ロマ1:16-17 ―すべて信じる者に救いを得させる神の力- 深谷春男
去る10月25日の金曜日、早稲田朝祷会がありました。そこで、ある姉妹が証しをしました。「人生の多くの問題を抱えつつ歩んでいます。最近は、新宿西教会の早天祈祷会で恵まれています。この早天祈祷会は毎朝6時から7時の1時間、アパルームを読み、その朝の御言葉を黙想し、互いに恵みを分かち合い、豊かな主の臨在と御言葉に励まされて、希望をもって出発します。大変、恵まれています。この祈り会の最後に、深谷牧師が最後のまとめをします。そのまとめは,大体、「主の十字架、復活、聖霊の満たし」ということで締めくくられるのが多いですね。でも、考えてみると、「十字架・復活・聖霊の満たし」が福音の中心なのですね。云々・・」わたしはそれを聞いて、とても励まされました。「アーメン!その通りですよ。この信仰を持てれば、どんなことをも乗り越えて歩めますね!」と合いの手を入れてしまいました。
今日は「宗教改革記念礼拝」です。ご存じのように、1517年の10月31日。ドイツのヴィッテンベルク大学の先生でありましたマルチン・ルッターは、ヴィッテンベルク城内の教会の門扉に「95か条の提題」の張り紙をして、当時のローマ・カトリック教会の販売していた「免罪符」(最近は「贖宥状」と訳されるのが多い)を攻撃しました。この事件をきっかけとして、16世紀、ヨーロッパ中に「宗教改革」の革新運動が起こりました。当時、混乱していました、ローマ・カトリック教会に対して、「聖書のみ、福音のみ、恩寵のみ」の信仰の原点に立ち、新しい時代を切り開こう!とのプロテスタント教会が形成され、ヨーロッパに、新大陸のアメリカに、福音主義教会が形成されることになりました。今、日本の地において、わたしどもは、まさに、「十字架・復活・聖霊の満たし」の福音に立ち、個人の人生においても、家庭においても、教会においても、喜びの福音に生かされて歩んでゆくのですね。いつでも、この信仰の原点を大切に守ってゆきましょう。ハレルヤ。
【今日の聖書の概略と構造】
さあ、宗教改革といえば、わたしは思い起こすのは、「ローマ人への手紙」であり、それも1:16,17の御言葉です。そして、それは、細かくは、3:21~26の福音理解へとつながっており、福音信仰の原点にしっかり立ちましょうという勧め、洗礼の時の感激、神学校での学び、45年間に及ぶ福音宣教の体験が、すべて思い起こされるのです。
ローマ人への手紙の構造は以下の通りです。
1‐ 7節 手紙の序文1……・自己紹介と福音紹介
8‐17節 手紙の序文2……・ローマ訪問計画・主題への導入
18‐32節 本題に入る…………神の怒りの啓示
今回は、16-17節を通して、聖書の信仰の本質を学びます。この箇所は主題への導入と呼ばれます。内村鑑三はローマ人への手紙を、大伽藍に例えて説明しています。が、ここは看板が掲げてある大聖堂の入り口で、その看板は「信仰による義人は生きる」という言葉であると述べています。そして大伽藍は、「信仰から信仰へ」という通路で貫かれているのだと語っています。彼はこの2節を3回に分けて丁寧に講義しています。重要な聖句が詰まっていて、感激の講演ですね。
【メッセージのポイント】
1)わたしは福音を恥としない。(16節a)
⇒ 福音を恥としない!
「福音」は「エウアンゲリオン」です。また「恥とする」は「エパイスクノー」という言葉です。パウロは「福音を恥としない」と言います。これは不思議な言い方です。柳生直行という先生は「わたしは福音を誇りとする」と訳しました。しかし、これも少し、行き過ぎがあると思います。福音は「恥」と思うような部分があるのだと思います。
つまり、福音は十字架の福音です。十字架の福音を証しするには、自分自身の罪を告白せねばなりません。自分の罪を告白して見せるのは古今東西を問わず、それは恥ずかしいことなのです。でも、主イエスが我らの罪を担って、十字架の上に恥をさらして身代わりの死を受けてくださいました。そのことによってわたしどもは救われたのです。
口あいて腸(はらわた)見せるざくろかな 芭蕉
内村鑑三は「求安録」の裏表紙にこの芭蕉の句を載せました。
昨年の秋に聖書学校の会堂裏の植木のところに「ざくろ」がたくさんなりました。それも、かなり大きく、かごに取りましたら、20個以上あったでしょうか?真っ赤な口を開いたような果物が、たくさん集まると少し、異様な感じとなりました。神様の福音に触れると言うことは、自分自身の罪と関係があるのですね。自分の恥ずかしい部分に神様の光と愛が差し込んできて、わたしたちは自分の罪と自分の弱さや愚かさを知るのです。その愚かさをさらけ出しながら、わたしどもは主の救いということを知るのです。
以前、加藤常昭先生の説教集「ローマ信徒への手紙」のこの箇所を読みましたら、いろんなことが書いてありましてびっくりしました。
鎌倉雪ノ下教会の最初の集会は、1917年10月31日(水)だったというのです。この日は宗教改革400年記念の年で、宗教改革の信仰を受け継ごうという気負いで、鎌倉雪ノ下教会は始まったというのです。そして教会の歴史を見ると恥ずかしいと思えることがたくさんあった、といくつかのことが記されておりました。
その一つは、第二次世界大戦中、政府からの求めで「湘南地方協会連合必勝祈祷会をした」ことが記されています。そして一年後には、「総懺悔運動」というのをしなければならなかった。
その二つ目は、新しい教会を建てようとしても、なかなか献金が集まらず、当時の松尾先生に大変なご苦労をかけてしまった。
三つ目に、伝道祝い50周年目に、祝いの時を機会に教会が分裂して、何十名という人が、教会を捨てて出て行った。
四つ目に信濃町教会の高倉徳太郎先生の説教や聖餐式の真実さ。しかし先生は、鬱のためみじめな最後となった。
五つ目自分が鎌倉に招かれた時には、心身の健康を損ねて、精神科の医師のお世話にもなり、その医師の勧告は「説教をやめなさい」とのことでした。でもそれは抵抗して講壇を降りることはなかった。
人間の弱さや破れ、あるいは恥と思われるようなところが、あの、鎌倉雪ノ下教会でも、あったことを改めて思わされました。
2)福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす 神の力だからです。(16節b)
⇒ 福音は神のダイナマイト、天来の力!
ここでは福音は力であるといわれます。「力」は「ドゥナミス」という言葉です。やがて、ノーベルが爆発薬を完成したときに、どういう名前がいいかと考えて、この「ドゥナミス」から「ダイナマイト」と名前をつけました。それらのことを考えると、信仰は実にダイナマイトのような力であります。人間の行く道をふさいでいた、罪と死という大岩を吹き飛ばし、粉々にして、永遠の命にいたる道を完成してくれたのです。
その力は今や、ユダヤ人とかギリシャ人とか、限定された人々にあらわされたのではなくて、「信じるすべての人に」与えられるというのです。それは驚くべき神からのプレゼントなのです。福音はそのように人を作り変えてゆく神の力なのです。十字架の主イエスを信じるということは、一見すると、自分の罪を認め、自分の恥をさらすような出来事です。でも、本当に人を変えるのはこの十字架の福音なのです。 わたしどもの教会では、祈祷会や夕拝で、豊かな、真実な証しがなされます。皆さんが、自分の失敗や傲慢さやおろかさを赤裸々に語ります。それは、魂に救いが与えられ、本当の勇気と勝利が与えられ、救われているがゆえにおこる恵みの業なのです。
3)福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりで信仰を通して実現されるのです。(17節)
⇒ 福音は神の義の啓示
福音は「神の義の啓示」であるといわれます。「義(ディカイオシュネー)」とは、法廷の用語です。法の裁きを受けて、その結果、正しいと認められること、無罪とされること、を意味します。神の法廷で、正しいと判定を下されることです。それは神の前に受け入れられること、救われることを意味します。ですから、ロマ書では「神の義」という表現がよく用いられますが、それは「神の救い」「永遠の命」「天国へ入る資格」・・・等々、ほとんど同じ意味の言葉です。ここでは「十字架の福音は、神の救いの本質を指し示し、それが今、神様によって、あらわにされました」という意味です。
「信仰から信仰へ」という言葉も議論の多い言葉です。聖書には他にも同じような表現があります。
「恵みから恵みへ」(ヨハネ1:16)
「栄光から栄光へ」(Ⅱコリント3:18)
「勝利から勝利へ」(ヨハネ黙示録6:2)
「力から力へ」(詩編84:8)という箇所もあります。
「十字架・復活・聖霊の満たし」という福音は神のダイナマイト、天来の力です。すべての人を勝利の信仰に導きます。そして信仰から信仰へと成長させます。義人は信仰によって生きるのです。それゆえに福音を我らは恥とせず、大胆にこの福音を証しするのです。冒頭の「十字架復活・聖霊の満たし」の告白の姉妹も、深い救いの確信の中にいます。
【祈祷】 天の父なる神様。今朝は宗教改革の記念の聖句のようなロマ1:16,17を学ばせて頂きました。わたしどもを主イエスの恵みの福音に満たしてくださり、福音が神のダイナマイトであると知らせてください。それは信じる人をすべて救い上げる神の力です。どうぞ、御前にある兄弟姉妹を恵みで満たし、この主イエスの福音を証しする者とならしてください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン
