《新宿西教会主日説教》 「迫害者サウルの改心」 2025.06.22
使徒行伝9章1-9 東京新生教会牧師 佐々木千沙子
本日新宿西教会と東京新生教会の交換講壇にお招き頂きましてありがとうございます。4月16日は東京新生教会名誉牧師横山義孝師逝去におきまして皆様のご哀悼を心より感謝申し上げます。今日も先生は神様の下で私達を見ておられると思います。福音の前進のために励む者でありたいと願います。
私は、神学校時代は舎監の深谷先生、美歌子先生に教示を受け、そして伝道師時代は東京聖書学校吉川教会でしたので、合計7年先生の下で恩恵にあずかった幸いな者であります。思い出すと優しい先生ご夫妻に甘えていたなと思うことです。そういう中で先生は時に預言者のように導いてくださいました。私は神学校に入学するときは箱根の別荘地に住んでありましたがそこから全寮制の神学校に入学し、半年後に夫が、神学校のある吉川に移住するから家を見つけるようと、云いました。私はそのことを先生に話したところ一言「〇〇」と大きな声でおっしゃいました。美歌子先生は側で「〇〇地域は高いよ」とおっしゃいましたが先生は「いや○○だ」と断言し、結果としてここに住まいを備えられ、私たちの気に入った住まいとなりました。私は家に入るたびに「深谷先生は不思議な力を持っておられる」と思わされております。
1,サウロの改心
本日は皆さんよくご存知の使徒言行録9章サウロの回心の始めのところをお読みいただきました。聖書の小見出しは心が180度回転した回心となっておりますが本日の説教題は「悔い改める意味の改心」としまして、私個人の信仰の証をも延べさせていただきたいと思います。宜しくお願い致します。
サウロは主の弟子たちを迫害する人から、一転して主の働き人へと大転換をとげた人です。彼の生い立ちは使徒言行録22章3節以下にあります。そこにはこう語られています。「私は、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えてきました。」彼はエルサレムから遠く離れた地中海に近いタルソスという町で生まれたユダヤ人です。彼の両親は息子の才能を見込んで、13才位からエルサレムで、当時最高学派のガマリエルも門下生とし、律法の厳しい教育を与えました。彼はモーセの時代からの律法をしっかりと守って、神に仕えて生きることによって、ユダヤ人は「正しい者は律法を守ることによって生きる」と確信して生きていたのです。少し前の使徒言行録7章はキリスト者となったステファノの説教が記されています。その内容はこうです。「イスラエルを神様の民たらしめているのは、律法を守ることではなく、神様の約束のみ言葉を信じる信仰である。モーセが民に遺した最も大切なものは、神がわたしのような預言者をお立てになる時が来るという預言で、その預言が主イエス・キリストにおいて成就した」と。
サウロは、律法こそが重要と言わないステファノは許せない、殺されるべきだ、とはっきり思ったのでした。なぜならユダヤ人が先祖伝来大切にし、民族の誇りとしてきた律法が、このキリストを信じるクリスチャンによって軽んじられ、意味のないものにされては許せない。それはユダヤ人を神様の民でなくしてしまおうとする陰謀にしか見えないと激怒したのでした。ステパノが迫害され石打ちの刑に会った時、サウロ自身は彼に石を投げてはいませんが、そのことを支持し、迫害する人々が石を投げるときに脱いだ上着を預かっていたのです。このステファノの殉教をきっかけに、彼はますます迫害を強めました。
そのために彼は、当時の大祭司から、ダマスコの諸会堂あての手紙「この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行する」という大祭司お墨付きの手紙を書いてもらい、パウロは、まさに意気込んで、250キロの道のり、ダマスコへと向かったのです。そこに近づいたとき、本日の出来事が起ったのです。
「ダマスコ途上の出来事」と呼ばれるこの出来事は、使徒言行録には第9章と、22章と26章です。三度に亘って語られていることが、この出来事の重要さを示しております。共通していることは、彼が天からの強い光に照らされて打ち倒されたこと。そして「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声を聞いたこと。彼が「主よ、あなたはどなたですか」と問うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」という答えがあったこと。そしてダマスコの町に入ってそこでなすべきことが示されるのを待てと言われたこと。起き上がってみると目が見えなくなっていたことなどです。そしてその後ダマスコの町で、アナニアという信仰者との出会いによって彼の目から「うろこのようなもの」が落ち、見えるようになり、洗礼を受け、教会を滅ぼすために来たはずのその町で、伝道を始めたのです。
2,サウロの心の動き
まさに彼は神様に仕える熱心さに何のためらいもなく「意気込んで」信者たちを捕え、獄に送っていました。その時、突然強い光に照らされて地に倒れました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声を聞いたのです。この語りかけにおいて最も衝撃的なことは何でしょうか。それは、第1が、呼び名でありました。以前の聖書では「サウロ・サウロ」と訳していたのですが、新共同訳と協会共同訳では「サウル・サウル」に訳しております。イエス様は迫害に燃えていたサウロを、子供の時からお母さんに呼ばれていた幼名「サウル、サウル」と二度親しく優しく呼ばれたのであります。サウロには無邪気な子供時代の郷愁の思いが心に溢れたでありましょう。次に「なぜ、わたしを迫害するのか」というところです。あなたはわたしを迫害している、わたしを苦しめ、妨害し、傷つけている、という声を彼は聞いたのです。「なぜ教会を、なぜキリスト信者たちを迫害するのか」ではありません。ここでサウロは、キリスト信者と教会と自らを一体化させている、しかも強い光のなかで語られる「わたし」という方と出会ったのです。その方が彼の前に、彼の道を遮るように立ちはだかったのです。そして、自分がその方に敵対し、その方を迫害しているのだということを知らされたのです。
それゆえに彼は、「主よ、あなたはどなたですか」と問いかけました。「あなたはどなたですか」。自分の前に今、圧倒的な力を持った「わたし」として現れ、語りかけておられるその方に向かって彼は「あなた」と語りかけ、「あなたはどなたですか」、と問うているのです。その問いに主はお答えになります。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」。「わたしはイエスである」。十字架につけられ、殺され、そして復活して天に昇られた、そのイエス・キリストが、今、彼の前に、「わたし」として語りかけておられるのです。その主イエスとサウロとの間に、「あなたとわたし」という人格関係が生まれたのです。そのことによってサウロは、自分が教会を迫害していたのは、主イエスご自身を迫害していたのだ、ということが分かったのです。
この時、彼の目は見えなくなっていました。これまでの彼は信仰者としての祈りの中にあっても知恵や知識のつめこまれた高ぶりの心、自分の目で見、自分で判断して人生を歩んできました。それによって、主イエスを迫害するという致命的な罪に陥ったのです。ヨハネ9:41イエスは言われた。「見えない者であったなら、罪はないであろう。しかし、現に今、『見える』とあなたがたは言っている。だから、あなたがたの罪は残る。」
彼に起ったことは、主イエスとの出会いによって、何も見えなくなり、暗黒の世界に落とされたことだったのです。これからのサウロは見えなくなった目に見えたイエス様ご自身、このお方からすべてが始まります。
ここで僭越ですが私の救いの証を語らせて頂きます。
私は青森県で生まれ育ち祖父は神社を守る神官の働きをしておりました。中学3年の時学校の校門でアメリカ人宣教師が二人でキリストの十字架の紙芝居を見せておりました。「キリストは何も罪がないのに十字架にかけられ殺された」という言葉を聴いた時、罪がない人などこの世界におるのだろうか?その時に私の隣で紙芝居を見ていたクラスメートはクリスチャンでした。紙芝居が終わって帰る道、私は彼女の後ろを歩きながら「日本には神道という立派な信仰があるのに外国の信仰をこの国でするとは侵害である。しかもキリストは罪はないというのはキリスト信者の思い込みで、どこかに罪があったから十字架刑に処せられたに違いない。私はこれからキリストが十字架にかけられた原因を探そう」本気でそう思いました。そうして彼女の後姿の影をあえて踏んで迫害の意を表したのでした。
高校を卒業して神学のために東京に出てきた私は、大きな壁に出会い、「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と書いた一枚のキリスト教のトラクトを見て、イエスキリストが今私を招いている、このお招きに、今お応えしなければならないという気持ちになって、自分の足で教会を訪ね、日曜日朝の礼拝から夜の伝道会まで出席しました。そこで教会の先生の導きで生まれて初めて、両手を合わせて天地創造し、私を造られた神様にお祈りをし、罪の赦しを乞いました。その時、頭の中が真っ暗になり、そこに十字架にかけられて血を流しているイエス様が映し出されました。それはあの中学の時に見た紙芝居の絵を思い起こす様でした。イエス様は真っ暗な中でこうおっしゃいました。『私はあなたの罪のために死んだのですよ。』」主はキリストが十字架にかけられた原因を探そう傲慢な私を見捨てず、追い続けて下さって、真っ暗闇に追い込んでくださってお語り下さいました。この時から私は新しくされて1年後に洗礼を受けました。
信仰とは主イエス様と出会い、人格関係が築かれることです。自分が見てきたこと、依り頼んでいることが打ち砕かれイエス様がすべてとなって下さることです。そこで私たちは本当に見るべきものを見ることができるようになります。本当に見るべきものとは、主イエスの十字架と復活によって神様が与えて下さっている罪の赦しの恵みです。それを見つめる目を与えられる時、教会や人を迫害し裁いていくような生き方から解放されるのです。
劇的なサウロの回心と基本的には同じことが、実は私たち一人一人にも起っております。そして、これからも起っていくのです。
《祈り》父なる神様!今日の講壇交換の恵みのひと時を感謝します。迫害者パウロが、あなたに出会い、あなたの証し人になりました。本日、あなたがお語り下さったみ言葉を、しっかりとらえて歩めますよう聖霊の豊かなお助けをお願い致します。私達の信仰が恵みから恵みへ、力から力、命から命へ、栄光から栄光へと導かれていきますように。主の御名によって祈ります。アーメン
