今日の礼拝で取りあげるのは、15章8~10節の一枚の銀貨です。十枚の銀貨は、花婿から花嫁に与えられた支度金であったのではないか、といわれています。
当時のイスラエルの風習では、花婿から花嫁に、銀貨10枚をそろえて、それら銀貨をひもにつけて髪飾りや首飾りとして送ったそうです。そのように結婚の愛の結びの印としての銀貨10枚だったのです。現代の私達に置き換えるならば、「結婚指輪」をなくしてしまうことと同じことです。「結婚指輪」をなくしたら、簡単には諦められず、見つけるまで探し続けることでしょう。
「無くした銀貨」のたとえは、私達一人一人のことを表しています。私達は、イエス様の目から見て、大切なかけがえのない一人一人なのです。
10枚の銀貨をつなぐひもが何かの拍子でほつれており、私達も失われているとするならば、まるで、代えがきかない、失われた一枚の銀貨として、神様は私達一人一人を探し続けてくださいます。そして、その失われた一枚が見つかった時には、大きな喜びが湧き上がるのです。仮に、失われていた銀貨に心があったとしたら、見つけてくれた後には、次のように銀貨は思うのではないでしょうか。
「私を見つけてくれて本当にありがとう!」と銀貨も喜ぶことでしょう。
【ルカ15章8~10節の聖書箇所の概説と内容区分】
1. 8節 銀貨の喪失と探し続ける女性
2. 9節 喜びへの招き
3. 10節 天の喜びと銀貨との喜びとの響き合い
【メッセージのポイント】
1. 響き合う御言葉
ルカ15章1節、「さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。」とあります。イエス様の周囲には、悪い事をする罪人、取税人のように、不正な富を貪る人達が集まっていました。この人々を父なる神様が探し求めている、ということをイエス様は知っていたのです。
銀貨のたとえは、パリサイ人や律法学者立が、罪人達と交流するイエス様に不平を言った時に、イエス様が語られました。
パリサイ人や律法学者らのように、外見上、正しそうな人、立派な人が、御言葉を聴こうとせず、神様の恵みに飢え渇きもなく、鈍感になっていったのです。
ルカ14章35節後半に、「聞く耳のあるものは聞くがよい」とは、御言葉を聴いて、その御言葉を日々の歩みに当てはめて、神様の祝福を受けなさいという意味に解釈できます。
「聞く耳」とは、「神様の御言葉を聴き分け、その真理の意味を理解し、それを受け止める心」、それが「聞く耳」という意味です。そして、真理の御言葉をじっくりと聞くという事です。
パリサイ人や律法学者らは御言葉を知っていたとしても、御言葉を実生活に当てはめることをしなかったのです。そうして、イエス様につまずいてしまったのです。御言葉が語っていることを、自らの人生に具体的に活かして用いるということに失敗していたのです。
もし、私達が、日毎に、御言葉を学び、そしてその御言葉が語っていることを私達の人生の中に具体的に適用させていただくようにと招かれていくならば、本当に神様の祝福をいただくということになります。
14章35節後半に、「聞く耳のあるものは聞くがよい。」とあり、15章7節に、「よく聞きなさい。」、更に10節にも、「よく聞きなさい。」と続きます。以上のように、「御言葉を聞く耳のあるものは、聞くがよい。」とローマ書10章17節、「したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」という御言葉とは深く響き合っております。
キリストの言葉を聴く者の中に信仰が生まれてくるというのです。御言葉が語られるならば、そこに聖霊なる神様が働かれるので信仰が与えられることになります。
キリストの御言葉が語られて、その御言葉を聴く時に、聖霊なる神様が私達に働いていきます。神様の御言葉が私達の中に響いて、そしてその応答として、信仰が生まれてきます。その御言葉をなくして、人間がいきなり信じるということはないのです。神様が語りかける、その御言葉がこだまのように、私達の中に御言葉が響いて、そしてその反応として信じるということが起こってくるのです。神様と私達との間で御言葉が相互に響き渡って働くのは、聖霊なる神様の導きです。
「聖霊は、聖書の御言葉と共に働く。」とルターは主張しました。
聖霊なる神様が御言葉と共に働いて信仰を起こしてくださるのです。いのちを与える神様の御言葉は、私達に神様の救いを明らかにし、信仰と悔い改めを呼びかけます。
2. 御言葉に共に聴き、共に育つ
8節、「また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば」の「なくした」は、原語では、「滅びる」という意味があります。
神様から銀貨が離れてしまって、部屋の隅に、銀貨が見つからないでポツンと置かれたままになっているならば、その行き着く所は「滅び」だとイエス様はおっしゃるのです。神様にとっては、その失われた銀貨は、あらゆる手段を尽くして見つけ出さずにはおられない大切なものです。神様は、最後には、御子イエス・キリストの血の代価を払ってまで私達を贖ってくださったのです。
ヨハネ福音書3章16節には、 「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」とあります。このように、「滅びる」の反対は、「永遠の命」です。
「永遠の命」については、ヨハネ福音書17章3節、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」と記されております。イエス様を信じて救われた人はただ一人で救われたのではなく、救われた者達は皆、教会の救いに導かれ、父なる神様と御子イエス様が一つであるような一つの交わりを経験するのです。
8節後半、「彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか」。ここで、「家中を掃き」とあります。ほうきで隅々まで掃くのです。
聴覚を敏感にして探すのです、ほうきで掃くことと、耳で御言葉を聴くことは、つながっていくのです。ほうきで掃くというのは、ほうきが銀貨にあたることによって、「チリーン」という小さな音がします。その時、その失われた銀貨がどこの場所にあるのかが判ります。そういう意味で、耳を傾けながら、ほうきではくということは、御言葉をよく耳で聞いて、御言葉を受けとって実行することにつながるのです。
3. 天における救いの喜びと地における救いの喜びとの響き合い
① 天での喜び
1枚の銀貨は、私達のことです。その私達一人、一人が、神様に見いだされ、神様に立ち返るなら、女の人は、「わたしと一緒に喜んでください。」と喜んでいて、天では、神様の御使たちに大歓声が起こっているといいます。
私達がイエス様の救いに見出されて、イエス様と共に歩んでいる時に、神様は御使いたちと共に盛大なパーティーを開かれると言います。救いの喜びは、イエス様を通して、地上の教会と天とをつなぐのです。
② 見つけられた銀貨の喜び
もう一つの喜びは、見つけてもらった銀貨の喜びです。部屋の隅にほこりにまみれていたら、それっきりですが、女主人に、銀貨を見つけてもらって、銀貨も喜んでいると思います。「見つけてもらってありがとうございます!」と、この銀貨もどんなにかうれしかったことでしょう。
その喜びは、まさに私達一人一人の喜びであると思います。神様に選ばれて見つけられた感謝というのは決して忘れてはいけないことである、と思います。
私達は、見つけられて、イエス様の十字架と復活を通して、罪が贖われて、神様のみ許に立ち返ることができました。
そうして、私達に神様が期待してくださる使命、役割をはじめて果たすことができるのです。つまり、本当に神様に喜んで頂ける歩みをすることができるのです。
イエス様による救いの恵みを見出した喜びに生きることができて、神様がそのように喜びの生涯に私達を導いておられるのです。このようにして、天にある喜びと地にある喜びとが互いに共鳴し合っているのです。
これほどの神様の喜びを頂いてるのですから、日々、主のみ許に立ち帰って、悔い改めて、神様に喜んでいただきましょう。
今、私達は、イースターを目指して受難節の歩みをしております。
ルターは、「キリスト者の全生涯が悔い改めの生涯なのです。」、と語っています。私達の信仰生活においては、失敗が多く、立ち上がったと思ったら倒れてしまい、また、立ち上がるというような、まるで歩き始めた赤ん坊のような歩みをすることがあります。しかし、そこにも、主イエス様の復活の力が現れています。
ガラテヤ2章20節、「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」。
主イエス様を死者の中から復活なされた神様が、復活の恵みで、無に等しい私達を、こうして導いておられるのです。
主イエス様がよみがえられた復活の道に、私達も手をひいていただき、この方につかんでいただいて、そしてその方に救われることへとよみがえらせていただくのです。
【祈り】 父なる神様、問題のある所には、共に涙を流していてくださる、イエス様がおられますから、イエス様を信じて歩めますようにどうぞお導きください。
