19章1節、「さて、イエスはエリコにはいって、その町をお通りになった」。
イエス様は、エルサレムに行く途中、エリコの町に立ち寄りました。そのあと、イエス様は、エルサレムに行き、最終的に十字架にかけられ、葬られ、三日目によみがえられます。その十字架の出来事が近づいている時に、エリコに立ち寄られたのです。エリコは、緑が豊かで、農作物がたくさんとれる所でした。
19章2節、 「そこにザアカイという名の人がいた。この人は取税人のかしらで、金持であった」。ザアカイは、人をだましたり脅したりして、無慈悲にカネをゆすり取り、大金持ちになったのでしょう。3節で、「その取税人ザアカイは、イエス様がどんな人かを見たいと思っていた」、とあります。彼は、心の内から沸き立つ情熱をもって、一目だけでもイエス様を見たいと切望しました。取税人とは、イスラエルの国を植民地として支配しているローマ帝国のために、税金を治めさせる仕事を意味しています。同じ仲間であるはずのユダヤ人から、税金を搾り取るので、人々から裏切り者として嫌われていました。ザアカイは、その取税人の親玉として、権力を振るっている人物でした。今日は、ザアカイの悔い改めと聖霊なる神様のお働きとを通して、三つのポイントから、メッセージを分かち合いたいと思います。
昨日、説教の準備をしている時、他の人ではなく、自分こそがザアカイのように罪を悔い改めるべき者である、とい事を聖霊なる神様により示されて幸いでした。
【聖書箇所の概説と内容区分】
1節~4節 エリコを通る主イエス様とザアカイの願い
5節 主イエス様の呼びかけ
6~10節 ザアカイの悔い改め
- ザアカイの願い
ザアカイは、イエス様が「取税人や罪人の仲間」と呼ばれていて、また、弟子の中にも取税人の「マタイ」がいるという噂も聞いたことでしょう。罪人である取税人を赦して「再出発させる」という噂を聞いていたので、ザアカイは自分のようなものでも赦されるだろう、という期待感を持っていたのかも知れません。
3節、「背が低かったので、群衆にさえぎられて見ることができなかった」。
ザアカイがイエス様を見ようとした時、群衆は、「あの小さなザアカイなんかに、イエス様を見せてやるものか!」といって、ザアカイを締め出してしまうのです。
19章4節、 「それでイエスを見るために、前の方に走って行って」、とあります。ここに、「この時を逃してはならない」というザアカイの思いがよく現れています。「前の方に走って行って」、という文章は、ザアカイが決して諦めず、「前へ前へと進む」様子が伺えます。そのようにして、ザアカイは、自分の救いの機会を逃しませんでした。ザアカイは、遠慮をして後ろの方に引っ込んでいるのではなく、イエス様を見るために、恥も外聞もなく、全力投球しました。 人生の機会は一度しかありません。
ザアカイは、自分に来た機会を空しく通り過ぎるままに放置しなかったのです。「前の方に走って行」くと、目の前にいちじく桑の木があり、その木に上り始めました。
2. 主イエス様の呼びかけ
5節、「イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、『ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから』」。
ザアカイは、歴史上ただ一人、イエス様を上から見降ろした人物でありました。
英語聖書で5節は、I must stay、「わたしは、この家に泊まらなければなりません」と訳されます。ここは、父なる神様のご計画と御心から、どうしてもイエス様は、ザアカイの家に泊まらなければならない、そういう神様のご意志が現われております。イエス様から「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。」と声をかけられました。そのように、今日、皆様の一人一人の名前も呼び、世界最大の最高の祝福となる務めを私たち一人一人が置かれている、その場所において与えて下さったのです。。
19章6節、「そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた」。
「家に泊まることにしている」。しかし、これは群衆には受け入れられない事でした。
7節、 「人々はみな、これを見てつぶやき、『彼は罪人の家にはいって客となった』と言った」。イエス様は、ザアカイの罪を決して暴いたりはせず、主の恵みに触れることで、ザアカイの心に深い悔い改めと償いの思いを呼び起こしていきます。
- ザアカイの悔い改め
8節、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します」。ここで、貧民とは、命の危険が迫っている餓死寸前の貧しい人々の事を指しています。
9節、 イエスは彼に言われた、「今日、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから」。マンネリ化している今日でありません。 「今日」、父なる神様が私たちに、新しい事、偉大なる事を行われるのです。今日、主の御言葉の語りかけをよく聞いてその希望の御言葉の約束を信じ、主のご栄光のために生きて行こうと祈る時に、「今日、救がこの家にきた。」という御言葉が聖霊なる神様と伴って、私たち一人一人、それぞれのご家族に、その場で大いなる力を発揮するのです。
イエス様は、取税人という最も信仰が遠い者が、アブラハムのような信仰の父の子孫である、と宣言しました。9節後半、「きょう、救がこの家にきた」。イエス様の救いは、個人に与えられるのですが、ここで、救われた家にも救いの恵みが及ぶことを現わしています。ザアカイの家には、家族の他に、数多くの召使がいたことでしょう。イエス様は、彼の家族や召使いにも救いが及ぶことを宣言したのでした。
ここから出発するザアカイの生涯は、その後、どのような生涯になったでしょうか?
ザアカイは、後にペテロからカイザリヤの教会の監督に任命され、教会を導く人になったと伝えられています。収税人という最も信仰が遠い者に救いが与えられ、主イエス様が心に住まわれて、彼を造り変えていったのです(ガラテヤ2:20)。
晩年、ザアカイはエリコに帰って、掃除道具を持ち、イエス様と出会ったあの木のふもとで、毎日雑草や虫を取ったり、ほうきで掃いたりして過ごしていたそうです。彼は、道行く人に、「私は、この木の下で、イエス様に出会い、こんな小さな者も、イエス様に声をかけてもらったんだ…ここが私の人生の『再出発の場所』なんだ!」と証ししたのでした。「私は、アブラハムの子、祝福の子、周囲に祝福を溢れさせ、分かち合い、神様の恵みに生かされたのだ」とザアカイは証ししたのです。
ザアカイは変えれて、神様を心から愛し、永遠の幸いのうちを神様と共に生き、神様をほめうたい、讃美する者となりました。
10節、 「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。
罪人としての自分に気がつき、また、聖なる神様の御前から離れている自分を知って愕然とする時、本格的に聖霊なる神様がお働きになります。
ザアカイのように、自分が罪人であること、また、神様にただ憐れみを求める以外にない自分がいることを知る時、聖霊なる神様が救いのために全力でお働きになります。そういう経験をした人は、他の人を責めることができなくなります。むしろ、他の人を愛し、いたわりの心をもって、接する人間へと造り変えられるのです。
ザアカイは、まさに、自分が、神様の憐れみを求める以外にない存在であるということを知って、木からすぐに降りて、イエス様の招きに答えました。そして、ザアカイは、イエス様を家に招いて、そこで「立って」、今日、食べる物がない命の危険にさらされている、極貧の人たちを思いやる人間へと変えられていったのです。
以上のように、「ザアカイの罪を赦し、造り変えるという働き」は、聖霊なる神様のお働きです。聖霊なる神様は、立派な心に入って下さるのではありません。むしろ、私は最も罪深く、醜いのだ、と打ちひしがれる心に、聖霊なる神様が入って来られるのです。そのように、私が最も罪深く、醜い存在であるということに気が付くのが大切であり、それだからこそ、その存在を神様が無条件で、そのままで受け止めようとしていることを私たちは知らなければなりません。
自分が神様の憐れみを求める以外にはありえない存在であるという事を知る時、そういう時こそが、聖霊なる神様が働かれる一番の好機となるということを、今日、共に覚えたいと思います。
8節で、「ザアカイは、無条件に半分の財産を貧しい人々に施します、その後に不正な取り立てをしていた人には四倍にして返します。」、と言います。ザアカイは、「悔い改めにふさわしい実」(ルカ3:8)を結ぶことを誓うのです。
この宣言について、「ザアカイが日々の生活でこの宣言通りに行えるようになったのは、ある程度時間がたってからである」、とそのように言った宣教師がおります。
まことの悔い改めは、一朝一夕になされる訳ではなく、徐々に進むものです。
立ち上がったと思ったら倒れ、また、立ち上がる。また、転んで、また立ち上がる。まるで、赤ん坊のように遅々たる歩みです。しかし、そのような赤ん坊の歩みを見て、親は喜んでくれるのです。その点においては神様も同じです。そうした親の心、神様の御心を知らされる時、信仰者は、感謝の思いで包まれます。全生活に渡って、神様と人とに感謝して、ご恩返しをする生活へと導かれます。不義と悪、むさぼり、欺きに満ちた、無慈悲な現代社会。文明が発達しているだけにかえってあだとなっている現代社会。そうした現代の競争社会において、感謝に満ちた生活を送ることがいかに大切なことであり、あたたかな光を放っていくことでしょう。
イエス様の福音は、私たち罪人の生き方を変革させる神様の力です。イエス様は、ザアカイのような罪深い者であるにもかかわらず、いや、むしろ、罪深い者であるからこそ、救ってくださるのです。そのように、イエス様により、救われた者は、罪を赦されて、それで終わりではなく、赦されたあと、全生活にわたって神様を喜び、祝う者へと再び作り直して頂けるのです。聖霊なる神様の再創造です。イエス様が、今日も、私たちの為にとりなしており、聖霊なる神様が私たちの為にとりなしております。聖霊なる神様について、ローマ8章6節では、「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」と記されております。別訳は、「聖霊の心は今も永遠までも命と心の平和です」。私たちがイエス・キリストを信じる時に、私達の心の内側に、命と平和をもって、聖霊なる神様が永遠に宿って下さるのです。
祈り) 主イエス様、「今日、救がこの家にきた。」という命の御言葉を受け取ります。
