新宿西教会2025年5月11日復活節第四主日礼拝説教「信じる者になりなさい」ヨハネ20:24~29 深谷春男牧師                                                                                                                                                                               

《新宿西教会礼拝説教》   「信じる者となりなさい」    2025、5、11

ヨハネ20:24ー29     ― 信じない者ではなく信じる者に ー    深谷春男牧師

  ハレルヤ!勝利の主に感謝をささげます。

過ぐる一週間は、恵みのあふれる一週間でした。飛び石連休の週間でありましたが日曜日の礼拝説教で、「内住のキリスト・栄光の望み」と題してのコロサイ1:27を、横山義孝先生、BFバックストン先生、ジョンウェスレーの「アルダスゲート体験」のことを語らせて大きな恵みを頂きました。また木曜日の祈祷会は詩篇74篇の恵み、金曜日の朝6時からの早天祈祷会に、8名の方が教会に集い、ネットで5人ぐらいが参加して13名で熱い祈りをささげました。アブラハムの信仰に立って、「祝福の基」として歩み続けたいと、熱く、思いを新たにさせていただきました。背骨のリハビリも、順調に進み、少しづつ、神様の癒しの業がなされているように感じております。

  エマオ途上で現れてくださった、復活の主イエス様が共に歩んでくださるような、恵みの時でした。臨在の主イエスをおぼえつつこの一週間も進み行きたいと思います。

今日はトマスと言う一人の人物を共に見て行きたいと考えております。

【聖書箇所の概説と区分】       

 トマスは「デドモ」とも呼ばれました。これは「双子」という意味でした。実際に彼は双子であったのだという説と、彼の中に二重の人格があったのだという説があります。彼は主イエスのためなら死んでもいいという熱烈な信仰者という一面と、どこまでも理性を越えた出来事を信じられないという陰欝な懐疑者の一面を持っています。しかし、福音記者のヨハネは、そのような彼がもっとも深い信仰告白に達したのだと告げています。        

   

【メッセージのポイント】

1)、24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。25 ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。  (24、25節)

  ⇒ 恵みの集会を逃すな!                

 24節に「トマスはイエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」とあります。疑い深かったトマスは多分、主イエスの復活を信じ切れなかったのでしょう。「主イエスが復活した!」と騒いでいる弟子たちと女たちの会話を聞いて、何となく馬鹿々々しくなり、そうっと弟子たちの集団から抜け出し、暗い顔でエルサレムのちまたを歩いていたのではないでしょうか。       主イエスは「二人三人わたしの名によって集まっているところにはわたしも共にいる」と仰せられました。主の名によってもたれる集会には主イエスが臨在されるのです。特にすばらしく主イエスの臨在をありありと感じられるような恵まれた集会を逃さないようにしたいものです。トマスも、もしも、最初の主イエスの復活の時にそこにいたら信じることができたのでしょう。

  わたしどもは日常生活でいろんなことを体験いたします。時には人の言葉に傷ついたり、なすべきことがうまく行かないで失敗したりと言うことがしばしばあります。そのようなマイナス要因が何回か繰り返されると、とても嫌になってしまいます。生きる力や喜びを失ってしまいます。でも、主イエスの恵みに満たされて、生きる勇気と力をいただきたいと思います。

  ある日の祈り会でも、すばらしい証しを聞きました。ある兄弟が悪魔の誘惑に遭ったというのです。

「ある朝、きれいな花のある公園を散歩していました。ふと見ると、カメラの望遠レンズがそこに落ちていました。手にとって見るとそれは大変高価なもので、20万円ぐらいするのではないかと思われるものでした。自分の持っていたカメラにつけてみるとピッタリと合う。そのときに、悪魔がわたしにささやきました。「もらっておきなよ。ほしいと思っていたんだろう。」でも、そのときにすぐ御言葉が浮かびました。「自分にして欲しいと思うことを他人にもしてやりなさい」。これを落としてしまった人はきっと、がっかりしているに違いない。交番に届けよう!そして交番に届けました。そしたら、すぐに連絡があり、落とした方が届けを出しており、わたしの方へとお礼の電話がありました。その方は、もう、あのレンズが出てくることはないと思っていたそうです。でも話していて、心に大きな喜びが湧いてくるのを感じました。」

  この兄弟はいつも集会に出て、主イエスに出会い、御言葉に励まされて歩んでいる方です。恵みの集会を逃さないでいつも勝利の中を歩みましょう。

2)、26 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。27 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。(26、27節)

  ⇒信じる者となりなさい。   

 ここには「さて八日の後」と記されています。八日と言うのは、イースターの日から、一週間後の日曜日を意味しています。つまりイースターの朝から一週間後のことです。今年の暦で言えば、今日、4月27日のことですね。

主イエスはイースターの朝に復活して、弟子たちにご自身を現わされました。弟子たちは主を見て驚き、また、喜びました。しかし、12弟子の中のトマスだけはそこにおりませんでした。彼はどこか別の場所にいたのです。どこであったかは解かりません。25節を読みますと、イースターの後の弟子たちの喜びと共に、その恵みの場にいなかったトマスの戸惑いと強い反感をそこに見ることができます。そこにはこう記されます。

「そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』」

ここにはトマスの不信表明と、弟子たちの困惑も記されているのではないでしょうか?

トマスとそのほかの弟子たちの間には、なんとも言えない緊張があったのではないでしょうか?弟子たちは「主は復活した!」と言い、トマスは「わたしは信じない!」と言い張ったのですから。そして、今日の聖書では、その一週間後の日曜日のできごとが記されています。やはり、日曜日の朝でした。「さて八日の後、弟子たちはまた家の中に」おりました。そしてそのときには、イースターの朝にいなかった「トマスも一緒にいた」のでした。「戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われ」ました。そして、27節を見ると、主イエスは「それから、トマスに言われた」と記されています。主イエスはこの1週間後の顕現の際には、特に不信の中にいたトマスが気になっていたに違いないのです。主イエスはトマスに静かに言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

特に27節の言葉に心を留めましょう。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」というすばらしい御言葉があります。不信のトマスへの、主イエスのやさしい、しかし、率直な言葉がここにあります。そして、わたしたちにも、主イエスは今日、この言葉を語られるのです。    

 愛する兄弟姉妹! 皆様の中にも、主イエスの十字架と復活を信じられないで苦しんでおられる方はいらっしゃらないでしょうか?主イエス様は、現代のトマスであるわたしたちに今日、語られるのです。

「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と。

3)、28 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。29 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。             (28,29節)

   ⇒ わが主よ、わが神よ。

 28節にはトマスの信仰告白が記されています。彼は主イエスが現れ、彼の前に立たれたときに、深い畏れと圧倒的な主の真実に触れて、「わが主よ、わが神よ」と告白したのでした。トマスは、主イエスご自身が彼の前に現れ、その手の傷と脇の傷を見せて、「見なさい、触ってごらんなさい」という主イエスの臨在の前に跪き「わが主よ、わが神よ」と告白したのでした。「キリスト教の2千年の歴史のなかで告白された信仰告白は、このトマスの短い驚きの叫びに源がある」と竹森満佐一は語っています。この短い言葉、「わが主よ、わが神よ」という短い言葉ですけれども、これは、われらのために十字架にかかり、われらの罪を贖い、われらのために陰府にまで降って死を砕いてよみがえりたもうたまことの主イエスへの驚きと信仰に満ちた信仰告白なのです。わたしたちは今日も使徒信条を礼拝の中で告白しました。また先週は、日本基督教団の信仰告白を告白いたしました。この告白の源泉はまさに、復活の主イエスに出会い、その手に釘跡を見、そのわき腹に槍で受けた傷を見た者の、驚きと感謝とその愛の深さへの感動を我らに伝えています。

こうして、ヨハネ福音書は「言(キリスト)は神であった」という聖句から説き起こしましたが、今この福音書を閉じるのにあたって「主イエスこそわが主、わが神!」との聖句で終わるのです。

「主イエスこそまことの神であった。人間のどうしようもない深い罪をあがない、死の支配の中でうごめいていた人間に永遠の命を与え、よみがえりの恵みを注ぐのは主イエスである。彼は神なのだ。神のふところにいる独り子なる神なのだ!」と。ハレルヤ!

【祈り】 よみがえりの主よ。今日は、トマスの信仰告白を学ばせていただきました。神の恵みの集いからはなれて、不信仰に陥り、苦しみ惑うトマスに御傷を示してやさしく「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と語られました。主イエス様の恵みに現実に触れて、「わが主よ、わが神よ」と告白する者とならせてください。この新しく迎えた一週間も、あなたへの信仰の告白と共に歩み行かせてください。われらのために傷を受け、われらの罪と死を身代わりにおいたまい、わたしどものエマオの旅路を伴いたもう、復活の主イエスの聖名によって祈ります。アーメン。