2024年7月21日(日)新宿西教会主日礼拝説教「恵みの中の人間関係」ローマ14:9~23 五日市教会 細田隆牧師 

 

 今朝は、交換講壇として、この新宿西教会へと招かれたことを感謝しています。さて、皆様は、この今日の説教題、「恵みの中の人間関係」と言う題について、どう感じられたでしょうか。イエス様は、弟子も持つことなく、孤独な姿勢で、神の国の宣教をされたのではありません。12人の弟子達や、その他にも信仰を持って、多くの男性、女性の後に従ってくる人々がいたのです。
わたしたち人間と言う存在は、「人間」という言葉自体が、「人と人の間」と書くように、互に隣人との関係の中で生きています。わたしたちの考えや行動は、わたしたちが日ごろ関係を持つ人々に大きく影響されながら、ああしよう、こうすべきだとか決められて行くのです。わたしたちの心というもの、人間の精神というものは、常に他社と交わり、その関係の中で、その方向が決められて行くと言えます。
 
 しかし人は全く他者と交わることなく、歩むことが出来ないわけでもありません。何十年も前、昭和の時代に、太平洋戦争の日本軍の兵士として、フィリピンで戦っていた人が、もう戦争は終わっているのに、たった一人で、ジャングルの中で数十年も生活していたということが、報道されて、当時の人々を驚かせました。このようなことから、人は場合によっては、全く一人という状況下でも、生きられるということが証明されたわけです。あるいは、現代社会の一つの大きな課題となっている、自宅の自分の部屋に閉じこもって、人と交わらず、社会との接点もなく、何年も過ごしているという、いわゆる「ひきこもり」と呼ばれる人々がいます。これらの人々も、人と交わることなく生きていて、その精神状態は極めて不安定ではありますが、隣人との交わりの断たれた、生き方をしていると言えます。このように孤独の中で生きる人も時にはいるのですが、おおよその人は、他者との交わりが立たれることは苦痛だと感じ、他者との交わりがあるから、現実感を失うことなく、正気が保たれていると感じています。単に言葉やあいさつを交わすという次元でなく、わたしたちは友達と言える人々との心の交流が、どんなにかわたしたちの人生の歩みを豊かにするか知っています。隣人との良い交じりの中で、人はその精神の健康も保たれ、生きていることの意義も、他者との関係の中で見いだされて行くのです。
 
 イエス様が心の悩みを抱えた人を救いだす時、多分イエス様は、一目見ただけで、その人の置かれた状況、心の状態を見抜いてしまうのですが、悩む人の苦しみに対し、じっとその人の訴えを聞き、しっかりと受容する、受け止めて、その人の心軽くする、素晴らしい言葉で、その人を虜にしているしがらみから、解放してくださったのです。イエス様は、どんなすぐれた心理療法士、精神科医もかなわない働きをなし、その人を苦しめる心の足かせを砕いてしまうのです。どんな人もイエス様の心と触れる、交わることで、その人間を超えた完全な精神の力によって、心の苦しみ、苦痛を取り除いてもらうことが出来たのです。それに加えて、イエス様の癒しの業は、実際にあたかもその病める人、体の不自由な人の、その身体の奥にある、自然治癒の力を最大限に引き出すかのような、現象を起こして、その病める人、体に障害を負う人々が、その苦しみから解放されるということが何度も何度も起きたのです。父なる神のもとから来た主イエスには、目の前にいる人が、どこが病んでいて、何がその人にかけているか、瞬間的に見えてしまうのです。そしてその苦しみに向けて、イエス様の癒しの御力は、働きかけて行くのです。
 
 しかしイエス様のその生涯の最後は、全くの孤独、まるでその最愛の父なる神からも引き離された形で、たった一人で十字架の苦しみをにない、その孤独の中で、完全に死を味わうと言う、苦しみを引き受けられました。それはイエス様が身代わりとなって、この様に裁かれなければ、このわたしたち人類が、その罪の罰を免れることなど不可能だったからです。
 
 だから、イエス様はその生涯の最期こそ、全くの孤独の中で、苦しみを受けられましたが、その時以外は、その神である完全な癒しの力の内に多くの悩める人を招き入れ、ご自分の心と病める人をその交わりの中で癒してくださったのです。しかし、イエス様と心の交わりを望まない、イエス様の神の国の恵みを拒否する人は、神様の癒しの力を、受けることが出来ませんでした。だから、信仰のない人々の間では、奇跡が起きないという状況さえ、あり得たのです。
 
 さて、やっとこのへんから、今日朗読していただいた聖書箇所目を向けます。ここで使徒パウロも伝えていることは、信仰の兄弟との、その関係性の大切さです。使徒パウロは、わたしたちの心の姿勢の在り方が、信仰の兄弟姉妹を、救ったり、滅ぼしたりしてしまうのだという大事なことを、わたしたち教えようとしているのです。神様の御心にかなわない関係性は、信仰の兄弟をつまずかせ、時にはその兄弟を滅びに導いてしまうのだという、厳しい事をパウロはわたしたちに教えようとしています。
わたしたちキリスト者、クリスチャンは、食べ物、飲み物について、何の掟にも縛られていません。しかし、キリスト教の母体宗教と呼べるユダヤ教は、食べ物、飲み物について、多くの掟を定めています。よく知られたことでは、豚肉を食べないなどの食物規定があります。使徒言行録に納められたこととして、キリスト教の始めの時の、使徒たちによるエルサレムでの「使徒会議」の事が使徒言行録にのっています。この会議にはパウロも参加しました。特に今後、イエス様の福音が、異邦人の世界へと宣教されていく中で、異邦人でイエス様を受け入れる人々に対しては、ユダヤ人の習わし、食物規定などを決して押し付けないということが、この会議で十分な祈りと共に決定されたのです。これは当時の使徒たちが人間の知恵で決めたというより、神様に導かれ、イエス様のご意志にかなうかたちで、決められたことだと信ずべきでしょう。
 
 このような方向性を最初の教会の使徒たちが取り決めたことで、今日、わたしたちクリスチャンは食べ物、飲み物に関して、何の掟にも縛られていないのです。しかし、教会の始めの頃には、イエス様を信じる人々の中にも、ユダヤ教から信仰に入った人もいれば、ギリシャ・ローマ世界のヘレニズムの文化から、イエス様を信じる人になった人も多くなってきました。そのため、同じイエス様の信仰を持つ者どうしなのに、食べ物に関して信念が違うということが起きていました。だから、パウロは「本当はそんなことこそ、どうでもいいのだ、神の国は飲み食いではない、食べ物の事で、大事な信仰の兄弟姉妹をつまずかせてはならない」「信念は各々確かに持ち、その信念を兄弟に押し付けてはならないパウロはそのように導こうとしていたことが、この今日の箇所から読み取れるのです。
 
 教会、この素晴らしい共同体は、イエス様を信じ、イエス様に信仰を抱き、希望を持つ人々によって構成されています。このキリストの体は、キリストにある、愛と自由の関係性によって、結び合わされています。地上に存在する人間関係において、もっとも天国に近い、「恵みの中の人間関係」なのです。パウロたちが基を築いた、キリストの教会は、この関係性、人間関係において出発しました。この共同体の中でであった若い人々が、次の世代のクリスチャンの家庭を築き、このキリストにある恵みの中の人間関係は引き継がれて行ったのです。
 
 ここから、神様のご計画も見えて来ます。神様は、この天国のような美しく、健やかな人間関係を、このわたしたち人類の隅々にまで広げて、わたしたちが理想的な世界を創るようにとの、希望を持たせてくださったのです。わたしたちがすぐ隣の人と愛と自由の関係性を結び、この地上に真の愛と正しさの世界を出現させることが、わたしたち「人」という被造物の神様から託された使命です。先ほども言いましたように、わたしたちは隣人との関係性の中にいます。その関係性は罪に満ちたものにもなりうるし、その逆に神の愛と義さの関係性をも築いて行けるのです。神の愛、あの十字架に示された神の愛を知った者は、そのすぐ隣の人とも共に、愛に決して逆らうことない、関係性を築こうとするのです。この事によって、このわたしたち人類の共同体であるこの世界全体が、神様の御心にかなう世界を実現して行くことになります。
 
 わたしたち人類全体の幸せは、そのすぐ隣の隣人との関係から、始まって行きます。
 
 十字架と復活の主イエスは、愛と正しさに生きよと、わたしたちを「恵みの中の人間関係」で、生きられるようにしてくださっているのです。この大きな恵みに感謝したいと思います。お祈りします。
 
―祈り―
1. 天の父なる神様、恵みに感謝します。
2. わたしたちはそれぞれの生涯のある時、あなたに導かれ、
3. 主イエスへの信仰を頂きました。
4. 十字架の愛を知った時、あなたの御前において、
5. 愛と真の義さに生きる意味が解りました。
6. その恵みに感謝します。
7. どうかこの恵みに満ちた他者との関係に生きられますように。
8. この願いと感謝とを真の救い主イエス・キリストのみ名によって、
9. 御前にお捧げいたします。
10.         アーメン