新宿西教会2025年1月26日主日礼拝説教     「神にのみ栄光を」使徒行伝12:20                                                                                                                                                                                                            25 深谷美歌子牧師  

新年1月も最後の礼拝になりました。先週の木曜日の聖研祈禱会で、「礼拝は一年52回巡りくる春」とコールリッジが言った言葉を聞きました。神の家族が共に礼拝し、真理の言葉に生かされ、祈り合って進みましょう!

 さて、今週の御言葉は、久しぶりに使徒行伝からいただきます。振り返って見ますと、24年8月以来でした。それで少し振り返って、本日の個所に入ろうと思います。

11章の最後にバルナバとパウロがアンテオケ教会から、地震の見舞い援助を持ってエルサレム教会に行ったのでした。その時、エルサレム教会は、嵐の中で、大変な状況でした。迫害の手が王から及んで、12使徒のうちのヤコブが殺され、ペテロが捕えられていました。

 バルナバもパウロもびっくりしたことでしょう。援助を届けに来た教会は、大変な迫害の中で、熱心な祈りが捧げられていました。きっとバルナバも、パウロもこの祈りの中に加わったことでしょう。 

その結果、ペテロが厳重な獄屋から連れ出されました、ヘロデ王という当時の最高権力者が迫害の先頭に立って、いよいよ明日は民衆の前に引き出して殺そうとしていたその夜でした。

たぶん人々が集まって祈っていた家は、最初の聖霊降臨の時弟子達が祈っていたと同じ家だったでしょう。マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家にとあり、ペテロに導かれた(1ペテ5:13)マルコのデビューでした。

そして、獄屋ではペテロが消え、探しても見つからないので、ヘロデは兵卒たちに死刑を命じ、カイザリヤに下ったところまででした。

本日はその後の出来事が記されているところです。

【聖書箇所の概説】

⒛-22節 ヘロデ王の怒りを受けていた、ツロとシドンの人々がヘロデに向かって「神の声だ」と叫び続けた。

23節  その声を受けたままにしたヘロデが、天使に打たれて死んだ。

24-25節 神の言葉は広がり続け、バルナバ達はマルコを連れて帰った。

【メッセージのポイント】

1)為政者に媚びる人々。

20 さて、ツロとシドンとの人々は、ヘロデの怒りに触れていたので、一同うちそろって王をおとずれ、王の侍従官ブラストに取りいって、和解かたを依頼した。彼らの地方が、王の国から食糧を得ていたからである。

21 定められた日に、ヘロデは王服をまとって王座にすわり、彼らにむかって演説をした。22 集まった人々は、「これは神の声だ、人間の声ではない」と叫びつづけた。           20-22節

 ペテロを殺害し損ねたヘロデはカイザリヤに下ったとあります。同時代にイスラエルの歴史を書いている、ヨセフォスによれば、ローマの皇帝クラウディウスの為の安寧を祈り誕生日に献上する競技会を主唱する為にヘロデはそこに行ったということです。その会場に、ヘロデは銀の織り込まれた?王服をまとって現れ、朝日に照らされてまばゆく光ったそうです。そして王座に着き、そこで演説をした時、ツロとシドンの人々は「これは神の声だ、人間の声ではない」と叫びつづけたのでした。当時は、ローマ皇帝や王を神と呼ぶ習慣があったそうですが、この時の「神の声」はその中でも「最高神」という呼び方だそうです。

この事をした理由は、ヘロデの怒りに触れていたので、一同うちそろって王をおとずれ、王の侍従官ブラストに取りいって、和解かたを依頼した。彼らの地方が、王の国から食糧を得ていたからである。でした。王の怒りを買って、食料が得られなくなっては死活問題でした。その最高権力者に良く思われたい一心で、侍従官プラストにわいろをあげて王に近付き「神の声だ人間の声ではない」と叫び続けたのでしょう。

これは、人間が考え出した方策でした。彼らは決してヘロデを神と思っていなかったでしょう。でも今は最高権力者でその決定権を持っているのは彼でしたから「神」と呼ぶのに躊躇は無かったのでしょう。

現代でも為政者が誰であるかによって、国や世界が動揺しますね。「神」とまではいわなくとも。自由主義陣営では、それぞれの意見は言えますが、方策を一生懸命さぐります。社会主義陣営では、国の方策に従わない人は捕えられたり死刑になったり、大変ですね。人間の世界だけで対処すると、為政者にどのように対処するか人間の知恵で対処するしかありません。

そして、このありようは、大きな国の対応ばかりでなく、普段の私たちの生活でも行われているのではないでしょうか?

どうしてもお互いの立場で、対応します。社長さんと社員、サークルでも指導者と会員、学歴、利害関係、容姿などで、自分の対応を決めがちです。

人間対人間の世界で対応するとそうなるのが多くストレスですね。

黒人解放運動をした、マーチン・ルーサー・キング牧師は、「非暴力の抵抗」を提唱しました。暴力で差別する白人に、暴力でない抗議をしました。バスの乗り方が決められていて、白人の席、黒人の席、中ほどは開いていれば黒人も坐っていい席でしたが、白人に要求されたら黒人は立つことが決められていました。ローザ・ルイーズマコーリーという女性が疲れて座っていた時、白人に席を譲るように要求され、運転手もそれを要求しました。が、疲れていて譲らなかったとき、留置所に入れられました。これがきっかけでルーサーキング牧師が黒人解放運動に立ち上がり、非暴力ということで、バスボイコット運動を初め、歩いたそうです。381日に及び、とうとうこの制度は違憲であると言う判決が出て、この差別は無くなりました。わたしの部屋に「愛は敵をも友人に変える」というキング牧師の言葉が、習字の石井先生が書いて下さったのが貼ってあります。愛は神様からいただくものですね。クリスチャンは神様に聞いて、人に対応をさせていただきたいものです。

2)ヘロデは主の使いが打ったので死んだ。

23 するとたちまち、主の使が彼を打った。神に栄光を帰することをしなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えてしまった。23節

ヘロデは、自分に向けられた「神の声だ人間の声ではない。」と言う声を退けませんでした。その時、ペテロに天使が触れた時は、鎖が外れた力でしたが、ヘロデには死が訪れる力で、天使に打たれました。虫にかまれて息絶えたと記されています。この世の最高権力者も、神様の前には無力でした。

人間は神様の前では、罪人です。へりくだって神様のお送りくださったイエス様の、十字架による罪の赦しを仰ぐほかに生きる道はありません。すべての人が、です。舌きり雀のおじいさんのように、どんなに人間同士の間でいい人でも、聖い神様の前では罪人です。私はいい人だと自認している人ほど罪深いのです。神様に帰すべき栄光を自分のものにしているからです。 

それで全部イエス様が赦して下さって生きたお互いは、互いにへりくだって、仕え合うのが赦された者の生き方です。

ペテロが異邦人百卒長に招かれて行った時、使 10:25 ペテロがいよいよ到着すると、コルネリオは出迎えて、彼の足もとにひれ伏して拝した。

26 するとペテロは、彼を引き起して言った、「お立ちなさい。わたしも同じ人間です」。と言いました。ペテロは、イエス様にどこまでもついて行くと決心していたにもかかわらず、イエス様が捕らえられ、十字架に附けられる時、「あんな人は知らない、関係ない」と3度も誓うほどに裏切りました。 

しかし、復活したイエス様は、ペテロを赦し、再度信任して遣わして下さったのでした。そんなにして赦された人は、へりくだって、互いに人を自分より優れたものと考えなさい。ピリピ2:3とすすめられています。

ヘロデほど権力者でなくとも、つい人と比べて優れていると誇りやすく、傲慢になりやすいのが人間ではないでしょうか?

星野富弘さんの詩に「花よりも小さくなれ、花の美しさが解る」といのがあります。イエス様に赦さた者として、へりくだるのが人間の生き方ですね。3)主の任務を喜んで生きる

24 こうして、主の言はますます盛んにひろまって行った。

25 バルナバとサウロとは、その任務を果したのち、マルコと呼ばれていたヨハネを連れて、エルサレムから帰ってきた。   24-25節

この一連の出来事は、神様のひとり舞台でした。使徒たちが何かしたとは書いてありません。ただ自分たちも捕まるかもしれない危険の中で集り、2:5教会では、彼のために熱心な祈が神にささげられた。のは確かでした。

この世の勢力がどんなに強力で、人が手だしできないと思う時でも、天は開いていることを信じ、知っているのがクリスチャンです。彼らの祈りが応えられて、ペテロは助け出され、クリスチャンを迫害したヘロデは息絶えました。神の言葉は、迫害にも関わらずひろまっていったのでした。前にも見ましたが使 4:29 主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。と、最初にペテロたちが獄やから助け出された時も、こう祈り、大胆にみ言葉を語りだしたのでした。

祈りこそ、クリスチャンの特権です。「わたしのお名によって祈りなさい」ヨハネ14:13とイエス様が言い残して下さったし、昔から信仰者は祈ってきました。アブラハムもソドムの人々が悪いから滅ぼすと言われた時、「信仰者が50人いたら?45人では?・・10人では?」「その10人の為に滅ぼさない」と神様の前に食い下がっています。人間の祈りが神様の業に組み入れられることを教えられます。この時も祈りが答えられたのでした。

バルナバとパウロはマルコをアンテオケに同行しました。この後、伝道旅行にも一緒に行くようになります。バルナバの従弟でもありましたが、この祈り会の席にバルナバも、パウロもマルコもいたことでしょう。この時の生ける神様の業の経験は、若いマルコに信仰の確信となってバルナバについて行ったのでしょう。後にマルコによる福音書を書いた人で証人になりました。

私たちも、世界のことでも、教会の課題でも、個人の課題でも、つい見えるところの条件を優先して話し合ったり、方策、対策を考えがちです。でも私達は神の民です。まず神様に祈ろうではありませんか。御業は神様がなされますが、祈りが用いられる経験は神様を証しする者とされます。弟の事。

祈り 神様、人間の常識では絶体無理と思われるペテロの救出でした。しかし、御業の前進の為に、祈りが用いられました。絶対権力者と思われたヘロデは虫にかまれて死にました。つい見えるところで対処し行動し易いですが、神様に祈らせてください。国の首長の為にも、目前の毎日の生活の中でも。今日も会堂の為の懇談会も計画されていますが、この教会のピンチの時も祈り会がもたれて道が開かれたと聞いています。主の業を拝させて下さい。