新宿西教会2025年4月27日復活節第二主日礼拝説教「神の国はいまどこに?」ルカ17:20、21 深谷美歌子牧師                                                                                                                                                                               

先週は、イースターで、小平霊園に行って墓前礼拝をいたしました。墓前でしたが、「あの方はここにはおられない。蘇られたのだ」とからの墓の前で、天使が告げた事実。それを聞いた女達の証言。そのことを体現したペテロの生きざま(死にざま?)を一番近くで見たマルコが、証言する必要を感じて、マルコによる福音書を書いたであろうと伝えました。 そのマルコによる福音書は、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と、イエス様が宣教に立たれて、開口一番に語られたことから書き始められています。

 本日のメッセージ題も「神の国は今どこに?」としました。聖書が伝えようとしている「神の国」を聞き取りたいと願っています。

 「天国は本当にある」という本があります。一度死を経験した、コルトン少年の話です。著者はコルトンの父親で、牧師の、トッド・バーポ氏です。確かに死を超えた天国はあるのです。が、本日の聖書個所は「神の国メシヤの来臨」、がテーマで、18章8節まで続きます。そして「神の国」は、死後の「天国」のことではなく書かれています。パリサイ人達も「いつ神の国が来るのか?」と言っていますね。聞いてまいりましょう。

【聖書箇所の概観】

20a節 神の国はいつ来るのかとパリサイ人が聞いた。

21b節 見える形では来ない

21節 神の国はあなた方のただ中にある。 

1)神の国はいつ来るのか

17:20神の国はいつ来るのかと、ファリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた。                 20a節

ここから「神の国」が主題として語られていきます。20,21節は、これから始まる「神の国」についての序文のような内容です。

ここで、パリサイ派の人々が思っていた「神の国」は、具体的で、現実の世界でした。旧約から約束されたメシヤ(救世主、王)が現れて、ローマの属国である、今のイスラエルの国が解放される日、を思いつつ「神の国はいつ来るのか」と聞いたのでした。

ヨハネ福音書6:14 人々は、イエスのなさったこのしるしを見て、「ほんとうに、この人こそ世に来られるべき預言者である」と言った。
15 イエスは、人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた。
とあります。パリサイ人ばかりでなく、一般の人々も、イエス様が男性だけでも5千人、女性や子供も入れたら、 2万人くらいいたかと思いますが、5つのパンと2匹の魚で十分食べさたとき、あるいは病人が次々いやされた時、イエス様を王にしようとしました。彼らはイエス様をこの世界のメシヤ、王としようとしました。しかしイエス様はそこから去っていかれました。イエス様のもたらす「神の国」は人々の思ってた国ではありませんでした。

2)神の国は、見られるかたちでは来るものではない

「神の国は、見られるかたちでは来るものではない。20b節

この質問がイエス様に向けられたとき、イエス様の答えは、「神の国は、見られるかたちでは来るものではない。でした。彼らが考えている「神の国」とイエス様がもたらした「神の国」は次元が違うものでした。

現代でも、戦争があります。この戦争が無くなって、平和な世界をめざす。「共に生きる」小さい者も大きいものも受け入れ合う世界を目指す人々がいます。それ自体はよいものですが、イエス様がもたらした「神の国」はそういう見える形の国ではなかったのでした。

 差別、少数者の味方になるなどは、信仰者でなくとも目指す人々はいます。この日本の政治なども、それを目指しているのでしょう。

 あるいは自国第一主義「輝かしい世界で一番の国」を目指すひとびともいますね。共産主義こそ理想と信じて目指している人々もいます。

でもイエス様は、見える世界の理想の国を実現するためにこられたのではなかったのでした。

3)神の国は、実にあなたがたのただ中にある

21 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。」21節

わたしはこの言葉を読むたびに、この言葉は、教会を指していると思ってきました。

イエス様は、イエス様をメシヤと認めた者たちを集めて、「コイノニア」つまり「交わり」「共同体」を与えてくださった。それが教会である。あるいは、イエス様の身体の一部にしてくださった、赦されたお互いである。だからこのお互い同士の間に愛し合う「神の国」が存在しているのだと。

でも、今回ここを学んで、それは結果としてはそうなるかでしょうが、一番大事なのは、「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」という意味は、イエス様ご自身がこの世界に来てくださった。ということだと分かりました。

これからメシヤが来るのではない。すでに来ている。パリサイ人も、群衆も、あるいは弟子たちでさえ、悟っていなかったかもしれない事実。イエス様の来臨によって「神の国」はすでに来ていたのでした。

弟子たちでさえ悟っていなかったと言いましたが、本当のメシヤ、イエス様のもたらして下さった「神の国」を悟ったのは、イエス様が昇天し「聖霊様」が来て下さったときでした。

最初にお伝えしましたが、ペテロの生きざま(死にざま?)を、いとこであり、通訳でもあったマルコが、一番近くで見ていました。

イエス様の十字架の裁判の時、裏切って、しかもイエス様は死んでしまいました。取り返しがつかないので、泣き続けるほかなかったペテロでした。人は過去を変えることはできません。

しかしイエス様は、死を打ち破って復活し、ペテロに出会って赦し、活かしてくださったのでした。罪と死からの解放「神の国」に生きた、ペテロの勝利の命を伝えようと、マルコによる福音書を書いたであろうと伝えました。

24日の早稲田朝祷会が、ここ新宿西教会で2回目もたれました。山本悦子先生が、ヨハネ4章の「サマリヤの女」のところからメッセージを取り次いでくださいました。彼女の過去は人々からさげすまれる生活でした。けれどもイエス様は彼女に近づいて、「この山でも、またエルサレムでもないところで父を礼拝する時が来る。そうだ今きている。と語られました。今、目の前に、待ち望まれたメシヤ、イエス様がおられ、「神の国」が到来していたのでした。

そして、イエス様の命をいただいた、サマリアの女の人は、すぐに、桶もそこに置いたまま町にかけて行って、イエス様のことを伝えました。彼女に「神の国」が来たのでした。

今日わたしたちの心も満たしていただきたいのは、イエス様から送られた、聖霊様にこころの王座を明け渡し、「神の国」に入れてくださっているという命です。

伝道新聞よろこびの泉から。 いろいろな人と話ができて楽しいので教会に行くのは違いますか?という質問に、教会学校のお友達で、よく来ていた子に「なんで教会に来るの?」「楽しいから」その子があまり来なくなったので町で出会ったとき「なんでこの頃来ないの?」「楽しくないから」と答えられて、ショックをうけたことがあったそうです。

教会は罪の束縛からイエス様によって解放されて、本当の喜びに生かされた人がいるので、楽しい交わりなのです。あなたもその喜びをいただいてくださいとありました。イエス様に出会い「神の国」に入れられますように。

本日は総会が持たれますね。わたしは神の家族に入れていただいたので、分に応じて働く義務?のようなイメージがありました。が、今日は、解放された喜び、感謝の命に満たされて臨みたいと願っています。

ペテロのように、サマリヤの女の人のように。

神の国は、実にあなたがたのただ中にある。常に喜べ、絶えず祈れ、すべてのこと感謝セよ。1テサ5:16-18と生きたいですね。

祈り、父なる神様、イエス様は2000年前に世界に来てくださいました。見える世界の理想の国ではない、不変のよろこびの「神の国」に聖霊様に満たされて、生き続けさせてください。主の御名によって。アーメン