【今日の聖書箇所の位置と概略】
この箇所は「よきサマリヤ人」という物語で、あまりにも有名です。しかし、この箇所をていねいに読んでみますと、なかなか複雑で、多くの人の議論を読んでいる箇所だと言われます。特に、塚本虎二先生の解説やバークレー先生とか榊原康夫先生のもの、周りにあるルカによる福音書の解説を読みますと、この箇所は多くの内容のぎっしり詰った深い聖書箇所である事を感じます。
まず、この箇所を読むときに、感じるのが、最初の部分25~28節の部分の内容です。あまりに大きい問題、しかも、深い、重要な内容をもっているという事です。この第一部の所だけでも、マタイ22章やマルコ12章などと共に、「旧約聖書の中心を占める、『律法とは何か?』という主題、あるいはマタイ19章の「富める青年の質問」、「永遠の命を得るために、何をすればいいのか?」と言う主題がテーマとなっていることからくる、複雑さ、難解さです。
しかし、第2番目の後半部は「サマリヤ人に助けられた強盗に襲われたユダ人の物語」が、ていねいに細やかな愛で描写され、感動を呼びます。
そして、わたしたちはこの第一の主題の内容と、第二の主題の内容を、組み合わせて、総合的な主題を理解を得るところとなると思います。
ということで、この有名な箇所を、次の三つの方面から見てみましょう。
第一に25~28節「何をしたら『永遠の命』を受け継げるのか?」との質問。
第二29~35節「強盗に遭い半殺しになったユダ人の話。サマリヤ人の親切」。
第三に36~37節「隣人になったのは誰か?あなたも同じようにしなさい。」
【メッセージのポイント】
1)25 するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。26 彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。27 彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。28 彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。(25~28節)
⇒ 永遠の命はどうしたら受けることができるか?
これは大変な質問です。人間はどうしたら救われるのですか?と言う議論で、これは、人間の究極の問いでしょう。この質問と答は以下のようです。
25節 するとそこへある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。
これは、当時の宗教的な学者=律法学者の質問です。しかもこれは真実な心からの質問ではなく、主イエスを試し、主イエスを追い詰め、答えようによっては、主イエスを、獄に投じ、殺害しようとの悪意ある質問です。
26 節で、主イエスが、逆にこの律法学者に問いました。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか?」
主イエスの問いは、「あなたは『何をしたら』と質問した。何をしたらというなら「『律法には何と書いてあるか?』」「あなたはどう読むか?」
27節で 律法学者は答えた、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。
これは当時の律法学者の代表、ヒルレルの模範解答。「神を愛し、隣人を愛せよ。」、これは「人が片足で立っているうちに答えられる、神の律法=人間のなすべき、倫理的義務の究極的な内容です」と律法学者は答えました。
28節で、主イエスは、彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。
主イエスは律法学者の答えに言われた。「正しい答だ!・・・・(内なる声。しかし、それが実行できるかが問題・・・なのだ。)」
この質問と答えの内容を考えて見ますね。たとえば、キリスト者学生会(KGK)のリーダーだった榊原康夫先生は、はっきりこう書いています。「この主イエスの答えは、皮肉を言っているので、間違えて理解してはなりません。」 え?どういうことですか?と榊原先生に問いたくなります。つまり、榊原先生このように説明するのです。
この主イエスの答えは、一見、まっとうに、この律法学者の語ったことを肯定しているように見えますが、それは違います。人が、永遠の命を得るのは、自分の力で神を愛し、自分自身の力で、隣人の愛するのではない。人間が、「永遠の命を受ける」、即ち、「救われる」のは、「主イエスを信じること」だと聖書は語っている。それは、人間は、罪の中に生きているために、人間の行いには決定的に限界があるのです。その、自分の弱さや限界、罪の中にあるので、自分自身の弱さや愚かさを主イエス様が、贖ってくださった。この主イエスの「十字架と復活を信じること」が、「永遠の命を受ける」「永遠の命を継ぐこと」なのです、一生懸命、律法を行うことによって義とされるのではありません。これはロマ書3:21~26、ガラテヤ書2:16に書いてあるとおりです。キリスト教は、自分の立派な行いによって義とされることではなく、自分の弱さや愚かさを深く知り、主イエスの身代わりの十字架によらねば救われない存在であることを認めて、神様からの赦しを受け、贖いを受けるところから始まるのです。
つまり主イエスは、律法学者の、「何をしたら」という、「律法の行い」によって義とされるのは無理で、この「律法主義」の専門家、に、「皮肉に答えたのだ」と、榊原先生ははっきり説明しています。キリスト教の救いは「律法の行いによって義とされるのではなく、主イエスの贖いを信じる信仰によって救われると言うことですよ。」と聖書は語っているというのです。
この所がはっきりしないと、この箇所を間違えて理解してしまいます。「自分が愛の人であり、神を愛し、隣人を愛することのできる模範的人間である」などと考えて行動したら、主イエスの一番嫌われた、律法学者、パリサイ人になってしまいます。
2)「強盗、半殺しになった人。特にサマリヤ人の親切」。(29~35節)
次に第2番の主題としてこの19節以降の内容を考えてみましょう。
29節 しかし彼は自分を正当化しようとして「では、わたしの隣人とは誰ですか」と質問言った。
・律法学者は自己正当化のため「わたしの隣人とは誰か?」と問う。
30節 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
・エルサレムから、エリコに下る道。この道は、バークレー先生の解説が良く分かります。スペースがないので説明割愛。現在もこの道路は、急な坂が多く、大きな石などがあり。犯罪多発の危険区域だそうです。
31節 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
・ここで祭司の登場。当時の祭司の仕事とこの事件への反応。祭司は、死体に触れると1週間仕事ができなくなる規定があった。
32節 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
・ここでレビ人の登場。当時のレビ人の仕事とこの事件への反応。
33~35節 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、・・・
サマリヤ人の登場。当時のサマリヤ人の状況とこの事件への反応。
・そばに来る。その人を見て憐れに思い、
34節 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、
宿屋に連れて行って介抱した。
35節 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
これは、実に親切な、すばらしい、完璧なほどの優しい心遣い。翌日まで付き合い、2日分のお金を支払い、帰りがけにも寄りますから・・・
3)「この被害者の隣人になったのは誰か?」36~37節
⇒ あなたも行って同じようにしなさい!
36節 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこでイエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
さあ、わたしたちは、第一の箇所(25~28節)、第二の箇所(29~35節)までを見てきました。第一の主題は、人は行いによって(律法の行いによって)は義とされない。人の救いは、主イエスの十字架の贖いによってまっとうされる。第二の主題は、しかし人間世界には問題が多い。人間の罪と暴力によって、傷つき、死に直面している人も多い。信仰によって義とさえられ、キリストの贖いによって復活した者は、周りにいる、傷つき倒れている人に出会ったら、自分が主イエスの愛と真実で、贖い取られた者であることを深く理解し、その傷ついている者の「まことの隣人」として生きるのです。
結論的に言えば、エペソ2:9,10が、「よきサマリヤ人」の最も良き注解ですね。「主によって贖われ、復活の命へと導かれたクリスチャン」は、「神の良い業のために新創造された。」よきサマリヤ人は、主イエスその人であり、主イエスの愛で復活したクリスチャンは、主イエスを模範として愛に生きるのですね。「あなたも行って、同じようにしなさい!」ハレルヤ。
【祈祷】
主よ、「良きサマリヤ人」のメッセージを感謝します。この箇所は、1970年からトラウマになっていた箇所でした。ていねいに読んだら、実に、聖書そのものの中心的メッセージであること知り、深く感謝を致します。主イエスの贖いの愛を受け、この世の罪と死の支配の中で死んでいた者が、主の愛、十字架の贖いによって、救われ、復活しました。深い謙遜と、御霊の愛と恵みの御業を証しできますように導いて下さい。主の御名によって、アーメン
らって、信仰の道を歩めますように!勝利は信仰にあり。信じます。ハレルヤ 主イエスの御名によって祈ります。アーメン
