2024年6月16日(日)新宿西教会主日礼拝説教「人間をとる漁師にする」ルカ5:1~11 西川穂伝道師 

 

1節には、「神の言を聞こうとして」とあります。群衆が、イエス様の語る言葉が、       神様の言葉だと思って、その御言葉を聴こうとして、押し寄せて来たのです。                              これは、すごく印象深い始まりです。 なぜなら、1節では、イエス様の言葉は、神様の言葉であるという主題が、いきなり出てくるからです。ルカによる福音書7章7節では、百人隊長は、「ただ、お言葉を下さい。」と言います。 ここは、直訳すると、「御言葉を語ってください」となります。イエス様から、生ける神様の御言葉を聞きたい、そこにある信仰が力を持つというのです。

「神様の御言葉」は、ルカによる福音書5章においては、最も大切なテーマになります。

【本日の個所の区分】

1) 5:1―3 イエス様がゲネサレ湖畔で群衆に「神の言」を教える。                 

2) 5:4―7 奇跡的な大漁       

3) 5:8―7 シモン・ペテロとゼべダイの子らの召命

【メッセージのポイント】

1) 第一に、「神様の御言葉を謙遜に聴く」ということです。             

4節では、 「イエス様は、シモンに『沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい』と言われた。」とあります。ペテロは、徹夜でしたので、もう一度、沖まで漕ぎ出すのは、大変だったに違いないのです。 それに、ペテロは漁師としてのプロの感覚からいえば、魚は夜から明け方にかけて取れるもので、もう太陽が高く上がっている、昼に網を下ろすということは無理だ、と思ったことでしょう。

そのように、ペテロは、きっと昼に漁に行って、魚がとれることはありえません、できません、不可能ですという結論を出していたのです。その言葉は、ペテロなりのプロとしての権威を持って言っています。私たちにおいてもそういう時がないでしょうか。                          

私たちも、ペテロのように、何度やっても駄目でしたとか、イエス様、もう、いまさら遅いですとか、もう疲れています、と言いたくなることがあるかもしれません。現実とこの語られている、御言葉の間に大きな開き・ギャップを経験する時があるのです。

5節では、 「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。と行動します。

現実とこの語られる、御言葉の間のギャップを、ペテロは、どのようにして埋めたのでしょうか?このギャップを埋めたのは、ペテロの側にあるのではなく、イエス様ご自身にその原因、理由があったのです

1節で、群衆がイエス様の御言葉に夢中になっていた時、隣でペテロは、網を洗いながら、イエス様のお話を聞いておりました。そのイエス様のまなざし、イエス様の生きた語りかけを聴いて、そこに従わないではおられないという 心を突き動かされるものがありました。私たちも、生きた神様の御言葉を聞くと、心からその御言葉に従いたいという思いが起こされるのだと思います。

2) 第二に、「神様の御言葉に信じて従う」ということです。

5章6節には、「そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。」とあります。私たちのキリスト教信仰というのは、こういう神様の御言が本当にその通りであるということを体験するものであります。そして、神様が私たちの生活の中に生きて働かれるということを体験するのが、このキリスト教信仰であります。

私たちも、ペテロのように、御言葉を聴いて自分たちの心の状態がどうであろうと、その御言葉に従っていく時、神様の御業を共に拝するのです。

1)御言葉を謙遜に聴く、2)御言葉に信じて従う、そして、最後に、その御言葉が、本当に、真実あったことを体験する。それによって、私たちの信仰が成長するのではないでしょうか。この三つのことが御言葉を経験する為に、私たちに必要であるというのです。

「御言葉信仰」といいますが、この御言葉の経験が、ちょうど「竹の節(ふし)」のようになるというのです。この「竹の節」が積み重なるようになっていけば、私たちの信仰が真っ直ぐに伸びることができるといいます。つまり、御言葉の信仰に生きるということは、イエス様の似姿にいよいよ私たちが近づけられ、イエス様を見つめて真っ直ぐに成長を遂げていくことができるということを意味しています。

キリスト教信仰の最も特徴的なことは、神様に、謙遜になって従うということです。神様の御言葉を聞いて神様に従うという意志である、ということです。もちろん、その意志を起こさせるのは、自分の側にあるのではなく、「イエス様ご自身」であり、今日でいうならば、私たちのところに遣わされる、「聖霊なる神様」であるということです。また、私たちは、聖霊様の声に示された時に敏感に従うということも大切である、と思います。何より、私たちは、聖霊なる神様が働かれるように、日頃より、御言葉を通して神様との関係を築いていくということを心がけることも大事だと思います。

5章8節では、たくさんの魚がとれたのを見た、シモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。と言った、とあります。普通でしたら、たくさんの魚がとれたので、やったー、私にありえないことが起こった、と喜ぶところだと思います。しかし、ペテロは、恐れて、「主よ、わたしから離れてください」、と言ったのです。また、ペテロは、「わたしは、罪深い人間です」と言いました。私は、つまらない人間です、とは違います。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪びとです。」とペテロは言いましたが、イエス様は、離れることはしませんでした。イエス様は、ペテロを置き去りにしなかったのです。

「わたしから離れてください」、というペテロに対して、イエス様は、「恐れることはない」と優しく語りかけてくださいました。イエス様は、離れてください、というペテロに対して、逆に、近づいて御言葉を与え、イエス様は、ペテロと共にいるようにされたのです。ここに、ペテロが召し出されるのにふさわしかったからではなく、イエス様の一方的な選びの確かさが強調されています。「わたしは、罪深い人間です」と、私たちにも自分の弱さを嘆くということがあるかもしれません。しかし、自分の力では何もできず、自分が無力であるという心が変わらない限り、神様は、私達を用い続けてくださるでしょう。なぜなら、神様は、謙遜な者に恵みを与えてくださるからです。主イエス様は、罪深さや自分の無力さを自覚した者を、恵みの内に立たせる、やさしいお方なのです。

10節では、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。とイエス様はお語りになりました。今までは、あなたは、魚をとって生きてきた。でもこれからは、魚ではなく、人を神様の救いに、神様の恵みの世界に導く人に、あなたはなるのだ、と

イエス様は語ってくださるのです。そして、ペテロの罪深いそのままの状態で、主イエス様は、救ってくださるし、用いてくださるし、ペテロから、離れて行かず、いつも共にいるようにしたのです。「恐れることはない。今から後、あなたは、人間をとる漁師になる。」という御言葉をイエス様はペテロにお語りになったように、今日、神様は、私たち一人、一人にもお声をかけてくださっています。

3) 第三に、「神様の栄光を共に拝する共同体」ということです。

最後に、共同体の献身ということを共に見ていきたいと思います。2~11節では、ペテロのうしろにいる人たち、つまり、「ペテロ以外の仲間」のことを必ず書いています。

2節では、 そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。と書いてあります。ここで、主イエス様は、二そうの舟にいる漁師たちに注目をしています。ペテロだけに目をとめているのではなかったということです。

4節では、元々の言葉では、「あなたたちの網を下ろし」と記されております。5節では、シモンは、「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と答えていますが、実際に行動したのは、ペテロだけではなく、6節、(新共同訳は、「そして、漁師たちが」)そのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。とあります。6節では、シモンに語られた御言葉に漁師たち、つまり、仲間が一緒に応答しているのです。また、7節では、ペテロは、仲間に合図をします。

9節では、 「彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。」とあり、共に神様の御業を拝しています。10節では、 「あなたは人間をとる漁師になるのだ」。という御言葉がペテロに与えられて、イエス様の約束に応答したのは、ペテロだけではありませんでした。  11節では、「そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。」とあります。 ここは、ペテロ個人の話というよりも、9節、「一緒にいた者」、10節では、「シモンの仲間」、11節では、「彼らは・・・イエスに従った」とある通り、ペテロは仲間を代表する意味で描かれています。これらの御言葉から、8節の「これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です。』」とは、シモン・ペテロが代表して、教会が御言葉の前にひれ伏しているのである、ということがいえます。イエス様を主と告白するのは、聖霊様の働きです。聖霊が住んでおられるからこそ、イエス様は主であると告白することができるのです。神様から聞いた御言葉は、私だけに主を礼拝するものとして与えられるのではなく、教会にいる一人、一人に語られているのであり、その語られた御言葉によって、一つの群れ、つまり、教会として、主を礼拝するように、共に招かれているということです。

 神様の御言葉を聴いて従う時に、私達に遣わされている聖霊なる神様を本当に私たちも経験するのです。そこに神様が生きておられるのを教会として共に見ることができるように教会に私たちを召されました。私達も、ペテロやヨハネが漁師をしていたように、以前はこの世の人として生きてきました。しかし、神様に選ばれて、イエス様から罪を赦され、聖霊の油を注がれて新しい使命を担うことになったのです。そして、教会で礼拝者としての歩みが始まりまったのです。それは、神様の永遠のご計画の中で、そのご計画の一端を担う者とされるということを意味しています。神様から、ここにいる誰もが、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。という新しい使命を与えられているのです。クリスチャンになるということは、単に救いの恵みにあずかるものとなって神の国の約束に生きる者にされたということにとどまりません。その恵みと同時に、神様の栄光に満ちたご計画に加えられて、教会の中で共に働くという最高の栄誉と最高の特権が与えられているのです。伝道をしていくことを含めて、ここではもっとダイナミックなことがいわれています。「人間をとる漁師になる」という私たちの存在そのものも語っているのです。教会生活を営む中で、「沖へこぎ出し、あなたたちの網をおろして漁をしてみなさい」という御言葉を共に共に考え、共に生きて共に協力していく、そして、御言葉に基づいて、外の人々と関わって伝道していくということ。その一連の流れすべてが、神様のご計画の中で用いられるというのです。共に人間をとる漁師として召されて、教会の周囲の人に伝道するばかりではなく、多くの人々が悩んでいる奥深い問題に共に答えていく。そのような素晴らしい特権を私たちは、新宿西教会を通して神様から与えられているのです。

私たちが存在して、「人間をとる漁師」として神様の御前に召されたのは、すべては神様の栄光の為です。そして、大切な家族や教会にいる信仰の友の為であることを積極的な意味でとられていきたいと思います。そこにこそ、一つの群れである新宿西教会に私たちが共に召されたという意味があり、そして私たちの生きがいがあるのです。

祈り  御言葉を聴いて信じて従い、その御言葉が真実である事を体験させてください。

 

 信仰者は幻を見ます。それは神の全能の力への信頼から来ます。聖書が指し示すわたしどもへのメッセージは「若者は幻を見、老人は夢を見る」です。

【今日の説教箇所の概説】

この箇所はモーセの召命として有名な箇所です。モーセはエジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を救うために神に召し出されました。エジプトは古代の最大の武力国家です。一介の羊飼いであったモーセが取り組んでも到底太刀打ち出来る相手ではありません。実際に出エジプト記を読めば、モーセとアロンが幾度と無く絶望的な壁にぶち当たったのを見ることができます。神はこの未曾有の大事業のさせるに当って、モーセにひとつの幻を見せました。それが「燃える柴の幻」です。モーセはこの神の炎によって燃えつづける柴の幻を心に秘めつつ、奇跡的、大事業を完成します。神のからの幻は、聖霊の言語のようにその僕に作用します。

【メッセージ・ポイント】

1)2 ときに主の使は、しばの中の炎のうちに彼に現れた。彼が見ると、しばは火に燃えているのに、そのしばはなくならなかった。

⇒ 燃える柴の幻に触れよ!

   一体、モーセの見た幻は何であったのでしょうか?モーセのいたシナイ山は現在のジュベル・ムーサ(モーセの山)であると言われます。その山の一帯はシナイ山特有の赤く焼かれた花崗岩で、樹木はほとんどありません。わたしは1994年と2009にそこを登りましたが、夜中の2時にふもとを出発し、頂上でご来光を仰ぐという計画でした。月明かりの中を登り行くと、石ころがごろごろしているだけで「月の世界」にでもいるかのような錯覚を覚えた程でした。ふもとの方にある植物も背の低い潅木です。そのような潅木が燃えていたのでしょうか。これは通常の山火事ではありません。モーセもその不思議なものを見ようとやってきました。「この不思議な光景」(3節)を見ようとしたと記してあります。「燃え尽きない柴」とはどのような意味があったのでしょう。これは苦難に会っても消滅しないイスラエルの象徴とか、弱い人間も神の燃える熱情の炎の中にあって燃えつづける聖霊の火の象徴であるとか、カトリックでは処女性をもって神の子を身ごもったのマリヤの象徴であるとも言われています。わたしには弱い人間も神の炎を宿しつつ歩むことができる聖霊の炎という解釈が合っているように思います。

  何はともあれ、燃える柴の幻は、わたしは主イエスの十字架の贖いに触れ、聖霊の火に燃やされる体験を語っていると理解してよいと思います。

2)5 神は言われた、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。 (5節)

  ⇒ 神の聖なる臨在に触れよ!

主はモーセの近づくのを待っておられたようです。あるいはこの「燃える柴」の光景によってモーセを引き付けたかのように見受けられます。

4節には「主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった」とあります。モーセが見に来るのを神はジーっと見ておられたのです。そして燃える柴の中から、モーセに声をかけられたのでした。「モーセよ、モーセよ、ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。モーセは燃える柴の幻を見て、興味を持って近づいて来たが、そこで神御自身に出会いました。神の聖なる臨在に触れたのでした。モーセは「燃える柴の幻」の背後に永遠の神御自身の臨在を見たのでした。

わたしの場合は、1969年、19歳のときに川崎の教会で主の前に砕かれるという明確な体験をいただきました。19歳の7月頃だったと記憶していますが、わたしにとって霊的な転機が訪れました。川崎の教会に行って洗礼を受けた友人Nが牧師になるために教会に住み込んでいました。わたしが最初彼を教会に導いたのですが、今度は逆転し、彼が、わたしに教会に出席するようにと、しきりに薦めました。わたしはあまり気が進まなかったのですが、Nに会うのと、礼拝後に教会の印刷機を借りて、「同級生新聞」を印刷したいということのために、土曜日に千鳥町の近くの兄貴にアパートに泊まり、日曜日には川崎の教会に出席しようと部屋を出ました。でも、教会に行くのがとても気が重かった。川崎駅で下車したが、どうも教会に行く気がしない。ぶらぶらと駅ビルの書店に行き、本を見ていました。11時半ごろ、とぼとぼと教会に向かって歩き出しました。教会の印刷機(当時は謄写版と呼んだ)を借りるのに、礼拝に顔も出さないわけに行くまいと思って、教会に11時40分頃に着くように、歩き出したのでした。歩きながらも、「教会の人たちは、何となく偽善的だよな…・」と文句ばかりを並べて歩きました。教会に着くと玄関口で、同年の神学生の女の子が「まあ、深谷さん、よく来てくださったわね・・」と声をかけてくださいました。でも、わたしは少し、視線を斜め上に向けて、彼女の言葉を無視しました。そして、礼拝堂の一番後ろに座ると、腕を組み、足を組み、会堂の中を冷たい視線で見回していました。牧師は何となく、わたしの態度に気が付いたのだと思います。説教ももう終わりに近かったのですが、このように語られました。「今日は聖日で、皆、神様の前にひれ伏し、主を礼拝して1週間を始めようとしている。しかし、そうでない者もいる。・・」そして、牧師はわたしの方を見た(ように感じました)。わたしはカチンときて、「この牧師は僕にけんかを売っている!」と感じました。19歳の生意気なわたしは、「売られたけんかは買おうじゃないか!」と意気込んで、牧師をジーっとにらんでいました。牧師の説教はサムエル記下6章。「ダビデは王様なのに、神の箱の前では、子供のように踊った。これは救われたわたしたちの姿なのです。でも、ミカルというダビデの奥様はダビデのその姿を、冷たい視線で見たのです!今でも、冷たい視線で見る者もいます!」そう言って、この牧師は、わたしの方を見たように感じました。わたしの視線と牧師の視線がチカチカとぶつかり、一瞬の間ではあったが、わたしは火花が散るような緊張を感じました。説教が終わると、その教会は皆で一斉に感謝の応答の祈りをしました。わたしも同じように祈りの姿勢を取りました。しばらくすると、わたしの心のうちから声が聞こえてきたのです。これは主のみ声だったかどうかは知らない。その声はこのように語った。「あなたは、ここにいる人々、牧師をはじめ、教会の人たちを偽善者というか。あるいは確かにそうかもしれない。人は皆、弱さを持っている。しかし、彼らを非難する資格はお前にあるのか?お前はこの一週間どのように過ごしたのか?お前のうちに罪はないのか?」 その声を聞いてから、わたしの脳裏には実に、一週間の自分の惨めな罪の姿が、ぐるぐると回りはじめました。そして、この一週間ばかりではない。いままでの、19年間の多くの罪と汚れが、走馬灯のように浮かんできました。「主よ、そうです。わたしには、彼らの偽善を責める資格などありません。このわたしが、一番の罪人です。ほかでもない、このわたしが一番の罪人です。おお、主よ、世界はすべて、すべて罪で満ちているではありませんか!わたしはどうしたらいいのか分かりません!」気が付くとわたしは泣いていました。涙がぽろぽろと頬を伝って落ちてくる。涙腺と鼻はつながっているのか、そのうちに鼻水も出てきた。そして「主よ!主よ!・・」と言っていったのでよだれまで出てきて、この三つのものが床に滴り落ちました。わたしが泣いて祈っている姿に、いつもお世話してくださった神学生が寄ってきて、やさしく「深谷君、よかったね。もう、神様は分からないなんて、言わないでしょう?」と語りかけてくださった。しかし、わたしは「そんな事言ったって、オレにはわかんねえんだよう!」と言って30分位、泣き続けました。その間に皆、最後の賛美を歌い、献金をし、頌栄、祝祷と続いて帰って行きました。わたしはズーっと泣き続けました。わたしにとってはこの出来事がとても大きな意味を持ちました。今までは、あの人が悪い、この人が悪いと言っていたのに、決定的な批判の刃が、自分の方に向いた。この時から、わたしの中にあった岩のような硬い自我が、内側で、がらがらと音を立てて崩れて行った。神の臨在に触れる体験でした。

3)7 主はまた言われた、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。8 わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地、すなわちカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのおる所に至らせようとしている。      (7,8節)

⇒ 神の救済の熱情に触れよ!

  主は言われた。 そして主はモーセに御自身の思いを語られます。7、8節には神御自身の行動が動詞で6つ次々と語られます。すなわち

「 7わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見

また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。

わたしは彼らの苦しみを知っている。」(7節)

8 わたしは下って

彼らをエジプトびとの手から救い出し

これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地、すなわちカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのおる所に至らせよう

神は、神の民の苦しみを「見 (ラーアー) 」、「聞き(シャーマー)」、「知り(ヤーダー)」、更に行動に移され、「降ってゆき(ヤーラード)」、「救い出し(ナーツァール)」「導き上る(アーラー)」のです。神はわれらの窮状をよく理解され、更に、行動されるのです。われらの世界まで、「降られる」のです。まさに聖書の神は、ベツレヘムの馬小屋にまで「降られ」、十字架の上で「救い出し」、聖霊によって約束の地まで「導き上る」御方として、ここには御自身を表されるのです。「今、行け。わが民を連れ出すのだ!」(10節)。

【祈り】今日は「モーセの召命」を学びました。「燃える柴の幻」は、モーセの心に生涯、赤々と燃え続けたことでしょう。主よ、わたしどもも、今日、その幻の中に導かれつつ、あなたの臨在と、熱き救済の情熱を見ました。モーセのように、わたしどもも、あなたの神の熱き救いに自らを献げたく思います。主よ、日本を救いに導いてください。御名によって祈ります。アーメン。