します。神のからの幻は、聖霊の言語のようにその僕に作用します。
【メッセージ・ポイント】
1)2 ときに主の使は、しばの中の炎のうちに彼に現れた。彼が見ると、しばは火に燃えているのに、そのしばはなくならなかった。
⇒ 燃える柴の幻に触れよ!
一体、モーセの見た幻は何であったのでしょうか?モーセのいたシナイ山は現在のジュベル・ムーサ(モーセの山)であると言われます。その山の一帯はシナイ山特有の赤く焼かれた花崗岩で、樹木はほとんどありません。わたしは1994年と2009にそこを登りましたが、夜中の2時にふもとを出発し、頂上でご来光を仰ぐという計画でした。月明かりの中を登り行くと、石ころがごろごろしているだけで「月の世界」にでもいるかのような錯覚を覚えた程でした。ふもとの方にある植物も背の低い潅木です。そのような潅木が燃えていたのでしょうか。これは通常の山火事ではありません。モーセもその不思議なものを見ようとやってきました。「この不思議な光景」(3節)を見ようとしたと記してあります。「燃え尽きない柴」とはどのような意味があったのでしょう。これは苦難に会っても消滅しないイスラエルの象徴とか、弱い人間も神の燃える熱情の炎の中にあって燃えつづける聖霊の火の象徴であるとか、カトリックでは処女性をもって神の子を身ごもったのマリヤの象徴であるとも言われています。わたしには弱い人間も神の炎を宿しつつ歩むことができる聖霊の炎という解釈が合っているように思います。
何はともあれ、燃える柴の幻は、わたしは主イエスの十字架の贖いに触れ、聖霊の火に燃やされる体験を語っていると理解してよいと思います。
2)5 神は言われた、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。 (5節)
⇒ 神の聖なる臨在に触れよ!
主はモーセの近づくのを待っておられたようです。あるいはこの「燃える柴」の光景によってモーセを引き付けたかのように見受けられます。
4節には「主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった」とあります。モーセが見に来るのを神はジーっと見ておられたのです。そして燃える柴の中から、モーセに声をかけられたのでした。「モーセよ、モーセよ、ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。モーセは燃える柴の幻を見て、興味を持って近づいて来たが、そこで神御自身に出会いました。神の聖なる臨在に触れたのでした。モーセは「燃える柴の幻」の背後に永遠の神御自身の臨在を見たのでした。
わたしの場合は、1969年、19歳のときに川崎の教会で主の前に砕かれるという明確な体験をいただきました。19歳の7月頃だったと記憶していますが、わたしにとって霊的な転機が訪れました。川崎の教会に行って洗礼を受けた友人Nが牧師になるために教会に住み込んでいました。わたしが最初彼を教会に導いたのですが、今度は逆転し、彼が、わたしに教会に出席するようにと、しきりに薦めました。わたしはあまり気が進まなかったのですが、Nに会うのと、礼拝後に教会の印刷機を借りて、「同級生新聞」を印刷したいということのために、土曜日に千鳥町の近くの兄貴にアパートに泊まり、日曜日には川崎の教会に出席しようと部屋を出ました。でも、教会に行くのがとても気が重かった。川崎駅で下車したが、どうも教会に行く気がしない。ぶらぶらと駅ビルの書店に行き、本を見ていました。11時半ごろ、とぼとぼと教会に向かって歩き出しました。教会の印刷機(当時は謄写版と呼んだ)を借りるのに、礼拝に顔も出さないわけに行くまいと思って、教会に11時40分頃に着くように、歩き出したのでした。歩きながらも、「教会の人たちは、何となく偽善的だよな…・」と文句ばかりを並べて歩きました。教会に着くと玄関口で、同年の神学生の女の子が「まあ、深谷さん、よく来てくださったわね・・」と声をかけてくださいました。でも、わたしは少し、視線を斜め上に向けて、彼女の言葉を無視しました。そして、礼拝堂の一番後ろに座ると、腕を組み、足を組み、会堂の中を冷たい視線で見回していました。牧師は何となく、わたしの態度に気が付いたのだと思います。説教ももう終わりに近かったのですが、このように語られました。「今日は聖日で、皆、神様の前にひれ伏し、主を礼拝して1週間を始めようとしている。しかし、そうでない者もいる。・・」そして、牧師はわたしの方を見た(ように感じました)。わたしはカチンときて、「この牧師は僕にけんかを売っている!」と感じました。19歳の生意気なわたしは、「売られたけんかは買おうじゃないか!」と意気込んで、牧師をジーっとにらんでいました。牧師の説教はサムエル記下6章。「ダビデは王様なのに、神の箱の前では、子供のように踊った。これは救われたわたしたちの姿なのです。でも、ミカルというダビデの奥様はダビデのその姿を、冷たい視線で見たのです!今でも、冷たい視線で見る者もいます!」そう言って、この牧師は、わたしの方を見たように感じました。わたしの視線と牧師の視線がチカチカとぶつかり、一瞬の間ではあったが、わたしは火花が散るような緊張を感じました。説教が終わると、その教会は皆で一斉に感謝の応答の祈りをしました。わたしも同じように祈りの姿勢を取りました。しばらくすると、わたしの心のうちから声が聞こえてきたのです。これは主のみ声だったかどうかは知らない。その声はこのように語った。「あなたは、ここにいる人々、牧師をはじめ、教会の人たちを偽善者というか。あるいは確かにそうかもしれない。人は皆、弱さを持っている。しかし、彼らを非難する資格はお前にあるのか?お前はこの一週間どのように過ごしたのか?お前のうちに罪はないのか?」 その声を聞いてから、わたしの脳裏には実に、一週間の自分の惨めな罪の姿が、ぐるぐると回りはじめました。そして、この一週間ばかりではない。いままでの、19年間の多くの罪と汚れが、走馬灯のように浮かんできました。「主よ、そうです。わたしには、彼らの偽善を責める資格などありません。このわたしが、一番の罪人です。ほかでもない、このわたしが一番の罪人です。おお、主よ、世界はすべて、すべて罪で満ちているではありませんか!わたしはどうしたらいいのか分かりません!」気が付くとわたしは泣いていました。涙がぽろぽろと頬を伝って落ちてくる。涙腺と鼻はつながっているのか、そのうちに鼻水も出てきた。そして「主よ!主よ!・・」と言っていったのでよだれまで出てきて、この三つのものが床に滴り落ちました。わたしが泣いて祈っている姿に、いつもお世話してくださった神学生が寄ってきて、やさしく「深谷君、よかったね。もう、神様は分からないなんて、言わないでしょう?」と語りかけてくださった。しかし、わたしは「そんな事言ったって、オレにはわかんねえんだよう!」と言って30分位、泣き続けました。その間に皆、最後の賛美を歌い、献金をし、頌栄、祝祷と続いて帰って行きました。わたしはズーっと泣き続けました。わたしにとってはこの出来事がとても大きな意味を持ちました。今までは、あの人が悪い、この人が悪いと言っていたのに、決定的な批判の刃が、自分の方に向いた。この時から、わたしの中にあった岩のような硬い自我が、内側で、がらがらと音を立てて崩れて行った。神の臨在に触れる体験でした。
3)7 主はまた言われた、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。8 わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地、すなわちカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのおる所に至らせようとしている。 (7,8節)
⇒ 神の救済の熱情に触れよ!
主は言われた。 そして主はモーセに御自身の思いを語られます。7、8節には神御自身の行動が動詞で6つ次々と語られます。すなわち
「 7わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、
また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。
わたしは彼らの苦しみを知っている。」(7節)
8 わたしは下って、
彼らをエジプトびとの手から救い出し、
これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地、すなわちカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのおる所に至らせよう。
神は、神の民の苦しみを「見 (ラーアー) 」、「聞き(シャーマー)」、「知り(ヤーダー)」、更に行動に移され、「降ってゆき(ヤーラード)」、「救い出し(ナーツァール)」「導き上る(アーラー)」のです。神はわれらの窮状をよく理解され、更に、行動されるのです。われらの世界まで、「降られる」のです。まさに聖書の神は、ベツレヘムの馬小屋にまで「降られ」、十字架の上で「救い出し」、聖霊によって約束の地まで「導き上る」御方として、ここには御自身を表されるのです。「今、行け。わが民を連れ出すのだ!」(10節)。
【祈り】今日は「モーセの召命」を学びました。「燃える柴の幻」は、モーセの心に生涯、赤々と燃え続けたことでしょう。主よ、わたしどもも、今日、その幻の中に導かれつつ、あなたの臨在と、熱き救済の情熱を見ました。モーセのように、わたしどもも、あなたの神の熱き救いに自らを献げたく思います。主よ、日本を救いに導いてください。御名によって祈ります。アーメン。
